第42話 牛鬼と濡女〈八〉
海水にミルクを注ぎ込んだような
「数ヶ月前、この三浦の海辺のそこかしこに、春の到来を感じるようになった頃のことだ。黄昏時、人気のない海岸をさ迷っていた私たちに、ひとりの人間の男が接触してきた――」
地味な色のスーツを身につけ、愛想笑いを浮かべながら自分たちに近づいてきた人間の男を、当然ながら
しかし、牙を剥き出して今にも飛びかからんとする野分を見ても、男は全く恐怖を見せなかったという。
「その男は、中田と名乗った。自分のことを魔術師だと説明した上で、ある実験に協力してほしいと言ってきたんだ」
「中田……」
九鬼がその名を小さく呟いた。その隣では、村上が腕を組んで眉根を寄せている。
黒縁眼鏡をかけた中肉中背の男は、牛鬼と濡女を前にして全く動じることなく、「実験」の内容について流れるような口調で説明してみせたという。
『僕たち魔術師が所属する魔術師協会では、怪異について色んな研究をしているのだけど……もちろん、平和的なものだよ? それで、僕の研究にどうしても君たちの協力が必要でね。もちろん、タダで応じてくれなんてそんな非道なことは言わない。ちゃんと、見返りは用意するさ』
そこまで話すと、愛想笑いを浮かべた口を小さく歪めて、野分に対してこう言い放った。
『正直、結構弱ってるでしょ? 海で死ぬ人間は昔よりかなり減ってるし、海辺で人間を襲おうとしても、あんまり上手くいかないんじゃないの?』
『っ!』
男の指摘は図星だった。
この数十年で、人間社会は急速に近代化が進んだ。海岸沿いの道路や港には常夜灯が設置され、建物は厳重に施錠するのが当たり前。全長数千メートルに及ぶ巨大な橋梁が各地で建設され、更には造船や航海技術も発達したことで、海難による死者は大幅な減少を成し遂げた。
しかし、これは牛鬼側からしてみれば人間を襲うハードルが高くなったということに他ならず、また、海難事故による
「そもそもとして、牛鬼という
返答に窮した野分に代わって、今度は那智が男に食ってかかった。
『そこまで私たちの事情を見透かしているとは、恐れ入ったよ。それで、その見返りとは何なんだ? 実験とやらの内容も、全て詳しく話せ。つまらん返答をしたら、今すぐ野分に喰わせてやるからな』
『まあまあ。順を追って説明するから、そんなに怖い顔しないでよ』
男は再び愛想笑いを浮かべてヒラヒラと手を振ると、実験と見返りの内容を詳しく説明した。
「実験はともかくとして、その見返りの内容そのものは確かに魅力的ではあった。だが、あまりにも私たちに都合が良すぎるように思えてな、却って胡散臭く感じた。そもそも、中田という男からして得体が知れない。どれだけの霊力があるのかを見定めようとしたが、私にも野分にも分からなかったんだ」
「それはつまり、隠形法のようなものを使って正体を隠していたと?」
村上が、何かを考え込むような様子で那智に確認した。それに対し、那智は首を横に振る。
「さあ……私には分からない。それも含めて、あの男からは何も感じ取れなかったんだ。だから、私としては断りたかったんだが……当の野分が、俄然興味を持ってしまった。そりゃあ、野分にとってあの見返りは
那智は大きくため息をついた。その悲痛な面持ちからは、後悔の念を抱いていることが見て取れる。
「それで、中田と名乗った男が持ちかけた実験とは、一体どんなものだったんだ」
九鬼が、低い声で那智に話の続きを促した。
那智は小さく頷くと、重々しい口調でそれを告げたのだった。
「私たち怪異の、実体化についての実験だ――」
怪異の実体化――これは、狭義的には「怪異が永続的な実体を得ること」を意味する。また、この場合の「怪異」は原則として、単なる現象としての怪異ではなく、魂と自由意志を備えた「妖」を指す。
ある程度の妖力を持った妖ならば、一時的な実体を形成した上で
しかし、それらはあくまで一時的なものに過ぎない。永続的な実体を得るというのは、実体を維持することに何ら努力を必要とせず、実体で過ごすことが
