私だけのBG~ナイトと私の12ヶ月~

花彩水奈子

第1話 四月の白雪姫

<私は倉野茉莉花くらのまりか。いわゆるお嬢様だ。そして・・・>

 ダダダッと勢いよく走り出すマリカ。


<いつも付き従っているこの人・・・>

 タタタッと軽快な足取りで、しかし真剣な表情で追いかけてくる、美少年が一人。


彼方夜都かなたないと。お父様が雇った、私専属のBG=ボディーガードだ。>



『私だけのBG ~カレと私の12ヶ月~』



<私を生んだお母様は、私が生まれた直後に、お父様の手を取りながら、酷く泣き叫んだらしい。

“この子には受難の相がある。18歳になるまで、皆で守らなければ、長くは生きられない。お願い、この子を守って”

 そう、予言のような謎の言葉を残した後、病弱だったお母様は、産後の肥立ちが悪く、数日後には亡くなったそうだ。

 茶色のウェーブヘアに優しいまなざし、まるで天使のように美しい、祥子しょうこお母様。会いたかったわ>


 職務に忠実に追って来るナイトの追跡を、赤信号で撒いたマリカは、スマホの待ち受けにしてある、色褪せた写真の中で微笑む母親、祥子の姿を見つめて、寂し気に目を伏せた。母譲りのふわふわした茶色がかった猫っ毛が肩まで伸びている、年齢より幼く見える少女だ。


<祥子お母様が亡くなると、“マリカには母親が必要だろう”との口実から、お父様は、一年も経たないうちに、新しいお継母様かあさまを連れてきたそうだ。

 けれど、片貝桐子かたぎりとうこさんというその女性は、ねっとりしたうねる黒髪で、鬱々とした暗い陰を宿す鋭い眼、ルージュを引いた紅い唇・・・そう、まるで、おとぎ話に出てくる悪い魔女のようだった。

 そのような妖しいお継母様かあさまを迎え入れることに、使用人たちはこぞって反発したけれど、お父様は聞き入れなかった。また、お父様は亡くなったお母様の予言である私の受難の相についても全く信じていなかったらしい。

 赤子だった私は、乳母のノリさんに世話されていたけれど、お父様の再婚後は継母桐子様に育てられることとなった。

 けれど、私は赤子の頃から、予言通りに数々の災難に見舞われたらしい。

 とうとうお父様も私にボディーガードをつけることにしたという……>


 マリカは、ナイトがまだ交差点の向こう側にいることを確認しながら、そのまま小道に入り、とあるカフェの裏口のドアを開けて中へと逃げ込んだ。

 カチャカチャと食器を洗う音、声を出して客へ運ぶ音、忙しそうなキッチンの音が、伝わってくる。午後のこの時間は、このカフェにとってピークタイムであり、従業員は忙しくて、誰もこの裏口付近までは来ないのだ。

 マリカは、ドア裏の床に座り込んで、ナイトが自分を探し出すまでのほんの僅かな間、一人の時間を満喫した。


 そう。これは、毎日行われている、わずか十分のかくれんぼ……。

 ナイトは、マリカが下校中にあそこで走り出すのを知っているし、知っているけれど止めないし、マリカが完全に見えなくなる前には道路を渡って、この店の裏口に立って控えている。

 毎日同じところに隠れるマリカを、毎日同じように探し出すナイト。

 日々繰り返される茶番劇だった。


 そして、マリカがカフェの裏口に入ってから五分経つとナイトはノックする。

「マリカさん、参りましょう」

「……はい」

 マリカは、諦めたように吐息すると、カチャリと裏口のドアを開けた。


 このカフェは、マリカの叔父が経営する店で、その娘である公佳きみかがアルバイトをしている。マリカは同い年の従姉、公佳とは仲が良く、公佳が店にいる時間帯には、正面玄関から入ってお茶をすることもある。

 こうして、公佳のいない時間には、下校時に裏口から入って従業員用通路で座り込む。マリカの不思議な行動は、店からもナイトからも黙認されていた。

 

