第55話 龍神蘇芳の憂鬱〈前編〉

 朝霧まりかから、折り入って相談があるというメッセージを受けたのは、間もなく9月が終わろうとするある日のことだった。

『仕事で佐渡島に行ってきたんだけど、そこで会ったあやかしから気になる事を聞いたの。近いうちに会って話せるかしら』

 しかし、その僅か数時間後。詫びの言葉や絵文字と共に、こんなメッセージが送られてくる。

『お母さんが、どうしてもふたりに会いたいって言って聞かなくって。相談事は、また別の機会に改めてでも良いかな』

 そういうわけで、菊池あきらと水晶は、まりかの母親であり風の乙女シルフィードでもある朝霧エリカ主催のお茶会にお呼ばれする運びとなったのである。

「……水晶、心の準備は良いか?」

「はい、我があるじよ。いつでも大丈夫です」

 開港波止場と象の鼻桟橋を臨むビルの3階に位置する、朝霧海事法務事務所。その玄関の前に立った明は緊張の面持ちで水晶と頷き合うと、意を決して事務所のインターホンを押した。

 ピンポーン……

 間延びしたインターホンの音が響いて、すぐに消える。次は応対する声が聞こえるかと思いきや、その手順をすっ飛ばし、いきなり玄関扉が開け放たれた。

「うわっ!?」

「いらっしゃーーい!!」

 ふたりの前に、若葉色の瞳とキャラメルブロンドのふわふわパーマを持つ風の乙女シルフィード・朝霧エリカが姿を表した。

「まあ! あなたが水晶ちゃんね! こうして会う日を、もうずーーっと楽しみにしてたのよ!」

 エリカはパッと瞳を輝かせると、目にも留まらぬ早さで水晶に飛びつき、その小柄な身体をムギュと抱き締めた。

「いやーーん、フワフワーーッ! あら、お肌はひんやりしててスベスベなのね! 可愛いわあ!」

「うぐ……」

 水晶は、エリカの猛烈な頬擦りに顔をしかめながらも、明に目線で大丈夫だと伝えた。実際、自分と近しい存在である風の精霊との触れ合いスキンシップは案外悪くないものだなどと感じている。

「ああ……やっぱりこうなっちゃったか……」

 ぬいぐるみのように揉みくちゃにされる水晶をなすすべもなく眺めていると、エリカの娘であり明の友人でもある朝霧まりかが、申し訳なさそうな顔で玄関先に出てきた。

「うちのお母さんが、ごめんね」

 まりかが、両手を胸の前で合わせて謝った。明は慌てて手を振って大丈夫だと伝える。

「いや、まあ、事前に教えてくれてたから。それに、こんなにも熱烈に歓迎してくれるってのは嬉しいし」

 お茶会の開催が決定した後、まりかからは母親エリカの性格や行動特性についてのメッセージが、数回に分けて明のスマホに送られてきた。

『――お母さん、まず間違いなく水晶に会うなり飛びかかって撫で回そうとするわ。私も出来るだけ止めてみるけど、多分無理だと思う。水晶には、その辺のことを予め話しておいてもらえると――』

 まりかは目つきを鋭くすると、水晶の顔の横に付いているトビウオのヒレを撫でているエリカに強めの口調で呼びかけた。

「お母さん、そろそろ離してあげて! それから、ちゃんと明にも挨拶してよね!」

「あら、私としたことが……」

 娘からの声かけにより、エリカはやっとのことで水晶を解放した。それから、髪と服を手で軽く整えると、母親らしいふんわりとした笑みを浮かべて明に向き直る。

「私が朝霧エリカ、まりかの母親よ。娘から、あなたの事はよく聞いているわ」

「菊池明です。よろしくお願いします」

「そんなに固くならないで。今日はたくさんお菓子を焼いてきたから、遠慮なく食べてね。もちろん、水晶ちゃんの大好きなオレンジジュースもあるから」

 エリカはくすりと笑みを零すと、事務所に入るように促した。

「お邪魔しま…………んんっ?」

「カナさん!?」

 事務所に入るなり目に飛び込んできた光景に、明と水晶は我が目を疑うこととなってしまう。

「むぐむぐ…………むう? エリカの洗礼は終わったようじゃな。ほれ、ぼうっと突っ立ってないで、早う座って茶でも飲んだらどうじゃ」

「カナさん、それ……」

 水晶が、つぶらな瞳をまん丸に見開いてカナを凝視する。

 あろうことかカナは、レースのフリルをふんだんに使った水色のドレスを着ていた。軽くウェーブがかかった腰までの白髪は黄色のリボンでツインテールにされ、華奢な脚にはレースの靴下、そしてバックル付きの赤い革靴を履くという徹底っぷりである。

