インターホンの声
がしゃむくろ
一話完結
ここに、インターホンがある。
家賃六万ほどの部屋が四つ収まった、二階建てアパート。その二〇二号室に備えつけられた、黒いインターホンだ。
魚の目のように虚ろなカメラのレンズが、ポーチライトの照らす玄関先を見つめている。夕闇に包まれた外階段を昇り、その明るみに入ってきたのは、女性と幼い男の子だった。
二〇二号室に住む母親とその息子である。
名をマリ、リクという。
二人は数ヶ月前、ここに越してきた。彼女の収入は生活を支えるのにすれすれの額だったが、それでも母子の心は穏やかだった。
引っ越す前の地獄を思えば、どれだけ慎ましい日々でも、愛おしく思えた。
この日も、託児所から子どもを引き取り帰宅した母親は、安らかな顔をしていた。
ドアの前で、彼女が鍵を探してリュックの中をかき回していると、子どもがインターホンを指差してぐずり始めた。
「ピンポンするー。ピンポン!」
息子は、家に入る前にチャイムを鳴らさなくては気が済まない。彼が母親に抱きかかえられ、インターホンに向かい「ただいまー!」と叫ぶのが、二〇二号室の日常だった。
「はいはい」
女性は鍵を探すのを止め、駄々をこねる息子を持ち上げた。
ボタンが押された。
ピンポーン。「ただいまー!」。それだけのはずだった。
すっかり満足げな息子を下ろし、鍵の捜索を再開したその時だった。
「おかえり」
母親は反射的に顔を上げ、目の前のカメラを凝視した。
気のせいではない。たしかにインターホンから声がした。誰もいないはずの室内から、男の声が。
このレンズを介して、こちらを見つめている誰かが部屋にいる。
カメラを通して、私は何者かと見つめ合っている。
全身が総毛立った。
強張った表情のまま固まるマリを、息子は訝しそうに見つめている。
今度は彼女が、インターホンのボタンを押した。
ピンポーン──。
返事はない。ドアに耳をつけ、様子をうかがったが、何の気配も感じられない。
「母たん、早く開けてよー」リクがぐずり始めた。
近所から発せられた声が、たまたまあのタイミングに重なっただけだったのだろうか。
しかし、たしかに彼女は、インターホンのスピーカーから音が流れているのを感じた。
空耳か何かだと決めつけてしまいたかったが、正面から声を受けたという否定し難い事実が、それを許さなかった。
「リク、ごめんね。ちょっとだけ待って」
落ち着け。マリは自分に言い聞かせ、スマホを取り出し、姉にLINEを送った。
今どこ?
とにかく誰かに、いまの状況を聞いてもらいたい。真っ先に浮かんできたのが、姉だった。彼女は、ここから一駅分離れたところで暮らしている。だが、今は仕事中のはずだ。やはり、なかなか既読がつかない。
マリは別の可能性を探ってみることにした。
「誰に電話してるのー?」
「じいじよ」
遠方にいる父親が、突然訪ねてきた。留守だったので、合鍵を使って中に入り、娘と孫の帰宅を待つことにした。なぜ黙って唐突にやって来る必要があったのか、全くもって説明がつかないが、可能性としてはあり得る。
むしろマリは、そうであってくれと祈っていた。そうでなければ、あの声の主はいったい……。
それを確かめるため、父親の携帯に発信したが、何度コールしても出ない。
電話をかけながらドアに耳を立てたが、着信音もバイブレーションの音も、中からは響いてこなかった。
姉に送ったメッセージは、未読のままだ。
マリはもう一度、インターホンに向き合い呼び出し音を鳴らした。
ピンポーン──。
何も起こらなかった。しかし──。
ブツッ……。
いま、通話ボタンが押されたように感じた。
動悸が激しくなる。マリの耳は、インターホンからわずかに漏れる呼吸音をとらえていた。
「誰?」
……。
ブー、ブー、ブー。手に握ったスマホが振動している。
思わずマリは、小さな悲鳴を漏らした。
姉からの電話だった。
「お姉ちゃん。ごめん、仕事中に。でも、ちょっとやばいかもで……」
「……」
「お姉ちゃん? ねえ、聞いている?」
「……んじゃった」
「えっ? 何? 聞こえない」
「死んじゃった」
「はっ?」
「お父さん、死んじゃった。マリ、どうしよう」
父親は、全焼した家屋から黒焦げになって発見された。
マリは息子とともに姉のサヤカの車に乗り、その日の夜帰郷した。
出火元は台所の石油ストーブらしいと、伯父から聞かされた。