 しかし、わずか十分であっても、BGであるナイトにとっては大問題である。少しでも離れている間に、警護対象者の身に何かあれば大変だ。


<できればお止めいただきたいのだが……。

仕方ないのかもしれない。年頃の女性が年がら年中、このような男に付きまとわれていたら、一人の時間が欲しくもなるか。僕から離れる時間も……>

少し寂しげに微笑んで、カフェの扉を開けて外に出てきたマリカを見守る。


 ガシャン……

 その時、マリカの頭上から、プランターが落ちてきて、目の前に落ちた。

 もちろん、素早くナイトがマリカとプランターとの間に割り込んで、マリカに覆いかぶさりながら庇ったのだが。

「マリカさん、お怪我はありませんか?」

 自分の肩にかすったことなど、ものともせずに、ナイトは真っ先にマリカの無事を確認する。

 その真っすぐな視線から逃れるように、マリカは赤面しながら眼を逸らす。

 身体を起こしてナイトから離れるマリカは、ナイトを避けているようだった。

「大丈夫よ。……何が起きたの?」

 頭上を見上げても誰もいない。

 このビルは、一階がカフェで二階以上はマンションになっている。ベランダから落ちてきたのだろうか。

 割れたプランターの周りに飛び散る白い花からは強い香りが漂っていた。これは、ジャスミンの花だ。

「すみません、大丈夫でしたか?」

 やや遅れて住人らしき中年の女性がやってきて謝った。

「ベランダのテーブルに乗せておいたプランターが風で落ちてしまって」

ナイトは普段の柔らかな表情とは打って変わって、冷ややかな怒りをにじませた声で注意する。

「僕は大丈夫です。しかし、大事が起こらぬように、今後は対策をお願いいたします」

「す、すみません・・・」

 何度も頭を下げながら、女性は申し訳なさそうに割れた破片を片付け始めている。


<この方の家のベランダから、偶然落ちただけ、だよね…。事件性はないのよね…>

 落ちた花がマリカの大好きなジャスミンであることは気になったが、考えすぎないようにしようとマリカは思った。


このように、マリカは母親の予言の通りに、大小含めて数々の災難に見舞われて来た。

今日のような大事に至らない小事だけではなく、中には洒落にならないような、命に係わる問題が起こることもあったのだ。


 と、突然マリカが短い悲鳴を上げる。

「ひっ、また、影の男が……」

 カフェの外壁の影から覗く、良く知る男の姿があった。

『影の男』とは、継母に従者のように付き従う男のことだった。マリカの父が経営する医療法人を、継母は理事長として支えている。影の男は継母の秘書として雇われているが、具体的にはどのような仕事をしているのかよくわからない男だった。

 ただ、これまでもマリカに災難が起きた時には必ずと言っていいほど、近くに影の男の姿があった。まるで死神のように、じっとマリカを見つめているのだ。


 影の男の存在に怯えるマリカを両腕で庇いながら、ナイトは素早く周囲を見回したが、もう、その男の姿はどこにもなかった。

「大丈夫です、マリカさん、彼はいません」

<いない?逃げたの?それとも私の見間違い?>

 マリカの背中をぽんぽんと叩いて落ち着かせるナイトの手を、マリカは無言で振り払った。

「いないなら、いいわ」


<こんなこと、いつまで続くんだろう?

 まるですべて、私の災難は、お継母様の仕業なんじゃないかと思ってしまうわ……。お継母様の指示で影の男が私の命を狙っている。……そんなことを考えてしまう。ごめんなさい、お継母様。お継母様は、表面的には私のことを可愛がってくれている。だから、お継母様のせいなんて思ってはいけないのかもしれないけれど。

