第41話 牛鬼と濡女〈七〉

 城ヶ島有数の観光名所である馬の背洞門のそばで、梗子と濡女が穏やかに言葉を交わしている。

「泳げる上に、陸地も移動できるのか。随分と便利な生き物なのだな、エラブウミヘビというのは」

「でもさ、肺呼吸だから1時間に1回は息継ぎしないといけないんだぜ。気をつけないと、息継ぎする時に鼻から海水が入ってむせるんだよな」

 梗子は濡女の背中に両手をかざして妖力を注ぎながら、持ち前の快活さを発揮して、少しずつ着実に濡女との距離を縮めている。

 本性であるアオダイショウの姿で一斗缶に押し込められていた濡女は、当初はかなり衰弱していた。しかし、場所を幽世かくりよへと移した上で梗子が懸命に妖力を注いでやったところ、こうして変化へんげした状態で会話ができるまでに回復している。

 一方、九鬼と村上、楓、そしてあきらと水晶は、少し離れた場所で濡女の頭部を覆っていた御札の検分をしていた。

「意匠だけなら、鎮宅霊符に似とるような気もしますけど……これだけでは何とも言えませんわ」

 楓が、顎に手を当てて整った眉を寄せながら、独特の書体で「封印」と書かれた御札を見下ろしている。

「微弱ではありますが、御札の効力がまだ残っています。水晶なら作成者が分かるかもしれません。追跡させてみますか?」

 御札に残留した霊力を数珠を使って探っていた明が、九鬼と村上に提案する。

 しかし、村上は首を横に振った。

「いや、そこまでしなくていい。我々海異対の使命は、職員の安全確保だ。下手するとプライバシーの侵害にもなりうるし、作成者のことを知らなくたって目的は達成できるよ」

 村上は楓から御札を受け取ると、表面に魔術の護符が描かれた小箱の中に収めた。

「それでも、重要な証拠品でもあるからね。写真を撮って他管区の海異対と情報共有した上で、厳重に保管しておこう」

 そう言って小箱をバッグの中に収納すると、一瞬だけ九鬼と目配せを交わした。それから、何かに気がついたように馬の背洞門の方に視線を向ける。

「話は終わったみたいだ」

 村上の言葉に、他の5人も馬の背洞門の方へと向き直った。

 濡女と梗子が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

「室長たちと、話がしたいそうです」

 濡女の斜め後ろから、梗子が九鬼に話しかけた。その顔には困惑の色が浮かんでいる。

 九鬼は前に進み出ると、普段通りの険しい表情そのままに濡女を見下ろした。

 濡女は怯むことなく九鬼の視線を受け止めると、静かに口を開く。

「私の名前は、那智なちだ」

 それを聞いた途端、九鬼の瞼がピクリと動いた。しかし、今は濡女の話に集中することにする。

「……梗子から、事のあらましは聞いた。まずは、助けてくれたことについて礼を言う。独力では、あの封印を破ることはできなかった。お前たちに感謝する」

 そう言って、那智と名乗った女のあやかしは、人間たちに対してしずしずと頭を下げたのだった。

 人間に変化した那智の姿は、梗子よりも蛇の特徴が色濃く出ていた。皮膚の大半がアオダイショウの鱗に覆われ、背中までの髪は暗緑色、白目の部分はオリーブ色となっている。背丈は、156cmの梗子よりも多少高いくらいだが、地味な色の小袖を纏ったその佇まいからは、柳のようなしなやかな強さが感じられた。

「……」

 那智の礼に、九鬼は反応しなかった。身動ぎもせず、無言を貫いたまま濡女の挙動を監視している。

 那智が、ゆっくりと顔を上げた。何かに迷うように、少しだけ顔を俯かせる。そしてすぐに、意を決したように九鬼を見据えると、はっきりとした声で問いかけた。

「お前は、野分のわきをどうするつもりだ?」

「殺す」

「――――!」

 那智が、激烈な怒りを露わにした。 

 オリーブ色の目をカッと見開き、鋭い牙を剥き出しにしてシュウシュウと擦過音を出しながら、般若の形相で九鬼を睨みつける。

 対する九鬼は、構えを取ることすらせずにその場に突っ立ったまま、無感情に那智を眺めている。

 那智の激昂は、唐突に治まった。

「……」

 ガックリとうなだれると、人間たちにくるりと背中を向けた。九鬼以外の5人はホッとして構えを解きつつも、戸惑ったように那智と九鬼を見比べる。

 那智は手頃な岩の上に腰かけると、弱々しい声で人間たちに懇願した。

「少し、私の話を聞いてほしい」

 口を閉じて、オリーブ色の目を哀しげに揺らす。

 そして、人間たちから拒絶の意が返ってこないことを確認すると、侘しい幽世の海を眺めながら、己の半生を語り始めたのだった。




「私は元々、霊力が多少強いだけの、単なるアオダイショウに過ぎなかった。あの日、あの女と出会わなければ、普通のアオダイショウとしてそのまま一生を終えていただろう。かれこれ200年は昔の話になるな……」