ひとつは、現世の人間社会で人間と同じような生活を送ること。この方法で完全な実体化を果たすには、数十年の歳月が必要とされている。
もうひとつは、人間の愛を得ること。野分と那智に話を持ちかけてきた男は、こちらを研究対象としていたという。
「――私と野分は手始めに、中田の手引きによって鷹取会会長・笹倉公平を襲撃した。鷹取会の次期会長候補の男が協力者ということで、適当な理由をつけて笹倉を三浦の海に連れ出したらしい。中田の指示通り、野分は跡形も残さずに笹倉を平らげ、更に、普段なら絶対にやらない記憶の取り込みも行った」
その結果、那智による付きっ切りの指導の甲斐もあり、野分はなんとか笹倉公平に擬態することに成功した。これで、第一関門突破である。
「そうして、私と野分の人間社会での生活が始まった。次期会長候補の男が万事心得ていたから、私たちは何もせずに事務所でふんぞり返っているだけで良かった……とはいえ、最初は人間に擬態し続けるだけで、クタクタになったがな。あの数々の見返りが無かったら、野分はなり振り構わず人間を襲っていたかもしれん」
「その見返りというのは、松越組の密漁者たちか?」
「その通りだ。あと、素行の悪い組員の
九鬼の質問に、那智は淡々と答えてみせる。それから、微かに顔をしかめると、いよいよ「実験」の内容について話し始めた。
「人間の愛を得ることによる実体化については、普通の実体化よりも不明な点が多いらしい。中田は、この『人間の愛』の種類が実体化に及ぼす影響を研究していると言っていた――」
その実験は、人間社会での暮らしが始まって1週間ほどしてから始まった。
事務所での仕事を終えた後、野分だけ横須賀市内のクラブに通って、人間の女たちと楽しく飲み食いをする。人間を喰いたい欲求を我慢することを除けば、拍子抜けするほど簡単な内容だった。
「中田曰く、『金を得るための偽物の愛であっても、連日のように大量に浴び続けて蓄積すれば、真実の愛を得た場合には及ばずとも永続的な実体化に寄与することができるのではないか』とのことだったが……私は正直、まともに捉える気にもなれなかったな」
「いや、滅茶苦茶にもほどがあると思うぜ、俺も」
梗子が呆れ顔で那智に同調した。
「その……那智。実験のためとはいえ、野分が自分以外の女と連日のように過ごすということについて、どう思っていたんだ? 不快じゃ無かったのか?」
この質問に、那智が驚いたようにオリーブ色の蛇の目を見開いた。しかし、すぐに明から視線を逸らして目を伏せてしまう。
そして、その声に悔恨の念を滲ませながら、野分と過ごした現世での日々を述懐し始めた。
「……全く不快感が無かったと言えば、嘘になる。だが私には、野分が人間の女に靡くことなど有り得ないという確信があった。どんなに見目麗しくとも、野分にとって、人間は単なる捕食対象でしかないからな」
ある日の夜、実験を終えて自宅――つまり笹倉公平の邸宅に戻ってきた野分は、先に帰宅して野分を待っていた那智にこうボヤいたという。
『酒や食い
『そんなことで大丈夫なのか、野分。
『心配すんなよ、那智。お前を困らせるようなことはしねえからさ』
『頼むぞ、本当に……なんだ、まだ
いつもなら帰宅してすぐに変化を解くのだが、その日は何故か、笹倉公平の姿を保ったまま紙袋をゴソゴソと漁っていた。
『それがよ、ちょっと那智にやってほしいことがあってな』
そう言って野分が取り出したのは、皿に乗った果物とスプーンのセットだった。
『これ、マンゴーっていう果物なんだけどよ。クラブの女がこれをアーンとか言いながら男の口に運ぶって遊びをしてたんだよ。那智、オレにアーンってしてくれ!』
『…………お前も人間も、馬鹿なのか?』
『そんなつれないこと言うなよお!』
あまりの馬鹿さ加減に唖然とした那智だったが、笹倉公平に擬態した野分の隻眼には一片の曇りも見られない。本人は至って真剣らしい。
『仕方ないな。一度だけだからな』
結局、那智は野分の遊びに付き合ってやることにしたのだった。
