閑話 朝霧まりかのドラム講座

 まりかが事務所の奥から持ち出してきた物体を見て、腰布姿となったカナが小さく首を傾げた。

「それが練習用パッドとやらなのか? ドラムとはまるでかけ離れた姿をしておるが」

 誰もが知る通り、バンド演奏で使用されるドラム・セットは複数の打楽器によって構成されている。重低域を底から支える「バス・ドラム」に、ドラム・セットの中心を担う「スネア・ドラム」、2枚のシンバルで構成された「ハイハット・シンバル」。更に、アクセントや遊びを入れるための「タムタム」や「フロア・タム」、「ライド・シンバル」、「クラッシュ・シンバル」が加わることで、ドラムという現代音楽に欠かせない魅力的な打楽器が形造られている。

 しかし、ジャージにTシャツという動きやすい服装に着替えたまりかが手にしているのは、ドラム・スタンドに円形のゴム板を据え付けただけの「ドラム」とは程遠い代物だった。

「……ああ、そうか。確かに、バンドとか詳しくない人には全然訳が分からないよね」

 まりかはドラム・スタンドを床に降ろすと、デスクの上に置いておいたスマホを手に取って、とある楽器店のwebサイトを開いた。

「……電子ドラム?」

「そう。最初はこれを買おうかとも思ったのよ」

 ページ内に掲載された写真をカナに見せながら、電子ドラムではなく練習用パッドを購入した理由について詳しく話す。

「でも、このビル結構古いから騒音の心配があってね――」

 電子ドラムは、振動を電気信号に変換して音を出すという仕組み上、電子ピアノなどと同様にヘッドホンの使用も可能となっている。そのため騒音の心配は無いのだが、問題はバス・ドラムやハイハット・シンバルのペダルを踏む時に発生する振動が抑えきれないというところにある。これらの振動は足音以上に大きいものとなってしまうため、自宅、特に集合住宅で電子ドラムを使用する場合は振動対策を万全にするか、或いはいっそ使用自体を諦める必要が出てくる。

「と言っても、学生の時も家ではこれと似たようなパッドを使って練習してたし、他にも口ドラムとか膝ドラムとかイメトレとか、工夫次第でいくらでも練習できるから」

 まりかの説明に、カナがスマホの画面を睨みながら難儀な顔で相槌を打った。

「ふうむ。ちなみに、以前使ってたパッドはどうしたんじゃ?」

 カナの問いに、まりかが至極あっさりとした声で答える。

「後輩にあげちゃった」

「なるほど」

 まりかはスマホを引っ込めると、ドラム・スタンドの前にスツールを据え置いて座面の高さを調整した。それから、今度はデスクの上からドラム・スティックを取り上げてスツールに腰掛ける。

 2本のスティックを左右の手で1本ずつ持って構えると、表情を引き締めてパッドに視線を落とした。

「……ドラムはね、やたらめったら叩けば良いというわけじゃないの。左右のスティックで出す音を揃えるとか、一定の間隔でビートを刻めるようにするとか。他にも、スティック・コントロールとかストロークの使い分けとか、ドラマーとして意識すべき事は山ほどあるわ」