 那智はそう言って、遠い昔を懐かしむように縦長の瞳孔を持つ蛇の目を細めた。

「私は、江戸と呼ばれていた街の、とある小さな川の近くに住んでいた……ある嵐の夜、薮の中で休んでいたら、血の匂いが漂ってきたんだ。餌にありつけることを期待した私は、横殴りの風雨の中、血の匂いを辿って河川敷に這っていったのさ」

 すると、川から這い出たような形で、人間の女が倒れていた。地味な色の小袖と長い髪は、濁流に揉まれに揉まれて大いに乱れ、当然ながら全身はぐっしょりと濡れそぼっている。血の匂いは、女の腹の辺りから漂っていた。

「霊力が強いとはいえ、所詮はただの蛇だったからな。特別何かを感じることもなく、血の匂いに誘われるままに女の側へと近づいた。すると、女が私に声をかけてきたんだ」

 月の見えない嵐の夜だったが、何故だかその女は蛇の存在に気がついた。おそらくは女もまた霊力が強く、同じく霊力が強い動物の接近に勘づいたのだろうと那智は振り返る。

『そこな蛇さん……惨めに棄てられたあたしを、慰めに来てくれたのかえ……?』

 今にも消え入りそうなか細い声が、激しい風雨の中、聴力に優れた蛇の内耳を微弱に震わせた。

『……あんた、腹が減ってるんだろ? あたしを……あたしの全てを、あんたに喰らわせてやるからさ……どうか……』

 瀕死の女による何の脈絡も無い申し出に、その蛇は関心を惹かれた。人語は理解できずとも、「食べる」という生物の三大欲求を表す言葉から本能に訴えかける響きを感じ取るのは、その蛇にとって造作もない事だった。

 そうして、弱々しく差し出された女の手に導かれるままに、腹部から流れ出た血をペロリとひと舐めしてみた。

『――ッ』

 蛇の小さな身体の中に、女の思念が流れ込んでくる。

『――クイ、ニクイ、カナシイ、カナシイ、ニクイ』

 思念に引っ張られるように血を啜り、肉をみ、女の全てを呑み込んでいく。

『ニクイ、カナシイ、ニクイ、憎イ、憎い!!』

『アノ男を、コロして……!』

 気が付くと、蛇はいつの間にか人間の女の姿に変化していた。

「――強い怨念を持った女の血肉を喰らって霊力を取り込んだことにより、短時間のうちに一気に怪異化が進んだのだろう。図らずも、あの女の姿と記憶、そして、那智という名前を引き継ぐ結果となった」

 記憶を引き継いだことにより、「那智」の身に何が起きたのかも理解することができた。

 「那智」が遊女だったこと。奉公人の男と恋仲になったこと。叶わぬ恋ゆえ、あの世で添い遂げようと約束したこと。直前になって急に男が怖気づいたこと。揉み合いになって、女の腹に小刀が刺さったこと。そのまま濁流に突き落とされたこと――

「馬鹿だと思ったよ。男も女も、両方な。そもそも、自ら命を絶つという行為そのものが、私の理解を超えていた。それでも、約束は約束だ。私は早速、女の記憶を頼りに例の男を訪ねて、呪いをかけてやった……なに、大したことじゃない。あの男の罪悪感を刺激して、狂わせてやっただけだ」

 那智は、男がけたたましく笑いながら家を飛び出して濁流に身を投げるのを見届けると、そのまま江戸を離れた。それが、長きに渡る流浪の旅の始まりとなる。

「それ以来、私はずっと独りで過ごしてきた。なまじ人間についての知識があっただけに、他の妖たちとはどうにも馴染めなくてな。といって、人間に紛れて暮らそうという気にもなれなかった。退屈しのぎに土地神の真似事をしていた時期もあったが、それもすぐに飽きてしまった」