「振り返ってみれば、野分も私も、刺激に溢れた人間の暮らしに浮かれていたことは否めない。一応の警戒はしていたが、都合が悪くなったらさっさとトンズラすればいいと単純に考えていた。よもや、私たちを絡め取るための網が幾重にも張り巡らされていようなどとは、考えたことすらなかったんだ」
仮初の姿で過ごす、仮初の日々。そこで想い、感じたことだけは、紛うことなき本物だったと言えよう。しかし、所詮は謀略のために設えられたハリボテの舞台装置に過ぎなかった。
「野分とそんなやり取りをしてから、数日が経過した頃からだった。時々、野分が邸宅に帰って来なくなったんだ。事前に連絡はあったし、次の日の朝、宿泊先から直接事務所にやってきた野分には不審な点は見られなかったから、最初の数回はあまり気にしていなかったんだが……」
那智は躊躇いを見せながらも、人間たちに恭順の意を示すためか、ゆっくりと己の胸の内を明かしていく。
「実験のためとはいえ、野分が人間の……私以外の女と何度も夜を共にしていると思うと、さすがに不快な気持ちが増してきた。だから、中田の協力者である次期会長候補の男に、これが本当に必要な事なのかと問い質してみたんだ。すると――」
その男は那智の質問を予想していたのか、いかにも申し訳なさそうな顔を作ってペコペコ謝りながら事情を説明したという。
『その女というのがですね、強欲の権化とでも言うべきとんでもねえ性悪なんですよ。鷹取会会長の愛人の座を狙ってるとかで、中田さんとしてはかなり興味深い観察対象らしくてですね……ただ、那智さんが嫌っつうことなら、俺から中田さんに話してみますよ』
その結果、あと二晩だけ試したら、泊まりがけの実験は今後一切行わないという約束になった。それも、最後の晩にはその女を野分に喰わせるという
「今思えば、あの時点でさっさと逃げるべきだったんだ。だが、私にはできるだけ野分に
そうして二晩が過ぎた後、野分は那智にこれまでの事情を全て説明した上で、自分なりに詫びをしたいと申し出てきた。
『那智、寂しい思いをさせて本当に済まなかった……今日は久し振りに、ふたりで海に行ってみないか? 人間のデートってやつを、お前とやってみたいんだよ』
そうして早速その日の夕方、野分と那智は鷹取会の高級車にて三浦半島海岸沿いのドライブへと繰り出したというわけである。
「当然、嬉しかったよ。これまでずっと私が野分を引っ張る側だったし、車のハンドルを握る野分というのも新鮮だったからな。まるで、人間の女のようにドライブデートというのを楽しんでしまった」
やがて、城ヶ島に到着すると、ふたりは車を降りて馬の背洞門へと足を運んだ。
「この馬の背洞門は、私たちのお気に入りの場所のひとつなんだ。日が昇り沈んでいく光景を幾度となくふたりで楽しんできたし、あの日もそうして過ごすものだと、私は信じて疑わなかった……」
那智が言葉を切った。痛みに耐えるように唇を強く引き結んでから、噛み締めるようにゆっくりと言葉を押し出していく。
「あの瞬間のことは、あまりよく覚えていない。突然、背中を鋭い何かで穿たれたことと、それによって大半の妖力を失ったことは、ぼんやりと覚えている。それから、地に伏した私に、野分がこう囁いたことも……」
『すまねえ、那智……これはオレのためでもあり、そしてお前のためでもある……こうするのが、オレたちふたりにとって一番良いんだ……』
次に気が付いた時には、那智は本性である蛇の姿となって、暗く狭い場所に雁字搦めにされて閉じ込められていたという。
「抜け出そうともがいてみたが、自力ではどうしようも無かった。万に一つでも野分が正気を取り戻して舞い戻って来てくれるかもしれないという、そんな淡い期待を胸にじっと耐えて待っていたのだが……お前たちの話から伺うに、野分は完全に私の事を忘れ去ってしまったようだな」
那智はそう言って、虚しい息を吐いたのだった。
濡女の那智による、長い話が終わった。
「ということは、今現在、笹倉公平に擬態した牛鬼と共に過ごしている人間の女については、何ひとつ知らないということか?」
村上が思案顔で那智に確認した。