でも、私は、いつもは穏やかで凛とした佇まいなのに、ふとしたきっかけで真顔になり、口調が悪くなって物に当たり散らす所のあるお継母様が、幼い時から怖かった>


 今日のプランター落下事件に怯えた様子で、マリカの身体は小刻みに震えていた。歩き出そうとしても、うまく歩くことが出来ない。

 ナイトがマリカに手を差し出すと、今度はマリカはその手を振り払わなかった。恥ずかしさもあったが、ナイトの腕は温かく、今は恐怖の方が上回っているようだった。


 自宅に着くと、ナイトはマリカの部屋の前まで付き従った。

「マリカさん、毎日同じルートで登下校すると、あなたの行動パターンを知られてしまいます。明日からは僕の車に乗ってはいただけませんか」

ナイトの言う通りだった。車通学ではなく歩いて行きたいと希望したのはマリカだったが、登下校のわずかな時間にも危険は潜んでいる。

「わかったわ。そうする。着替えるから、ごめんなさい」

 珍しく反論することなく素直に応じると、マリカはナイトから目を逸らして自室に閉じこもった。

 ドアを閉じる瞬間、ナイトの寂しそうな微笑みが見えた。


<ナイトを避けているわけじゃない。むしろ、仕事として守ってくれている彼に、それ以上の感情があると勘違いしないように、自分から距離を置いているだけ……>

「顔面偏差値高すぎだって」

 マリカはナイトの透き通るように涼やかな美貌を思い出しながら、深くため息をついた。



 使用人たちの語る、マリカの母に関する都市伝説のような話は、マリカ本人の耳にも入っていた。

 なんでもマリカを生んだ母には霊能力があって、生まれたばかりのマリカの身の回りに結界を張った後、力尽きて亡くなったというのだ。

 だから、大抵のことでは、マリカには守りの力が働いて、死なないらしい。

 でも、そんなファンタジックな話を、リアリストな父が信じるはずもなく。父はマリカの母の遺言を今でも全く信じてはいない。

 それでも幼い頃からマリカが、何度も死に直面するような出来事が続いたので、マリカに専属のBGをつけることにしたようだ。


 マリカは幼い頃から何度も死にかけた。

 例えば、ベビーカーの安全バーが機能せず、赤子のマリカを乗せたまま坂道を転がって、自動車にぶつかりそうになったところで、間一髪、周囲の人に止められたり。

 赤子のマリカを先に車に乗せたら、誰かがキーに細工をしたかのように鍵が自動で閉まって開かなくなり、助け出されるまでの間、熱中症になったり。

 すり潰してあるはずの離乳食に、固まり肉が混ざっていて喉に詰まって、窒息しかけたり。


 全部、マリカの父の新しい秘書としてやってきた、現在の継母、旧姓片貝桐子が怪しいのではないかと使用人たちは噂していたのだが。

 家政婦長で、マリカの乳母のノリさんも、桐子さんが犯人なのではないかとマリカの父に訴えたが、父はこれまた耳を貸さなかった。マリカの母の生前から、つまり母が病床にあるころから、父はすでに継母と愛し合っていたようで、継母のことを信頼しきっていた。


 亡き母の精神的な身の護りと専属BGの実質的な守りを得て、安全なはずのマリカだったが、それでも今後も数々の受難に見舞われることになる。

 BGと協力しながら、なんとか命からがら切り抜けていく、これはそんな物語である。


 マリカの父が、赤子の頃のマリカにつけた専属BGは、ナイトの父、彼方秀かなたすぐるだ。秀は、マリカの父とは大学時代からの旧知の仲で、部下たちには任せずに、社長の身でありながら、赤子のマリカに対して、自らつきっきりで専属BGを務めた。

 秀はかつては国の要人警護をしていた、つまり元警視庁のSPという本格派だったが、とある事件をきっかけに退職した後、ちょうど民間のボディーガード会社を立ち上げたところだった。

 秀は自分の会社に有能な人材を集めて育成や訓練をするという社長としてのマネジメントをしながらも、マリカの警護を15年間務めあげた。

 そして、この四月にマリカが高校入学すると同時に、マリカの専属BGは、秀の息子であるナイトに引き継がれた。秀は長引く腰痛や加齢による体の不調のため、要人警護の業務からは引退して、社内の別の業務に移ったため、幼いころから武術指導を施し育成した息子であるナイトに、マリカの護衛を託したようだ。