 そこで、那智は一旦口を閉じた。

 無機質な岩場に視線を落として、痛みに耐えるように薄い瞼をわななかせる。それから、感情を押し殺した平坦な声で話を再開した。

「野分と出会ったのも、嵐の夜だったな。50年ほど前の話だ。この場所からさほど離れていない海岸沿いをさ迷っていたら、波打ち際に牛鬼が倒れているのを見つけたのさ」

 その牛鬼は、那智の存在に気が付いても動こうとはしなかった。巨大な単眼でギョロリと那智を睨みつけると、しわがれた声でこう吐き捨てた。

『なんだてめえ……オレを嗤いに来たのか……』

『別に、嗤おうなんて思ってないさ。もっとも、哀れとも思わないがな』

 風雨に打たれ、磯波をかぶり続ける牛鬼を見下ろしながら、那智は素っ気ない言葉を返した。

『ケッ。今際の際に、冷てえ女だな』

『冷たくて、悪かったな』

 しばらくの間、会話が途切れた。風雨はますます強まり、岩場で砕け散った磯波が飛沫しぶきとなって絶え間なくふたりに降りかかる。

『……お前さ、人間みてえな姿してっけど、名前とかあんのかよ?』

 ふいに、牛鬼がそんなことを訊ねてきた。那智は怪訝に思いながらも、問われるがままに自身の名前と過去を説明する。牛鬼はさほど興味も無さそうな顔で聞いていたが、那智が話し終えると、今度はこんな事を頼んできた。

『オレに、名前をつけてくれないか……』

『名前をつけるだと?』

『ああ、そうだ……オレは、暴れ回るしか脳がない、ただの牛鬼に過ぎない。人間の術者共に見つかって追い回された挙句に一生を終えようとしている、名も無きつまらん牛鬼だ……』

 風雨が吹き荒ぶ夜闇に視線をさ迷わせながら、半ば独り言のようにその願いを口にする。

『それでも……最期に、オレだけの名前を得られたのならば……たったそれだけで、オレは特別な何かになれた気がするんだ……』

『……』

 那智は牛鬼の視線を追って、海と空が激しく荒れ狂う様を眺めた。

 今は、秋口。この時期に南の彼方からやってくる暴風雨を、人間たちが台風と呼んでいることを那智は知っていた。そして、かつては別の呼称が使われていたことも。

『野分、というのはどうだ』

『のわき……?』

『この荒れ狂う風を、かつて人は野分と呼んでいた』

『そりゃあいい……まさに、オレそのものだ』

 牛鬼が、巨大な目を閉じた。その獰猛な顔には、満ち足りたような表情が浮かんでいる。

『ああ……イイ気分だ……』

 牛鬼の輪郭がぼやけ、うっすらとした光を帯び始めた。

 今まさに、牛鬼・野分の存在が消えようとしている。

『――待て!』

 考えるより先に、手が動いていた。

 那智は、驚きのあまり言葉もなく自分を見つめる牛鬼をよそに、大量の妖力を注ぎ続けた。幸いにも妖力の相性が良かったからか、人間の術者たちから受けた損傷はすぐに修復された。

 つまり、那智に名前を与えられた牛鬼・野分は、その命もまた那智から分け与えられたということになる。

「……あの時、どうして野分を助けたのか、今でもよく分かっていないんだ。名前をつけたことにより情が湧いたのか……あるいは、蛇の妖である私が牛鬼と出会ったその時点で、そういうえにしが築かれていたのかもしれない。とにかく、あの嵐の夜に、私は濡女の那智になったというわけだ」

 それ以来、野分と那智は片時も離れることなく歳月を共に過ごしてきた。人間の術者たちに目を付けられないように各地を転々とし、野分が人間を襲うときは、率先して那智が指導に当たった。

『いいか、野分。人間の中には、急に姿を消しても周りに気にされず、探されることもないような連中が存在する。そういう奴らを狙えば、術者たちが追ってくることも避けられるはずだ』

『へえ……言われてみれば確かに、いかにも後ろめたいことをしてそうな匂いがプンプンするぜ。那智は物知りだなあ!』

 これまで何の考えもなしに人間を襲ってきた野分にとって、那智の教えは全てが新しく、とても為になるものだった。もっとも、元々の気質が狂暴かつ浅慮だったため、常に那智が付き添って指示を出さなければならなかったのだが。

「つまり、私は野分を通して多くの人間を殺してきたことになる。言い訳するつもりは無いし、お前たちに祓われたとしても致し方ない事だと考えている。ただ……いや、まだ重要な話があったな」

 那智は、俯き加減になっていた顔を上げて、背筋を伸ばした。

「退屈な身の上話に付き合わせてしまったが、ここからが本題だ。まずは、私と野分が鷹取会を乗っ取ることになった経緯を説明しよう――」



 しかし、那智の口から語られた「真相」によって、事件の全体像はますます不可解なものとなってしまう。

 これは、とある牛鬼と濡女に降りかかった、とんだ悲劇の物語。

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