第39話 牛鬼と濡女〈五〉

 松越組組長・角田豊作の邸宅を辞した後、九鬼と楓はすぐにコインパーキングに戻った。今度は楓が運転席に乗り込み、助手席に座った九鬼と顔を突き合わせて今後の予定について話し合う。

「榊原は、元仲居の女のところへ向かってくれ。松越組の連中が聞き漏らした情報が無いとも言い切れないからな」

「室長は、例の呪術師を探しに行くつもりですか」

「ああ。見つかるかどうかは分からないが、可能ならあの牛鬼についての見解を聞いておきたい」

 そして最後に、楓が懐から取り出した四体の御札の検分を始めた。

 この四体の御札は、角田の許可を得た上で、楓が邸宅の外壁に貼り付けて結界と成していたものである。御札には、東西南北の四方位を守護する四天王の梵字などが書かれている。

「室長、ここが」

 楓が、そのうちの一体を九鬼に示した。

「持国天……東の方向か」

 九鬼は、楓が示した箇所を見て口の中で小さく唸った。

「確かに、ほんの僅かに焦げたような跡があるな。榊原は、これをどう考える?」

 九鬼は、あえて楓に訊ねた。楓はすぐに、自身の見解を述べる。

「侵入しようとして、途中で諦めたんやと思います。もう少し正確に言うと、こちらに気づかれることなく、結界を壊さずに侵入することを試みたような、そんな印象を受けますわ」

「そんなところだろうな。こちらには、まだ気づかれたくないのだろう」

「……」

 楓は、九鬼の発言を聞き返すことはしなかった。

「ほな、行きましょうか」

 楓はさっさと御札をしまうと、エンジンをかけてカーナビを操作し、最寄りのレンタカー店に目的地を設定した。




「――それであんた、わざわざこの俺を訪ねてきたってわけか」

 九鬼の話を聞き終えた風間紀良のりよしは、そう言って呆れ顔で首を振った。

「俺がここにいることは、知り合いにも話してなかったはずだが……一体、どうやって突き止めたんだ」

 いかにも怪しむような目つきで自分を見てくる風間に対し、九鬼は小さく頭を下げる。

「申し訳ありませんが、その方法をお教えすることはできません。仮にも公務員が市民の居場所を勝手に突き止めておいて、本当に申し訳ないとは思うのですが」

「いやいいって、そんな謝らなくったって。つうか、知らないままでいた方が良い気がしてきたわ」

 風間は、今度は面倒くさそうな顔になってパタパタと手を振ってみせると、テーブルに置かれたアイスコーヒーをがぶ飲みした。

 松越組からの依頼を放棄した呪術師・風間紀良が潜伏していたのは、横須賀市内から車で2時間弱の場所に位置する山小屋だった。登山はもちろん、キャンプやバーベキュー、川遊びなどのあらゆる山レジャーの拠点として人気を誇るこの山小屋の周辺は、夏休みシーズンということもあり大勢の利用客で賑わいを見せている。

 そんな中で九鬼と風間は、盛夏の日差しに彩られた山々を眺めながら、山小屋の主人から出されたアイスドリンクを片手に、おどろおどろしい〈海異〉の話を繰り広げていた。

「率直に伺います。風間さんは、あの牛鬼についてどのような印象を受けましたか」

「そうだな……それよりも、まずはあんたの話を聞かせてくれ。俺もな、ずっと気になってはいたんだよ」

「分かりました」

 九鬼は素直に頷いた。風間の口調や態度はいい加減ではあるが、九鬼に悪感情を抱いているというわけではなく、それが彼の自然じねんであるらしい。九鬼としてはなんら気に障るものでもないため、率先して己の持ちうる情報を開示していくことにした。

「実は、自分は過去に2回、牛鬼を見たことがあります」

 その経験について、九鬼はかいつまんで説明した。

 ひとつは、15年以上前に当時の勤務地近くの漁協から牛鬼退治を頼み込まれて、無償で引き受けた時のもの。もうひとつは9歳の頃、祖父が牛鬼に立ち向かうのを背後で眺めていた時のものである。

「――どちらの牛鬼も、伝承や各種報告の例に漏れずとにかく狂暴で、一応は言葉らしきものを発してはいましたが、理性などまるで感じられませんでした」

 九鬼は一旦言葉を切ると、アイスカフェオレに口をつけた。半分ほど飲み干してからグラスを置いて、話を再開する。

「しかし、野分のわきと名乗ったあの牛鬼には、ある種の風格のようなものを感じました。人間と遜色のない話しぶりに、荒削りながらも系統立てられた体術。鷹取会会長の記憶を取り込んだからだと言われればそれまでですが……それで納得するには少々違和感が大きいというのが、正直なところです」