 ナイトは、マリカが部屋から出てくるまで、今日も部屋の外に控えて待っていた。 そして、自分の父の言葉を思い出す。

<ナイト、君には今日から、倉野茉莉花さんの専属BGになってもらう。

マリカさんの父であり私の親友でもある倉野宗助くらのそうすけ氏からのご指名だ。女性社員を担当にした方が良いかどうか倉野氏に問うたところ、“大事なのは信頼できるかどうかであり、性別はどうでもいい。おまえか、おまえの息子でなければだめだ”と言われたのだ。

君はまだ、研修が終了したばかりで、実戦経験はほとんどない。しかしそれでも、クライアントの望むとおり、君に任せることにする。これは仕事だ。万一にでもよこしまな想いは抱くな。命に代えても守れ。>

 その言葉通りに、職務に忠実にナイトはマリカを守らなければならないと固く誓った。


 一方のマリカは、幼い頃から、四歳年上のナイトを兄のように慕っていたが、ナイトがアメリカに留学していた空白の期間に、よそよそしい関係性になってしまった。

 この四月に久しぶりに再会して、BGとして任務にあたることになったが、どうにも心の距離を感じていた。

“え、ナイト、アメリカに行っちゃうの?いや、ずっとマリカのそばにいて”そう泣きながら別れを惜しんでくれた、小学生の頃のマリカのイメージが残っていたのだが……。再会すると、随分と大人びた高校生になっていて、ナイトと目を合わせようとせずに、突き放すような話し方をするマリカに、戸惑いと寂しさを感じていた。



「茉莉花さん今日は学校はいかがでしたか?」

日課である午後のティータイムの時間、継母はマリカにけんのある声で尋ねた。

「お継母様、今日は天気もよく気持ちのいい一日でした」

 マリカも堂々と向き合ってジャスミンティーを飲み始めた。

「そうでしたか。今日は帰り道なども怪我もなく過ごせたのですね」

語り口調は穏やかながら鋭い眼差しでぎろりと見つめられるも、マリカは快活な声で返す。

「ええ、何事もなく」


<あのプランターも、やはりお継母様の仕業なのだろうか。>

 マリカは不安な気持ちを打ち消すように、ジャスミンティーを飲み続ける。庭に咲いたジャスミンの花とウーロン茶を混ぜてお湯で抽出した自家製ジャスミンティーは、香りが高く心安らぐ気分だった。

 マリカは、二杯目はいつも、同じく庭で取れた果実を煮詰めた、自家製ジャムを混ぜて飲むのが日課だ。今日は瓶から林檎ジャムをスプーンですくってかき混ぜていた。


「わたくしの方は、お庭でジャスミンのプランターの手入れをしていたら、落として割ってしまったの。わたくし軽く怪我をしましたのよ」

 嘘か真か、継母はそのようなことを言い出した。

「わたくしが置いた場所とは違う場所に置いてあったみたいなの。あのように落ちやすい場所に、誰が置いたのかしらね」

 その言葉に、泣き出しそうになったマリカは、唇を噛みしめてなんとかこらえた。

 しかし、ジャムをカップに入れていた手が震えて、ジャムの瓶を取り落としてしまった。ナイトがすぐに拾って、マリカに怪我がないか確認する。

「マリカさん、どうぞ」

 すかさず、ナイトは刺繍のついたハンカチを一枚差し出した。これは、マリカの実の母の形見のハンカチだ。これを握りしめるとマリカの心が落ち着くことを、ナイトはよく知っている。

 ジャスミン茶は漢字で書くと茉莉花茶ということもあり、マリカはジャスミンの花が好きだった。庭にたくさんのジャスミンを育ててもらっているが、手入れをしたり育てているのは屋敷の使用人たちであって、継母が手入れをしているところなど見たこともなかった。

 わざわざ、マリカと同じ名前の花、ジャスミンを落として割ったと言いたいのだろう。やはり、先ほど、カフェでプランターを落としたのは継母の差し金であると宣戦布告しているかのようだった。