「ストローク?」

「スティックの動かし方よ。今、見せてあげる」

 言うなり、まりかは右手を高い位置まで振り上げると、パッドの中心に素早く振り下ろし、再び高い位置まで右手を振り上げた。

「これが、フル・ストローク。アクセント……強い音を叩いた後に、もう一度強い音を叩く時に使う動かし方よ。次に、ダウン・ストロークなんだけど――」

 このようにして、まりかは基本となる4つのストロークをカナの前で実演して見せた。

「……とまあ、こんな感じ。プロ並みの演奏を目指すなら、この程度の使い分けは無意識のうちに出来て当然ね」

「ふむ」

 カナが、パッドとスティックを見比べながら納得したように頷いた。

「つまり、パッドを使った練習によって演奏の基礎となる技術を鍛錬し、いざ本物のドラムを叩く時のための実力を底上げしておくというわけじゃな」

「そういうこと」

 まりかは、カナの飲み込みの速さに感心しつつ、スティックを構え直して説明を再開する。

「最初のカナの疑問についてだけど、この1枚のパッドの中で役割を決めておくのよ。真ん中がスネアで、この辺りがハイハット、こっちがフロア・タム……みたいな感じで」

「うむ」

「それじゃあ、今から軽く叩いてみるわね」

 まりかは、予め用意しておいたメトロノームのスイッチを入れると、軽やかに手首をしならせながらパッドを叩き始めた。


 ドン、パ、ドン、ド、パ

 ドン、パ、ドン、ド、パ……


 スティックの先端に付いた卵型のチップが、ゴム素材の打面の上でパシッと弾んで小気味良い音を出す。


 ドン、パ、ドン、ド、パ

 ドン、パ、ドン、ド、パ……


 まりかの腕の動きと連動して膝が小刻みに揺れて、見えないビートを刻んでいく。


 ドン、パ、ドン、ド、パ

 ドン、パ、ドン、ド、パ……


 メトロノームと調和した8エイトビートのリズムが、夜の事務所内にささやかに響き渡る。


 ドン、パ、ドン、ド、パ

 タン、タ、タン、タカタンタン……


 まりかはキリのいいところで演奏を止めると、メトロノームを止めてカナの方を振り向いた。

「どうだった…………って、カナ?」

「……うむ」

 カナは、何事も無かったかのようにフンフンと頷いた。実を言うと、フルートを演奏する時の静謐な雰囲気とはまた異なる、まりかのドラマーとしての新鮮な姿についつい見入ってしまっていたのだが、それを素直に話すカナではない。

「まあ、なんというか、ただのゴム板でもそれなりに様になるものじゃな」

「でしょ?」

 カナの言葉にまりかは小さくはにかむと、スツールから立ち上がってスティックをカナに差し出した。

「それじゃあ、次はカナの番ね。スティックの持ち方から教えてあげるから、とりあえず座ってみてよ」

「むう」

 カナはぎこちない動きでスティックを受け取ると、そろそろとスツールに腰掛け、見よう見まねでスティックを構えてみた。

「こうか?」

「えっとね……」

 まりかはカナの背後に回り込むと、カナの小さな手に自分の手をそっと添えた。

「こうやって人差し指で支えたところに、親指をつまむみたいに添えて――」

 人差し指と親指の位置を決めると、他の三指も同様に適切な位置に導いてやる。最後に、手の甲を返して両手をハの字型に揃えたところで、ようやくまりかはカナから身体を離した。

「これが、『マッチド・グリップ』よ。他にも『レギュラー・グリップ』って構え方もあるんだけど、とりあえずこの構え方を覚えておけば大丈夫」

 まりかはカナの斜め前に移動すると、スティックを構える手つきをとった。

「そのまま、ストロークの練習をしてみましょう。まずは、こうやってスティックを垂直方向に軽く振り上げて…………もう少し力を抜いた方が良いわね」

 再びカナに近づくと、剥き出しになった華奢な肩にそっと手を置いて軽く撫で下ろす。

「ドラムは、リラックスした自然体で演奏するの。初心者のうちはついつい力んでしまうけど、余計な力が入ってると演奏もぎこちなくなってしまうから。スティックも、『握る』じゃなくて『持つ』感じで――」

「…………」

 姿勢や構えを正すため身体のあちこちに暖かい手が触れるのを、カナは何とも言えない表情でなされるがままに受け止める。

(まりかは、わしをプロドラマーにでもするつもりなのか……?)

 単なる体験でここまでする必要があるのかという疑問を抱いたカナだったが、指導に当たるまりかの眼差しがあくまで真剣そのものである事を見て取って、水を差すような突っ込みは胸の中に仕舞っておくことにしたのだった。




 ドラムの練習に勤しむまりかとカナを、水槽の中から金魚たちが見守っている。

「まりか様とカナ様、最初の頃と比べると本当に仲良くなったわよね。一時はどうなることやらとハラハラさせられちゃったけど」

 琉金のキヌが、水槽内をクルクルと泳ぎ回りながら他の2人に話しかける。

「私も、あのドラムってやつを叩いてみたいなあ」

 キャリコ琉金のタマが、水槽越しにふたりを眺めながら羨ましそうに背ビレを揺らす。

「……ふたりの邪魔は、しちゃダメ」

 青文魚のトネが、キヌとタマを静かに諭す。

「もう、分かってるってば!」

「分かってるよお」

 キヌもタマも特に反発することなく、まりかによるカナのためのドラム講座を引き続き見守り続けるのだった。

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