第56話 龍神蘇芳の憂鬱〈後編〉

 京急本線・三崎口行きの赤色の列車にガタゴト揺られながら、菊池明はこれまた赤色のロングシートにグッタリと身体を沈めていた。

「ふむ。このリンゴジュースは、値が張るだけあってそれなりに美味だな。ならば次は、このザクロとブルーベリーの――」

 明の隣では、横浜港の龍神・蘇芳すおうが自販機飲料の飲み比べに勤しんでいる。明の知る蘇芳は身長2メートルを超える胸筋逞しい美丈夫だったはずだが、本人曰く「分身体である」という目の前の蘇芳は、端正な顔とハイポニーテールにした蘇芳色の髪が多少人目を引くというだけの、ごく普通の少年にしか見えなかった。

(何が『人間社会の実地調査』だよ…………完全に遊んでるだけじゃねえか……)

 車窓を流れる沿線の景色をぼんやりと眺めながら、神とはかくも横暴なるものかという事実をひしひしと噛み締める。

 つい数時間前のこと。配下の大妖である潮路と黒瀬の付き添いのもと朝霧海事法務事務所を訪れた蘇芳は、エリカが出したお茶を飲むのもそこそこに、何故か明に対して目的地までの道中案内を命令してきた。

『余は鉄道の使い方がよく分からんでな、よろしく頼むぞ!』

 もちろん断れるはずもなく、明と水晶は名残惜しげな朝霧母娘やカナたちにいとまを告げると、蘇芳と共にまずは横浜駅を目指したというわけだった。

(あのふたり、絶対にこうなる事が分かっていたに違いない……)

 蘇芳のお供を引き継ぐなり、颯爽と龍宮城に戻っていった潮路と黒瀬。数百年もの永きに渡って蘇芳の配下を務めてきた彼らにとって、少年に変身した蘇芳が人間の街でどのような行動をとるかなど、手に取るように予測できたことだろう。

 確かに、海洋生物のあやかしである彼らにとって、オムライス専門店で食事をした後に大型雑貨店で用途不明のパーティグッズやファンシーグッズを大量に購入し、ゲームセンターでUFOキャッチャーに挑んで太鼓も叩くといったハードスケジュールに付き合うのは、いささか酷であると言えるかもしれなかった。

「なんだこれは! ただやたらと酸っぱいだけではないか! ほれ、余はもういらんからやるぞ」  

 蘇芳は顔を顰めてそう品評すると、明の財布から賄われた紙パックのジュースを、明を挟んだ反対側にいる水晶にポイッと投げて寄越した。

「は、はい! ありがとうございます!」

 龍神から直接話しかけられたことに驚く水晶だったが、せっかくのを辞退するのも失礼なので、そのまま素直に受け取っておくことにする。

「ところで小僧、あとどれだけ乗っていれば野島に着くのだ?」

 美味しそうにジュースを飲む水晶の姿に荒んだ心を和ませていると、蘇芳が棒キャンディを舐めながら呑気に訊ねてきた。

 明は内心呆れながらも、背筋を伸ばして丁寧に応じようとする。

「このまま遅延が無ければ、10分もかからずに金沢八景駅に到着するはずです。そこでシーサイドラインに」

「あー、分かった。任せる」

「……はい」

 そんな一幕を経て、明たちは横浜駅から特急でおよそ20分のところにある金沢八景駅に到着した。

「小僧! あそこのカフェでスイーツをだな!」

「目的地はすぐそこですから」

 寄り道したいとゴネる蘇芳を無礼にならない程度に諭しながら、京急本線から金沢シーサイドラインに乗り換えて、一駅目で降車する。

 駅の階段を降り、運河に架かる橋を渡ってそのまま直進しようとしたところで、蘇芳がすいっと明の前に出てきた。

「ふむ、今日は海におるようだな。手間が省けて助かる」

 そう独り言ちると、機嫌良く鼻歌を歌いながら運河沿いの道を進み始めた。明もまた、水晶と共に黙々と蘇芳の後に続く。

(誰かに会いに来たって言い方だけど、場所的にあれの絡みかな)

 蘇芳色のハイポニーテールが左右に揺れるのを見るとはなしに眺めながら、明はこの先に小さな神社が存在することを思い出す。

(でも、海にいるってどういうことなんだ。まさか、祭神が境内から抜け出して遊んでるとかじゃないよな)

 その思い付きに、明はぞくりと肌を粟立たせた。たった一柱の龍神にさえ散々っぱら振り回されているというのに、これ以上「神」に目を付けられるなど、平穏な生活を望む明としてはたまったものではない。

 しかし、明の予想は、当たらずとも遠からずといったところだった。

「――おう、いたいた」

 駅から歩くことおよそ10分。明たちは、横浜に唯一残った自然海岸として有名な野島海岸に到着していた。

「ふうむ。あれの潮浴しおゆあみ好きは、相変わらずのようだな」

 蘇芳は海岸に目をやると、いかにも可笑しそうに肩を揺すった。

「しおゆあみ……?」

 明は聞き慣れない単語に首を傾げつつも、浅瀬に大型犬くらいの大きさの妖がいるのを見つけて緩んでいた気持ちを引き締める。

(……あれは、妖狐だな)

 潮浴み、今風に言えば海水浴によって全身が濡れそぼってはいるものの、尖った耳と色の毛皮、そして尻尾が2本もあることを見れば、それが怪異化したした狐、即ち妖狐であることは一目瞭然だった。

 蘇芳の目的が神では無かったことに、一旦は安堵する明。しかしすぐに、妙な違和感を感じて妖狐の姿を凝視する。

(……二尾? それにしてはなんだか)

「我が主よ」

 その違和感を肯定するように、水晶がそっと耳打ちをしてきた。

「あれは九尾です」

「いっ!?」

 妖狐の片耳が、ピクリと動いた。浅瀬に横たわった姿勢のまま、身体を捻ってこちらを振り向く。

「おや、これはこれは……」

 薄藤色の切れ長の目が、蘇芳の姿を捉えて更に細められた。素早く起き上がると、ぶるぶると身体を震わせて海水を弾き飛ばし、水底を蹴って高く跳躍する。

「!!」

 妖狐が、蘇芳の前に降り立った。全部で9本ある尻尾を扇のように広げて見せると、伏せの姿勢をとって頭を垂れ、うやうやしく口上を述べようとする。

「横浜の海を統べたもう寛大なる心の――」

「そんな心にも思っていないことを言うでない、よ。というか、こやつらの前では取り繕う必要は無いからな、楽にするがよい」

「…………」

 くゆりと呼ばれた妖狐が、ゆっくりと顔を上げた。

 ムスッとしたような顔をして身体を起こすと、明と水晶をじろりと一瞥して、蘇芳に視線を戻す。

「ほんに、貴方様というお方は……」 

 稲穂のようにふっくらとした9本の尻尾を潮風にそよがせながら、悩ましげな表情で深々と溜め息をつく。

「神ともあろうお方が、我らのような下賎な者共と気安く交わるものではありませぬと、少なくとも体裁くらいは守るべきではと、何度も申し上げてきたはずではありませぬか。それよりも、たまには我らの主神がましますそこなやしろにいらっしゃっては」

「ハンッ! 何が楽しくておかの神のツラなんぞをやらねばならぬのだ。むさ苦しくて敵わんわ!」

 蘇芳が、明後日の方向を見ながらベッと舌を出した。くゆりはもう一度溜め息をつくと、身も心も子供になり切った龍神に諫言かんげんするのを止めて本題に入ることにする。

「本日は、どのようなご用件でいらっしゃったのでしょうか。私めとご歓談くださるためだけに、わざわざ陸路にて御足労いただいたわけでもありますまい」

「うむ、そうだな……。おい、小僧」

 蘇芳が、居心地悪そうに背後に控えている明を振り返ると、追い払うように手を振った。

「余は、くゆりと話がある。適当にその辺をうろついておけ」

「分かりました」

 明は軽く一礼すると、ホッと胸を撫で下ろしながら水晶を連れてそそくさとその場を離れた。

(同席しろとか言われなくて良かった……)

 九尾の狐などという伝説級の存在と龍神が一体何を話すつもりなのか、明としては微塵も知りたいとは思っていない。死すべき運命さだめにある人間が悠久を生きる上位存在たちの事情を知ったところで役に立つわけでもなく、最悪の場合、ただでさえ短い寿命を大幅に縮めることになるだろう。

 世の中には、知らないままでいた方が幸せな事が沢山あるのだ。

「水晶。ここからあまり離れるのも良くないだろうし、蘇芳様の話が終わるまで鳥たちと一緒に遊んできたらどうだ?」

「ッ! それでは、お言葉に甘えて!」

 海鳥たちと戯れる水晶を波打ち際で見守りながら、この平穏がいつまでも続くことを祈る明だった。




 海岸へ去っていく明と水晶の背中を眺めながら、くゆりが半ば独り言のように蘇芳に問いかけた。

「ただでさえ強い霊力を持っておるというのに、八尾でも手こずりそうな式神と、更には宝具までお与えになって…………貴方様は、あの人間を何かの英雄にでも仕立て上げるおつもりですか」

「人聞きの悪い事を抜かすでない! あのヒネた妖刀はともかくとして、式神については一切関与しておらんからな」

 蘇芳はそれだけ返すと、ふいっと海の方を向いてその場に座り込んだ。くゆりもそれ以上探りを入れようとはせず、黙したまま蘇芳の言葉を待つ。

 ゆるやかな潮風がふたりの間を吹き抜けていく最中、蘇芳がおもむろに切り出した。

「単刀直入に言う。《王》の行方を知りたい」

 その言葉に、くゆりの9本の尻尾が動きを止めた。両耳をピンと立てて背筋を伸ばすと、慎重に言葉を選びながら蘇芳に確認する。

「……御自身と同格以上の存在に対しては千里眼が使えぬという事は、私めも存じております。とはいえ、側近たちの居場所ならば特定も容易と愚考しますが」

「無理だな。共に行動している限り、それは《王》に対して力を行使するのと同義になる」 

「なるほど。それは確かに、そうでありましょうな……」

 目の前の海で、海面から跳ね上がった魚を海鳥の嘴が捕らえた。ビチビチと暴れる魚を咥えたまま飛び去る海鳥を目で追いながら、くゆりがスンスンと鼻をひくつかせる。

「しかし、あの伊奈殿は、我ら妖狐のことわりからは外れたお方です。我らの力をもってしても、流石に今日明日というわけにはいかぬかと」

「構わん、別に急ぐ話ではない。それと、余計な事をする必要も無いからな。居場所さえ把握できれば、それで御の字だ」

「……かしこまりました。早急に手配させていただきましょう」

 くゆりの全身が、柔らかい光に包まれた。9本の尻尾がくゆりの身体を覆い、するすると螺旋状に渦巻きながら縦に伸びていく。

 ほどなくして光が消えると、そこには狐の耳と狐の尻尾を生やした妙齢の女が立っていた。ブラウンのジャケットとブラックのタイトスカートに、ピンクのショルダーバッグ、エレガントに纏められた小麦色の髪。どこぞのバリキャリウーマンといったその出で立ちに、蘇芳が胡散臭そうに眉根を寄せた。

「おい。今さっき、早急にやるとか言っとらんかったか」

 すかさず突っ込む蘇芳だったが、くゆりははんなりと笑ってそれを受け流す。

「一分一秒をく話では無いのでしょう? 九尾という立場上、貴方様の御使いという名目でも無ければ、気ままに街を歩くことすら叶わぬのですよ。頭の固い八尾共がやかましゅうてなりませゆえ」

「お前も大概だな」

「貴方様ほどではありませぬ」

 くゆりは涼しい顔でそう言い置くと、ハイヒールの音を響かせながら駅の方向へと去って行った。

「やれやれ。この地の妖狐たちの苦労が忍ばれるというものだ」

 変化へんげしたくゆりの腰から伸びる尻尾が1本しか無いのを認めて、妖狐たちに憐憫の念を向ける蘇芳。もっとも、この尾の本数による厳格な序列制度と指揮系統をこそ頼りにしている蘇芳としては、むしろ妖狐たちには存分に苦労してもらった方が都合が良いとも言えてしまう。

(くゆりの配下たちも優秀と聞くからな、任せておけば間違いないだろう)

 妖狐たちの情報網ネットワークは、化け狸によって支配された佐渡島などの例外を除き、この列島はもちろんのこと大陸の一部にまで及んでいる。早晩、何かしらの手がかりくらいは持ち帰ってくれるだろうと期待している。

 しかし、海面を見つめながら物思いにふける蘇芳の表情は、おおよそらしからぬ沈鬱で険しいものだった。

(……あの方が)

 蘇芳は、一度だけ《王》に相見あいまみえたあの日の事を思い出す。

(あの方が、どんなに気紛れな性格をされているからといって、そんな事をするはずが無いのだ)

 蘇芳は強く瞑目して首を振ると、今度は横浜方面とは反対方向にある対岸の地をじっと見つめた。

(鎌倉は、まあ心配ないだろう。いけ好かない性格をしてはいるが、実力は確かだ。問題は、横須賀だな)

 横浜市の南隣に位置する軍港都市、横須賀。蘇芳の手が及ばない他の龍神の支配領域であり、侵入は当然として、蘇芳の場合は接近するだけでも相手に感知されること必須である。

(とはいえ、黒瀬と潮路だけでは心許ない。やはり、人間の手を借りねば)

 蘇芳はふっと息を吐いて横須賀方面から視線を外すと、明るい声で明たちを呼び寄せた。

「小僧、横浜に戻るぞ! 駅に着いたらアイスを買え!」

「分かりました」

「あと、まりかへの土産を選ぶから百貨店に寄るぞ!」

「はい」

 悟りを得たような顔で頷く明と、複雑そうな表情で明に付き従う水晶。そんなふたりを見比べながら、蘇芳はくゆりが発した言葉を思い返す。

(英雄、か。その程度で済めば良いが)

 脳裏に、まりかの顔が浮かんだ。

 その顔が悲痛に歪んでいることに気が付いて、蘇芳はすぐにその顔を打ち消す。

(ああ、そうさ。他ならぬ私が決めたことだ。今更考えたところで――)

 しばらく歩いて運河に出たところで、蘇芳はふと足を止めた。

 無人運転で走行するシーサイドラインの車両が、傾きかけた陽光を鈍く反射しながら、運河を航走する釣り船をあっという間に追い越していく。

「あの、どうされましたか?」

「小僧」

 蘇芳は、不安そうに自分の顔色を伺う明をニッコリと笑って振り向くと、小さな子供の手でシーサイドラインを指差した。

「行きと同じ道のりではつまらん。遠回りして帰るぞ!」

「もう、お好きになさってください……」

「なんだその顔は、どうせならもっと楽しまぬか!」

「努力します……」

 現世うつしよに生きる人間との他愛のないやり取りを無邪気に楽しみながら、蘇芳は運河沿いの道を再び歩き始めたのだった

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