「それは大変でしたね。お継母様、お怪我は大丈夫ですか。お大事になさってください」

 一呼吸を置いて、優雅に微笑むと、マリカはティータイムのお茶を飲み干した。

 と、そこへ、使用人の一人がマリカに申し出る。

「マリカ様、林檎ジャムが終わってしまいました。ちょうど新しい林檎のご用意がありますが、どうなさいますか」

 その声に反応して、ナイトはうつむいて喋る中年女性の使用人、金子かねこを警戒するようにマリカに寄り添った。

 ティータイム用のお茶とジャムはマリカがいつも自分でキッチンに立って作っている。先程瓶を落として中身をこぼしてしまったので、ジャムが終わってしまったようだ。

「じゃあ、今から作ってもいいかしら。お継母様、お先に失礼いたします」

マリカは継母に一礼すると席を立って、声をかけて来た使用人の金子の後についてキッチンへと向かった。

 その背後に向かって、低くささやくような継母の声が呟く。

「ふん。小娘め。このままじゃおかないわ」

 マリカは聞こえなかったかのように、振り向きもしなかった。


「ナイト、ありがとう」

 部屋を出ると、母の形見のハンカチを握りながら、マリカは言った。

「よく、こらえられましたね」

「ええ。今日の嫌がらせは誰も怪我しなかったからっていうのもあるわ。もしも今後、命に係わる嫌がらせをされたら、私ももう黙っていられないかもしれない」

「大丈夫です、僕がついています。命に代えてもお守りします」

「そうね、心強いわ」

 ナイトはマリカの住む豪邸に、住み込みでBGとして働いている。就寝時間になると隣の部屋へ行くが、起きている間は、こうして、マリカのそばにずっと付き従っているのだった。

 秀がマリカのBGをしていた時から、警護の修行のためにナイトも頻繁に連れて来ていたので、マリカにとって、ナイトは兄のような存在だった。小さい頃から一緒にいる時間は長く、別段意識はしていなかった。

 でもそのように秀の後ろから補佐をしていた子供の頃とは違って、この四月にマリカの専属BGとして再会してからは、十九歳のナイトは随分大人に見えた。

 アメリカで飛び級で大学を卒業してBGとしての訓練を積み、社会人として働くナイトは立派に見えたし、ナイトと二人きりの空間で接近して話すことも多くなり、マリカは改めて急に意識するようになってしまった。


 家にいる時に一人にして欲しいと思ったことはない。むしろ、継母の領域である家の中でこそ、ナイトにそばについていて欲しかった。学校でも登下校でもずっとそばにいて欲しかった。

 母を亡くして父には見向きもされずに、兄妹もいない孤独なマリカにとって、幼い頃から知っているナイトは、絶対的に信用できる数少ない相手だった。

 だからこそ、真剣に仕事をしているナイトに対して、この頃どうにもドキドキしてしまうことは、秘密にしておかねばならないと思った。

 

 キッチンに行ったマリカは、キッチンに置かれていた段ボールのままの林檎を見て、首をひねった。

「なぜ段ボールのままなの?いつもは果物かごに入れてあるのに」

 尋ねるマリカと答える使用人の間に、ナイトは不自然なくらいに身体を割り込ませている。

 マリカを案内した使用人の金子は、もごもごと言いよどむ。

「あの、従姉の公佳様から本日送られてきた林檎と言うことで、桐子さまがここに置かれました。マリカ様宛なのだから、そのまま置いておけばよいとおっしゃられたので、そのままにしてありました」

 確かに従姉の公佳は、時々、国内外の珍しいフルーツを送って来てくれる。カフェで使うために取り寄せたものが美味しかった場合に、マリカにもお裾分けでくれるのだ。

「そうなの。それにしては、いつもの段ボール箱と違うわね。公佳はいつも、カフェのロゴデザインの入った箱で送ってくれるのに」

 いつもとは違う、再利用したような汚らしい段ボールに、マリカは違和感を覚える。それでも、宅配伝票には、今日の配達日指定や公佳の字で住所が書いてあり、内容に林檎と書かれてある。確かに公佳が送ったように見えた。

