閑話 人魚に小籠包は熱すぎる
長く続いた梅雨がやっと明けて、灼熱の光線が降りそそぐ真夏が訪れた。
まりかは、膝丈のワンピースと七分丈のレギンス、ハーフアップの髪に〈夕霧〉と涼しげな飾りの付いた簪を挿して、夏らしいメイクをしている。対するカナは、ダチョウのイラストが大きくプリントされたTシャツと膝上の黒いタイツという、至ってシンプルなコーディネートである。
「これは『
「ふむ」
大勢の観光客が行き交う中、青を基調とした極彩色の巨大な門をじっくりと観察するまりかとカナ。この朝陽門には東の方位を守護する神・青龍が据えられているとのことで、
「もっとも、よほどの害意を持ってない限り、どんな怪異や妖だって出入り自由みたいだけどね」
ふたりは朝陽門をくぐり抜けると、突き当たりを左に曲がって、南の朱雀門へと通じる道を歩き始めた。
「そういえば、カナって暑いのは平気なの? 帽子が欲しければ買ってあげるけど」
真夏の太陽光線をギラギラと反射する白髪を眺めながら、まりかが気遣わしげに申し出る。
しかし、カナはまりかを見ることもせずに、すぐに首を横に振った。
「いらん。あんなもん、鬱陶しいだけじゃわい」
「そう、ならいいけど」
カナのぶっきらぼうな物言いに気を悪くするでもなく、まりかは小さく肩をすくめると、再び前を向いて歩き始めた。
八景島沖の一件以降、カナは目に見えて元気が無くなった。その表情は沈鬱で、まりかが話しかけない限りは一言も喋らず、今日までずっと自分の殻に閉じこもり続けている。そして、平日も休日も、日がな一日を海の中で過ごすようになった。
朝、まりかが起きる前には家を出て、夜、就寝の準備をする頃になってようやく帰宅する。どこで過ごしているのかと問うと「海」とだけは答えるが、具体的に何をしているのかについては何も話そうとしない。金魚たちと顔を合わせるのも避けているらしく、まりかが買ってきたスイーツにも手をつけようとはしなかった。
八景島沖の件が原因であることは、疑う余地も無かった。しかし、具体的に何がどうカナの心に影響したのかということになると、まりかには皆目見当もつかない。といって、思い詰めた様子のカナを問いただす気にはなれず、まりかにしても、あれ以来ずっと気分が沈んだままなのは同じだったため、カナに対して積極的に働きかけるようなことはしてこなかった。
とはいえ、いつまでもこのままでいて良いはずが無い。昨日、部屋で独り夕食を済ませた後、ベッドに寝転がって「ジュリスト」をめくっているうちに、やっとそれを理解したのだ。カナも、そして自分も、そろそろ前に進まなければならないのだと。
そういうわけで、渋るカナをどうにか説得して中華街に連れ出したというわけだった。
「……見事な復興を成し遂げたものじゃな」
通りの両側にズラリと並ぶ商店を眺めながら、カナがボソリと呟いた。
「じゃが、永遠に失われたものの、なんと大きなことか」
幼い顔に似合わぬ沈鬱さを漂わせながら、人混みの中を危なっかしくよたよたと歩いている。
その華奢な身体を庇うように、まりかは少しだけカナに身体を寄せた。ショルダーバッグがぶつからないように反対側の肩にかけ直すと、上からカナの顔を覗き込む。
「確かに、あの大戦では本当に多くのものが失われたわ。失われたものがあまりにも多すぎて、そもそも何を失ったのかさえ、私たちは未だに理解しきれてないのだと思う。でもね」
まりかが、足を止めた。通行人の邪魔にならないよう、電柱と立て看板の間にできた絶妙な空間で、カナとふたり向かい合う。
「どうしようもないほど大きな喪失から立ち上がった無数の人たちが、もがいて苦しんで、それでも前を向いて進み続けたの。せめて今このときくらいは、ちっぽけな人間たちの涙ぐましい努力の成果に、もっと注目してくれたって良いんじゃないの?」
「……なんじゃ、煽っとるつもりか」
カナが、じろりとまりかを見上げた。
「別に、人間がちっぽけとは思っとらん。もっとも、態度だけは無駄にデカいと感じることなら、ままあるがな」
そう言って、ふらりと歩き出した。
「それは嫌味なの?」
「単に事実を言ったまでじゃ」
「ああ、そう……」
再びカナの隣を歩きながら、まりかは手で
(無理矢理連れ出したのは、間違いだったかしら)
活気溢れる現在の中華街を見せれば少しは元気を出してくれるだろうかと期待したのだが、カナの反応の鈍さを見ると、むしろ逆効果だったのではないかという気がしてくる。
(ええい、まだ始まったばかりじゃない!)
