独言哀歌
日永田 朝
第1話 ぴちゃらり
暗い室内。
寂れたマンションの一室には、床に酒瓶がごろり。加えて煙草の香りが充満していた。決して良いとは言えない環境に、窓辺に座る一人の人間がいた。
先ほど飲み終わったのであろう徳利が、まだ湿り気を残したまま人間の足元に転がっている。人間はかたにかかる己の髪をうざったるく振り払うと、窓の向こうに見える風景に視界を占領させて、缶ビールを口にする。
無機質な室内に細い細い、よるよると光が入る。這いずるような光はやがて人間の足を貫き壁を這い上がる。光が入ってきたのはこの部屋の入り口からであった。
「………………よお、不器用くん。遅かったじゃあねえか」
人間は目を外に向けたまま低く声をこぼす。液状となった声は、入ってきた当人に届いたはずだが無反応だった。
「俺ぁ、ひどい遭難に遭ったみたいで。こうして酒で英気を養ってるんだ。飲酒は今回目をつむっておくれよ」
人間は、不器用くんと呼びかけた侵入者に、微笑みを投げる。「不器用」はそれに反応せずに静かに眼差しを定めるだけだった。穴の開いたズボン、すすけた上着。見た目だけなら、貧しさは胸焼けするほど伝わった。
ただ見た目は九つほどの少年のようである「不器用」であるが、まだ細い背中には化けたかのような大きな鋏があった。幼い子供が両手で持っても力が足りるかどうか心配になるほどの大きさである。
人間は口角をやわりと上げて鋏を流し目でみつめる。
「それか。俺を狙ってんのはよ」
呟くと同時にしゅるり、しゅるりらと、音が聞こえた。酒瓶と何故か丁寧にたたまれた布団のみしかない部屋に、植物の影が現れた。淡い萌黄の色が壁から生えてきて人間の足元にすり寄り蔦としてせりあがる。もうたばこの香りなどなく青く、仄暗い香りが溜まり鼻孔に潜ってくる。
「不器用」は柔らかく、人間の傍に近づくと冷たい鋏を背中から取り出す。冷たい視線は長い前髪の奥からこちらを圧迫していた。
「おいで」
喉が声に合い動く。
「緊張してるんだろう。俺の所にわざわざ来てくれたんだ。もてなしぐらいはしてやろうさ。な?」
少年は小さく首を横に振る。空気を切る音が聞こえてくるような。必死だったため思わず人間は笑みをもらす。
大ぶりの鋏に目を細める。
「可愛いよなあ。こういう殺意ってのは」目の前から舌打ちが聞こえた。無駄な時間は嫌だと言いたげだった。
「すまんな。お前の癇に触れようとは思ってない。攻撃だなんてせんでくれよ」
鉄が重なる音がする。
喉が鳴る音がする。かすれた呼吸音が感覚器官をくすぐる。くつくつと笑みが、人間から零れて落ちる。
「さあ、おいで」
鋏が「不器用」の手にはまり、刃が水平に上げられる。ゆるりとひざまずくと、人間の髪に埋もれた細い首に刃を広げあてがう。
「俺の、残り物の部分によ」
人間は己の首にある刃に頬を摺り寄せる。
「可愛い名残を埋めてくれよ。そっと、さ、俺がどんな人間かをちゃんと俺に返してくれよ」
耳にかかった髪が頬に滑り落ちる。
「俺の首ごと、攫っておくれな」
その声が引き金か。少年の手に血管が浮いたかと思うと、首をはさんでいた刃を閉じた。
どん。
鈍い音とともに首が床に転がる。そのとたん首の断面からは血ではなく花々があふれてきた。重力を超越したかのように空中を舞い、芳香をまき散らす。眼前が数えきれないほどの色で埋め尽くされ、植物がそこかしこでうごめく。
「不器用」は席を立つと鋏を背に背負い直しながら、出口に向かった。
離れ際、振り返る。
「定例文でお別れを」
口のみが独立した機関のようだ。
「あなたに出会えて良かった」
そのままの貴女で死ねるこの世界に感謝を。
そうして幕は下りた。
独言哀歌 日永田 朝 @haka_na
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