「ふうむ。風格、ねえ」

 頬杖をついて話を聞いていた風間は、テーブルに乗せていた手を腰に伸ばした。

 片手に1本の竹筒を掴んで、ニヤリと笑いながら九鬼に見せびらかす。

「それは……」

「まあ、見てろよ」

 風間が、もう片方の手で竹筒の蓋を開けた。

 竹筒の口から、小動物の鼻先がにゅうっと突き出る。

「安心しろ、この男は安全だ」

 風間の呼びかけに応じて、竹筒の中から小動物が姿を現した。

 黄土色の毛並みに、イタチ科動物のように細長い身体。ふさふさの尻尾に、細長く突き出た鼻と口。そして、普通の動物を遥かに凌駕する高い霊力。九鬼はすぐに、その正体に思い至った。

「管狐」

「そう、正解」

 竹筒から出た管狐は、風間の腕をするすると滑るように伝うと、風間の首にマフラーのように巻き付いた。

「ったく、夏は暑いからやめろっつってんだろ」

 目を細めて頬ずりしてくる管狐に悪態をつく風間だったが、その顔は満更でもなさそうである。

「こいつの名前は黄金丸こがねまる。ガキの頃からずっと一緒だ。俺はな、こいつと感覚を共有することができるんだ」

 風間は、指先で黄金丸の顎の下を撫でてやりながら、やっとのことで依頼を放棄した経緯を話し始めた。

「松越組から依頼を受けたその日の夜、俺は黄金丸を鷹取会会長・笹倉公平の邸宅に忍び込ませた。人目の無い邸宅の方が気が緩んで本性が表れやすいだろうと目論んだんだ。それに、俺が直で観察するよりも、霊獣であるこいつの目を通した方が視えるものが多いからな」

 そういうわけで、寝静まった高級住宅街に身を潜めた風間は、黄金丸の目を通して邸宅内を探っていった。

「黄金丸は霊力の少ない人間には感知できねえし、必要なら簡単な隠形法も使える。笹倉の寝室を突き止めるまでは、余裕だったぜ」

 黄金丸を撫でる風間の指が止まった。

「ひと目で分かった。笹倉公平の皮の下に潜むのが、あの危険極まりない海の怪異、牛鬼だということを。だが同時に、向こうも黄金丸の存在に気が付いたんだ……」

 ワイングラスを片手にソファの上で寛いでいた笹倉公平の姿をしたそのあやかしは、部屋の中に侵入してきた管狐を認めると、ニイッと隻眼を細めて笑いかけてきたのだ。

『こんな夜中に、ご苦労なこったな。わりぃが、これからお楽しみの時間なんだ。お邪魔虫はさっさと失せちまえよ』

 隻眼が、妖しい光を帯びた。

『黄金丸、逃げろ!』

『ギャアッ』

 焦った風間が思念で命ずるのと、黄金丸が悲鳴を上げるのは同時だった。更に、感覚を共有していた風間も激しい頭痛に襲われる。

 結局、何の成果も得られぬまま、風間と黄金丸はほうほうの体で高級住宅街から逃げ出したというわけである。

「あの牛鬼、俺が黄金丸の背後にいることを見抜いていた。邪視の影響を遠隔で及ぼすほどの強大な妖力もそうだが、それよりも俺は、あの牛鬼の妙に理性的な、人間らしい振る舞いに底知れない不気味さを感じた。とてもじゃないが、一匹狼でやってる俺には無理だと判断したわけだ」

 風間は、温くなったアイスコーヒーを飲み干すと、大声で山小屋の主人を呼び出して2杯目を頼んだ。山小屋の主人とは昔馴染みとのことで、仕事を手伝いながら休養も兼ねてのんびりと潜伏しているとのことである。

「ちなみに、黄金丸は大丈夫でしたか。こうして見る限り異常は無いようですが」

 自らも2杯目のドリンクを頼みながら、九鬼は何気なく訊ねてみる。

 すると、風間が顔をしかめてため息をついた。

「それなんだがなあ。あの邪視をまともに食らって激しく消耗したみたいで、何日か竹筒の中から出てこなかったんだよ。まあ、腐っても霊獣だからな。今ではすっかり元気になったけどよ」

