第2話 五月の詩人


 それからしばらくの間は、何事もなく毎日が過ぎて行った。

 五月になったある日のこと、倉野茉莉花くらのまりかはBG=ボディガードである彼方夜都かなたないとの運転する車に乗って、共にマリカの学校-星雪せいせつ学園高等部-に登校した。

「マリカさんどうぞ」

 人目に着かない職員駐車場の一角で、ナイトは車のドアを開けてマリカをエスコートする。

「いってらっしゃい」

 笑顔で微笑みを湛えて送り出すナイトに、マリカは目を逸らすことはなくなったものの、恥ずかしそうな小声になった。

「いってきます」

 ナイトは少し離れたところから彼女が校舎内に入ることを確認した。その後は、マリカの教室を中心として校内を随時巡回する。



 マリカが個人的なBGを帯同させることについて、星雪学園からは特別な許可をもらっていた。

 マリカの父は、地元にそびえ立つ大病院の院長だ。星雪学園にとっては、毎年多額の寄付金を投じてくれる貴重なスポンサーでもあるので、マリカの父からの頼みであれば、何事も快く許可してきた。

 ただしBGについては、他の生徒や保護者の目もあるので、いくつかの条件は付けられていた。

 ナイトは学校内にいる時には、表向きは学園の警備員として働いている。マリカの警護を最優先としながらも、他の生徒や学園全体の安全にも目を光らせる必要があった。


 マリカの通う星雪学園高等部の警備員は、学園から雇用されている若干名の他、マリカの父が個人資産で雇用した、ナイトの父、彼方秀かなたすぐるの会社―彼方警備保障サービス―の部下たち、すなわちナイトの同僚が他に二名勤務している。

 これは、ナイトの要請を受けて、ナイトの父が増員を提案したものだった。ナイト以外の二名は、ナイトのようにマリカに付き従うわけではなく、学園全体を見回っているが、随時マリカの護衛に協力している。


 ナイトは学園内では、他の生徒から目立たぬように、先導スタイルではなく、尾行スタイルを取っている。離れたところから距離を取って、それとなくマリカを常に見守っていた。

 念のため、マリカは制服の胸ポケットに、GPS付小型マイクを装着しており、マリカの周辺の音声データは離れたところにいるナイトのイヤホンからリアルタイムで聞こえるようになっていた。


 登下校時には、マリカはナイトの運転する車に乗り、他の二名の警備員は別の車で後ろから尾行する。

 自宅に着いてからは、ナイトはマリカの隣の部屋で待機し、他の二名の警備員は、庭に設置された常駐所に寝泊まりしている。



「さてと、全生徒登校したな。門閉めるぞ」

 ナイトの同僚の警備員であるカタル紫嵐しらんは、正門に鍵をかけた。

 彼はアメリカ人とのハーフで、元傭兵、銃さばきがうまく、肩まで伸びたさらさらの金髪に吸い込まれそうな碧眼をしていた。BGとしては目立ちすぎる主役級の容姿なので、帽子やサングラスやマスクで隠してはいたが、隠しきれないそのルックスの良さから、女子生徒たちの注目を浴びていた。

「可愛いガールズたち、また後でね」

 今日も軽いノリで握手に応じている。手を振り終わると、シランはふわあと大あくびをする。

「ああ、今日も平和だな」

「そりゃ、敵さんも、我々のこの鉄壁のガードにおそれをなしたんでしょうね」

 もう一人の警備員の糸井宙哉いといちゅうやも、つられたようにあくびをした。宙哉は、小柄で細身ながら身のこなしが素早く、細かい警備計画が得意で、ツンツンと尖った黒髪短髪をしていた。

「毎日あくびが出るほど退屈で、サラリーマンの年収並みの月給がもらえるんだから、倉野家様様だな」

 シランと宙哉が笑い合っていると、校内を一通り巡回しながら通りかかったナイトが、真顔で軽く注意をした。

「そんな話はしないでくれ。マリカさんの耳に入ったら悲しむだろう」

 シランは思わず噴き出した。

「真面目かよw」

 学園の警備をする三人の中で、リーダーはナイトだったが、シランの方が年齢も社歴も上だった。

 今はふざけた態度だったが、二人とも、有事の際は豹変する有能な人材であることを、ナイトは知っていた。


 毒林檎事件の後、三週間が経っていたが、あれ以来、日々は何事もなく過ぎていた。

 この学園に配属された最初のうちは真剣に仕事をしていたシランと宙哉も、警戒しても何事も起きなかったので、気の緩みが出るとともに、退屈を持て余しているようだった。

 このような時ほど警戒すべきであるとナイトは思った。

 ……それは、まるで嵐の前の静けさのようだったから。


 その時、ナイトの顔色が変わった。

「マリカさんがイレギュラーなタイミングで音声を切った。何かあったのかもしれない。様子を見てくる。場合によっては呼ぶからそのつもりで。それともう始業時間だ、宙哉は自分の持ち場に戻れ。今日は正門がシランで裏門が宙哉だろう」

「へーい」

 とぼけた声を出す宙哉を、ナイトは優しく諫める。

「気を抜くな。油断すれば己の命も危うくなる世界だ。気を引き締めろ」

「はーい」

 正門にも裏門にも、学園が別途直接雇用している他の会社の警備員もいるとはいえ、自分の指定された持ち場をあっさりと離れてしまう宙哉には、改めて厳しく話さなければならないなとナイトは思った。

 ……一緒になってふざけるシランもしかり。

 そしてナイトは足早に、マリカの音声がオフになった南校舎一階の女子トイレ前の廊下に向かった。





 それは、気持ちの良い春風の吹くある五月のこと。

 いつものように登校し、靴を履き替えようと靴箱の蓋を開けると、マリカの手が止まった。

 ……手紙が入っている。水色の封筒にハートのシールが貼ってあり、『Mさんへ』と書かれている。

<これは・・・いわゆる・・・>

 ナイトはまだ来ていない。今頃駐車場に車を停めて、巡回しながらこちらに向かっている頃だろう。

 

 マリカは、慌てて胸元の音声マイクのスイッチを切って、ナイトに手紙をカサカサと開く音が聞こえないようにした。普段女子トイレや女子更衣室に入る前にも切るようにしているので、オフにしただけでは、ナイトは気にしないだろうと思った。

 ナイトの姿がないことを確認して、マリカは少々離れた場所にある女子トイレにまで走って駆け込むと、先程の手紙を開いてみた。


『演奏するよ 君と今

耳澄まし 天仰ぎつつ

ルンルン 僕も連れてって

ねえ 鐘は鳴っているかい

オルガン抑える シンバルで

ほらおいでよ 待ってるよ』


<え、何これ?手紙と言うか……詩かな? MさんってマリカのMよね?>


 封筒は綺麗だったが、中身の紙はノートをちぎったようなものだった。あまり上手とは言えない字体、筆圧の強い全体的に黒いうねるような鉛筆文字、そしてその詩のような独特な内容も、なんだか気味が悪かった。

 マリカはよく意味を考えようと繰り返し声に出して読んでみたが、やはりよくわからなかった。漢字で書かれた下に、同じものが平仮名でも書かれている。

 元の封筒にしまうと、キョロキョロとあたりを見ながらトイレから出た。

 手紙の相手は校内にいるのだろうか。今もどこからか見られているかもしれないと思うと、気になって前後左右を見回してしまう。



「懲りない人だ」

 いつのまにか、背後にナイトがいた。誰もいない廊下の影にマリカを誘導すると、マリカの持っている手紙を、出すように促す。

「怪しいものがあったら、必ず触る前に僕に見せてください。手紙に毒物が塗られているかもしれないし、カミソリが仕込まれているかもしれない。危ないんです。わかってください」

「そうよね、ごめん」

 ナイトは手袋をはめた手で手紙を受け取ると、点検を始めた。臭いをチェックしたり透かしたりライトを当てたりしている。テープのようなものに指紋を貼り付けて保存したようだ。最後に開いて読む時のナイトの反応をマリカは伺った。


<私にラブレター。やきもち的な気持ちとかは……ん、ないのね>

 ナイトは厳しい顔をしながら無言で目を通していた。

 

「楽器がたくさん出てきますが。鐘やオルガン、シンバルと言えば……」

「あ、先月から放課後に時々合唱団の練習をしているわ。来月、うちの学校のチャペルで結婚式があるから、その日に向けて賛美歌の練習をしているの。チャペルで練習しているからもちろん鐘は鳴るし、パイプオルガンを弾く子もいるし、シンバルを鳴らす子もいる。でも、私は楽器は演奏してなくて、賛美歌を歌う聖歌隊だけど」

「そうですよね。マリカさんのスケジュールによると、練習は週に一回ですよね」

「うん、次の練習は明日ね。“待ってる”って書いてあるけど、私、先週は練習を休んでしまったから、明日は来るようにってことなのかしら。だとしたら、合唱団の誰かがこの手紙を?」

「それは調べてみないとわかりません。チャペルで練習しているのなら、合唱団のメンバー以外も見学できますからね」


<ハートのシールでラブレターみを感じただけで、内容は思ったのと違ったわ。もしかしたら、ちゃんと練習に来てっていう意味で書いた普通の手紙なのかしら>

 マリカは、変に意識して、ナイトに隠そうとしたことを恥ずかしく思った。

「ね、ナイト、そんなに真面目に考えることかな?確かに差出人の名前がないしなんだか変だけど、明日、合唱団で、誰が手紙をくれたのか聞いてみるわよ。まだ事件が起きたわけじゃないんだし、そんなに心配しないで」

「そうですね、ですからマリカさんは心配しないでください。ひとまず教室へ行きましょう。しかし、僕は気になるので、一時間目の間に合唱団のメンバーの筆跡を調べて、該当がなければ校内全員の筆跡を調べます。それから念のため、二時間目の間に校内の防犯カメラの映像を調べます。その間はシランを呼んでマリカさんの護衛をお願いしますのでご安心ください」


<直接話せばよいものを手紙で書いたり、自分の名前を書けばいいものを匿名にしたり、マリカさんと書けばよいものをMさんと書くような人物が、明日、普通に名乗り出るとも思えない。こちらから調べるべきだろう>

「全員の筆跡?!」

 目を見開くマリカを教室に先導して無事に着席するのを見届けてから、ナイトは無線で、正門のシランを呼び出した。



 脅迫文であるならば警察に通報して調べてもらうところだが、このような一見普通の手紙では警察に連絡したところで笑われてしまうだろう。

 ナイトは学園側の許可を取ると、まずは筆跡を調べ始めた。江戸文字のような独特の癖のある字体は、すぐに特定できそうに思えた。

 ナイトは職員室で、個人情報に当たらない範囲内で生徒たちの筆跡を調べさせてもらった。

 最初は合唱団のメンバーの筆跡を調べたが、同じ字を書くメンバーはおらず、やはりそんなに簡単な話ではないようだった。

 次に、校内全員の筆跡を見るために、超高速の超人技で、パラパラとレポート用紙の束をめくりながら閲覧していき、あの文字と同じ筆跡を探し出す。

 1年生、2年生、3年生……。

 生徒でなければ教師や事務職員など、学校内に出入りするすべての人物の筆跡を、ナイトは頭の中に入れて行ったが、どれもあの癖のある筆跡とは一致しなかった。


<学園内の人物ではないのだろうか。今、マリカさんは自動車通学をしている。通学路で見かけた誰かと言うことも考えられない。チャペルは学園の厳重な警備の中にあるので、外部の人間が合唱団の練習を見に来たとも思えない。一体、誰なんだ>


 ナイトは次に警備室に入ると、学園内の防犯カメラの映像を確認していった。

 今日は月曜日なので、金曜日にマリカが下校してから今朝登校するまでの間に撮影された、学園内の防犯カメラ二十台すべての映像を超高速で早送りしながら見て行った。

 金曜日の放課後も土曜日も怪しい人物は特に見当たらない。外部の人間が忍び込む様子も映っていない。生徒や先生や職員たちが日常的な動きを見せていて、イレギュラーな動作をしている人物はいなかった。

 そして、日曜日の映像を確認した時に、ナイトは小さく声を漏らした。

「そうか、なるほど、狙いはこれか」


 マリカの高校にはチャペルがあり、月に一回、日曜礼拝が行われている。昨日はその日だったので、在校生や教職員だけではなくOGやOB、そして近所の人や遠くから来た一般人まで、学園関係者以外も自由に出入りできるように一般開放されていた。

