第63話 中ノ瀬航路あやかしロックフェス! 〈六〉

 東京湾内の無線交信を妨害する歌声の怪異・〈メルルファ〉が発生してから、およそ1週間が過ぎた頃。東京マーチスのwebサイトに「東京湾内の怪異発生にかかる第三管区海上保安本部の対応について」と題した文書が掲載され、関係者たちの間で一時騒然となった。

 怪異に対して楽器演奏で対抗するという、普通の人間はもちろんのこと浄霊師や呪術師などの本職の人間から見ても常識外れなその内容に不審を感じる者は少なくなく、発表直後は九鬼も村上も窓口対応に追われる羽目になった。

 もっとも、窓口への問い合わせ件数は、当初想定されていたよりも幾分早く落ち着きを見せることとなった。その大きな要因のひとつに、朝霧まりかの存在がある。

 海事代理士・朝霧まりかが海洋怪異対策室に協力する形で歌声の怪異に挑むという情報は、かつて事務所に〈海異〉案件の解決を依頼した今井氏や松前氏を通じて、広く関係者たちに知られることとなった。本職の呪術師にも引けを取らない朝霧まりかの能力者としての実力もさることながら、まりかの父・朝霧利雄の代から培われてきた朝霧海事法務事務所への信頼も相まって、作戦に対する不満や疑念の声は次第に下火となっていった。

 こうして、本来業務のかたわら準備は着々と進められ、残るは大雄山に赴いた楓の帰還を待つのみとなったのである。




 ※ ※ ※




 作戦決行を明後日みょうごにちに控えた日の昼休み、カナと共に中華街でランチをした帰りのこと。すぐ目の前に氷川丸が浮かぶ山下公園の遊歩道にて、まりかは小さな人魚から衝撃の事実を聞かされていた。

「どうして、むっちゃんが知ってるのよ!?」

「それはダナー」

 まりかが「むっちゃん」と呼ぶ小さな人魚は、空中でクルクルと宙返りをしながら無邪気な笑顔で答える。

アネさんに教えてもらったからサー!」

「姐さんって…………カナ! どういう事よ!?」

「むむ?」

 カナが、キョトンと首を傾げた。本日のカナは、七分丈のレギンスとショート丈のデニムパンツ、フードにヒヨコの顔が描かれたパーカーという如何にも女児が好みそうな可愛らしい服を着ているが、その可愛らしい服に包まれた中身が老獪そのものである事を、まりかは片時たりとも忘れたことは無い。

「どうも何も…………まりかが東京湾のド真ん中でバンド演奏をするから、皆で見物に行ってみてはと勧めただけじゃが?」

「……そう」

 まりかはそれ以上追求することはせず、からりとした秋晴れの空を仰ぎ見ると、カナを口止めしなかった己の詰めの甘さを自省した。

 カナは、基本的には横浜港のあやかしたちとは一定の距離を置いて過ごしている。曰く、「あんな雑魚共と関わり合ったら、こっちの頭まで雑魚化するわい!」との事だったが、まりかの目には、カナが彼らを疎んじているというよりも、ある種の遠慮をしているように映った。そのため、カナが小さな妖たちに対して何かしらの積極的な働きかけをしようなどとは想像もしていなかったのだ。

「マリカー! アタシも見に行ってやるぞー!」

「ボクも!」

「ワタシも!」

「ドラムって、どんな音がするのかなあ?」

 そんなまりかの胸中など露知らず、欄干の向こう側の海面では、様々な姿形をした人魚たちがバシャバシャと水飛沫を撒き散らしながら泳ぎ回っている。これだけ大勢の人魚たちに知られているとなれば、中ノ瀬航路における船上バンド演奏作戦の話は、既にしかるべき存在にまで届いているだろうと思われた。

 そして、その予想はすぐに裏付けられた。

「よう、まりかじゃねえか」

「やあ、まりか」

「北斗さん! それに、すばるさんも!」

 まりかは表情を明るくすると、子供の頃からの馴染みであるふたりの付喪神の元に駆け寄って挨拶を交わした。

「おふたりが、こんなに日の高いうちから街に出るなんて珍しいですね。何かあったのですか?」

 古い歴史を持つ防波堤灯台の付喪神である北斗と昴は、横浜港の龍神・蘇芳から沿岸域の監視と警戒を任されている。そのため、時折こうして街に繰り出している事は、まりかも幼い頃より知るところである。とはいえそれは、基本的には怪異や妖が活性化する夜間に行われているはずだった。

「それがよ、おっさんから見回りを強化しろっていうお達しが先月末くらいにあったんだよ」

 片手にコンビニ袋を提げた北斗が、いかにも面倒臭そうに顔をしかめた。ちなみに、北斗も昴もいつもの着流しや書生風の姿ではなく、それぞれTシャツとデニムパンツ、ポロシャツとチノパンといった街歩き用の服装になっている。