「突っ張り棒にかけてた洗濯物がストーブに落ちて、燃えちまったんじゃないか。あいつはたぶん、こたつでうたた寝でもしてたんだろう」
結局、この事件は父親の不注意による不幸ということで片づけられた。
やるべきことが数多く残っていたが、納骨が終わったところで、マリ達は一度東京へ戻ることにした。
サヤカは自分のアパートには戻らず、しばらくマリのところで、一緒に暮らすことにした。肉親と実家を同時に失った痛みは、到底一人で受け止められるものではなかったから、お互いにそれを共有する相手が近くに必要だったのだ。
ただ、それだけが理由ではなかった。
あのインターホンの声である。
父の死を電話で知らされたあの夜。マリはショックに打ちのめされながらも、自分が置かれている不安な状況を、姉に伝えた。
サヤカの指示で、彼女が迎えにいくまで部屋に入らず、マリとリクは近くのファミレスで待機することになった。
しばらくしてサヤカが到着し、二人は店内で抱き合い、むせび泣いた。周囲の目など、かまっていられなかった。
それから、サヤカが学生時代の男友達を呼び出し、マリのアパートに同行させ、部屋に入った。
念のためマリとリクは外で待っていたが、結局、中には誰もいなかったし、侵入されたり荒らされたりした形跡もなかった。
父親の死という悲劇が降り掛かったことで、この件は有耶無耶なまま終わってしまったが、実のところ解決したわけではない。
マリ自身も忘れることにしていたが、しかし、彼女はあの声を空耳か何かだとは思っていない。
あれは実在した。
そして……マリには、その正体について、考えていることがあった。
そんなはずはない。その可能性を何度も否定したが、否定する度に、恐怖心がじりじりと広がっていった。
だから、姉が同居してくれることになり、マリは冗談ではなく、救われる思いがしたのだ。東京から戻ってきた日の夜、彼女はそれを姉に伝えることにした。
リクを寝かしつけたマリはリビングに向かい、部屋の端のソファに横たわるサヤカに言った。
「ありがと」
「何が?」
「いろいろ。ここに来てくれたこととか」
「こちらこそ、一緒にいさせてくれて、ありがとうだよ」
マリはソファの空いているところに腰掛けた。
「私ね、まだ怖いんだ」
「……あれのこと?」サヤカがインターホンの室内モニターを指差す。
「……うん。あの声は、聞き間違いじゃなかった。誰かいたんだよ。そこに」
「……」
「ごめん。怖がらせるつもりじゃないんだよ」
「うん。わかってるから大丈夫」
「ずっと考えていることがあって。ふつう、泥棒とかしててチャイム鳴ったら、反応するわけないじゃん。ましてや“おかえり”なんて答えるはずない。で、思ったの。そんなこと私達に言うやつ、一人しかいないなって」
サヤカは、妹の言わんとすることが読めた。
「でも、あいつがいるはずないよ」
「そうだよね。そうなんだよ。でもさ……絶対じゃないじゃん。あいつがたまたま東京に来ていて、偶然私達を見つけたってことも、百パーセントありえなくもないでしょ」
「そうかもしれないけどさ。でも、それだったら、すぐ話しかけたりとかするんじゃないかな?」
マリは少し黙り、答えた。
「前にさ、あいつは人の皮をかぶった化け物だって言ったじゃん。あれ、比喩とかじゃないよ。私を殴るときのあいつの目って、真っ暗なの。口では“愛している”とか言うんだけど、目はそんなこと全然言ってない。空っぽで、穴に見つめられている感じがするんだよ。だからさ、あいつの考えていること、全然わからなかったんだ。二年くらいは夫婦だったのに、一切わからなかったの。突然リクを殴り始めたときも、意味わかんなかった。それで、気づいたの。こいつは私達みたいな考え方とか感じ方はしないんだって」
「うん」
「つまりね、何をしてくるかわからない。だから……」
「部屋に入って、マリとリクを待ち伏せしてたかも、ってこと?」
まさにマリが考えていたことだった。今まで何度も頭の中で唱えていたことだが、いざ口に出されると、思わず身震いした。
マリは以前、地元でリクと夫の三人で暮らしていた。
その生活は、暴力に耐える日々だった。
リクが生まれる前後で、夫の暴力は始まった。
母親としての自覚が足りない。もっときちんとしろ。子どもの口に入れるものは、すべて心をこめた手料理にしろ。毎日ホコリひとつ残さず掃除しろ。