 防犯カメラには、初めて礼拝に参加したのか四方八方を見回す小太りの男性、遠巻きに眺めるだけで中には入らない老夫婦、物珍しそうにチャペルだけでなく校舎の方まであちこち見て回る若い女性、トイレを探して学園内を縦横無尽に走り回る親子連れ、道に迷ったように右往左往するカップルなど、だれもかれも怪しく見えるような、初めて見る人物ばかりが映っていた。

 このような一般人の身元を全て調べるとなると、一日二日では無理がある。

 マリカの靴箱がある一年生の南玄関は、チャペルからほど近い場所にあるため、チャペルのトイレが混んでいた場合に臨時に使用できるようにドアが解放されていたようで、多数の一般客が出入りしていた。

 おそらくはその混乱に乗じて誰かが手紙を置いたのだろうが、肝心なマリカの靴箱はちょうどカメラの死角にあって、手紙を置いた瞬間が映っていない。


「そんなに簡単にはいかないか……。マリカさんの靴箱が映るように、防犯カメラを増設すべきだな……」

 そう呟いたナイトの手が、不意に止まった。

 つばの広い帽子を目深にかぶる背の高い人物が、チャペルの入口へ入って行く遠目の映像があった。中に入るタイミングで帽子を脱いだためカメラには顔が映っていないものの、右肩を少し下げた歩き方や上半身の筋肉の付き方、歩き方のスピードや腕の振り方。そのすべてがナイトの良く知る人物に合致していた。

 マリカの継母に付き従う影の男―御影みかげ―である。御影が礼拝に通っているという話は聞いたことがなかった。

<マリカさんの靴箱に手紙を入れたのはこの男か……?だとしたら、一体何のために?>

 ナイトは、先程の手紙に書かれていた内容を、今一度考えていた。



 一通り筆跡と防犯カメラの照会作業が終わったので、ナイトは一旦、マリカの教室の廊下で警護していたシランと交代するために落ち合った。


「どうだった?」

 シランに問われて、ナイトは厳しい表情を崩さない。

「防犯カメラには手紙を置く瞬間は映っていなかった。日曜礼拝だったから怪しい人物も簡単には絞り込めない。同じ筆跡の人物も見当たらなかった」

「まあ、匿名の手紙ってことは、筆跡はごまかしているかもね。ほら、俺だって色々な文字が書ける。こうして、左手で書いたかもしれないし、紙を上下逆に書いたかもしれないし、鏡を見ながら書いたかもしれないし。口にペンをくわえて書いたかも……」

「……わかったよ」

 胸ポケットから取り出した紙とペンを使って、色々な字体を書いたり口にくわえてふざけるシランを、ナイトは止めた。

「シラン、僕も筆跡鑑定の専門家ではないので正確には調べられない。ただ、人によって、鉛筆の握り方、文字に入る角度、筆圧の強さ、カーブの力の入れ方など、細かい部分の癖が違う。もし左手で書いたり紙を動かしたりしても癖は完全にはなくならない。それに今日調べたのはレポート用紙の字体だったから、筆跡だけではなくレポートの文章の書き方も参考にしたけど、同じ特徴のある文章の書き方をする人物もいなかった。この学園の中にこの文字を書いた人物はいないと思う」

 ナイトには確信があるようだった。

「日曜礼拝に来た人たちの記名帳も見たのか?」

 シランの問いに、ナイトは深いため息をつく。

「ああ。それも見たけど、出入りした人数に対して記名数は半分以下だった」

「書かない人もいた……まあそうか」


 二人が沈黙すると、そこへ再び持ち場を離れた宙哉がいつのまにか話を聞くためにひょっこりと顔を出してきた。

「どうせまた、マリカさんちの例のお継母様だか影の男だかが一枚噛んでるんじゃないっすか。あいつらを締め上げて白状させたら解決すると思いまーす」

「それができたら苦労しない。僕たちは警察じゃないし、なんの権限もないから。それができなくて困ってるんだよ。実は、宙哉の言うとおり、防犯カメラの日曜礼拝の映像の中に、御影らしき人物は映っていた。もしそれが彼でも、礼拝に来ていただけと言われたらそれ以上追及できない。マリカさんの靴箱は死角だから映像はないし、御影の筆跡は見たことあるが、手紙の筆跡は彼のものではなさそうだ」

「ややこしいっすね。マリカさんちのお家騒動なのは明らかなのに、なんかいつも遠回しで、なかなか尻尾が掴めなくて、煙に巻かれるんすね」

「その通りなんだよ」


 

 その後、学校内で誰かがマリカに接触しないかどうか、ナイトはいつも以上に警戒して注視していたが、何事もなく授業は終わった。

 放課後になり、今日は合唱の練習もないので、ナイトはすぐにマリカを車まで誘導した。


「ねえ、ナイト。家に帰る前に寄って欲しいところがあるの」

「ダメです。マリカさん。今日は真っすぐ帰りましょう」

「真っすぐ帰っても、その家の中が一番安全じゃないじゃない。朝の手紙だって、結局、お継母様の嫌がらせっぽいんでしょ?さっき、売店ですれ違った時に宙哉が言っていたわ」

 確かに先ほど、マリカを呼び止めて、音声マイクを塞ぎながら宙哉は何か話しかけていた。

「またあいつは軽はずみなことを。まだそうと決まったわけではありません」

「ねえ、さっき、公佳きみかのうちのカフェのインステをなんとなく見ていたら、新作のパンケーキ特集をしているみたいなの。私の好きなチェリーがたくさん乗っていて、どうしても今日行きたくなったの。お願い、いいでしょ?」

 マリカの叔父はカフェを経営しており、従姉の公佳がそこでアルバイトをしている。

 目をキラキラさせてマリカに懇願され、ナイトは渋々了承した。



 カフェ・エミルネオの駐車場に車を停めると、ナイトは車内で、真後ろの席に座るマリカに顔を近づけ、至近距離からじっと見つめて念を押す。

「いいですか、マリカさん。よく立ち寄るカフェも警戒ポイントです。ここは先月もプランターを落とされました」

「わかったわよ。……ねえ、ナイトのお父さまの秀さんは、私の日常生活を優先させてくれていたわよ。おかげで私はBGがいることも忘れるくらいに普通の生活を送って来たわ。秀さんは私にも周りにも気付かれないような、適度な距離感で警護してくれていたからだと思うの」