まりかは自身の弱気に喝を入れると、少しだけ足を早めた。最初の目的地が、すぐそこに迫っている。
まりかは「天后宮」と書かれた極彩色の門の前で立ち止まると、明るくカナに笑いかけた。
「ほら、ここが『
「海の女神だあ?」
カナがいかにも胡散臭そうな顔をして、三重の瓦屋根を戴いた豪壮な門をジロジロと睨みつける。まりかはササッとカナの背後に回ると、その小さな背中に両手を添えた。
「さあっ、お参りしましょう!」
「ちょっと待て、わしは」
気の乗らない様子のカナの背中をグイグイと押して、媽祖廟の門をくぐり抜ける。
途端、カナの表情が変わった。
「むむう? これは……」
俄然真剣な顔つきになって、スンスンと辺りの匂いを嗅いで確かめる。
「……こことは違う海の匂いがするぞ」
「ふふっ、カナなら分かると思った」
まりかは、驚いた顔で廟の敷地内を見回すカナを見て、目論見通りと悪戯っぽい笑みを零した。
媽祖――天上聖母や天后などとも称されるこの女神は、元々は中国・福建省沿岸の小さな漁村に生まれた人間の娘だった。幼い頃から才智に長け、各地を巡っては神通力を用いて悪を退け、人々の病を癒したとされている。天に召された後も、赤い衣装を纏って海上を舞い、苦難に陥った漁師や船乗りを荒れた海から救い上げる姿が度々目撃されたため、いつしか海の女神として人々に祀られるようになったという。
「――他にも、天気を予知したり、災害を言い当てたり。あと、魂だけになって旅をすることもできたと伝えられているの。その才智と霊力の高さゆえに、人々から尊敬を込めて『通玄の霊女』とも呼ばれていたそうよ」
「つうげん?」
「『通玄』は玄理に通ずるという意味で、『玄理』は奥深い道理という意味なの」
「ふうん……むむ?」
敷地内を眺めながらまりかの解説を聞いていたカナだったが、とある事実に気がつくとサッとまりかの顔を見た。
「『赤い衣装を纏って海上を舞う』だと?」
「そうなのよ」
カナの視線を、まりかは困ったように笑って受け止める。
「蘇芳様から〈夕霧〉と一緒にあの衣装をいただいた時は、本当に気がつかなかったのよ。何ヶ月かしてこの場所に立ち寄った時になって、ようやく気がついたの」
自身が持つ高い霊力を人々のために役立てたいと望むまりかに対して、龍神・蘇芳が成人祝いも兼ねて贈った
「蘇芳は、この媽祖廟の存在は知っておるのか?」
「むしろ、知らないはずがないわ。中華街は、蘇芳様のお気に入りの場所のひとつだし」
まりかは、片手を頬に当ててため息をついた。
「あのお方の考えることって、本っ当に訳が分からないんだから」
「ふうむ。つまり蘇芳は、媽祖にまりかを重ねたと……」
カナは、八角形の瓦屋根を持つ廟の建物をじっと見つめると、再びまりかに視線を戻した。
「……」
「何よ、私の顔に何か付いてる?」
「……まあ、あれじゃな」
しばしの沈黙の後、カナがフンフンと頷きながらこう言い放った。
「その逸話を聞くに、媽祖とやらの方が、まりかよりもよっぽど優れておるな!」
「言うと思った」
「なぬっ!?」
想定とは真逆の反応に、カナは小さく動揺する。
そんなカナに、まりかは首を傾げて小さく笑いかけた。
「やっと、いつもの調子が戻ってきたわね。やっぱりカナは、こうでなくっちゃ」
「ぬ、ぬうう、
カナは一瞬だけ、怒ったようにまりかを睨みつけた。しかしすぐに、しおらしい顔に戻ると俯き加減でこう呟く。
「じゃが確かに、要らぬ心配をかけたようじゃな……すまぬ」
ふたりの間に沈黙が流れた。
横浜の海とは違う、どこか遠い海の香りが、ふたりの周囲をゆるゆると漂っている。
しばらくして、まりかがカナに手を差し出した。
「それじゃあ、そろそろ媽祖様にお参りしましょう。作法は私が教えてあげるから」
「むむう……まあ、よかろう」
不平そうな顔をしながらも頷くカナ。そして、ふと何かに気がついたような顔をしてまりかに確認した。
「お参りとやらをする時は、何かしらの願いをかけると聞いた覚えがあるんじゃが」
「そうね。媽祖様には、航海安全や健康を願うのが習わしとなっているわ」
「そりゃあ良い!」
カナが、ポンと手のひらに拳を打ちつけた。
「そいじゃ、わしはまりかの海上安全を祈願するとしよう。わしだけでは、とても危なかしくって面倒見きれんからのう」