「んで、理由を聞いたらよ、『なんかそういう電波を受信したから』とか言いやがるんだぜ? 俺に言わせれば、あのおっさん自体が電波だっつーの!」

「止めなよ、北斗」

「うーむ。それは何というか、アレじゃのう」

 北斗の悪口あっこうたしなめようとした昴だったが、それより先に、我関せずといった態度で聞き耳を立てていたカナが北斗に同調してきた。

 小さな顎に手を当てて眉間に皺を寄せながら、常々抱いていた疑問を口にする。 

「というか、そもそも龍神がおかの様子を気にする事自体がおかしいと思うんじゃが…………やはり、あれは阿呆なのではないのか?」

「だろ!? 誰だってそう思うよな!!」

 カナの言葉に、北斗が我が意を得たりと大きく頷いた。

「まったく……蘇芳様に聞かれたって知らないからね」

 カナとすっかり意気投合して蘇芳の話で盛り上がる片割れを尻目に、昴はやれやれと溜め息をつく。

「あの、昴さん」

 この際なので、まりかは船上バンド演奏作戦について昴たちに話してしまう事にした。

「実は、東京湾の真ん中の中ノ瀬航路ってところに奇妙な怪異が出現したのですが――」

 そう前置きすると、現在進行形で起きている〈メルルファ〉による無線交信妨害事件や、その解決のために海異対に協力する事に決めた経緯などを簡単に説明した。

「そっかあ……」

 昴と、途中から真剣に話を聞いていた北斗は、まりかがを生きる現世の人間たちとの関係性にまた一歩踏み出したという事実に、様々な感情が入り混じった複雑な表情をする。しかし、まりかの話が終わると、今度は申し訳なさそうな顔になって作戦の話は蘇芳から聞いて知っていたと打ち明けた。

「あ、やっぱり龍宮城にまで話は伝わってたんですね……」

 脱力するまりかに、昴が苦笑いしながら最近の龍宮城の様子などを話す。

「もう、すっごく張り切っててさ。『絶対にまりかの晴れ舞台を見に行くんだ!』って、ずっとその話ばっかりしてるって。あと、潮路さんと黒瀬さんも連れていくみたいだよ」

「あはは……」

「あのおっさん、忌々しいったらねえっつうの」

 北斗が、腹立たしいにも程があるといった顔で新たな愚痴を零してきた。

「なーにが、『本体から遠く離れられないお前たちの分まで、まりかの活躍っぷりを堪能してきてやるからな!』だよ! あの勝ち誇ったツラ、何度思い出してもムカつくったらありゃしねえぜ」

「北斗、もうそれくらいにしてよね」

 昴が、語気を強めて北斗を制した。それから、温和な笑みを浮かべると、まりかの懸念を払拭すべく自身の見解を語る。

「中ノ瀬航路は蘇芳様の管轄外だし、遠出には制限を設けた分身体を使うはずだから、まりかが自身の技と力で困難を乗り越えるのを神霊力で台無しにするような心配は無いと思う。ただ、他の龍神の動向を監視するとか、そのくらいの事はしてくれるんじゃないかな」

「……!」

 昴の話を受け、まりかの脳裏にとある可能性が閃いた。

(まさか、噂が蘇芳様の耳に入る事を見越して、小さな妖たちに作戦の話をしたの?)

 まりかは、目だけを動かしてカナを盗み見た。まりかと昴の会話を聞いているのかいないのか、カナは餌を探して地面を歩き回る鳩たちを大して面白くもなさそうな顔で眺めている。

(やっぱり、私の事を心配してくれてるのね)

 しかし、それを面と向かって言ったところで、上手いことはぐらかされて終わりだろう。

 なので、そのまま会話の流れに乗って別の角度からカナに問いかけてみる事にする。

「ねえ、カナ。蘇芳様が演奏を見に来てくれるらしいけど、カナはどうする?」

「!!」

 ヒヨコのパーカーに覆われた華奢な肩が、一瞬だけ小さく跳ねた。

「そ……」

 秋の日差しを受けた金色こんじきの瞳をまごつくように揺らした後、おもてを上げてキッとまりかを見据える。

「そんなの、見に行くに決まっとるじゃろうが!」 

 少し怒ったようにそう言うと、ぷくりと頬を膨らませてそっぽを向いたのだった。




 ※ ※ ※




 時を同じくして、昼休み中の海洋怪異対策室では、九鬼が内線電話の受話器に向かって苛立ちの声を上げていた。

「――だから、応援は必要無いと何度も言ってるだろう! 切るぞ!」

 そう言い放つと、受話器をガチャンと戻して長々と息を吐いた。

「神崎さん、室長の事をいたく気に入ってますからねえ」

 昼食を終えて魔術の本を捲っていた村上が、さも愉快そうな眼差しを九鬼に送る。

「俺はいい迷惑だっ!」

 九鬼はうんざりしたように首を振ると、席を立ってどこぞへと去ってしまった。

「……あの室長が、あそこまで感情を表に出すなんて珍しいですね」

 渡辺が、弁当を食べる手を休めて明に話しかけてきた。渡辺のデスクは別の島にあるのだが、何故か渡辺は、昼食のたびにわざわざ明の隣に移動してくる。

「まあ、そうだな」

 弁当の唐揚げを口に運びながら、明は適当に相槌を打って会話を流そうとした。しかし、機微に疎い渡辺が明のすげない態度に気が付くはずもなく、弁当を食べるのも忘れて夢中で話し続ける。