「うーん、あれ、この林檎、随分小さいわね?青りんごかしら?初めて見る……」

 マリカが段ボールを覗いて林檎を手に取ろうとした瞬間、ナイトがその林檎の臭いに気付いて、間一髪、パンチで弾き飛ばした。

「や、な、に?」

 ナイトは、荒々しく息を吐きながら、驚くマリカの身体を包むようにして、林檎のある段ボールから離れさせた。

「マリカさん、これは、おそらく林檎ではありません」

「……え?」

「この臭い……これは、おそらくマンチニール。死の子林檎と呼ばれる、林檎によく似た猛毒を持つ果実です。日本にはありませんが、アメリカなどには自生しています。もしも間違えて食べてしまった場合は、口腔内は赤く腫れあがり、内臓にも損傷を受けて、最悪の場合は……死に至ります」

「毒林檎ってこと?!」

「毒を持った、林檎に似た果実です。マリカさん、念のため、手を洗ってください」

 ナイトは血相を変えて、先程果実に触れた自分の手袋を廃棄すると、マリカをお姫様抱っこして手洗い場につれて行った。

「ほんの少し触っただけでも手がただれてしまう危険があります」

 マリカの手を一緒に十分に洗浄した後、

「そこの君、すまないが、この果実が触れた場所を全て消毒してくれ。果実の処分は僕がやる。それと、本当に公佳さんから送られたものなのか?」

 ナイトは怪しんでいた使用人の金子に、指示しながら確認したが、彼女はびくびくと震えながら言い淀む。

「あ……あの、いえ、公佳様から届いたと、桐子さまの秘書の男性がここに持ち込んだものです。それを桐子さまが、誰も触らずにマリカさまに渡すようにとおっしゃいました。毒林檎……なのですか?あの……公佳様が、間違えて送ってしまったんでしょうか?」


<間違いなわけない。影の男が持ち込んだんだ!公佳じゃない。公佳の名前を騙って、お継母様の用意した毒林檎だ!>

白雪姫に出てくる魔女のような、ねっとりとした黒髪の容姿をした継母だったが、まさか、本当に継子に毒林檎を用意するとは。

 マリカは動揺していたが、しかしナイトは冷静に、使用人の顔を間近で見つめる。

「果たして君の言葉を信じてよいのか。君の顔は違うようだが、今日僕は別の場所で君の声を聞いたおぼえがある」

 ナイトは使用人に詰め寄ったが、そこへマリカの大声が響いた。

「ここまでするの?私を殺すつもりなの?お継母様?どうしてそこまで私を憎むの……」

 マリカはカッとなって、今まで決して泣くまいとして張り詰めていた糸が切れ、ついにボロボロと泣き出したようだ。

 マリカ至上主義のナイトは、マリカに寄り添うために、言いかけていた使用人への詰問を一旦保留にした。そして、マリカに心配をかけないように、マリカから見えない角度で、使用人の指を後ろ手に結束バンドで固定した。続けてその脚も結束バンドで椅子に固定した。

「あなたにはもう少し聞きたいことがある。ここから動くな」

 マリカに聞こえないくらいの小声で使用人の耳元に囁くと、興奮状態にあるマリカの心が収まるように背中をさすり始めた。

「マリカさん、聞いてください。もしも本当に殺害目的ならば、この林檎をジャムにしてマリカさんのお茶に入れようとしたはずです。それを、わざわざ、わかりやすい形で怪しい段ボールに入れて丸ごとの果実を僕らに見せた。アメリカで訓練を受けた僕が、猛毒果実のマンチニールを知らないはずがない。僕が阻止するとわかった上で、脅して来ただけに過ぎないと、僕は判断します」

「……ナイト、それ、慰めにはなっていないわ。お継母様が毒林檎を私に差し向けたのは事実なのよ……。お願い、ナイト、今日のことは黙っていて。金子さんも黙っていて。誰にも、お父様にも言わなくていいわ」

 マリカは、継母から確実に毒を盛られたことに、想像以上に深い精神的なショックを受けているようだった。

「マリカさんの命が脅かされるようなことがあれば、クライアントであるお父様には報告させていただきます。今後の対策を立てねばなりません。大丈夫です、お父様はマリカさんの味方であると、うちの父から聞いています」

