EP.01――日常――

 一


「おはよう」

 リビングに入るとパジャマ姿の少年は返っては来ないとわかっている朝の挨拶ルーティンをつぶやく。ソファの前に座りテーブルの上のタブレット端末に触れると画面に身形を小綺麗にした妙齢な女性の顔が映し出され『おはよう光司コウシ』と笑みを溢していた。

「母さん。昨日は帰ってきてたのか」

 映し出される背景がいま自分が座っているソファの前である事を確認すると光司少年は、冷たいはずのリビングにカーテンが開け放たれ部屋が暖くなっている理由に納得し、まだ整えてセットしていない髪をクシャリと掻いた。家に親がいないことに慣れた日常に、こうして母が家に帰ってきたという現実が妙に違和感と感じる。画面越しに笑う母の額を光司は意識なく叩いた。

『もっとゆっくりしたかったんだけど、仕事でパリ地区に行かなければいけなくなったから』

「パリ地区、今回はちょっと遠目だね。一ヶ月てところ?」

 画面越しの母とまるで会話でもするように独り言を言いながら、光司は動画を止めぬままキッチンへと立ち上がると冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注ぎながらリビングに戻る。

『それじゃ、勉強がんばってね。愛してるわ』

 戻った頃には母からの一方的な短い会話は終わっていた。いつも通りな取り留めのない言葉だろうと光司は気にせず、牛乳を一口飲んだ。

「勉強ねぇ、それもいいかもな」

 牛乳跡のついた白い口髭を親指で拭うと光司は携帯を手早く操作するとどこかへと電話を掛けた。

「あぁ俺。今日は学校フケってそっち行くわ。迎えはいいよ、こっちは東京なんだ

 光司は意味深な電話を終えると、牛乳を喉を鳴らして飲みきると身支度を整えるために洗面所に向かった。




 二


 身支度を整えた光司が玄関ドアを開けると景色なぞは見えない内廊下特有の閉鎖的な圧迫を感じる。特にお互いを干渉しないこのマンションの住民を現しているようだ。光司にとって子供の頃から慣れた景色であるのでなんの感情もなく冷たい鍵を差し込み玄関を施錠し、エレベーターへと向かう。

「ッッ」

 エレベーターの前には紺色のミッション系学生服を着た少女が立っていた。光司はその姿を見た途端に一瞬、踵を返そうとしてスニーカーを鳴らした。少女の垂れ流した不揃いで短めな髪型アシンメトリーショートの前髪隙間から覗く吊り目がちな眼が光司を捕らえ、大人びた顔をつまらなげに向けてくる。

「乗るんじゃないの?」

 その大人びた顔とは裏腹な可憐なつぶやきをする少女の白い指先は着いたばかりのエレベーターを指していた。

「俺なんかが乗っても?」

 このまま踵を返すのも不自然極まりないと光司はわざと断られるような腹立たしさを煽る言い回しをしてみせたが

「意味わからないんだけど」

 少女は表情を変えずに光司の方に近づくと手を引っぱりエレベーターの中へと引き入れた。

千代乃チヨノやっぱッ」

 思わず素の自分を晒して扉が閉まる前に逃げようとしたが、吊り目がちな瞳をジッと向けたまま光司の前を塞ぐように立つと降りと一階のボタンに素早く指先を這わせて扉を閉めた。

「やっぱ、なに?」

 幼なじみ「武藤橋ムトウハシ 千代乃チヨノ」は頭ひとつ分の身長差で鋭く強い眼で光司を見上げていた。

「いや、さぁね独り言てやつ?」

 発進し始めたエレベーターという密室から逃れる術は無いと観念した光司は飄々とした自分を演じながら壁際へと背を預けて強い視線から少しでも逃れようと悪あがきを働くが千代乃は視線をらさずに目の前に立ってくる。逃さぬように距離を詰められたと光司は感じた。

「その格好、学校に行くようには見えないけど?」

 光司のクラッシュダメージなデニムジーンズとレザージャケットの不良めいたファッションを咎める千代乃の声に苛立った舌をわざとらしく打ってみせるが、彼女は物怖じなぞせず追求する。