そういった数々の注文に応えられないと、夫は狂ったようにマリを殴りつけた。
すべては家族のため。夫はそう言った。マリはそれを信じた。
彼は本当は優しい人間なのだ。すべては愛情の発露。だから、歯が欠けようと、髪を引き抜かれようと、彼との生活を諦めなかった。
ところが、その暴力の矛先が、息子に向けられた。マリの面前で、夫は息子を蹴り飛ばした。
彼の顔に浮かんでいるのは、愛情でもなければ憎悪でもない。その目はカメラのレンズのように、物体を映すためだけの装置でしかなく、どんな感情も読み取れなかった。
その瞬間、マリは悟った。この男は、もはや人間ではないのだと。ここに留まっている限り、私も息子も殺される。
彼女は夫の留守を見計らい、決死の覚悟で息子とともに家を出た。
実家に駆け込んできた、憐れな娘と孫の姿に彼女の父親は激昂し、警察に通報した。
司法の力によって、夫は母子に近づくことを禁じられ、罰が与えられた。
そしてサヤカの誘いに乗り、彼女が住む東京へと居を移してリクとの新しい生活を始めた。それが数ヶ月前のことだった。
姉の口利きで職場もすぐに決まり、何とか一人でリクを食べさせていくことができた。
東京は危ないところだと父親は気をもんでいたが、人の多さが逆にマリを安心させた。
木を隠すなら森の中、である。
ここなら、あの男に見つけられることはない。
私とリクの居場所を知っていたのは、サヤカと父親、本当に親しい一部の親族だけだった。地元で一番の親友にでさえ、「いまは教えられない」と引っ越し先を明かさなかった。
彼女は徹底して、元夫との関係を断ったのだ。
しかし──東京での生活に慣れてからも、マリは不安に苛まれていた。
あの異常者は、どんな手段も使って、私達を見つけ出すのではないか。
そんな考えが、ずっと彼女の脳にこびりついていた。
だから、あの夜部屋に潜んでいたのが元夫かもしれないという可能性は、マリにとって現実味を帯びていたのである。
夜、わずかな物音でも彼女の心臓はビクンと鼓動し、しばらくはまとまな睡眠が取れなかった。
リクと帰宅してインターホンを押すと、「おかえり」と声がし、玄関ドアからあいつが現れる。そんな悪夢に、繰り返しうなされた。
外にいても、どこからか視線を感じては振り返ることがままあった。
彼女はスタンガンを購入し、常に携帯していた。
そんな張りつめた日々は、当然マリの精神を消耗させ、体調をしばしば崩した。
しかし、マリの事情を知っていた職場は柔軟に対応してくれ、同居していたサヤカも献身的にマリを支えた。
姉も父を失った痛みで、援助が必要なくらいボロボロのはずである。強い人だが、実は繊細な心の持ち主であることをマリは知っている。
それにもかかわらず、力強く生き、自分をサポートしてくれる姉に対して、マリは申し訳なく思うようになった。
そうして日々は過ぎて行ったが、とどのつまりマリとリクに危害を加えるものは現れなかった。次第に緊張した心も解きほぐされていき、もとの穏やかな生活に近づきつつあった。
三ヵ月ほどして、サヤカも自身のアパートへ戻り、気ままな独り暮らしを再開させた。
それでも互いを気にかけていた二人は、毎日連絡は欠かさず、週に一度はサヤカが妹の住まいを訪れたり、一緒に外出したりした。
この日も、サヤカの誘いで、近頃話題になっているというパンケーキの店を三人で訪れていた。父が逝ってから、半年が過ぎていた。
リクの貪るような食べっぷりに、サヤカは声を上げて笑った。
「そんなに必死で食べなくても、誰も取らないよ」
「ママの作る料理は全然食べてくれないくせに、こういうところだとよく食べるんだから」
「アハハ」
「笑いごとじゃないよ。もう」
「何で、あんたの料理、あんまり食べなくなっちゃったんだっけ?」
「ほら、こっちに戻ってきてわりとすぐ、私が用意したリクのご飯に何かのかけらみたいのが混じってたこと、あったじゃん。あれ以来だよ」
「ああ、あったね、そんなこと」
「リク、ママのご飯、もう何も入ってないから、大丈夫だよ?」
「ううん、母たんのご飯、だめー」
「この調子だよ」マリが苦笑する。
「まあ、その内食べるようになるよ」
「だといいんだけど」
「そうだ。あれ、管理会社に聞いてみた? 天井のやつ」
「うん。この後、業者さんが点検に来てくれるよ」
数日前のこと。マリはリビングの天井に染みがあることに気がついた。最初はこぶしくらいの大きさだったが、段々と広がっており、今はサッカーボールくらいにまでなっている。