 ナイトは不安がるマリカを穏やかに見つめ返すが、マリカの表情は暗いものだった。

「やめて。お父さまに言ったところで、あの人はお継母様を疑わない。私が嘘を言って自作自演している可能性もあると、今までもお父さまにはそう言われてきたの。もしもお父様が私の言葉を信じてくれたとしても、お継母様に、私がここまで憎まれていると知ったら……お父様が家から追い出すのは、お継母様じゃなくて、私の方だわ……」

 ナイトは、実の父を信じることが出来ないマリカの絶望の深さに、言葉を失った。父娘関係がそれほどまでにこじれているとは思い至らなかった。

「マリカさん、それならば、なぜ、お父様は多額の警備費用をかけてマリカさんを守ろうとするのでしょうか。確実に信頼できる僕の父かその息子である僕にならば、マリカさんを任せられるとおっしゃったのですよ。マリカさんをきっと大切に思われて……」

「それは本当に、私を守るためかしら?さっきのお継母様のやり口をあなたも見ていたわよね?お継母様はお継母様で、ああやって、自分のしたことを棚に上げて、逆に私がお継母様の命を狙っていると、周りの人やお父様に言っているのよ。さて、お父様が私に四六時中BGをつけてくださるのは、私の身を守るためかしら?それとも、私を監視して、お継母様を守るためかしら?」

 ナイトの言葉を遮って自嘲するマリカは、いつもの、控えめに言葉を選びながら発言する彼女とは違っていた。

「お父様はかれこれ一年は、部屋からも出てこないし、私と食事もとらないし、顔を合わせて話すことすらないの。私は実の娘なのに避けられているのよ。私がお継母様を怖がっているのに、お継母様と私の二人だけにするのよ。大切に思われているとは思えない」

「マリカさん……」

 それ以上何も言わずに、ナイトはマリカを抱き寄せた。

 ようやくマリカはハッとして、

「ごめんなさい。取り乱してしまって。お継母様もお父様も信じることが出来ないの。だけど、ナイト、あなたのことは信じているわ。私、本音を言ったのは初めてなの。本心を話せるのはあなただけなの」

 呟くように言ってから、マリカは慌てたように目を逸らして、ナイトから離れた。


<目が合わなくとも、どうやら嫌われていたわけではないようだ>

 マリカの本音を聞いて、“ずっとマリカのそばにいて“そう言った小学生の頃から変わっていない寂しがり屋の彼女に、ナイトは懐かしさを感じていた。

「今日も君の日常は守られました。明日も優秀なこの僕が守ります」

 自信満々にどやるナイトを見て、マリカはようやくクスリと笑った。



「もしもし、ナイトか?どうだ、仕事は順調か」

 父であり上司である秀からの電話に、ナイトは隣の部屋にいるマリカに聞こえぬように声をひそめて、今日の出来事を報告した。

「父さん、僕は自分の至らなさを痛感しました。今回の事件でおそろしいのは、その後でした。桐子様とその秘書の男が猛毒果実を持ってきたと証言していた使用人の金子ですが、昼間、カフェの上の階からプランターを落とした女性に声が似ていました。顔は全く違いましたので、変装なのかを確かめようとして拘束し、もう一度話を聞こうとしましたが、マリカさんを自室に送り届けた後にキッチンに戻ると、その者が消えていたのです。証拠品の果実も、僕が処分する前に跡形もなく消えていました。僕が、キッチンを離れた15分間のうちに、今日の毒林檎事件は、何もなかったことになっていました。マリカさんのお父様が、マリカさんの言葉を信じないというのも無理のないことかもしれません。僕も、何も証拠がないので、報告のしようがありません。父さん、マリカさんが命を狙われているというのは事実ですが、今日の手際の良さを見ると、相手は複数人のようです。何か大きな組織が動いているのかもしれません。僕一人では彼女を守り切れる自信がありません」

