第43話 牛鬼と濡女〈九〉

「ちょっと良いですか?」

 気まずい雰囲気の中、村上かけるが固い声で九鬼に話しかけてきた。

 自分にを言うつもりかと考えた九鬼だったが、村上の表情を見るにどうやら完全に別件らしい。九鬼は小さく顎を動かして、話の続きを促した。

「室長。野分のわきという牛鬼の、外見的特徴についてなのですけど」

「あの牛鬼の外見?」

「ええ。過去に遭遇した牛鬼たちと比較して、何か違った点はありましたか?」

「……そうだな」

 九鬼は目を細めて、野分と名乗ったあやかしの外見についての記憶を掘り返してみる。

「まず、鉤爪がやや小さかったな。そのお陰で、この程度の怪我で済んだのだろう。それと、身体の横の皮膜も小さかったような気がするが……それくらいだな」

「鉤爪や皮膜が小さかっただと?」

 那智が、驚きの声を上げた。

「私たちも、過去に何度か他の牛鬼に鉢合わせたことがある。だからこそ断言できるが、野分の鉤爪や皮膜の大きさは、他の牛鬼たちとさして変わらないはずだ」

「だが、俺は夜目が効く。奴の鉤爪を実際に受けもしたのだから、勘違いということは無いはずだ」

 九鬼はそう返した上で、村上に問うような視線を向けた。

「何か、思いついたことでもあるのか?」

「……これは、あくまでひとつの可能性の話なのですが」 

 村上が、思案顔でとある言葉を口にした。

「〈変質オルタレーション〉なのではないかと、思いましてね」

「っ!」

「それはつまり、神崎さんと同じ事が起きとるいうことですか?」

 九鬼と楓が、それぞれに深刻そうな反応を見せる。

「あの、オルタレーションというのは」

「ああ、そうだった。ふたりにはまだ、この新しい魔術用語の話をしたことは無かったね」

 村上は、戸惑いを見せる梗子と明に申し訳なさそうな顔をすると、気さくな調子で解説してみせる。

「〈変質オルタレーション〉っていうのはつまり、『怪異の変質』をちょっとカッコ良く言い表したというだけだよ。これなら、ふたりも知ってるよね」

 今度は、明と梗子も納得した様子で頷いた。

「はい、それなら俺も聞いた事があります」

「神崎さんって、今は一管区の海異対ですよね。元吸血鬼の磯女いそおんなって、何度聞いてもすごい経歴っすよね」

「元吸血鬼の磯女だと? なんだそれは?」

 那智が、訳が分からないという顔で梗子に訊ねた。梗子が、何故かはりきり顔になって那智に説明しようとする。

「えっとな、俺も会ったことはねえんだけど、神崎さんって色々すげぇらしいんだぜ。まずは」

「ごめん、伊良部さん。話がとっ散らかっちゃうから、主に俺から説明するよ」

 そういうわけで、村上主導のもと、怪異の変質――〈変質オルタレーション〉について語られることとなった。



  一般に、「怪異が変質する」という表現からは、ふた通りの状況を想定することができる。ひとつは、人間の愛を得た妖が「変質」して実体化を果たすこと。もうひとつは、とある怪異が性質の似通った別の怪異へと「変質」すること。

 〈変質オルタレーション〉という言葉は、後者の現象を意味している。

「――神崎さんは、元々は吸血鬼の血を引く〈異形〉だった。それが、数年に渡って海で活動をしたことにより、〈変質オルタレーション〉が引き起こされたらしい。本人曰く、『ある日突然、自分が磯女となったことを悟った』らしいよ」

 元吸血鬼の磯女・神崎郁恵。現在は、一本部海洋怪異対策室の室長として辣腕を振るっている。ちなみに彼女は、榊原楓を海上保安庁に引き込んだ張本人だったりもする。

 村上の説明に、那智は分かったような分からないような曖昧な顔で頷いた。

「吸血鬼と磯女か……確かに似ていなくもないな。だがそれなら、野分は何に変質しようとしているというのだ?」

「それは、俺にも分からない。というか、野分の〈変質オルタレーション〉というのも、現時点では俺の推測でしかないから」

「いや、〈変質オルタレーション〉は起こっていると考えるべきだろう」

 九鬼が、重みのある声で村上の仮説を支持した。

「色々と思い返して、ひとつ気が付いたことがある。あの妖は、俺の前では一度も自分が牛鬼であるとは言わなかった。ただ、野分とだけ名乗っていた……それから、もうひとつ」