「ちょっと、それどういう意味よ!」
「言葉通りの意味じゃが?」
腕を組み、ニヤリと笑ってまりかを見上げるカナ。表面的には、沈鬱な感情はすっかり消え去ってしまったようにも見える。
(それでも、もう一押ししておいた方が良いわね)
まりかは、次の目的地で待ち受ける人物の顔を思い浮かべて決心すると、心正しく参拝するために気持ちを切り替え、最初の香炉に歩み寄ったのだった。
参拝を終えて媽祖廟を辞したふたりが向かったのは、「珍珠閣」という名の料理店だった。
「子供の頃からの馴染みの料理店なの。『珍珠』は、中国語で真珠という意味なんですって」
「ふうん」
まりかは、「準備中」の札が掛けられた店の扉に手をかけた。
「入っていいのか?」
「事前に連絡してあるから」
真鍮製のドアハンドルを引くと同時に、猫の飾りが付いたドアベルが静まり返った店内に賑やかな音を響かせる。
「誰もおらんぞ」
「ちょっと呼んでみるわ」
まりかが店の奥に呼びかけようと口を開きかけた、その時。
「待ってたわよーん!!」
「のわっ!?」
暖簾の向こうから音もなく誰かが飛び出してきたかと思うと、黄色い歓声を上げながら両腕を広げてまりかの元へと猛突進してきた。
「いやーん、久しぶりじゃなーい! 元気してたー?」
ムギュっとまりかを抱き締めると、スリスリと高速で頬ずりをする。
「は、はい、変わりなく過ごしてます……あの、ちょっと離れてもらっても……」
「あらヤダ、ゴメンなさいね! いつまでも子供扱いしてちゃイケナイよね!」
パッと身体を離すと、顔の前で両手を合わせてペロリと舌を出す。まりかは苦笑いしながら、ドン引きしたような顔で自分たちを見ているカナに向き直った。
「紹介するわ。この人は、鈴木
「風花です! ヨロシクね!」
風花は、膝に両手をついてカナと目線を合わせると、あざとい笑顔を浮かべて彗星のようなウィンクをカナに投げかけた。
怪異化して2本の尻尾を持つようになった猫を人は猫又と呼ぶが、猫の品種は数十種類にも及ぶため、猫又や猫又の血を引く〈異形〉についても、その見た目は猫又や〈異形〉によってかなり違ったものとなる。
鈴木風花の場合は母親がいわゆる半妖なので、猫又としての外見的特徴は比較的薄い。頭部に付いた猫耳と2本の尻尾、それから青と黄色のオッドアイ。白い獣毛は全体的に薄めで、手足は完全に人間の形をしているが、
「カ、カナである……」
「カナちゃんっていうのねー! ヨロシクー!」
「ぬおわっ!?」
風花がカナの手を取ってブンブンと激しく上下に振った。少々勢いが強いため、カナの華奢な身体がガクンガクンと上下に揺れる。
「風花さん、ひょっとしてサマーカットしたんですか?」
見兼ねたまりかが、ふたりの間に割り込むようにして風花に話しかけた。案の定、風花はカナの手をパッと離すと、満面の笑みを浮かべて嬉しそうに喋り出した。
「そうなのよー! 新しいカレにもすっごくウケが良くってえ」
風花が、2本の尻尾をフリフリと振ってみせた。長毛種であるため本来はモフモフの尻尾なのだが、先端だけを残して刈り上げるサマーカットにより現在はスッキリとした印象となっている。
そして、2本の尻尾の中ほどには、それぞれ青と黄色のリボンが結びつけられていた。
「このリボン、カレが選んでくれたの。『お前の瞳と同じ色だぞ』ですって! いやーん!」
「良かったですね……」
たまらないといった表情で両手を頬に当てて尻尾をブンブンと振り回す風花を見て、カナは呆れ、まりかはひたすら苦笑する。
(これで十何人目の彼氏になるんだろう……)
そして、新たな彼氏とやらとの関係は何週間続くのだろうかとも考えたが、まりかはこの疑問を口には出さずにそのまま飲み込むことにしたのだった。
「それじゃあ、準備するから適当に座ってて!」
「準備じゃと?」
いそいそとエプロンをつけ始める風花に、カナはいかにも怪しげな視線を向ける。
「うちの飲茶は、とーっても美味しいんだから!」
風花はビシッと親指を立ててウィンクをすると、颯爽と厨房へ去っていった。
「カナに、美味しいものを食べて元気になってもらおうと思ってね」
四人がけの円卓に着いたまりかは、同じく隣に座ったカナにメニュー表を広げて見せる。
「ほら、これが飲茶のメニューよ」
「むう。あまり甘くなさそうな食い物ばかりじゃな」
「カナ。食べ物は、甘さだけが全てじゃないの。今日はそれを思い知ってもらうわ」
カナは、メニュー表から顔を上げた。
まりかが、自信満々にカナを見つめている。普段はあまり見ないその表情に、カナは少しだけ飲茶に興味をそそられた。
「ふむ。飲茶とやらは、このわしを唸らせるほどに美味じゃというのか」
「ええ、それはもう。特に、この小籠包っていうのがもうね、絶品中の絶品なんだから」
まりかは、メニュー表に載せられた小籠包の写真を指さした。
「お饅頭の中に、熱々のスープがギュッと閉じ込められているの」
「熱々じゃと!?」
「心配しないで」
まりかが、風花を真似てパチッとウィンクをする。
「熱い食べ物が苦手なのは、カナだけじゃないのよ」
それからしばらくの後、ウキウキ顔の風花が飲茶セットを円卓に運んできた。
「まりかが新しいお友達を連れてくるって言うから、張り切って用意したのよ!」
ふたりの前に、点心が入った小さな
カナが、ティーポットから漂う中国茶の香りに目を見開いた。
「むむ、ひょっとしてこれはジャスミン茶か?」
「そうよー。まだ熱いから、しばらく冷ましてから飲むと良いわよ」
風花はふたりの茶碗にジャスミン茶を注ぐと、カナの隣に腰かけた。それから蒸籠の蓋を順番に空けて、ひとつずつ中身を紹介していく。
「これが海老蒸し餃子で……こっちがシュウマイね。そして、これが小籠包よ!」
「美味しそうー」
「むむう」
まりかは目を輝かせ、カナは顔をしかめて蒸籠の中にちょこんと置かれた3種類の点心を覗き込む。
「点心は他にもたくさんあるんだけどね、量はあんまり要らないって聞いたから、今日のところは3種類だけ用意したの。あ、後でごま団子と杏仁豆腐も持ってくるから!」
「ありがとうございます」
まりかは礼を述べると、手を合わせていただきますを呟いて、箸とレンゲを手に取った。
「カナ、見てて」
まりかは小籠包を箸で取ってレンゲに乗せると、小籠包の皮を箸の先でそうっと破った。
レンゲの中に、肉の旨みが凝縮された極上のスープが流れ出る。
「ほら、これが小籠包のスープよ。最初にこのスープを飲み干すの」
「むう、確かに熱そうじゃな……」
レンゲに溜まった熱々のスープを美味しそうに啜るまりかを、カナが実に複雑そうな顔で眺めている。
すると風花が、カナの前に置かれた箸とレンゲを手に取って、小籠包へと箸を伸ばした。
「私も、それからママもね、本当は熱い食べ物が苦手なの。だって、猫舌なんだもん」
そう言って、テヘッと笑ってペロリと舌を出す。
「出来たてホヤホヤ、アツアツの状態で食べた方が美味しいのは確かだけど、苦手なものを無理して食べる必要なんか無いの。食事はね、楽しんで食べるのが何よりも大事だと思うわ」
レンゲに乗せた小籠包の皮を破って、湯気の立つスープをレンゲの中に溜める。
「それにね、うちの小籠包は、冷めても美味しいようにできてるのよ。猫舌のママのために、パパが頑張ってレシピを改良したの。まだ私が産まれる前の話だけどね!」
風花は、小籠包の乗ったレンゲと箸をカナに渡した。
「しばらく待てば冷めるはずだから。火傷しないようにゆっくり飲んでね!」
「……」
カナは、レンゲの中に収まった小籠包とスープを見下ろした。大いに食欲をそそる見た目と匂いをしているが、このまま風花の言う通りに冷ましてから食べることについては、何か釈然としないものを感じている。
(要するに、この食い
そう、気に入らない。
そしてカナは、一世一代の決断を下したのだった。
「いや、待たん。
「ええっ!?」
カナの言葉に、まりかが驚きの声を上げた。風花も、目を丸くしてカナを見ている。
「そんな、カナが熱いものを食べたいだなんて……」
「カナちゃん、無理しなくたっていいのよ?」
「いーや、食べる!」
ふたりが色々と言うのには構わず、カナはレンゲにそっと唇をつけると、熱々のスープを口の中に一気に流し込んだ。
直後、店内にカナの悲鳴が響き渡ったことは言うまでもない。
―― ―― ――
※参考資料:横浜媽祖廟の写真
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