「もしや、黄金丸のために依頼を降りたと」

「んなわけねえだろ。純粋な俺の実力不足だよ」

 ジロリと九鬼を睨みながら、再び黄金丸を指で撫でてやる。

 その風間の視線が、九鬼の首に注がれた。

「つうか、あの牛鬼とたった独りで対峙して、しかも素手でやり合っておきながらその程度の怪我かよ……今まで色んな術者に会ってきたが、あんたみたいな無茶苦茶なやつ初めて見たぜ。一体、誰に教わったんだ? まさか、まるっきりの独学とかじゃねえよな」

「それは……」

 風間の質問に九鬼が言い淀んだところで、折良く九鬼のスマホが鳴り響いた。九鬼はすぐさま応答すると、電話をかけてきた相手である楓の話に耳を傾ける。

 数分後、通話を終えた九鬼は改めて風間に向き直った。

「相模原に向かわせていた部下から、新たな情報を得たという報告がありました。風間さん、牛鬼の他に、女の妖はいませんでしたか?」

「女の妖だって?」 

 九鬼の質問に、風間は怪訝そうな顔をして聞き返した。

「なんだって、今更そんな話が出てきたんだ?」

「松越組の人間のミスでしょう。鷹取会会長についての話を聞いただけで満足して一方的に話を切り上げて帰ってしまったと、元仲居の女性が話してくれたそうです」

 サトリを父に持つ元仲居の女性によると、笹倉公平の姿をした妖の隣には、女の妖が寄り添うようにして座っていたとのことである。

『しっかり観察したわけじゃないんですけど、あの女のひとからは蛇の気配がしました。もしかすると、あれは濡女ぬれおんなだったのではないかと思うんです』

「濡女だと?」

 元仲居の新証言に、風間は顎に手を当てて考え込んだ。

 濡女もまた、海辺に出没する怪異である。その姿形は、蛇の身体に人間の頭が付いていたり半身半蛇だったりと様々だが、部分的にでも蛇の要素を含んでいることは共通している。

 また、濡女と牛鬼は、妖としては珍しく徒党を組んで出没することでも有名だった。徒党を組む場合、濡女が指示役となり、牛鬼に人間や家畜を襲わせるらしい。

 とはいえ、濡女にしろ牛鬼にしろ、単独での目撃証言の方が全国的には多い。ましてや、濡女はともかくとして、人間への危険度が大きい牛鬼の出没例は、近年では著しい減少傾向にあった。

「……いや、鷹取会にいた妖は、間違いなくあの牛鬼だけだ。昼間、邸宅に忍び込む前に鷹取会の事務所を調べたから間違いねえ。あの牛鬼以外には、妖はもちろん〈異形〉だっていなかったぞ」

「それでは、元仲居の勘違いだったと?」

「いや、そんなこと言うつもりはねえが……そうだ、言い忘れてた」

 風間は、元気良く山の中へと駆けていく黄金丸を目で追いながら、はたと思い出したようにある事実を口にした。

「邸宅に忍び込んだ時の事だがな。あの牛鬼の隣に、人間の女がいたんだよ。ソファの上で牛鬼にしなだれかかって、そりゃあもう仲良さそうだったぞ。牛鬼の印象が強すぎて頭の中から消し飛んでたわ」