那智は小さく首を振ると、力の抜けた声で自身の推測を述べた。
「その通りだ。私には、何も分からない。もしかすると、例の性悪女がそのまま野分の隣に居座ったのかもしれないな。せめて一度くらい、後をつけて女の顔を確認するくらいの事はすべきだった……」
柳眉をひそめて、ポツリと漏らす。それから、すっくと立ち上がって九鬼の数歩手前まで進むと、覚悟を決めた強い眼差しで九鬼を見据えた。
「九鬼龍蔵。私から、頼みがある」
「……」
「野分を、野分を殺す前に」
言葉を詰まらせて、しばし逡巡する。
そして、腹の底から絞り出すような声でその願いを口にした。
「あいつの正気を、取り戻してやってほしいんだ。野分がただの人間の女に
オリーブ色の蛇の目を切なげに揺らしながら、懇々と人間の男に訴えかける。
「海洋怪異対策室と私たちの実力差は、火を見るより明らかだ。逃げたところで、そこの式神に地の果てまで追跡されるだろう。私は、とっくに観念している。それに野分だって、お前と正々堂々戦った結果滅ぼされるなら、思い残すことなく満足して」
「ふざけたことベラベラ喋ってんじゃねえよ!」
突然、梗子が那智の言葉を遮った。
握り込んだ拳を震わせ、怒りとも悲しみともつかない表情で那智を強く睨みつける。
「野分を愛しているお前が、目の前で野分が殺されるのを、大人しく黙って見ていられるわけがねえだろうがっ! それともなんだよ、野分へのお前の愛は、その程度のものだったのか!? 何を企んでやがるのか、ハッキリ言ってみろよ!!」
「梗子……」
那智が、胸を打たれたような顔で梗子を見た。
それから、唇を小さく綻ばせる。
「――――」
それは、那智が人間たちに見せた、初めての笑顔だった。
何もかもを諦めたような、そんな儚さを感じさせるその笑顔に、菊池明は息を呑む。
(まさか)
明は瞬時に、この濡女が何を考えているのかを理解してしまった。
「そんなの……!」
思わず引き止めようと伸ばしかけた手を、明はすぐに引っ込める。そして、そんな自分に不思議そうな目を向ける那智から顔を背けて、行きずりの妖に対して一瞬でもエゴをぶつけようとした事を激しく後悔した。
(また独りきりに戻れだなんて……そんな無責任で残酷な事、言えるわけがないじゃないか)
重い空気の中、那智がいかにも可笑しそうに小さく笑った。
「この私が、こんなことを考えるようになるとはな……もう二度と、人間を馬鹿になんてできやしないよ」
「那智……」
梗子が、噛み締めた牙の奥で小さく呻いた。那智はそんな梗子を一瞬だけ見て、すぐに視線を逸らしてしまう。
「――良いだろう」
九鬼の厳かな声が、沈黙を破った。那智が、大きく目を見開く。
「ただし、勘違いするな。あくまでも利害が一致したというだけだ。あの牛鬼に関しては、まだまだ確認するべきことがあるようだからな」
そう言い捨てると、次は梗子と楓に対して指示を出す。
「伊良部、榊原。時間が来るまで、濡女の身柄は任せる。少なくとも、牛鬼の正気が戻るまではおかしな真似はしないだろう。だが、決して油断はするな」
「了解しました」
「……了解っす」
九鬼は最後に、腑抜けたように突っ立っている明を見た。明の胸の中に、とてつもなく嫌な予感が広がる。
その予感は、見事に的中した。
「良かったな、菊池」
「――ッ!」
嫌味以外の何物でもないその一言に、村上は頭を抱え、楓はため息をつき、梗子は何とも言えない複雑そうな顔をする。
そして水晶は、そのあどけない顔に怒りを滲ませた。
「ちょっと!」
「良いんだ、水晶」
明は、すかさず水晶を押しとどめた。
「っ! でも」
「大丈夫だから」
安心させるように小さく笑いかけると、全ての表情を消してから、九鬼に対して頭を下げる。
「よろしくお願いします」
九鬼から返ってきたのは、沈黙と冷淡な視線だけだった。
幽世のもったりとした大気がまとわりつく中、右手首に巻きついたフルメタルのGショックが、その冷たさを一層増したような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます