第64話 中ノ瀬航路あやかしロックフェス! 〈七〉

 添え木と包帯を外した楓の右腕には、少なくとも目で見て判別できる傷は残っていなかった。

「場合によりけりですけど、幽世で受けた傷は、普通の傷よりも治りが早いですから」

 上司ふたりが心配そうに見守る中、楓は自身の体調や怪我の治り具合について淡々と報告する。

「それに、どういう風の吹き回しか知りませんが、手当ての時に天狗の秘薬を使ってくれたんですよ。この右腕も、明後日までには完治すると思います」

「打ち合わせが終わったら、医務室でヒーリングをするよ」

 村上が、楓の右頬に残る傷跡を見つめたまま有無を言わさぬ口調で申し出てきた。

「妖の血を引くわけでもない普通の人間が、何週間も幽世で過ごしたんだ。肉体への負担は、君が自覚している以上に激しいものだと思う。作戦への影響とかじゃなくて、君自身のために、是非ともヒーリングを受けてほしい」

「…………では、後ほどよろしくお願いします」

 楓は、村上の申し出を大人しく受け入れた。魔術師・村上かけるが最も得意とするのがヒーリング魔術であり、幽世に迷い込んだ辻元残波が一命をとりとめたのも村上のヒーリングによるところが大きかったという事実は、楓のみならず海異対の全員が知るところである。それに、上司の前で無駄な強がりをして見せるほど楓も愚かではない。

「何にせよ、無事に戻ってきてくれて良かった」

 九鬼が、見慣れた者にしか分からないくらい微かに目尻を下げて労いの言葉をかけた。そして、すぐにいつもの険しい表情に戻ると、本題に入るべく予め用意しておいた資料を村上と楓に手渡した。

「これが、最新版の計画書だ。榊原が不在にしていた間の動きも併せて詳しく説明しようと思うが、その前に……」

 九鬼の視線が、楓の隣に置いてある桐箱と風呂敷包みに注がれる。

「まずは、榊原の修行のを見せてもらいたい」

「ええ、もちろんです」

 楓は、九鬼の求めに応じて桐箱と風呂敷包みを机の中央に並べると、まずは桐箱に手を伸ばした。

「……運動嫌いで、体術を避けてきたツケが一気に回ってきましたわ。それはもう、みっちりとしごかれましてなあ」

 苦笑いをして見せながら、年季が入った桐箱の蓋をゆっくりと持ち上げる。

「それでも必死に喰らいついたからか、この通り、どうにか紙一重で認めてもらうことが出来ました」

 桐箱の蓋が取り払われた。

 その途端、鋭く清廉な輝きが桐箱の内部から四方八方に放たれる。

「うむ」

「これは……」

 九鬼と村上が、驚嘆の声を漏らした。

「剣か」

「剣だね。それも、ただの剣じゃない」

「その通りです。これは、烏天狗から借り受けた三鈷さんこ剣です」

 楓は、桐箱から三鈷剣をそっと取り上げると、柄の部分がよく見えるように掲げて見せた。 

 三鈷剣は、柄が三鈷杵さんこしょの形状をした天狗の法具である。荒々しく絢爛な金銅色の柄と、鏡面のように磨き上げられた精美な銀色の剣身。この対照的な銀と金が調和し、一体となった化外けがいつるぎからは、何人たりとも寄せ付けない凛とした佇まいが醸し出されていた。

「この三鈷剣自体が強力な破邪の力を宿す上に、持ち主である烏天狗の霊力がたっぷりと染み込んでいますから。並の怪異や妖はもちろんのこと、霊力の少ない人間にとっても危険な物だと思います」

「でも、よくもそんな大事な得物を貸してくれたね。天狗が人間に剣を貸すなんて、結構珍しいんじゃないの?」

「それなんですけど……」

 村上の疑問に、楓が歯切れの悪い返事をする。

「うちにも、天狗たちの意図がよく分からないというのが正直なところでして。これは、大天狗が配下の烏天狗に命じて貸し出させたものなのですが、その烏天狗も意外そうな顔をしていましたから」

大方おおかた、奴が紹介状に何か書いたのだろう」

 九鬼が、野太い腕を組みながら鼻を鳴らした。

「振り返ってみれば、あの紹介状が本当の意味での紹介状だったのかすら怪しいものだ。どうせ、天狗たちにあれこれ注文をつけていたに違いない」

「室長、奴だなんて……」

 小声で窘めようとした村上だったが、今ここでやる事ではないと思い直して三鈷剣に意識を戻す。

「そういえば、この三鈷剣は菊池君の〈水薙〉みたいに形を変えたりはしないんだね」

「そうなんです。自我は無いという話ですし、人間に貸したのも今回が初めてということですから。ただ……」

 楓は三鈷剣を桐箱に戻すと、今度は風呂敷包みの結び目を解いていく。

「こっちは『人間慣れ』しているとのことで、触れた途端にまるっきり別の姿に変わって驚きましたわ」

 楓が、風呂敷包みを開いた。そこには、海異対の制服の一部であるマリンキャップとマントが収まっている。

「なるほどね」

「そういう事か」

 普通の人間には見た目通りの物としか映らないが、九鬼も村上も、それらが紛れもない天狗の法具であることを瞬時に見抜いた。

「悪い、遅くなったわ」

 九鬼と村上が納得して頷いているところに、本部に出向いていた一之瀬が戻ってきた。

「……!?」

 一之瀬は、机の上の三鈷剣を目にしてギョッとしたように身を引いたものの、特に何も言うことはせずそのまま席についた。

 楓が桐箱と風呂敷包みを片付けるのを待つ間、村上は一之瀬と軽いやり取りを交わす。

「すみませんね、一之瀬さん。我々が渡辺君を取ってしまったせいで、一之瀬さんの負担を増やす事になってしまって」

「気にするな。通常業務ルーティンに関しては、普段よりもスムーズに処理できている」

「そ、そうですか……」

 片付けを終えた楓が再び席についたところで、一之瀬が1枚の書類を村上に差し出してきた。

「横浜スタジアムの正式な使用許可証だ。魔術師協会にも知らせておくといい」

「ありがとうございます」

「横浜スタジアム? そんなところで何を……」

「召喚儀式だよ」

 不可解そうに自分を見る楓に、村上が端的に答える。 

「街中で大きい火力を起こせる場所が、ここくらいしか無かったからね。それでも、協会の口添えが無かったら借りるのはまず無理だっただろうけど」

「この作戦の準備に、魔術師協会が協力しているということですか」

 計画書のうち召喚儀式について書かれたページを読みながら、楓が意外そうに目を見開く。

「まあね。協会としても、あれだけ大規模な召喚儀式を見る機会はなかなか無いから。もちろん、作戦そのものには協会は関わらないけど」

「では、この『幹部職員による召喚儀式の視察』というのは……」

「ああ、それか」

 村上に代わって九鬼が、楓に事情を説明する。

「三本部と本庁の幹部に、召喚儀式に立ち会ってもらう事になった。海異対は何をしているか分からない、本当に仕事をしているのかと、日頃から散々言われているからな。召喚儀式なら危険は無いし、この機会に我々の業務の一端を幹部たちに知ってもらうのも悪くないだろう」

「それはその…………色々と大丈夫なんでしょうか」

 不安を滲ませる楓に、村上が軽快な口調で答える。

「静かにしていてくれるのなら、何も問題は無いというのが協会の意見だよ。当日は協会からも何人か来てくれるし、サポート体制は万全にしておくから」

「そうですか……」

 そこまで言われると、魔術を扱った経験が全く無い楓としては、ただただ頷くしかない。

「そうだ、九鬼」

 召喚儀式の話が落ち着いたところで、一之瀬が別の話題を九鬼に切り出した。

「SSTの装備だが、明日には届くそうだ。特注サイズだからな、試着して確認した方が良いだろう」

「すみません、何から何まで」

「だから、気にするなって」

「SSTというと、特殊警備隊の事ですか?」

 特殊警備隊、通称・SSTは、シージャックや有毒ガスを使用した犯罪など特殊な海上警備事案への対処を目的とした海上保安庁の特殊部隊である。その本拠地は第五管区、つまり近畿地方の某所に存在するとされているが、具体的な訓練内容や隊員の情報については徹底的に秘匿されており、その実態は謎に包まれている。

「ごめんね、榊原さん。次から次へと突拍子もない話ばかりが出てきて困るよね」

 数週間分の情報量に圧倒され少々置いてきぼり気味になっている楓に、村上が申し訳なさそうに声をかけた。

「SSTの話はひとまず置いておいて、まずは東京マーチスの広報の件について説明するよ」

 そう前置きした上で、穏やかな口調で訊ねる。

「無線交信の妨害という大事おおごととはいえ、怪異や妖に関わる事象について公的な組織が広報するなんて、珍しいと思ったんじゃないかな」

「ええ、思いました」

 楓は、素直に頷いた。

 海保に限らずどの公的な組織においても、怪異や妖などの幽世にまつわる事象については、法的な根拠が無いまま、個別の事情に応じて担当者の裁量により対処されているのが現状である。そのため、法に基づいて運用されているはずの公的な組織が、法に規定されていない存在である怪異や妖に関して公式に声明を出すというのは異例の事であると言えた。

「あれは、奴の差し金だ」 

 九鬼が、計画書の表紙を睨みながら口を挟んできた。

「要するに、国の広報という極めて高い信頼性が確保された情報媒体を通じて、怪異・〈メルルファ〉を発生させた張本人、又はそれに深く関わる者たちを公然と挑発したというわけだな」

「それやと、菊池君たちが……!」

 思わず腰を浮かした楓だったが、九鬼が武骨な手のひらを向けて押し留める。

「菊池たちには、肝心要の演奏だけではなく、演奏の妨害を防ぐための結界や、作戦が失敗した時の善後策についても周到に準備させている」

「……」

「それと、奴は親切な事に出没地点を俺に伝えてきた。あれが本当だとすれば、少なくとも菊池たちの方は心配無いだろう」

 九鬼は、横に立て掛けておいた円筒型の図面ケースの蓋を開けると、東京湾の海図を引っ張り出して机の上に広げた。

「村上。ヒーリングが終わった後で構わないから、ダウジングで出没地点を予測してくれないか。奴が提示してきた位置と高確率で一致するだろうが、俺には奴の情報を盲信する気にはとてもなれない」

「はいはい、分かりましたよ」

 村上は特に異論を唱えることもなく、やれやれと小さく首を振りながら九鬼の頼みを引き受けた。そこには、楓が修行に向かう前に漂っていた険悪な雰囲気はひと欠片も残っていない。少なくとも、表面上はそう見える。

(……そもそも、うちが気に掛けるような事やないやけどな)

 柄にも無く職場の上司の心配をしている自分を可笑しく思っていると、ふいに一之瀬が、幽世に関わる者たちに疑問をぶつけてきた。

「その『奴』っていうのは、ひょっとして本庁海洋怪異対策官の事か?」

「……ええと」

 あまりにもド直球な質問に、九鬼と村上、それから楓はしばし返答に窮した。九鬼たちとしては、怪異や妖を認識出来ない一之瀬の存在を無視していたというわけではない。一之瀬が組織や他人の事情にまるで頓着しない性格であるためにすっかり油断していたというだけなのだが、もう少し注意すべきだったと各自反省をする。

「いや、俺は正直興味ねえんだけどさ」

 微妙な沈黙を埋めるように、一之瀬が仏頂面を保ったまま言葉を続けた。

「最近、結構聞かれるんだよ。〈海異〉事案に限定されるとはいえ長官に代わる権限を持ちながら、その人物像は全く持って謎。あれは一体、何者なんだって」

「そりゃあ、俺らじゃなくても気になりますよね」

 村上が、聞えよがしにボソリと呟いた。楓は、無言を貫いたまま九鬼を見やる。

 九鬼はこめかみを太い指で掻きながら、苦渋の表情を浮かべた。

「それについては、現時点でお話できる事が殆ど無い状態でして……」

「良いよ、別に。今まで通り、適当にかわしておくから」

「いつもすみません」

 九鬼は、岩のような巨体を謙虚に縮こまらせて頭を下げると、咳払いをして話を再開した。

「……SSTの装備の話だったな。あれは、その場に人間が居合わせた時のための備えだ。相手の出方によっては、逮捕権を行使する必要も出てくるだろう」

「逮捕……」

 公安職ならではの物々しい用語に、楓はごくりと唾を飲み込む。

 海上保安官には、法律により特別司法警察職員としての権限が与えられている。海上や離島など警察の手が及ばない特殊な領域において、海上保安官はその専門性を駆使する事により、犯罪捜査や逮捕など警察と同等の権限を行使し、海上の治安維持に日夜務めているのだ。

「人間を相手取るのは、ある面においては怪異や妖と対峙するよりも大きな困難を伴う。人間の相手は俺が一手に引き受けるから、村上と榊原はそれ以外を頼む」

「今更だけどよ」

 白昼堂々と交わされる物騒な会話に、一之瀬が書類から顔を上げて一同の顔を順繰りに見つめた。

「お前ら、カチコミでもするつもりか?」

「……」

 冗談なのか本気なのか分からない一之瀬の問いに、村上が悩ましげに眉を寄せつつ冗談めかした答えを返す。

「カチコミというか、迎撃って感じですかね。今回は相手についての情報が全くありませんし、用心し過ぎるに越した事はありませんから」

 それに対して九鬼は、ピクリとも笑わずに重々しい口調で宣言する。

「我々が行使する力は、あくまでも護るためのものです。それだけは、何があろうと崩すつもりはありません」

「……まあ、なんかよく分かんねえけど、気を付けろよ」

 金縁眼鏡の奥の眼に不安の色を覗かせながらも、一之瀬は結局それだけを言ったのだった。

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