「また外街クレータに行くつもり?」

「それが? どこに行くも人の自由てもんでしょ?」

「あそこは光司が行ってい――」

「――相変わらずウルサイよなッ」

 いい加減にしつこいと光司は千代乃の肩を掴み壁際に押し付けるようにもう片方の手のひらで威圧的に壁を叩いた。

 あからさまな脅しの姿勢、肩を掴まれ一瞬ではあるが千代乃の華奢な肩は震えていた。眼の奥に怯えの色が見えたような気がして、躊躇いの心がもたげたが、光司は最早止められないと矢継ぎ早に酷く歪んだ言葉を続けてみせた。

「気づいてるか知らないけど密室に男と二人きりだってわかる? いや、そっちが連れ込んだっけか。なに、襲われたいわけ?」

 これでもう近づいて来なければいいと勝手に傷ついた心の中で呟きながら大袈裟に演技めいた言葉ポーズをみせた。このまま怯えて自分の事を嫌いになって遠ざかってしまえばいいとさえ光司は思った。

「似合わない」

 だが、千代乃は光司の望む怯えではなく、もっと激しく前に出る声をぶつけてきた。

「虚勢ばっかりな強いだけの言葉なんて二度と言わないでッ」

 千代乃は光司の胸板を強く押し、真っ直ぐと鋭さを増してきつく睨む。見上げる潤みの強まったアイスブルーの瞳の色は喉元と心に氷の刃を突きつけられるようだった。

「知るかよッ」

 それでも虚勢的な声を張り、タイミングがよいか悪いか開かれたエレベーターの扉に密室の意味合いはなくなった。光司は耐えられなくなっていた空気の重さから肺に溜め込んだ息を一気に吐き出すように一階へと到着したエレベーターから逃げ出した。

「待ちなさいっ」

 だが、まだ話は終わってはいないと千代乃の声が光司の背中を穿つように追いかけてきた。



 三


「よう、早かったじゃねえのコウシ。慌ててどうしたよ」

 逃げ出すようにマンションから転げ出てきた光司の前に飄々とした白人系の青年が馴れ馴れしく声を掛けてきた。

「っ、ジェイムズおまえ迎えはいいって言ったろっ」

 慌てた様子の光司にジェイムズと呼ばれた青年は痩せぎすな顔を笑わせる。

「いやな、俺も用があってトーキョーに来てたのよ。それをオマエ、通話を切っちまうからさ、酷いよ」

「いやそんな立ち話はいらねぇ早くここから――」

「――どこに行くつもりだって言うのッ」

 慌てる光司に首を傾げるジェイムズ、光司のすぐ後ろで可憐な声が響く、バツの悪い顔になった光司の顔を見てジェイムズは口端を大きくあげて光司の身体越しにお気に入りな彼女へと軽薄に声を掛けた。

「やぁ、チヨノ。いい朝だねぇ」

「…… ッっ

 心底な嫌悪を宿した小さな声が返ってくるがジェイムズは喜々と前歯を突きだす独特な笑いでご満悦な様子だ。

「おい、バカな顔をしてないで行くぞジェイムズ」

 光司は一刻も早くここから離れたいという一心でジェイムズの趣味の悪いバイソンカラーなガラシャツを掴み引っぱてゆく。

「おいおい、連れないことすんなよ。わかった、わあかったって。悪いねチヨノ、少しばかりボーイフレンドは独り占めさせてもらうよッ」

 聞く耳持たずな光司に引っ張られながらジェイムズは千代乃に軽薄なウインクをした。

「フゥ、あの突き刺さるようなクールな瞳に胸を穿かれるてのはたまらなくご褒美だねぇ」

 アイスブルーの瞳に強く睨まれたジェイムズは気持ち悪く身動みじろぐ。この変態なジェイムズにため息を漏らしながら光司は千代乃の眼から彼を遠ざけようと、駅へと足を速めた。




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