「神崎さんって、一管区の海異対の室長でしたよね。あの『元吸血鬼の磯女』っていう。身長がかなり高くて力も強くて、おまけに『ゾッとするような美人』だって専らの評判で」

「でも、室長はその美人が苦手だからなあ」

「何ィ!?」

 梗子が菓子パンを頬張りながら放った衝撃のひと言に、渡辺の手からポロリと箸が落ちた。

「美人が苦手な男がこの世に存在するのですかあ!?」

「そりゃあ、いるんじゃねえの」

 心底どうでも良いと思いながら、明は顔も上げずに黙々と卵焼きを口に突っ込む。すると、部下たちのやり取りを微笑ましく眺めていた村上がやんわりと会話に割って入ってきた。

「一応、真面目な話をしておくとね。他管区から応援を呼んで早期解決を図ることも検討はしたんだよ」

 村上は、ローマ字で記名されたマグカップを机に置くと、少々困ったような顔で部下たちに説明する。

「ただ、今回の事案では幸いにも霊障系の被害は出てないし、こちらが晒す手札はできるだけ最小限に留めておきたいという室長の思惑もあって、応援を呼ぶのは無しにしたというわけなんだ」

「確かに、十一管区の赤嶺室長とか、それこそ神崎さんレベルの人が集結すれば、どんなヘンテコ奇天烈な怪異が来ようと力業ちからわざでどうにかしちまいそうですね」

 数年前まで十一管区、つまり沖縄で勤務していた梗子が、当時の記憶を思い出したのかしみじみと頷く。

(こっちに余裕があるってところを相手に見せつけようって魂胆なんだろうけど…………要するに、勢力を出し惜しみしてるんだよな)

 弁当を食べ終わって茶を啜りながら、明は海の安全よりも海異対の都合を優先させた九鬼に呆れた。

(石廊崎沖の件といい、他部署の人間が聞いたら何て思うか)

 とはいえ、あの時の九鬼の判断があったからこそ水晶との出会いを得られたという事実を踏まえると、明としては九鬼を非難するなどとても出来ない。

「……渡辺」

 そういう訳で明は、いかにも口の軽そうな後輩にきちんと釘を刺しておくことにしたのだった。

「今聞いた話は、海異対以外の人間には絶対に話すなよ」 

「心配御無用です! 僕、噂話するほど仲の良い知り合いが居ませんから!」

「うん、そうか……」

 明は弁当箱を片付けると、スマホを取り出して数時間前に受信した楓からのメールをもう一度開いた。 

 メールには、つい今朝方、大雄山での修行を終えたため、一旦自宅に戻ってから出勤する旨が書かれている。なお、このメールは、明だけではなく九鬼や村上、そして梗子も受け取っている。

(天狗の修行って、どのくらいの厳しさなんだろうな。あんまり酷い目に遭ってないと良いけど)

 明はスマホの画面を親指でスライドすると、今度は明だけに送られてきた2通目のメールを表示させた。

『うちは元気やから心配せんでええって、水晶に伝えてあげて』

 明はスマホを閉じて背もたれに背中を預けると、窓の外に広がる秋晴れの空に水晶の姿を探そうとする。

(……案外、とっくに榊原さんと合流して、一緒に防災基地こっちに向かってる最中だったりして)

 この3週間というもの、水晶は常に楓の無事を気にかけていた。メールを読んだ後も、己の目で見ないうちは安心出来ないとソワソワしきりだったのだ。

(昼休みが終わるまでまだ時間があるし、たまには迎えに行ってみるか)

 そう考えて席を立とうとした明だったが、ちょうどそこへ、水晶が動転した様子で飛び込んできた。

「あの、楓様が……!」

「ッ!」

 梗子が、血相を変えて立ち上がった。渡辺と一之瀬が、怪訝そうな目で梗子を見る。

 水晶は、明と梗子を見比べながらしばし逡巡していたが、結局は何も言わずに翼の先で廊下を示すに留めた。

「今、こちらへ……」

 昼休みののんびりとした雰囲気は、とっくに消え失せていた。明と梗子、村上は当然として、3人の挙動から異変を察知した渡辺と一之瀬も、息を殺して部屋の出入口を注視する。

 楓が姿を現したのは、それからほどなくしての事だった。

「なっ……」

 渡辺の顔から血の気が引いた。一之瀬は絶句し、村上と明も顔をこわばらせる。

「楓……」

 梗子が、口の中で呻くように呟いた。

 パンツスーツに秋物のコートというごく普通の通勤服を着た楓の頭部には、包帯が巻かれていた。右の頬にはガーゼが当てられ、右腕は三角巾で吊られている。また、背中まであったはずの黒髪は肩口で切り揃えられ、髪の色素も心なしか薄くなっているように見えた。 

 しかし、そのような痛々しい姿にも関らず、楓の表情は不自然なまでに穏やかだった。

「どうしたんや、そないな顔して」

 楓は、すっかり短くなった髪をさり気ない手つきでかき上げると、棒立ちになって自分を凝視する梗子にふんわりと笑いかけた。

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