「そうですか。それはどういう意味ですか」

「ナイトはなんていうか……その……」

<片時も離れずにぴったりと守ろうとしてくれるのは、別に恋愛感情でもなんでもなくて、職務に忠実なだけなんだろうけど……過保護と言うか……>

「……その……くっつきすぎじゃない?」

 マリカが赤面しながら言いにくそうに言うので、ナイトもつられて赤くなった。

「……気を付けます」

<あれ、赤くなってる?へえ、こういう顔もするのね>

 マリカは、いつも照れるのは自分ばかりだと思っていたので、ナイトの珍しい反応をしげしげと見つめてしまった。



 マリカがこのカフェに来るのは、四月のプランター事件以来だった。今日は裏口ではなく正面から普通に客として入った。

 ホールリーダーの公佳がすぐに気付いてやって来た。公佳はブラウンの長い髪をいつもはポニーテールにしているが、カフェでの仕事中はお団子に結っている。

「マリカだー!いらっしゃい。久しぶり。3週間ぶりくらい?」

「公佳、しばらく来られなくてごめんね。新作のチェリーのパンケーキをインステで見て、食べに来たよ~」

「うん、すぐに用意するね。ドリンクはパティシエさんのおすすめハーブティでいい?あ、ナイトもこんにちは」

「こんにちは、公佳さん」

 そこで公佳は声をひそめてマリカに言った。

「振り向かないで聞いて。あそこのトイレの前の席に変わったお客さんがいるから気をつけて。今日は二階席に行った方がいいよ」

「変わったお客さん?」

「しー。後で話すね」


 見るなと言われると見てしまうもので、二階席に行く途中で、マリカは気になってトイレの前の客をチラ見してしまった。脂ぎったぼさぼさ頭で小太りの男が、少し大きめのB4サイズのノートに何かを、鉛筆で一心不乱に書き殴っていた。その両手は鉛筆の黒い色にまみれている。

 マリカの視線に気付いたのか、ニヤニヤしながら目を合わせてきた。


 その男が開いていたノートの文字を見て、ナイトは何かを察したようだった。くっつきすぎと指摘された後なので一瞬躊躇したが、マリカの耳元に近付いて囁くしかなかった。

「マリカさん、今朝の手紙の字です。一旦、店から出ましょう」

「え、本当?」

 マリカは反射的に振り返ってまた見てしまった。気味の悪い男が、舐めるような視線でニヤニヤと笑いかけてくる。

 ナイトはマリカの視界を塞ぎながら、出口へ誘導しようとしたが、その時に、出口付近のトイレの前にいた男が席を立った。

「ねえ、君」

「きゃっ……」

 呼びかけられたマリカは、慌ててしまったのか、男とは逆の方向に走り出した。そちらには従業員用の裏口があるので、ナイトは仕方なく裏口から出ようとマリカを促したが、焦ったマリカはその手前にある階段を駆け上がってしまった。

 ナイトはマリカに付き従って階段を上がると、男が襲い掛かってくる場合に備えて、護身具である特殊警棒に手をやった。

 幸い、男は二階席までは追いかけて来なかった。


「マリカさん、外に出ましょう」

 マリカが誘導を振り切って二階に来てしまったことを咎めることはなく、ナイトは淡々とまたカフェから離れるようにと促した。

「ごめんなさいナイト。こうなったら、あの人が本当に手紙の人なのかをちゃんと確かめたい。合唱団にもいないし、うちのクラスでもないし、今まで見た覚えのない人だったわ」

 マリカはそう言うと、二階のテラス席に座りこんだ。幸い二階席には誰もいなかった。

 このカフェは広いビルの中にテナントとして入っていて、一階の広々としたワンフロア全てと、内階段で二階の建物の半分ほどの面積が店になっている。

 二階のもう半分のエリアはマンションの居住区だ。テラスに出れば、この前、プランターの落ちて来た部屋のベランダが見えるかと思ったが、角度的に見えないようだった。



 ナイトは無線で、店の隣の駐車場に別の車で停車しているシランと宙哉に、手紙と似た文字を書く男が店内にいることを報告した。

「客の振りをして店内に入り待機していてくれ。男の指紋を採取するため触ったものがあれば回収しておいて欲しい」

 そう指示をしながらナイトは内階段を見ている。さっきの男が二階に登ってくることを警戒しているようだ。

 ちょうどそこへ誰かが階段を上がってくる足音がした。マリカは怯えて声を出しそうになったが、やって来たのは公佳だった。

「20分休憩なの~」

 エプロンを外した公佳が、マリカと快活に話し始めると、ナイトは遠慮して距離を取った。

 階段の中腹まで下がって、二階のマリカの様子と、一階のトイレ前の男とを交互に観察している。あの男は元居た席に戻って座っているようで、今のところは動く気配はなかった。



「マリカ、久しぶりね。あの、古い段ボールで青林檎を送ったかとかいう電話をくれた時以来だよね。そういえばあれは何だったの?」

「あ……うん、なんでもない。私の勘違いだったわ。ごめんね、ちゃんと綺麗な箱で……赤い林檎が……届いていたわ」

 マリカは公佳に心配かけたくなかったので、事情を話せずにいた。嘘をつくのは苦手なので、しどろもどろになってしまったが、細かいことを気にしない公佳は気に留めなかった。

「良かった。今日はサクランボがたくさんあるから、良かったら帰りに箱で持って帰ってね。指定農家さんに特別に作ってもらった、甘みのある大粒な品種で美味しいのよ。マリカの家にはデザートづくりが得意な料理人がいるって言っていたわよね。多めに持って帰る?」

「あ、あの人は事情があって辞めてしまったの。でも、ありがとう、喜んでいただきます」

<この前の毒林檎事件で、怪しいそぶりを見せた家政婦の金子さんは、あのあま行方不明になってしまった。

 ナイトはお屋敷内のお手伝いさんたちの中に、金子さんの協力者がいないかどうか、全員を面談して、少しでも不安な面がある人は、お父さまに言って解雇した。その解雇した中に、お継母様のお気に入りだった、降宇ふりうさんという腕の良い料理人がいて、お継母様はたいそう憤慨していたわ>


「そっか。うちの新人パティシエさんの作るパンケーキもおいしいわよ。今作ってもらっているから、楽しみにしていて。そうそう、ところで、あの一階のトイレの前の席にいた変わったお客さん、マリカは会ったことあったかしら?」

 公佳は本題とばかりに身を乗り出して、マリカの顔を覗き込んだ。

「ううん。見たことない、と思う」

 マリカには見覚えがなかったが、断言する自信はなかった。このカフェで、あるいはこの近くで、あの男に知らないうちに会ったことがあるのかもしれなかった。

 あの手紙を書いた男ならば、マリカのことを知っていると言うことなのだから。

「あの人、ちょうどマリカが来なかった三週間くらい前から、うちの店に来るようになったの。うちのスタッフたちは、多浪ポエマーってあだ名で呼んでいるわ」

「え、太郎?」

「多浪よ。自分で言っていたの。医学部受験に何度も失敗して十年くらい浪人しているらしくて。勉強したらいいのに、いつもあのノートにポエムを書いているみたいなの。だからポエマー」

「多浪?……じゃあ、星雪学園の生徒ってわけじゃなさそうね」

「うん、高校はとうに卒業しているみたい」

「どうしてこのカフェに来るんだろう?」

「あー。それは、思い当たることがあるの。あの人が三週間くらい前にお店に来始めたとき、うちの新人パティシエさんが、たまたまホールを手伝ってくれていて。あの人の噂を知らなかったみたいで、社交辞令でポエムを誉めちゃったのよ。そしたらあの人喜んじゃって。“僕のセンスがわかるなんて見どころがある、また新作読ませてあげるよ”って、ほとんど毎日来るようになっちゃったらしいわ」

「ポエム……。どんなものを書いているか、見たことある?」

 マリカは、自分の靴箱に入っていた文章を思い出していた。やはり、あれと同じような詩のような歌詞のような文章なのだろうか。

「コーヒーを届ける時にちょっと見たことあるけど、なんか、散文的な、5~6行の詩みたいのをいくつも書いている感じだったわ。いつもトイレの前のあの席に居座るから、他のお客さんが気味悪がってしまうの。おまけに大きな声でパティシエさんを呼び出して、書いたポエムをちぎって渡したり、ポエムを読み上げたり、感想を大声で求めることもあるのよ。来店をお断りしたいんだけど、そんなわけにもいかなくて」


「公佳、どんな人でもうちに来てくれるお客さんだ。そんなこと言うもんじゃないよ」

 ふと、公佳の父がトレイに乗せたパンケーキとポットのハーブティを運んで来ていた。

「叔父さん、こんにちは」

「いらっしゃい、茉莉花ちゃん」

 マリカの叔父は少し太めな体型で、甘いものが大好きであるがゆえにカフェを経営している、とても優しい人だった。

「どうぞ、ゆっくりしていってね」

 マリカの叔父は運び終わると忙しそうにすぐに一階へ戻って行った。

「あはは、お父さんに聞かれちゃったわ」

 公佳はばつが悪そうにしている。一方のマリカは、目の前の5段重ねのパンケーキに喜びの声を上げた。

「わあ、美味しそう。ふわふわでスフレみたい。中に挟んであるのはバニラアイス?」

「チーズのアイスとチーズクリームよ。あと煮詰めたチェリーと、トッピングの丸ごとチェリー。うちのパティシエさんが作ったの」

「盛り付けが可愛い。写真撮っていい?」

「もちろん」

 マリカはインステ掲載用に写真を何枚か撮った。

「いただきます」

 いざスプーンですくおうとすると、音もなく近付いてきていたナイトが、椅子に座るマリカの横に膝を立てて座り、にっこりと笑いかけた。

「公佳さん。僕もぜひ一口いただきたいのですが。取り分け用のお皿はありますが、カップがないようですのでいただけませんか」

「いいわよ。一口と言わずに、もう1セット同じものを作って持ってくるわ」

「いえ、マリカさんのものを二人で一緒に食べたり飲んだりしたいのです」

 公佳はそれを聞いてプッと吹き出した。

「え、なになに、仲良しね?もしかして、付き合っているの?」

「ちがっ」

 マリカはプルプルと首を横に振ったが、ナイトは真面目な顔をして、

「そう思っていただいても差し支えありません」

「いや、待って、何言うの」

 マリカは目玉が飛び出るほどびっくりしたが、公佳はくすくす笑いながら、カップを取りに一階へ下りて行った。


 公佳が席を外すと、ナイトは神妙な顔になった。

「マリカさん、毒見をしなければいけません」

「え、叔父さんのお店よ?大丈夫でしょ、さすがに」

「ダメです、店内にも怪しい男がいますし、何があるかわかりません。公佳さんに申し上げづらいと思って、あのような言い方になりました。僕とシェアするふりをしてください。毒見だと悟られないようにマリカさんよりも先に僕が食べます」

「わかったわ」

 ナイトは手際良く、パンケーキのすべての具材を少しずつ自分のお皿に取り分けた。食べる前にまずは一通り匂いを確かめているようだ。

 マリカも、続けて自分のお皿のパンケーキをフォークですくう。


 結果的にマリカとナイトは顔を近付けて二人でコソコソと密談することになったのだが、その様子をじっと見つめる男がいた。

 一階でポエムを書いていたあの男だ。

「ねぇ君、さっき、目が合ったよね。僕のことをずっと見ていたよね。君はMさんだろう?僕は、君を待っていたんだよ!」

 そう言いながら、男が階段上まで走ってきて、加速すると、マリカに向かって一気に突進してきた。


 しかし、ナイトがすぐさま反応して、男を制止して腕をねじり上げると、床の上に倒して動きを封じた。男は体格が良くて力が強く、激しく暴れて抵抗し、ナイトの身体をはねのけようと、もがいていた。

 その時、一階からやって来たナイトの父の秀が参戦して、二人がかりで抑えると、男も観念したように大人しくなった。

「なんだよ、なんなんだよ、おまえら」

 男は抵抗するのはやめたが、泣きわめいている。



 一瞬の捕物劇に、マリカは驚いて席から動けぬままだったが、信頼している秀まで現れて、気味の悪い男が無事に捕まったので安堵した。無意識のうちに、フォークに乗せていたままのパンケーキを口に運ぶ。


 ナイトは、急に現れた父の秀に気を取られていた。

「父さん?なぜここに」

「ナイトこそ、この人が何をしたんだ?」

「この人?って父さんの知り合い?」

「この人は杉澤十郎すぎさわじゅうろうさん。私は彼の、医師である両親から仕事として依頼を受けたんだ。医学部受験生である彼がいつしか試験も受けずに部屋の中に引きこもってしまったので、部屋から出て社会復帰するように手伝っていた。私が説得を続けて、三週間前に引きこもりは解消されたものの、なかなか普通の生活にはなじめず、今度は毎日家から抜け出してどこかへ行ってしまうということで、どこにいるのか探し出すように、両親から頼まれたんだ」

「なんだって?父さんが引きこもりの手伝いの仕事をしているのは知っていたけど、そんな偶然あるかな。みんな一斉に“カフェ・エミルネオ”に来るなんて」

 そう口にした瞬間、ナイトはアッと短い声を上げた。

「そうだ、カフェ・エミルネオだ。“”」


 ナイトが何かに気付いた顔をしたその時、一階から、シランと宙哉が一人の中年の男を連れて来た。

「ナイトすまない。一階でそのポエマーを俺らが取り押さえるべきだったのに」

 シランは肩を上下させて息を吐きながら謝った。

「大丈夫だ、ポエムの男は捕まえたよ」

「そのポエマーが飲み終わったカップがあったから、指紋採取のためにスタッフさんから借りようとして俺らが厨房に行った隙に、ポエマーに二階に行かれてしまったんだ。面目ない。でも、俺らが入った厨房には、もっととんでもない男がいたよ。ほら、これがここの新人パティシエだ」

「新人って言うから若い子かと思ったら、全然オッサンで。しかも見覚えがあると思ったら、先月解雇されたマリカさんちの元料理人っすよ」


 その時、二階のテラス席にいるマリカは、少し距離のある階段付近で話している彼らの話をほとんど聞いていなかった。

 口の中にほわっと広がる感覚に、つい夢中になってパンケーキをバクバクと食べ進めてしまっていた。独特な苦みもあるものの、上品な甘さに調和して、程よいアクセントになっている。ついつい、ハーブティもごくごくと飲み進めていた。


「おいしい」

 マリカの幸せそうな呟きを耳にして、ナイトは顔を上げた。

「マリカさん?いけません!まだ僕は毒見をしていません」

「え?そうなの?てっきりナイトはもう食べたものと思ったわ。でもこれ、おいし……あれ?なんか今ガリッと……種?」

 言いながら立ち上がったマリカは、そのままグラリと世界が揺れるのを感じた。

 バタンと真後ろに倒れるマリカを、ナイトはすんでのところで抱き止めた。

 薄らぐ意識の中、マリカは倒れる寸前に、シランと宙哉が捕えている男の顔を見た。

<……あれは料理人の降宇……?なぜ……>




 マリカは目覚めると病室にいた。レモン色と白のストライプ柄の壁紙に虹のようなデザインのカーテンが引かれている。ここは、良く見慣れたマリカの父が経営する病院の個室だ。

 立ち上がろうとしたが、左腕には点滴が繋がっていた。そして、近くにはナイトの姿がある。

 ナイトの眼は赤くなっていた。まるで一晩中男泣きしたかのように。

「マリカさん。良かった。昨日食べたパンケーキは胃洗浄してもらいました。点滴が終わるまでもう少し休んでいてください」

 点滴の打たれているマリカの左手をナイトはそっと握りしめる。


「そう。私は丸一日眠っていたのね。夕方ということは……今日は学校も休んでしまったし、合唱団の練習にも行けなかったのね」

 マリカはそんな現実的なことが気になってしまった。

「大丈夫ですよ。マリカさんは成績優秀ですから、授業の遅れはすぐに取り戻せます。合唱団の練習ならば、また来週参加すればよいのです」

「そうね。……ねえ、ナイトの言う通りだったわ。あのパンケーキに毒が入っていたんでしょう?」

 マリカは長い時間眠っていたので、頭が少しぼんやりとしていた。

「入っていたのは、さくらんぼの種です。今度は、マンチニールのように僕が見た目や臭いでわからないように、腕利きの料理人の手によって、うまく食品に紛れ込ませてありました。マリカさんはちょうど大きめの種をかじったようですが、それだけではなく、あのパンケーキの生地全体に、細かく粉砕され粉状になったさくらんぼの種が大量に混ぜ込まれていたのです」

「種?そう言えば、何かガリっと噛んだわ」

「さくらんぼの種にはアミグダリンという成分が含まれています。これを口にすると、体内でシアン化合物という毒成分に変化してしまうのです。もしも間違えて種を食べてしまうことがあっても、一粒二粒であれば問題はないのです。ですが、今回は厚みのある5段重ねのパンケーキ全てに何百個もの種がミキサーで砕いて入れてありました。大量に食べれば頭痛やめまいを起こして気を失い、すべてを食べると命を落とす危険性もありました」

 マリカは背筋がゾッとするのを感じた。

「種の苦味や違和感のある味で本来は気付くはずなのですが、マリカさんが一緒に飲んだ、降宇がブレンドしたハーブティには、鎮痛効果や安眠効果のあるカモミールや、舌に刺激のあるジンジャーなど、癖のあるハーブがたくさん使われていました。それでマリカさんは食べ進めてしまったのだと思います。でも安心してください。マリカさんが食べたくらいの量であれば、胃洗浄をして安静にしていれば良くなるそうです。後遺症も何も残らないそうです。この点滴が終われば家に帰れるようです」

「家?家……もう嫌だ、家に帰りたくないよ……」

 マリカは恐怖に怯えたような顔になり、みるみるうちに目に涙を湛えた。

「どうして私ばっかりこんな目に遭うの?」

「マリカさん。僕がおそばにいながら、本当にすみませんでした」

 ナイトは、マリカの前で涙を流すことはなかったが、自信を無くしたような元気の失せた声をしていた。マリカを心配して一晩中見守っていたのだろうということはよくわかった。