「雨漏りかもしれないって」
「大丈夫? 今どき雨漏りとかあり得なくない? 欠陥住宅とかじゃないの」
「わかんない」
「もし管理会社の対応が適当だったりしたら、教えてよ。ガツンと言ってやるから」
「はいはい。頼もしい姉を持って、私は幸せ者です」
ブー、ブー、ブー。マリのスマホが鳴った。伯父から電話だった。
「誰?」
「タケおじちゃん。何だろう」
サヤカと視線を交わし、マリは通話ボタンを押す。
「もしもし。マリです」
「おう、すまんな突然。いま、ちょっといいか?」
「うん、大丈夫。どうしたの? お父さんのことで何かあった?」
「いや、違うんだ。その……すまんな。本当はこんなこと伝えるべきじゃないんだろうが」
嫌な感じがした。
「元旦那のことだ」
予感が当たった。マリの表情が固くなったのを、サヤカは見逃さなかった。
「あいつの親族から連絡があってな。随分前から、行方不明になっているそうだ」
「随分前って、いつから?」
「十二月って言ってたから、もう半年は経つな。“心配しないでください”と置き手紙を残して、どっか行ってしまったみたいでな。もしかしたら何かこちらが知ってるかもと、やつの親が連絡してきたんだよ。お前、何か心当たりはあるか?」
胸騒ぎがする。忘れようとしていた、あの声が蘇ってきた。
「ううん、知らない……」
「そうだろう。そうだよな。知るわけがないな。あの一家とは縁を切ったんだ。気にすることはねえ。だいたい──」
伯父の話は、途中から全く聞こえなくなった。「おかえり」。マリの中は、あの声でいっぱいだった。
「しかしなぁ、火事の日にあいつが蒸発してたなんて。変な偶然もあるもんだ」
その一言が、マリを現実に引き戻した。
「待って。いま何て?」
「うん? ああ。あいつがいなくなった日がな、ちょうど火事の起こった日と同じなんだよ」
マリは背筋が凍るのを感じた。偶然、同じ日だった? たまたま、お父さんが焼け死んだ日に、あいつが消息を絶った?
「警察は、そのこと知ってるの?」
「いや。向こうは、大事にしたくないみたいで、自分達で探しているそうだ。そんなこと言ってないで、とっとと警察に相談しろって叱ってやったよ」
スマホを持つマリの手が、すーっと力なく下がっていった。サヤカが不安げにこちらをのぞいている。
「どうしたの? ……マリ?」
父さんの事故と、あいつの失踪が重なったのは、偶然じゃなかったとしたら? そこがつながっているとしたら? 火事を引き起こしたのが、あいつだとしたら? そして、あのインターホンから聞こえた声が、あいつのものだったとしたら?
マリは、一連の出来事の筋道を見つけたような気がした。
あいつは、私とリクの居場所を知りたかった。そのために、お父さんを──。
「お姉ちゃん。お父さん、殺されたのかもしれない」
「失礼します。天井の点検で参りました」
約束の午後二時に、業者の男性一人が訪ねてきた。
作業の間、サヤカにはリクと外で遊んでもらうことにした。
男性は天井へと通じる点検口がある風呂場にいき、養生シートを敷いて、脚立をセットしていた。
食事からの帰り道、マリは自分の考えをサヤカに伝えた。
あの男はマリ達の居場所を知るために父を殺し、火事に見せかけた。その際、父が持っていたアパートの合鍵を奪ったのではないか。
そして、あの日の夜、あいつは部屋に侵入して私たちを待っていた。
「でも、何のために……?」
サヤカにそう問われたマリも、わからない。あれから既に、半年が経過している。
彼の目的が何だったにせよ、それを果たす機会はあったはずだった。
しかし、実際にはインターホンの一件以外、あの男の影を感じる出来事はなかったのだ。
マリはずっと考えていた。何をしようとしていたのか。
いや、それとも、これから何かをするつもりなのか。
「それでは、上を見てきますので」
マスクをつけた作業員が、ライトを手に屋根裏の空間へと消えていった。
「うっ……何だこの臭い」
そうつぶやくのが聞こえた。
「あの、大丈夫ですか?」
「ええ、まあ」
ミシ、ミシと天井が軋んだ。音はリビングの方へと進んでいく。
マリは洗面所に立ち、天井の穴を見つめていた。
ドンッ。
リビングの方から音がした。何かがぶつかったような大きな音が。
ライトを落としたりでもしたのだろうか?
