三日月のなぞかけ

第1話

「彼女」は言った。

赤い唇が横になった三日月のように美しいラインを作る。

私たちは、まだ「ゲームをしている」という感覚があるのよ、と。

あるいは、と言って、一度言葉を切り、黄金色のシャンパンを紅い三日月に注ぎ入れた。

グラスを置いて、小さく息を吐いた唇の隙間から舌先が唇の内側をわずかに舐めたような、気がした。

「していない、と、思い込んでいるか、ね」

くすくすと、いたずらっぽく笑う彼女の右手が、口の前で軽く握り込まれ、緩やかなカーブを描く。

それは、「?」にも見えなくもない。

謎かけなのだろうか、と、思う。

少なくとも、僕には解けそうにない。

「降参。君の話は、やっぱり僕には理解できない」

僕が両手を上げると、彼女は何かを小さくささやいた。

「え?」

僕の問いかけをスルーして、彼女はテーブルの伝票を取り上げると、ひらひらと振りながら席を立った。

彼女の最後の言葉は、結局確認できなかった。


何故、彼女を食事に誘ったのか、自分でもよく分からなかった。

彼女は出会ったころからどこか謎めいていて、不思議な言葉の使い方をする女性だった。

ありきたりの慰めの言葉も聞き飽きて、それでもどこかしら現実を認めきれなくて、何もかもが腑に落ちない。

そんな状況に置かれているからかもしれない。


彼女ならば、他の誰からももらえないような、特別な何かをもらえそうな、そんな気がしたのかもしれない。


僕は冬晴れの夜空へ、白い息を吐いた。

どこまでも続くような、真っ黒い空。

それは、これからの自分の人生のようにも思えた。

どこまで行っても闇しかない。


(そんな人生なら、いっそ、)


そんな気分にもなる。

僕は、うつむいて苦笑いした。


と、突然、僕の体を強い光が照らした。

何も見えないほどの、強い光。

そして、強い衝撃と、激痛。


その、光が車のヘッドライトであったことに気づくまでに数分要した。

自分が交通事故にあったのだと憶測した。

確証など、持てるわけもない。

その理由もない。

ただ、激痛の中で足掻くことしかできない。


「ゲームをしているという感覚があるのよ」


彼女の声が急に蘇ってきた。


皮肉なものだ。

人生を常闇と見て、いっそその幕引きを自分で、と、思っていたのは本当だ。

だが、自分が「死(ゲームオーバー)」の衝撃に近づいてみて、やっとわかる。

「自死(リセット)」がこれほど容易ならざるものかと。

(ゲーム(フィクション)と大きく違うのは)

リセットはできても、リロードはできないということだ。

この、神が仕組んだ壮大なゲームは、多くのプレイヤーがオンラインでつながるRPGのようなもので、リセットしてそのつながりは断てても「やり直し」はできない。


「あるいは」

真っ赤な三日月が見える。


ー そう、思い込まされているだけなのだとしたら? ー


これは、本当に彼女の声だろうか。


声は、そんな僕の疑問をよそに、とうとうと語り始めた。

激痛はいつの間にか止んだが、僕は体を動かすことが出来なかった。

僕にできるのは、その声に耳を澄ませることだけだった。

それは、まるで洗脳教育のマシンのように、抵抗できない僕に語り掛けてくる。


この世のすべては「誰か」の都合でできていて、それに障害となるもの ー その時々によって ー が、悪とされる。

集合無意識や、同調圧力によってそれはあたかも絶対不可侵の真理のように行使される。

善悪(よいわるい)は常にその言葉の前に「誰かにとって都合が」という言葉が隠されている。

つまり、本来、この世には、


善悪も秩序も存在しない。


今度は、自分の内側から声がした。


ような気がした。


声は続ける。

けれど、その声はさっきの声とはまた違う声のようにも聞こえた。


誰もが目を閉じて、心を閉じて、声を潜めて、隠して秘めて、生きている。

それはなぜか。


そうしないと、気づいてしまうから。


「すでにこの世を形作るすべての「記号(ソース)」は崩壊していて、その場しのぎのハリボテの中で意味のない時を過ごしているに過ぎない」

と、いう、事実に気づいてしまうから。


どんな高尚なこともない。

いかな叡智を得ても、人間など獣の一種に過ぎない。

道理も、仁徳も存在しない。

あるのは。


電源を落とした途端、闇に消える、どこまでも虚ろで儚い一瞬の、



「お帰りなさい」

僕ははっとして顔をあげた。

どこをどう歩いて、会社から帰ったのか、全く覚えていない。

「どうかしたの?」

妻、が、不思議そうな顔をして覗き込んでくる。

(僕は)

結婚していただろうか。

会社勤めをしていただろうか。

「いや、何でも、」

僕が言うと、妻は、おかしな人、と、言って笑った。

口元に添えられた手が、ゆるく曲線を描き、「?」マークを作っている。

そんな、彼女の背後に、登ってきたばかりの、三日月。


「あるいは、そう、思い込まされているだけ、なのだとしたら?」


頭の中で、誰かの声がする。


僕はごくりと、唾を飲み込んだ。


「Reset or continue?」





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三日月のなぞかけ @reimitsuki

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