「ナイトが謝ることはないわ。あんなに警戒して毒見までしてくれようとしたのに、私が食べてしまったのが悪かったの。命を狙われているのに自覚が足りなかったってわかってる」

 マリカも辛い気持ちで沈んだ声を出す。

「いいえ、マリカさんが昨日おっしゃった通りです。BGがいることを忘れるくらいにマリカさんが普通の生活を送れなければ、僕はプロのBGとは言えません。僕が経験の足りない若輩者なばかりに申し訳ありません」

「ふふ、謝りっこになっちゃったわね。ナイト、悪いのは私でもあなたでもなくて、こんなことをするお継母様よね。ナイトは全力で私を守ってくれたわ」

 まだ少しふらつく頭を押さえながら、マリカは微笑んで見せた。

「マリカさん、気分が悪いのですか?ナースコールしますね」

「ううん。大丈夫よ。待って、まだ病院の人は呼ばないで。ナイトに聞きたいことがあるから。ねえ、毒入りパンケーキを作ったパティシエさんって、うちの料理人だった降宇さんのなのよね?あの人はお継母様のお気に入りだったものね」

「そうなのです、僕がマリカさんのお父上に言って解雇してもらった降宇が、何食わぬ顔をして、その足でマリカさんが立ち寄りそうなお店である、カフェ・エミルネオに再就職して、マリカさんが来るのを待ち構えていたんです」

「じゃあ、降宇さんとお継母様が結託して、今回のことを仕組んだのね。こんな恐ろしいことをするなんて……許せないわ」

 病院のベッドで半身を起こしながら、肩を震わせて泣くマリカをナイトはそっと抱きしめた。

「マリカさん、降宇は、殺人未遂と傷害の罪で、警察に逮捕されました。もうあの男はいません」

「あのポエムを書いた男も捕まったの?」

「調べたところ、あのポエムの男、杉澤十郎は、何も知りませんでした。彼は知る限りのことを僕らにすべて話してくれました。彼が十年に及ぶ引きこもりをやめて街に出て、たまたま立ち寄ったカフェで書いていたポエムを、降宇が見かけて利用したようです。降宇は彼のポエムのファンだと言って彼に近づき、”思いを寄せる女性に書いた詩を渡したいから、その素敵な字で清書して欲しい”と頼み、杉澤は降宇の書いた詩を自分のノートに清書して、ちぎって渡しただけだそうです。それから、マリカさんがもしも店に来たら話しかけるようにと言われて、マリカさんの写真を見せられていたそうです」

「だから、私を見て、Mさんだろって言っていたのね」

「はい。降宇がマリカさんにパンケーキを食べさせるという真の目的のためには、邪魔である僕たちBGを遠ざける噛ませ犬が必要だったのでしょう。僕らはまんまと、怪しいポエム男、杉澤の確保に気を取られてしまいました」

「それなら、あのポエムの人は、何も知らずに詩を書いていただけってことになるのね」

「そうなんです。警察も彼に事情聴取はしていましたが、彼のしたことは罪にはなりませんでした。僕の父が、彼を彼の両親のもとに送り届けました。知らなかったとはいえ、疑わしい行動をして混乱させた人物なので、今後は、今まで以上にうちの父が彼の自宅周辺を巡回して、彼の行動を監視するそうです」

「そうだったの。あの詩はじゃあ、特に内容としては意味のないものだったのかしら」

「いいえ。マリカさんの靴箱に入れられていたあの詩は、しばらくカフェ・エミルネオに来店しなかったマリカさんを、降宇が呼び出すために、サブリミナル効果を狙ったものでした」

「サブリミナル効果って、潜在意識を刺激する暗示をかける、みたいなあれ?」

「そうです」

 ナイトはそこで、『Mさんへ』と書かれたあの手紙を出した。


『演奏するよ 君と今

耳澄まし 天仰ぎつつ

ルンルン 僕も連れてって

ねえ 鐘は鳴っているかい

オルガン抑える シンバルで

ほらおいでよ 待ってるよ』


「特に重要なのは、この漢字の下に書かれている平仮名の文字の方です。平仮名の方は12文字ずつ書かれています」


んそうするよきみとい

すましてんあおぎ

んぼくもつれ

えかはなってるか

るがんさえしんば

ほらおいまってる


「この文字を縦読みと斜め読み、つまりローマ字のMの形に、書き順通りに読むと、“エミルネオで”“エミルネオで”“待っているよ”“待っているよ”となります。ご丁寧に二回繰り返してリフレインさせながら印象付けているのです。一見するとわからないように、相手の潜在意識に訴えかけるサブリミナル効果を狙ったのでしょう。”Mさんへ”という宛名で、ローマ字のMを意識したままこれを読んで、“エミルネオで待っているよ”というメッセージを潜在的に受け取ったマリカさんは、急にカフェ・エミルネオが気になってインステをチェックした。そして行きたくなって、店に向かったのでしょう」

「あの手紙にそんな意味があったの。私は見事に引っかかって踊らされてしまったのね」

「マリカさんだけではなく僕もです。僕も暗示に吸い寄せられるように、カフェに行くことを容認してしまった。他にも杉澤の、癖のある独特な筆跡が気になったり、内容が讃美歌に似ていたので気になったりと、別の方向に気を取られて、ポエムの男をマークしているうちに、降宇の真の狙いだったパンケーキを、マリカさんが食べるのを見逃してしまいました」

「そうね。みんな降宇の策略だったのね。確かに降宇はうちの料理人をしていた時にも、色々と小賢しいところのある抜け目のない人だったわ。お継母様とは気が合ったようだけれど。そういえば、あの手紙を私の靴箱に置いたのは、降宇だったのかしら?それとも杉澤?」

「防犯カメラを見る限り、降宇も杉澤も映っていませんでした。御影が校舎に出入りしていたようですので、御影かもしれませんが、具体的な証拠はありません。手紙の指紋も、ポエムを清書した杉澤のものだけでした。捕まった降宇は、警察に素直に供述しているそうですが、あくまでも自分の単独犯だと主張しており、黒幕などの存在は一切口にしていないようです」