「その女は、間違いなく人間だったのですか?」

「正真正銘、人間だった。黄金丸の目を通して視たのだから確かだぜ」

 九鬼の問いかけに、風間はキッパリと答えた。

「ちなみに、元仲居の女が料亭を辞めたのっていつなんだよ」

「5月中頃とのことです」

「つうことは、俺が依頼を受けたのは7月中頃だったから、2ヶ月の空白があるわけか……」

 しばし、ふたりの間に沈黙が降りた。

 木々のざわめきや鳥たちの鳴き声、そしてレジャー客たちの賑やかな話し声が飛び交う中、九鬼と風間は眉間に皺を寄せて物思いに耽っている。

 やがて、九鬼は2杯目のアイスカフェオレを飲み干すと、風間に礼を述べて暇乞いをした。

「もう行くのか」

「短時間で去るには名残惜しいですが、仕事ですからね。早く部下と合流して次の手を打たねば」

「おい、全部片付いたら顛末を教えてくれよ。あんたがどう決着をつけるのか興味がある」

 九鬼は、風間の求めるままに連絡先を教えると、山小屋の主人と黄金丸にも暇を告げて、夏の盛りの山々を後にしたのだった。




 それから数時間後の夕暮れ時。二手に分かれていた九鬼と楓は横須賀ではなく、横須賀の北西に位置する鎌倉市内で合流した。

「――そういうことやったんどすか」

「こんな曖昧な話しかできなくて、すまないと思っている」

 鬱蒼とした木々が頭上を覆う狭く急な石段を登りながら、九鬼は楓に対してこの場所に呼び出した理由を説明した。

「伊良部と菊池には、まだ黙っていてほしい」

「分かりました。うちも、この話はあまり広めん方が良いように思いますわ」

 石段を登りきった先は、小高い丘の上に鎮座する小さな神社の境内だった。社殿はかなり小さく、高さは九鬼の背丈とほとんど変わらない。それでも、瑞々しい榊と御神酒が供えられたその社殿からは、幽世かくりよでも現世うつしよでもなく、霊的次元に属する何かがましましていることが、楓にはすぐに感知できた。

 ふたりは社殿の少し手前で立ち止まると、心地良い葉擦れの音を背景に、まずは互いの成果についてひとつひとつ詳細に確認し合った。

「――濡女が、人間の女に入れ替わったと?」

「双方の証言を真実とするなら、それしか考えられん」

 こうして、事実関係や新たなる疑問を出し尽くした上で、九鬼は今後の予定と方針について、重々しい口調で楓に告げた。

「今回の任務は、海異対の総力を挙げて対応する」

 その簡潔な言葉に、楓は小さく頷いて了承の意を示した。ちなみに、こういう場合の総力とはもちろん、一之瀬と渡辺を除いた5人のことを指す。

「明日は、消えた濡女の行方について、手がかりが無いか探そうと思う。濡女を見つけられればそれが最良だが、現時点では必須では無いと考えている。それよりも、あの牛鬼をどうするかだ」

 九鬼は小さく息を吐くと、木々の影が色濃く落ちる境内の中、楓の瞳を試すように見据えた。

「牛鬼の相手は、菊池にさせようと思う」

「……それは」

 楓は、細い眉をひそめて懸念を口にした。

「その、大丈夫なんやろかと心配になりますわ」

「榊原の不安は理解できる」

 九鬼の重く低い声が、静かな境内の空気を震わす。

「だが、いくら強いと言えども所詮は妖だ。龍神の宝具と強力な式神を携えているんだ、倒せない方がおかしい。もし尻尾を巻いて逃げ出すようなら、奴は海異対には不要となる」

「それは……そうやと思います」

 強固なまでの九鬼の決意を見て取り、楓はそれ以上は何も言わないことにした。

 そもそもとして、榊原楓は職場の人間関係にドライである。後輩である菊池あきらが九鬼を良く思っていないらしいことは楓も察していたが、実力主義者の楓としては、少々の性格の難など見逃せば良いのではというのが本音だったりする。

 ただ、今回の件に関しては、九鬼から明へのに言い知れぬ不安を感じていた。

(さっき、室長からあの話を聞いたからかもしれへん)

 楓は石段の方へ歩み寄ると、丘の上からの展望に目を向けた。

 そこに広がるのは、夕焼け色に染まった鎌倉の海。今日の波はとても穏やかで、これが荒れ狂う様子などまるで想像もできない。

(こうして眺める分には、綺麗なんやけどな)

 複雑な想いを胸に抱いて、楓は鎌倉の街と海に見入っている。

(ほんまに、何が起こっとるんやろ)

 そして、それはどのくらい前から始まっていたのだろうか。人知れず水面下で蠢く陰謀は、いつから自分たちに狙いを定めていたのか。

 楓は、高い霊力を持ちながらもその存在に危うさを感じさせる後輩と、自らが造り出した式神の少女の姿を思い浮かべた。

(うちは、自分で考えてた以上にとんでもない事をしでかしてしまったのかもしれへん)

 もしも、菊池明と水晶のふたりが、見事に牛鬼を打ち破ったとしたら。それは、よくある牛鬼退治の英雄譚として、平穏な幕引きとなってくれるのだろうか。

 楓には、どうしてもそれだけで終わるとは思えなかった。

(せめて、先輩としての務めくらい果たさなあかんな)

 さっきより影が濃くなった石段を九鬼に続いて降りながら、楓はこの任務における自身の立ち回りについて真剣に考えを巡らせるのだった。



 ふたりが去った神社の境内に、そよ風が吹いた。

 ユーカリに似た清涼感のある香りが境内を漂い、誰にも気づかれることの無いまま、日没と共に消えていった。

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