それから、何も音がしなくなった。上で動いている気配が消えた。
マリはしばし様子をうかがっていたが、作業員は一向に降りてこない。
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」
返事はない。
刻々と時間が過ぎていく。
上で倒れていたりしたら、どうしよう。マリの不安はどんどん膨らんでいった。
とりあえず、穴からのぞくことにした。
脚立を昇り、顔を入れると、奥の方にライトが転がっているのが見えた。
うつぶせに倒れた作業員を照らしている。
彼女は脚立の天辺に立ち、よじ登った。
その瞬間、異臭が彼女を襲った。思わず顔をしかめ、ポケットからハンカチを取り出し、鼻を覆った。
屋根裏は立ち上げれない高さで、這い這いのように進むしかない。
片手で顔に当てたハンカチを押さえたまま、ズルズルと前進した。
リビングの方に近づくほど、異臭はより濃厚になり、吐き気を誘うほどだった。
何とか倒れている作業員に手が届くところまでたどり着いた。
「大丈夫ですか? 聞こえてますか?」
転がっているライトを拾い上げ、彼の顔を照らした。
マリは言葉を失った。
片方の目がなかった。中身を失った眼孔から、粘り気のある血液が糸を引くように滴り落ちている。
残った方の目の瞼がピクピクと動いているが、生きているようには思えなかった。
どうして? 何で?
フー、フー、フー。マリはいまにも過呼吸を引き起こしそうな様子だった。
その時、作業員の向こう側の闇で、何かがうごめいた。
「……マ……リ」
ほとんど消え入りそうな掠れ声が、奥から流れてきた。
その声の主に、マリはライトを向けた。
かつての夫が、そこにいた。
仰向けで、こちらを向いている。
あまりに蒼白で目が落ち凹んだ顔は、ほとんど白骨死体のようだった。
頬や額の一部の皮が削がれ、ところどころ肉が削り取られている。
ライトを体に向けると、同じようにボロボロだった。腿など一部の傷跡にはウジがわき、変わり果てた彼の肉体を貪っていた。
腰の周りには、腐った糞尿が泥水のように溜まっていた。
天井の染みと悪臭の原因が、そこにあった。
あまりの異様さが、かえって彼女が目を背けるのを妨げた。
その手には、刃渡り三十センチほどの包丁が握られている。刃先には、作業員の目玉と脳髄がくっついたままだった。
「……マ、リ……マリ……」
そうささやいたかと思うと、彼は急に体を回転させうつ伏せになると、こちらへ向かって這い始めた。
「いや……。やめて。来ないで。来ないでよ!」
泣き叫びながら、マリは点検口へと必死で後ずさりした。
「何でよ。何がしたいの? 何でこんなことするのよ!」
「……マ……マ……リ」
ゆっくり、ゆっくりと、腕を交互に動かし、彼は迫ってくる。
早く早くと急ぐ気持ちとは裏腹に、体が言うことを聞かない。
とうとうマリも、匍匐前進のように進んでいた。
もう少し、もう少し。
ようやく点検口にたどり着いた。
と同時に、マリの足を彼の手がつかんだ。
振り返ると、彼の顔がぐっと目の前に迫ってきた。
男は言った。
「マリ、おかえり」
彼女は絶叫し、彼を蹴飛ばした。
その反動で、点検口から落ち、脚立を倒しながら床に激突した。
頭を強く打ち、意識が遠のいていく。
薄れいく視界には、点検口から彼の顔がのぞいていた。
満面の笑みだった。
風呂場で意識を失っていたマリは、サヤカに発見され、病院に搬送された。その時、既に元夫は息絶えていた。
彼は半年にわたり、アパートの屋根裏に潜み、密かな同居を続けていた。
自ら持ち込んだカンパンとペットボトルの水だけで、飢えをしのいでいたようだった。
彼がそこでしていたこと。それは、自身の体から包丁で肉を削り取るという、常軌を逸したものだった。
その理由を示すものが、屋根裏で発見された。
別れた妻と子に宛てられた手紙だ。
だが、宛名の二人にその手紙が届くことはなかった。
担当の刑事が、知らせない方が良いと判断したためだった。
これからの二人の人生を守るために、と。
マリ リク へ
俺はずっと君達と一緒にいる
俺の肉体は すでに君達の一部となった
これでどんなやつだろうと 俺達を引き裂くことはできない
この身を削り この身を君達に捧げた
何日も何日も 少しずつ 俺の肉体は少しずつ君達の中に入っていった
もう大丈夫 心配いらない
家族は死ぬまで一緒だから
(終)
インターホンの声 がしゃむくろ @ydrago
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