EP.04――絶望――


 一


 誰かに呼ばれた気がして光司はゆっくりと顔を上げた。

 白いワンピースを着たアイスブルーの瞳の少女がジッと見下ろしている。

(……チ、ヨノ?)

 その少女が幼い頃の千代乃のような気がして、光司は呟くが、声にはなっていなかった。目の前のアイスブルーの瞳が何度か瞬くと小さな口がなにかを言っていた。それを声とは感じなかったが光司は返事を返した。その返したはずの自分自身の声も光司には聞こえなかった。

 千代乃の幼くて真白な手のひらが見えた。自分の頭を撫でようとしてくれていると光司は感じた。


 千代乃の小さな手のひらは何故だか震えていた。




「――っッッ」

 凍るように冷たい水がぶつけられる衝撃と身体中に走る痛みに光司は強制的に意識を戻された。

「……

 朦朧とした意識とまだ霞む視界の中で光司はずぶ濡れた頭を掴まれ無理やりに顔を上げさせられた。目の前には浅黒い肌に蛇が首に絡みつくような刺青タトゥーを彫り込んだ上半身裸の禿頭はくとうの中年が椅子に深く腰掛け気怠げな姿で携帯デバイスをイジっている姿が見えた。男は腰掛けた椅子を器用に揺らしながら濁った眼を光司の焦点の合っていない眼に向けるとまるで友達のような気安い声を響かせて、光司に話しかけてきた。

「よくねぇよなあ、外街クレータにこんな高価な玩具オモチャを持ってくるのは。なぁ?」

 男が指叩く携帯デバイスが自分の物だと気づくのに時間はかからなかったが、朦朧とした意識の中では応えを返すこともできず、男の顔をただ眺めることしかできなかった。

「しかし、本人さまがいると生体認証てのは楽チンでいいよな。ちょっと値の張る機械で認証パスワードを突破しちまえば情報なんて裸も同然だよな。えーと、多神矢光司コウシ・タカミヤて読むのか? このトーキョーの漢字カンジてのは、なぁおい」

 男は構わずに言葉を続け口端を緩く上げながら、光司が気絶している間に生体認証とパスワードを突破クリアし、まるでゲームでもするかのように携帯デバイスの中身を開示している最中だと伝える。光司の顔はまだ青く、唇は寒くて震えるだけだ。事の重大さに気づくには今の現状は頭が理解しようとはしてくれない。

「テメェ「セオドア」の所長アニキが聞いてるってんだよッ」

 また強制的に顔を引き上げられる。シビレを切らせた悪漢のひとりが凄みをつけて上から睨みつけてくる。

(セオド、あ?)

 痛みと共にその名前が頭の中でゆっくりと回ってゆく。知っている名前。スクラップ集積所のピエール所長を撃ち殺した。悪漢供のボスの名前。

「よさねえか、シティボーイに悪い育ちが知られちまうぞ」

 目の前の男が半笑いな反応を示す。この男がセオドアであることは間違いない。半笑いな中で見下ろす濁り眼の奥に酷く冷たい光を感じる男だと光司の本能は怯えを示し、身体が震えだした。


(外街の人間は、こんなやつらばかりだって、忘れて、俺はたまたま、ジェイムズに会えて……ジェイ、むズ?)


 怯える感情に、鈍い頭が逃避の思考をしだす光司の頭にたったひとりの外街の友人の顔がハッキリと思い出される。重油まみれの地面に転げ動かなくなっているジェイムズの姿が。

「ジェイムズ、は、どうし、た、だよ、無事なのか?」

 恐れで覚束ない口の動きで、友人の無事を心配する光司の言葉にセオドアは一瞬、片眉をあげて唇を噛んで静かに声を殺して身体を震わせた。

 セオドアのその顔はおかしくてたまらないといった笑顔を見せていた。

「お友だちの心配とはお涙ぐましいねシティボーイ。けどよ、そんなことは今どうでも言い分け。それよりも、これこれ」

 セオドアは恐れを殺して絞り出したジェイムズの無事を案ずる光司の言葉なぞ心底どうでもいいと言う風に携帯デバイスを光司の顔に近づけた。そこに映る画像に朧気な眼と乾いた唇が震えた。


 そこに映っているのは「」だ。高校入学の記念にお互いの制服姿を撮りあった大切な想い出の一枚が映し出されている。清まし顔の中に少し照れの入った僅かな微笑みと光司は目を合わせる。


「この子はガールフレンドかい? いい表情をしているなぁ。アジアンな黒髪は気に入らねえが綺麗なアイスブルーの瞳は好みだねぇ」

 想い出を土足で踏み躙るセオドアの舐めつくような眼が大切な幼馴染みに向けられ、ゆっくり、もう一度、光司の顔に狂喜的な眼が向けられセオドアの口端くちはが大きく上がった。

「この娘はたまらなくそそるねぇ。どうだ、俺に寄越せば大盤振る舞い。お友達の命も一緒におまえを開放してやるよ」

 セオドアの身勝手な歪んだ要求は底ぐらい穴の奥のような淀んだ眼に、汚れた欲情に塗れた光を見れば本気だと理解できる。千代乃を差し出せばジェイムズと自分の命は助かる。だが、大切な人チヨノがどんな目にあわされるか、想像もしたくはない。


 光司の答えは腹の底からの湧き上がる怒りの感情だけで充分だった。


「ぁ?……ッ」

 セオドアは頬にかかった濡れた感触を手で拭った。その指先には血の混じった唾液の後が見えた。

「クソヤロウ

 光司はもう一度、口に溜まった唾と共に要求を吐き捨てた。千代乃を天秤にかける気は毛頭も無いという確固たる答えだ。

「そうかい」

 セオドアは表情なく光司の顔を平手で打ち捨てた。口の中が切れ、新しい鉄の味を覚える間もなく拳が顔を撃ちつける。

「ガールフレンドのキスマークじゃ足んねえだろ。ゲンコのキスマークに顔中上書きしてやんよ。ああっッ」

 セオドアの怒りに任せた拳の撃ちつけに光司の鼻がへし折れ、大量の血が床へと垂れ流された。痛みが痛みともわからなくなる程の永遠とも感じる地獄のような時間が血の滲む視界と共に溶けていった。





 動かなくなった光司を無表情に眺めながらセオドアは砕け痛めた血染めの腕を気怠げに下げると顔を恐怖に引きつかせた大男に命令をぶつけた。

「こいつのお仲間は今日中にハジいとけ、ガールフレンドもシティから取ってこい」

「ヘ、ヘイッ」

 外街の人間ジェイムズをハジく事は簡単な事だが、メインシティに侵入し住人を拐うなぞ外街でも禁忌タブーなことだと悪漢な大男の身体にも常識として刻まれている。だが、目の前の潰れたトマトをぶちまけたような血海の光景をまざまざと見せられては断る応えなぞ大男には選択できない。どうせこの転げた死体と変わらなくなった男もシティの住人だ。行方不明な人間がひとりから二人に変わろうと違いはないだろうと身勝手な考えで非常識を肯定し薄ら笑いに頷いた。

「さて、こいつは、そうだな」

 僅かではあるがまだ生きようとする意識はみえるが、このまま放って置いても死んでしまうだろう光司を眺めながら。セオドアは口端を歪みあげて自分の顔と拳を汚した愚か者への最上の制裁を決めた。


「おい、久かたの境界線ライン超えだ。準備しろ、ちょうどいいエサもできたことだしなぁ」


 潰れた耳に僅かに聞こえた言葉の意味を光司は理解できなかった。









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