 九鬼が、那智を一瞥した。

「一度だけ、呆然とした様子でお前の名前を呟いていたな」

「っ!!」

 那智が、ハッとした顔で九鬼を見つめた。九鬼はすぐに那智から視線を外す。

「それ、もっと早く言って下さいよ……」

 げんなりした顔で文句を言う村上には構わず、九鬼は自身の推論を述べていく。

「あの妖……野分は、その外見だけでなく内面においても変質している。中田とかいう男の真の目的は、怪異の実体化ではなく〈変質オルタレーション〉の実験だったと考えて間違いないはずだ。あとは、何の怪異に変質しようとしているかが分かれば良いんだが……村上、中田という男に心当たりはあるか?」

 九鬼が、村上に水を向けた。村上もその話題を待っていたのか、一転して真剣な顔つきになって話を引き取る。

「ありませんね。というか、魔術師協会では怪異や妖を対象とした実験なんてやってませんよ。それに、魔術師協会は魔術師たちに対して、常に公明正大であることを求めています。己の正体を隠して人間や怪異に近づくなんて、まともな魔術師ならまずやりません」

 村上は、懐から顔写真や名前などが記載されたカードを取り出して那智に掲げて見せた。

「これ、魔術師の資格証なんだけど、見たことある? 」

「……無い。つまり、中田と名乗った男は、私たちに身分を詐称していたのだな」

 那智が、資格証と村上を見比べながら力無く呟いた。既に罠にかけられた後であるため、驚きは感じていないらしい。

「牛鬼が変質するとなると、どんな怪異になるのでしょうか」

「すぐに思いつくのはミノタウロスやけど、ここは地中海やないし……そもそも、〈変質オルタレーション〉については、まだまだ不明な点が多いしなあ」

 明の問いに、楓が首を振りながら返した。

「我が主よ……」

「大丈夫だよ、水晶。何が起きていようと、俺はやるべき事をやるだけだ」

 不安そうに自分を見つめる式神の少女に、明は柔らかく笑いかける。

「――――」

 仄かに赤い光を反射するフルメタルのGショックが、昏い幽世の中でチカチカと瞬いた。




※ ※ ※




 夕暮れ時のとある漁港にて、辻元残波はスマホに表示された地図アプリと睨めっこをしている。

「場所はまあ、この辺が良さそうだな……もし連中が現れなかったら、返金請求してやるか」

 ブツブツと呟きながらリュックサックのサイドポケットにスマホを収納すると、漁港から少し離れた磯場を目指して歩き出した。

 つい昨夜、自宅である独身者用の公務員住宅に帰宅した直後のこと。注文した覚えが全く無い商品が宅配便で届くという、ちょっとしたトラブルが発生した。

『送りつけ商法? めんどくせえな』

 辻元は、消費者庁のWebサイトを確認しながら悪態をついた。送り主に連絡せずとも荷物を処分できるのは良いとして、中身を分別して捨てるというほんの少しの手間が、この冴えない中年男にとってはひどく煩わしく思えたのだ。

 だが、荷物の中身を確認した辻元の目つきは、俄然真剣なものとなった。

『〈幽世かくりよ進入キット〉、だと?』

 普段だったら、一笑に付して可燃ゴミに突っ込んだだろう。だが、今の辻元にはまともに取り合うだけの理由があった。

『こいつを使って、連中の鼻を明かしてやる!』

 しかし、すぐに重大な問題に気が付く。肝心の場所と時間が分からないのだ。

 落胆と憎悪に歯噛みしながら取扱説明書を眺めていた辻元だったが、そこにひとつの光明が差す。販売会社のWebサイトにアクセスしてみたところ、幽世や怪異に関連した怪しげな商品が多数販売されていたのである。

『〈電脳☆こっくりさん〉……胡散臭えが、物は試しだな』

 ワンクリックでアプリを購入すると、すぐにダウンロードして操作を開始した。

『海洋怪異対策室の連中の目的地、それと日時も教えろ!』

 半ばヤケクソで質問を入力した辻元だったが、予想に反し、アプリからはかなり現実味のある地名とおおよその時間帯が弾き出された。

『おいおいおい、もしかして本物マジなのかよ』

 そういうわけで、あくる日、仮病を使って休暇を取得した辻元は、〈幽世進入キット〉を携えて三浦半島最南端の漁港へと車を走らせたというわけである。

「まずは、直線を引くんだったな」

 漁港の外れ、小石や砂利が転がる粗い砂地にリュックサックを降ろすと、両手を広げたくらいの長さの直線を、靴の先で地面にしっかりと刻みつける。

「で、次はあれか…………しっかし、何回見ても気持ち悪いな。こんなんで本当に幽世に入れるのかよ」

 辻元はリュックサックの中からある物を取り出すと、無精髭が生えかけた顔をしかめながらまじまじと見つめた。

 それは、大きさ15cm程度の2体の木彫りの像だった。片方はコウモリの胴体にネズミの頭、それにミミズの尻尾。もう片方はクモの胴体とカエルの頭という、なんとも奇抜で個性的な造形となっている。取扱説明書には、これらの像は〈門番ゲートキーパー〉であると書かれていた。

 辻元は、砂地に引いた直線の両端に〈門番〉を向かい合わせにして配置すると、取扱説明書に目を通して内容をおさらいした。

(村上のやつ、魔術師だかなんだか知らねえけど、俺に恥をかかせたことを絶対に後悔させてやる)

 あの日、九鬼と村上が帰った後、村上の魔術師としての態度を魔術師協会に告発すべきと、辻元は鬼頭優雅に強く勧めていた。しかし、鬼頭はそんな辻元をにべもなく突き放した。

『確かに、魔術師協会は身内に容赦なく厳しい処分を下すと専らの評判だ。だが同時に、虚偽が一切通用しないことでも知られている』

『そ、そんな、虚偽だなんて』

『あの程度では、協会による処分は期待できん。その上で訴えたいというのなら、私の名前は使わず勝手に独りでやってくれ――』

 辻元は取扱説明書をリュックサックに突っ込むと、今度はライターと2本の紙燭しそくを取り出した。紙燭とは、細長い木の棒の先端に油を染み込ませた小さな松明のようなものである。

「なんだこの匂い……やけに甘ったるいな」

 何かの香料が染み込んでいるのか、ライターで火を着けた途端に濃厚な甘い匂いが立ち昇り、磯の香りと溶け合って辻元の周囲を漂い始める。辻元は紙燭を両手に持って胸の位置で掲げると、直線の8歩手前まで下がった。

 目を瞑り、これから唱えるべき呪句を頭の中に思い浮かべる。

(逆九字――九字を逆に唱えながら歩いて、最後の一歩で線を超えるようにする、だったな。ここまで来たら、やるしかねえ)

 辻元は深呼吸すると、目を瞑ったまま最初の一歩を踏み出した。

「前!」

 黄昏時の海岸に、中年男のがなり声が空虚に響く。

「在! 烈! 陣!」

 方向がずれないように、一歩一歩を慎重に踏み出しながら進んでいく。

 周囲の空気に、未だ変化は無い。

「皆! 者! 闘!」 

 紙燭から立ち昇る煙が、辻元を導くようにゆらりと前方に流れていく。

「兵!」

 夕焼け色に染まった木彫りの像が、瞬きもせずに互いの顔を睨みつけている。

「臨!」

 最後の句を叫ぶと同時に、辻元は直線の向こう側へと到達した。

(もしこれがパチモンだったら、さぞかし間抜けな絵面なんだろうぜ)

 しばしその場に立ち尽くしてから、ゆっくりと目を開いてみる。

 刹那、辻元の呼吸が止まった。

「なっ……」

 音もなく打ち寄せる磯波に、そよとも動かないもったりとした大気。燃えるような夕焼けはいつの間にか遠ざかり、伽藍堂の天地には急速に夜の帳が降りようとしている。

(これが、幽世)

 辻元はゴクリと唾を飲み込むと、恐る恐る息を吸ってみた。紙燭から漂うものとは比べ物にならない、むせ返るほどに濃厚な甘じょっぱい匂いが、鼻腔をくすぐりながらあっという間に肺の中を満たしていく。

「すげぇ……本当に来ちまった」

 未知の世界に足を踏み入れたことへの恐れと興奮に、辻元は背筋をゾクゾクとさせながら眼前に広がる幽世の海と空に見入っている。

(海異対の連中も、霊力の少ない人間がわざわざ幽世に入って仕事ぶりを確かめに来るなんて、全く考えてもみねえだろうな。ざまあみろ!)

 業務内容が多岐に渡る海上保安庁においてもなお、海洋怪異対策室の異質さは群を抜いている。多少霊力が強いだけでは彼らの世界に近づくことすら叶わず、どのように〈海異〉と渡り合い、問題を解決しているのか、その具体的内容が普通の職員の耳に入ることはほとんど無い。ごく一部ではあるものの、人目の届かない幽世で何をしているのか分かったものではないと陰口を叩く人間がいるのも事実だった。

(電波は届かなくてもカメラ機能とかは普通に使えるって話だし、妖と遊び呆けてるところを隠し撮り出来れば重畳だな)

 絶対に部外者に見られないと安心できる世界で、職務への誠実さや勤勉な態度を保てるはずがない。それが、辻元残波の人間観である。

(本庁にチクっても良いけど、それで終わりだとつまんねえな。いっそ村上に――)

 既に弱味を握ったつもりになって悦に浸る辻元だったが、何気なく振り向いたその瞬間、そんな愉快な気分は一気に消し飛ぶこととなった。

「ヒイイッ!?」

 だらしない悲鳴を上げて紙燭を放り出すと、砂地の上に尻餅をついたまま必死になって距離をとる。

(な、なんだってんだよ!?)

 無精髭の生えかけた顔面を恐怖に引き攣らせながら、信じられない思いで〈門番〉たちを凝視する。

 木彫りの像に過ぎなかったはずの〈門番〉たちが、ただの像ではなくなっていた。大きさは人間の子供と同じくらいまで巨大化し、色や質感は完全に生き物のそれへと変化している。片方は、コウモリの翼とミミズの尻尾をゆるゆると動かし、もう片方はクモの脚をワサワサと揺すったりカエルの口から長い舌をペロリと出したりと、辻元には見向きもせずに自由気ままに佇んでいる。

(妖、いや、式神ってやつか? 何でもいいけど、驚かせるんじゃねえよ!)

 どうやら自分への害意は無いらしいことを見て取ると、辻元はゆっくりと立ち上がって、足音を立てずに素早くその場を離れた。

(この俺がこの程度のことで挫けると思ったら、大間違いだぜっ)

 冷や汗をかきながらも、独り虚勢を張る辻元。乱れた呼吸を整えながら、足場の不安定な岩場を目的地に向かって進もうとする。

「……うっ」

 唐突な立ちくらみに、思わずその場に膝を着いてしまう。落ち着きかけた呼吸が再び早くなり、軽い吐き気と頭痛がじわじわと辻元の余裕を奪っていく。

(おいおい、冗談じゃねえぞ。いくら何でも早すぎるだろ)

 辻元は、取扱説明書に記載されていた注意事項を思い返した。そこには確かに、霊力の少ない人間が幽世に入ると短時間で体力を消耗すると書かれていた。そして、幽世で何が起きようとも、販売元は一切の責任を負わないという旨も。

(クソッ、戻るか? だがここで引き返したら、とんだ骨折り損だ。ここは意地でも)

 歯を食いしばって立ち上がると、ふらつきながらも足を前に踏み出そうとする。


 ウフフフフ……


 辻元の耳に、少女の笑い声が飛び込んできた。

「誰だっ!?」

 慌てて周囲を見回すも、しんとした幽世の磯場には人っ子一人見当たらない。

(ひょっとして、あの像の出した声か? そうだ、そうに決まってる。何ひとつ怯える必要なんて…………なんだ、今度は!?)

 必死に自分自身に言い聞かせていたところに、どこからともなく民族調の音楽が流れてきた。

「……マイム・マイム」

 その懐かしい旋律は徐々に大きくなって、呆然と立ち尽くす辻元の周囲をぐるぐると回り始める。


 まいむ まいむ まいむ まいむ!

 まいむ まいむ べっさっそん!


「ヒィ!?」

 辻元の目の前に、ひとりの少女が現れた。顔がおぼろげなその少女は、小学生の時のクラスメートだった。名字だけなら、覚えている。

「か、加藤……どうしてここに」

 辻元の脳裏に、目の前の少女についての記憶が鮮明に蘇る。

 ある日のこと、体育の授業でフォークダンスをすることになった。たまたま隣にいた加藤と手を繋ぐことになった辻元は、ほんの出来心でこう叫んでみたのだ。

『加藤と手を繋ぐと、貧乏神が移ってくるぞ!』

 当然、口から出任せだ。加藤がいつも同じような服を着ているとか、お下がりのランドセルを使っているとかで裕福な家庭ではないと噂されていたから、ちょっとした思いつきで言ってみただけの話である。

『貧乏神だってよ!』

『うげー!』

『こっち来んなよ!』

『パス、パス!』

 すると、男子たちは新しい玩具を見つけたように、輪になって加藤を囃し立てた。無邪気で残酷な子供のさがというものである。

 次の日から、加藤は学校に来なくなった。


 まいむ まいむ まいむ まいむ!

 まいむ まいむ べっさっそん!


「あぎゃあっ」

 辻元は加藤に背を向けると、転げるようにしてその場から逃げ出した。

 何度も躓きながら半泣き状態で出発地点に戻ってくると、信じられない光景が目に飛び込んでくる。

「おい、嘘だろ」

 〈門番〉たちが、忽然と姿を消していた。

「――ッ!」

 縋るような気持ちで砂地に引かれた直線を何度か行きつ戻りつして横切ってみるも、何も変化は起こらない。

(そんな……どうやって戻れば良いんだよ)

 底無しの絶望が、辻元の五臓六腑に気持ちよく染み込んでいく。


 まいむ まいむ まいむ まいむ!

 まいむ まいむ べっさっそん!


「もう止めてくれぇ!!」

 たまらず絶叫すると、固く目を瞑って耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。それでもなお、民族調の懐かしい音楽が頭の中に響いてくる。


 まいむ まいむ まいむ まいむ!

 まいむ まいむ べっさっそん!


 たくさんの子供たちが、自分を囲んで踊っている。その顔は、インクが滲んだようにぼやけていてよく見えないけれども、皆とっても楽しそうに歌っている。

 目を瞑っているというのに、何故だかそのことが分かってしまうのだ。

(誰か、誰か助けてくれ)

 泣きじゃくりながら、イヤイヤするように首を振る。それでも、子供たちの大合唱はますます大きくなるばかり。

「あ――」

 恐怖が臨界点を突破したところで、プツンと何かがはち切れた。そうして空っぽになった頭の中に、単純かつ明快な解決策が浮かび上がる。

(そうだ、この身体から逃げればいいんだ。簡単なことじゃないか)

 だから辻元は、邪魔な肉体を脱ぎ捨てた。

 子供たちの間をすり抜けて、軽やかな気持ちで夜の磯場を駆け抜ける。

「嗚呼……!」

 辻元は、歓喜に打ち震えた。

 今この時こそが、人生で最高に幸福な瞬間なのだと。数十年の歳月を経て、やっと真理に到達することが出来たのだと。


 まいむ まいむ べっさっそん!

 ヘイ! ヘイ! ヘイ! ヘイ!


 新たな人生の門出を、子供たちが祝福してくれている。

 自分は、子供たちの期待に応えなければならない。

 ならば、次にすべきは――




※ ※ ※




「ん? なんか今……」

「どうしたん、梗子?」

 岩場に座って菓子パンを頬張っていた梗子はピタリと動きを止めると、しんとした幽世の大気にじっと耳をすませた。

「誰かが叫ぶ声が、聞こえたような」

「梗子様。実は私も」

「おう、水晶も聞こえたのか」

 梗子と水晶が互いに頷き合うのを見た明は、九鬼と村上に対して、水晶に偵察させることを提案する。

 許可が下りるなり崖の向こう側へと飛び去った水晶は、5分と経たずに戻ってきた。

「えっと、人間の男性が倒れていました。それも、昨日の村上さんのダウジング中に廊下をうろついていた人です 」

「えっ、それって……」

 話し合いが持たれた結果、まだ時間があるだろうとの事で、那智も含めた全員で様子を見に行くこととなった。

「げっ、マジで辻元じゃねえか」

「なんでまた、こないなところに」

 一同は驚きと困惑に包まれながらも、すぐさま手分けして容態確認と現場検証に取り掛かる。

 村上は辻元の身体に手をかざすと、正中線に沿ってゆっくりと探るように動かした。

「……不味いですね、魂も幽体も抜けてます。一刻も早く探し出して肉体に戻さないと」

「参ったな」

 九鬼が、大きくため息をついた。

「こんな形で戦力を削がれることになるとは……偶然とは、とても思えん」

「それで、ものは相談なのですが――」

 白目を剥いて横たわる辻元の肉体のすぐ横で、ふたりは小声で何事かを話し合う。しばらくして話がまとまると、村上は梗子と楓、そして明を呼び寄せた。

 村上は、辻元の状態について簡単に説明する。

「肉体だけを現世に戻すと、魂との接続が切れる可能性が高い。だから、見張りを付けた上でこのまま幽世に留めておこうと思う」

「見張り、ですか?」

 いかにも意味ありげなその言葉に、若手3人は不審と期待を込めて村上を見つめる。

 村上は小さく笑って首を傾げると、部下を昼食に誘うのと同じような気軽さで、こう言ってのけたのだった。

「滅多にない機会だ。君たちに、天使召喚をお披露目しよう」

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