「どう? カナちゃんは絶対にドレスが似合うと思って張り切って作ったんだけど、実際に着せてみたら想像以上に可愛くなっちゃったの! キャーーッ!」

 紅潮した頬に両手を当てて、独り嬉しそうな悲鳴を上げるエリカ。一方のカナは、帆布を使った専用の折りたたみ椅子に腰掛けて、一心不乱に何かを食べ続けている。

(なんつうか、流石は精霊のお母さんって感じだな……)

 エリカとカナ、そして、その目元に諦念を滲ませて母親エリカを眺める友人まりかをその場に突っ立ったまま見比べていると、事務所の水槽に住む金魚の精霊たちが水晶のそばに飛んできた。

「エリカ様はね、カナ様に取引を持ちかけたの!」

「取引?」

 琉金のキヌの言葉に、水晶がキョトンと首を傾げる。

「あれ、水まんじゅうっていうお菓子でね、カナ様の大好物なの。それでね、水まんじゅう20個と引き換えに、エリカ様お手製のドレスを着ることにしたというわけ!」

 キヌが、赤毛のツインテールを小さな手で触りながら、鼻高々といった様子で説明する。どうやら、カナが自分と同じ髪型をしているのが嬉しいらしい。

「カナ様って、結構現金だもんねえ」

 キャリコ琉金のタマが、水晶の肩にちょこんと腰掛けて小枝のような足をプラプラとさせる。

 最後に青文魚のトネが、水晶の顔の横で静かに呟いた。

「水晶も、エリカ様に服を作ってもらうと良いと思う……」

「えっ、私の!?」

 想像だにしない提案に、水晶は思わず上擦った声を上げてしまう。

「どうした?」

「どうしたの、水晶ちゃん?」

 明とエリカが、怪訝そうに水晶の顔を覗き込んだ。

「えっと、その……」

「ふたりとも、早く座って! 明はハーブティーは飲めたっけ? 水晶はジュースで良いよね?」

 これ以上面倒なことにならないように、まりかが水晶に助け舟を出した。水晶はこれ幸いとばかりに、サッと応接ソファに移動する。明もまた、エリカに断りを入れてから水晶の隣に腰掛ける。

(これ以外の服なんて、考えたことも無かったなあ)

 オレンジジュースの入ったグラス越しにドレス姿のカナをチラチラと盗み見ながら、衣服の持つ効用について真面目に考えてみる水晶だった。




 賑やかなお茶会がひと段落すると、まりかは髪に挿していた〈夕霧〉を取り出して、本来のじょうの姿に戻した。

「夕霧が、私に話しかけてきてくれたの」

 まりかは、佐渡島の海で起きたサメ騒動や〈夕霧〉がその意思を発するに至った経緯について、所々をぼかしつつも明と水晶に説明した。

「横浜に戻ってすぐに蘇芳様に見てもらったんだけど、確かに自我が宿ってるって」

 ニコニコと嬉しそう話すまりかの横で、エリカもまた穏やかな笑みを浮かべて〈夕霧〉にそっと手をかざす。 

「蘇芳様の神霊力が元になっているから…………夕霧ちゃんは、男の子かもしれないわね」

「おとこお? なんじゃい、つまらん」

 水まんじゅうをもちゃもちゃと噛みながら、カナがいかにもつまらなさそうな顔をした。それを聞いたまりかが、ムッとしたように言い返す。

「別に、男の子だって良いじゃない! というか、どっちの姿で顕現するかなんて、そんなのまだ分かんないでしょ」

「でも、そっちは『男の人』って感じがするわね」

 エリカの視線が、明の右手首に注がれた。

 思いもよらぬ情報に、明は急いでティーカップを置いてソファから腰を浮かす。

「分かるんですか!?」

「ええ、なんとなくだけど」

「〈水薙〉!」

 明の呼びかけに応じて、フルメタルのGショックとして右手首に収まっていた〈水薙〉が本来の姿を表した。

 龍の文様が刻まれた金属製の柄と、直刃すぐはという直線状の波紋が浮かんだ反りの無い刀身。そして、その刀身は仄かに青い光を反射している。その堂々とした美しい姿に、エリカは口に手を当てて感嘆の声を上げた。