 ナイトは、継母桐子の背後に控える影の男を思い浮かべていた。

「……大きな組織、か。わかった。こちらでも調べてみよう。それから、サポート体制を強化するように考える。ナイトよ、聞くがいい。マリカさんの父、倉野宗助氏は重病である。自分の余命が短いことを知られないように、娘にも妻にも衰えた姿を見せないよう、執事以外には知らせず、部屋にこもっているのだ。わたしとおまえが、仕事のために入室することは許可されているから、火急の時は、宗助氏を頼れ。……これだけは確かなことだが、宗助氏は、一人娘のマリカさんの身を誰よりも案じている。クライアントからの切なる願いだ。マリカさんをどうか頼む」

「わかりました。宗助氏が余命宣告されているというのならば、桐子さんがマリカさんを襲う目的は、やはり、倉野家の財産を巡るものでしょうか」

「財産か。確かに倉野家の莫大な財産は、宗助氏が亡くなれば、桐子さんとマリカさんが二分の一ずつ相続することになる。その前にマリカさんの身に何かあれば、桐子さんがすべてを相続することになるだろう」

「だとすれば、宗助さんは隠しているつもりでも、桐子さんは、夫が重病であることを把握しているということですね」

「病状については確実に把握しているはずだ。宗助氏の在宅医療サポートに当たっているのは、宗助氏の病院のスタッフであり、桐子さんはその病院の理事長として、いつでもカルテを見られる状況にあるのだからな」

「ですが、父さん、宗助さんが娘の身を案じるのならば、なぜ、桐子様と秘書の男を罰せずにそのままにしているのでしょうか」

「その質問の答えは、さっき君自身が言った通りだ」

 ナイトはハッとした。

「証拠がないから、事件そのものがなかったかのようになってしまうから、疑いの域を出ない、罰することが出来ない、ですね」

「その通りだ。今日の事件も、君の報告を客観的に聞いただけでは、カフェでプランターを落としたのは民間人で、毒林檎を間違えて送ったのは公佳だと思える。桐子さんが関わっていると言うのは、心証だけであって証拠がない。物的証拠どころか、状況証拠にもならないほどの疑いレベルなのだ。桐子さんがやったと言う事実はどこにもない。本来、依頼人である宗助氏の妻を疑ってはならないのだ。それでも彼女を疑わしく思い、その罪を暴きたいのであれば、証拠を掴め」

「わかりました。ところで、父さんの方は最近はどうですか?」

「わたしは、腰を悪くしたから、BGの仕事はできないからね。依頼人に体力ではなく知恵を使ってサポートする案件を主に引き受けているよ。今は、部屋に引きこもっている引きこもり男を部屋の外に連れ出すという仕事をしているよ」

「そうですか。お気をつけて……」


「ねえ、ナイト、起きてる?」

 その時、ノックと共に、ドアの外からマリカの声がした。

 電話を切って、ナイトはドアを開けた。

「どうしましたか。眠れませんか」

「公佳と連絡が取れたの。確かに公佳は私に林檎を送ったそうよ。だけど、いつものカフェのロゴがある新品の段ボールで送ったって言ってた。古いボロボロの段ボールじゃないって。誰かが、途中で箱ごと毒林檎とすり替えたんだわ。多分……あの影の男が」

「わかりました。今父さんと話しましたが、マリカさんを守るためには、証拠をそろえて相手を断罪する必要があります。一緒に協力していきましょう」

「うん、ありがとう」

 継母に立ち向かうのは、勇気のいることだったが、一人ではないと思えてマリカは嬉しくなった。

「もし心配でしたら、明日の食事から、マリカさんの召し上がるものはすべて僕が味見しましょうか」

「そ、そこまでしなくても大丈夫よ」



 一方、電話を切った後、ナイトの父の秀は、こめかみに指をあてて索考していた。

「大きな組織か。まさかとは思うが……」

<天聖事件……>

 SPをしていた警視庁を退職する原因となったあの事件を、秀は思い起こしていた。

 ドサドサドサ・・・まるで、荷物が落ちるような音の響いた、あの悪夢のような一分間の出来事は、今でも秀の脳裏に昨日のように蘇るのだった。


(第2話につづく)

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