「単独犯……。そうよね、お継母さまと御影が、証拠を残すはずはないわよね。でも、お継母さまが私の命を本格的に狙い始めたのだという覚悟はひしひしと感じているわ。一つ屋根の下に、私の死を願う人がいるなんて怖くて仕方がない。私はあの家で生まれてあの家で育ったし、あの家から出て行きたくはない。でも、お継母さまや影の男と一緒に生活するのは怖くて仕方がないわ。どうしたらいいのかしら。もし、お継母様の狙いが倉野家の財産ならば、私はそんなもの要らないし、全て財産放棄してしまいたい。そうすればお継母様も、もう私の命を狙わなくなるのかしら」

「財産放棄ですか……。桐子さまの目的が財産ならば、それも一考すべきなのかもしれません。マリカさんが将来的な相続財産を全て放棄したとしても、法律的に手にすることになる遺留分だけでも生活して行けることとは思います。しかしながら、マリカさんのお父上は、そのようなことは認めないでしょう。マリカさんのお父上も交えて、きちんと話し合われる機会は必要なのかもしれません。とにかくこのように、マリカさんの命が脅かされる事態なのだということを、倉野宗助さまにもわかっていただかねばならないとは感じています」

「そうよね。どれだけ私が訴えても、多分ナイトが真剣に言ってくれても、お父様のお継母様への信頼は揺らがないのかもしれないわね。だとすれば、私はもう、あの家から出て、一人暮らしでもした方がいいのかしら」

「僕も、桐子さまとマリカさんの住まいははっきりと分けた方がよろしいかと思います。ですが、現状、お父上がマリカさんの一人暮らしをお許しにならないと思います。お父上は、桐子さまがマリカさんの命を狙うはずがないと、あのお屋敷の中にいる方が安全だと思っていらっしゃるようですから。実際に、もしも一人暮らしをされても、警備上絶対的に安全な住処が見つかる保証もありません。また、今回の事件を報告するときに、僕からもお父上に相談してみます。マリカさんは、明日には退院して、自宅にお帰りにならねばなりませんが、これまで以上に僕がマリカさんから片時も離れず、おそばでお守りします」

 優しい瞳で見つめるナイトに、マリカは急にドキッとして、また目を逸らしてしまった。昨日、公佳の手前、ナイトがマリカのことを付き合っているようなものと言っていたことを思い出してしまったのだ。

<あれは言葉の綾だ。私とナイトの間にあるのは恋愛感情じゃない。でも、仕事上の関係だけでもない。友情よりも温かいもの。兄妹よりもドキドキするもの。心から信頼できる絆で結ばれているもの。それはとても深い愛情>

「……ナイトがいて良かったわ」

 マリカはその言葉を深く噛みしめたが、ナイトは真剣な顔で話を続けている。

 大切な言葉をスルーされて、タイミングの悪い時に言ってしまったと、マリカは頬を赤らめた。

「マリカさん、それから、公佳さんがマリカさんが目覚めたら電話が欲しいと言っていました。お電話しますか?今回はパティシエとして働いていた降宇が逮捕されたので、ごまかしは効かず、叔父さんと公佳さんに今までの事情をお話ししました」

「そ、そうよね。心配かけたくなかったけど、こんなことになったからには、事情を説明しないといけないわよね。電話もするけど、実際に会って話したいから、退院したらまたカフェに顔を出すわ」

「それが、今あのカフェは警察の現場検証のために、臨時休業となっているのですが、このまま閉店することを決めたそうです。昨夜、叔父さんと公佳さんがお見舞いにいらっしゃた時に、言っていました」

「そんなあ。私の癒しの場がメチャクチャにされてしまった。お継母様は、そうやってまたひとつ、私の居場所を奪うのね」

「あの店は閉店するそうですが、ちょうど二店舗目の出店準備を始めていたので、今後はそちらの店舗だけで運営していくそうです。数か月後には、新しいお店が完成するそうなのです」

「そうなのね、全くなくなるわけじゃないのなら、良かった」


 公佳に電話をすると、マリカが目覚めたことについて安堵しているようだった。

「マリカごめんね、大変なことになっているのに気付かなくて。うちのパパも、降宇さんに騙されて、マリカにあのパンケーキを運んでしまったことにショックを受けているわ。降宇さん、もちろん履歴書にはマリカのお屋敷で働いていたなんて書いていなかったし、腕が良かったから雇ってしまったんだけど、まさか、桐子とうこ伯母さまの回し者だったなんて。マリカと桐子伯母さまの関係がそんなに悪化しているなんて、ナイトから聞いてびっくりしたわ。また今度ゆっくりと話そうね。マリカには他にも聞きたいことがいっぱいあるから」

「マリカちゃん大丈夫か。うちのパティシエが本当にすまないことをしたね。しばらく休んで、また細々とお店を始めるから、ぜひ来てくれたら嬉しいよ」

「はい。公佳、叔父さん、こちらこそ大切なお店にご迷惑をおかけしました。また新しいカフェが完成したらぜひ行かせてください」

 マリカは安らげる場所である二人のお店に、また行ける日が楽しみでならなかった。




 一方、その頃、自宅にて、継母の桐子と御影は暗闇の中で、電気もつけずに話していた。

 桐子が左手に持っているものは、月明かりに照らされた、杉澤十郎のノートの切れ端だ。

「御影、これを書いた男に接触できたの」

「はい、しかし奥様、また彼方親子に我々の計画を邪魔されました。杉澤は彼方秀の庇護下にいます。そしてもう一つ。降宇は、金子のように身柄を抑えるつもりでしたが、警察に逮捕されてしまいました」

「なんですって?」

 桐子は右手にワイングラスを握りしめていたが、手をワナワナと震わせながらぐしゃりと割った。

「家政婦の金子……料理人の降宇……。天聖事件の生き残りの12人の聖戦士たちは、確実に動き始めているわ。残りのあと10人。あの小娘マリカにまとわりつく五月蠅いBGナイトどもは一体どこまで阻止できるのかしら。見ものだわね」

 こぼれたワインよりも、破片で怪我をした手から流れる血よりも、真っ赤なルージュを引いた唇を震わせて、桐子は抑えきれないほどに強い怒りを露わにしていた。





(第3話につづく)

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私だけのBG~ナイトと私の12ヶ月~ 花彩水奈子 @kasasuna

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