「それじゃあ、ちょっと失礼して……」

 エリカは明に断りを入れると、ローテーブル越しに片手を伸ばして〈水薙〉の刀身に手をかざした。

「…………ふふっ」

 ほどなくして、エリカが手をかざしたままクスクスと笑い出す。対する明は、そんなエリカを実に複雑な心境で見守っている。

(どうせ、具体的に何を感じ取ったのかとかまでは、教えてくれないんだろうな……)

 龍神・蘇芳から授けられたこの妖刀に〈水薙〉と名付けたことにより、微弱であやふやだったその自我は確固たるものとなった。しかし、それから何週間も経つというのに、〈水薙〉は未だに明と話そうとはしてくれない。

 とはいえ、名前を呼べば即座に反応することなどを考えると、少なくとも〈水薙〉という名前については嫌ってはいないのだろうと、明はできるだけ前向きに捉えるようにしていた。

(もしかすると、俺というよりも人間自体が嫌いってだけなのかもしれねえな、うん) 

 実際のところ、これまでに〈水薙〉の見立てを頼んだ神やら妖やらは全員、〈水薙〉から何らかの感情なり情報なりを感じ取ったというような反応を見せている。赤灯台の付喪神・北斗などは、〈水薙〉を睨みながら顔を引き攣らせていたくらいである。

 しかし、誰も彼もが、最後には決まってこう言うのだ。これは明と〈水薙〉の問題であり、自分たちが介入すべき余地は無いのだと。

「大丈夫よ」

 エリカは〈水薙〉から手を離すと、春の陽だまりを想わせる柔らかな笑みを浮かべた。

「焦らずゆっくり時間をかければ、必ずあなたの心に応えてくれるわ」

 その優しく包み込むような若葉色の瞳に、明は胸の中の鬱屈が春の陽射しを受けた雪のように溶けて消えていくような、そんな心持ちを覚える。

「は、はい……ありがとうございます」

「あ、でも」

 そこでふと、エリカが思案顔になった。

「あのお部屋だと、水薙さんが人の姿になって顕現した時にギュウギュウ詰めになってしまうわね。もっと広いお家にお引越ししても良いんじゃないの?」

「ええ、それについては実は俺も…………んん?」

 そのまま普通に答えようとした明だったが、エリカの発言内容に引っ掛かりを感じて黙り込む。

「?」

「む?」

 カナと水晶も、違和感を覚えたのか怪訝そうにエリカを見る。

「…………お母さん」

 まりかが、ティーカップをソーサーの上にカチャリと置いた。

 ニッコリと笑って、すぐ隣に座る母親に問いかける。

「まるで、明の部屋を見てきたような言い方だけど?」

「……あっ」

 エリカの目が泳いだ。ほんのりと桜色に染まっていた頬はみるみるうちに色を失い、ほっそりとした形の良い手指が胸の前でせわしない動きを見せる。

 誰の目にも、まりかの指摘が図星なのは明らかだった。

「お母さん!!」

「うわーーん!!」

 まりかが叫びながらソファから立ち上がるのと同時に、エリカが盛大に泣き出した。 

「だって! だってえ!!」

 ビスクドールのように整った顔を涙でグシャグシャに濡らしながら、まるで子供のように泣きじゃくる。

「だって、利雄さんが……! でも、シナモンは……グスッ……何も出てこなかったって!」

「信じられない! なんてことしてくれるのよ!!」

「えっと、あの……」

「どうしよう……」

 突如として勃発した母娘喧嘩に、明も水晶もオロオロするしかない。

「やれやれ」

 この場を収められるのは自分しかいないと判断したカナは、最後の水まんじゅうをつるんと飲み込むと、重い腰を上げて仲裁に乗り出した。

「ふたり共、とにかく一旦落ち着くんじゃ」

 怒り心頭のまりかと延々と泣き続けるエリカの両名を辛抱強くなだめ透かしながら、カナは少しずつ事の真相を聞き出していった。その上で、要領を得ないエリカの説明を整理し、明と水晶にも理解できる形で説明してみせる。

 曰く、娘が生まれ初めての同業の、それも異性の友人を得たと聞いて、エリカは母親として大きな不安に襲われたという。そして、何日も悩みに悩んだ挙句、エリカは配下の〈風の四姉妹フォー・シスターズ〉のうちのひとりに命じて、明の人となりを探らせたということだった。ちなみに、「シナモン」というのはその配下の大精霊の名前で、隠密行動を得意としているらしい。

(そういえば、短時間のうちに部屋の空気が入れ替わってたことがあったけど、こういう事だったんだな)

 話を聞きながら過去の記憶を掘り起こし、ひとり呑気に納得する明。しかし、目の前では依然として、エリカへの手厳しい追及が繰り広げられている。

「利雄さんが…………グスッ……男はみんな狼だから、気を付けろって……」 

 泣き腫らした目に刺繍入りのハンカチを当てながら、嗚咽の合間に言葉を押し出すエリカ。普通の人間ならとっくに絆されているところだろうが、残念ながらまりかには通用しない。

「それいつの話?」

 まりかが疑り深い目を向けながら端的に質問したところ、案の定、脱力するような答えが飛び出してくる。 

「利雄さんと………ヒック……結婚したばかりの頃……」

「40年以上も昔の話じゃないの……」

 まりかは溜め息混じりに首を振ると、頭を下げて明に謝罪した。

「明、私のお母さんが本当にごめんね」

「朝霧が謝ること無いだろ。というか、全然気にしてないし」

「いや、そこは気にするべきじゃろう」

 ヒラヒラと手を振って何ら精神的苦痛を受けていない事を示そうとした明に、カナがビシッと突っ込みを入れる。

(精霊なんだし、このくらい多目に見たって良いと思うんだけどな)

 自由気ままで束縛を嫌う風の精霊にとって、慣れない人間社会での暮らしは苦労の連続だったはずだ。それに、エリカの行動はあくまで娘を心配してのこと。ここは快く許すべきだろうと、鼻水をスンスンと啜り上げるエリカを見ながら明は思う。

(と言っても、俺は所詮他人だから、外野から気楽な事を言えるってだけな気もするけど)

 家族として共に生活を営んできたまりかと、現に人間社会で生活している妖のカナ。そんなふたりにとって、実体を得た精霊であるエリカが「人間」としての常識や社会規範を遵守するよう努めるのは当然という感覚なのかもしれない。

「水晶も、楽しいお茶会がこんなことになっちゃってごめんね」

 まりかが、水晶に対しても同様に謝罪する。

「そんな、私は大丈夫です」

 水晶は、まりかを安心させるように小さく頷きかけた。水晶としては、エリカが明に対して悪意を持っていないことは明白だったし、そもそも自分が生まれる前に起こった出来事なのでどうこう言っても仕方無いといったところである。

 まりかは、未だに涙を流し続ける母親エリカをカナに任せると、その場の空気を切り替えようと明るい声を出した。

「ジュース、もう一杯飲む? 明も、何か別の飲み物入れるわね」

「では、お言葉に甘えて」

「そうだな、頼むよ」

 明と水晶が頷き、まりかが冷蔵庫の扉に手を伸ばす。

 予期せぬ来客が訪れたのは、その時だった。

 ピンポーン……

 間延びしたインターホンの音に、一同の視線が玄関扉に集まる。

「誰かしら、今日は休業日なのに……」

 まりかは眉をひそめて呟くと、玄関横のモニターに駆け寄って来客の正体を確認した。

「――――潮路さん!? それに黒瀬さんも!?」

「!?」

 龍神・蘇芳の配下たちの名前に、さしものエリカも涙を止めて玄関扉に注目する。

「すみません、すぐ開けます!」

 まりかは急いで玄関扉を開けて応対しようとする。

 しかし、扉を開けた先には、更なる驚愕が待ち構えていた。

「蘇芳様!?」

「まーりかー! 来てやったぞー!」

 龍神自らのお出ましに、まりかはあんぐりと口を開けて足元を見下ろす。

「むむ? そういえば、この姿を見せるのは久し振りだったな!」

 蘇芳は事も無げにそう言って、ニカッと白い歯を見せて笑った。



 横浜港の龍神・蘇芳は、何故か10歳くらいの少年に変身していた。

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