第36話 牛鬼と濡女〈二〉
8月に入って数日が経過した、ある日の午後。海洋怪異対策室の事務室内にて、臨時の打ち合わせが開かれた。
事務室の隅に配置された作業机の一番奥に室長の九鬼龍蔵が着席し、室員たちは左右に3名ずつ着席している。室長から見て右側が村上
「ついさっき、保安部の
前置きもそこそこに、九鬼が本題を切り出した。190cmの高身長に筋骨隆々とした逞しい体躯、岩石のような厳つい顔と険しい表情。そして、全身から発せられる潤沢な霊力。ただそこに居るだけで周囲の者を圧倒し、惹き付けずにはいられないのが、九鬼龍蔵という男である。
九鬼は室員たちの顔を眺め渡すと、再び重い口を開いた。
「捜査に際し、怪異による霊障を受ける恐れがあるため、捜査員たちの安全を計ってほしいという内容だ」
九鬼の説明に、楓と梗子、明、そして渡辺の若手4人は不審そうに眉をひそめた。村上と一之瀬は既に詳細を知っているらしく、固い表情で何かを考え込んでいる。九鬼もまた、その険しい表情を崩さぬまま説明を続ける。
「捜査の対象は、密漁と言われた」
「密漁って……まさか、内偵に同行しろってことですか?」
梗子が、信じられないという顔で聞き返した。明と渡辺も、ますます不審に思いながら九鬼の答えを待つ。
「そのまさかだ。2日前、捜査員のひとりが霊障らしき症状で内偵中に倒れたらしい。だから、次の内偵では万全を期したいというのが向こうの主張だ」
「いや、それは……」
「なんか、おかしくないですか?」
九鬼の説明に、若手たちは困惑した様子で口々に感想を漏らした。
海洋怪異対策室は、海の怪異や妖――最近は〈海異〉と呼ぶことが多い――に関する「組織内の」トラブルに対処するために存在する。つまり、原則として救助活動や犯罪捜査には関わらない。それこそ、5月末に発生した石廊崎沖
それを踏まえると、「捜査員の安全確保のため」という今回の依頼内容は、一見すると筋が通っているようにも思える。しかし、海異対に直接採用された榊原楓はともかくとして、普通の海上保安官としての職務経験も持つ他の6人としては、違和感を持たざるを得なかった。
「密漁の内偵って、未経験者が付け焼き刃でまともにできるもんじゃねえぞ。捜査員の保護に徹するにしても、俺らはそこに居るだけで足を引っ張っちまうと思うんだけどな」
梗子が、理解に苦しむといった様子で率直な感想を漏らした。
「というか、霊力が弱い別の人間が内偵を変われば、それで良いんじゃないかと思うんですけど。まさか、その保安部の警備救難課には怪異や妖に敏感な人間しかいないなんてこと無いですよね」
「まあ、霊力の強弱や怪異の感じ方に関しては、完全に自己申告制だからな、そういう偶然も起こりうるのかもしれねえ。でもそれにしたって、安易に俺らに頼ろうとするのはちょっとどうかと思うぜ」
「あのう、室長」
明と梗子が感想を述べ合っていたところ、渡辺がおずおずと手を挙げて九鬼に訊ねた。
「依頼してきたのって、どこの保安部なんですか?」
その重要な質問に、明と梗子、楓も九鬼の顔を見つめる。
一呼吸置いて、九鬼が答えた。
「横須賀だ」
「横須賀の
それを聞いた途端、梗子が顔を歪めた。
「辻元の野郎がいるところじゃねえかよ。うげえ」
「ああ、あの
いつもなら梗子の言葉遣いを窘めそうな楓も、眉間に皺を寄せて同調する。
「辻元は、一昨年まで
梗子は、明と渡辺が怪訝そうに自分を見ていることに気がつくと、簡単に事情を説明した。
「とにかく悪い噂しか聞かなかったぜ。過去に何人も休職や退職に追い込んだとか、巡視艇を座礁させたとか、セクハラとか不倫とか。実際、俺も『産卵するのか?』とか聞かれたからなー」
「……最低ですね」
明は、心底嫌悪を感じて吐き捨てた。野卑な言葉を他人に対して平気で投げつける辻元のような人種は、明がこの世で最も忌み嫌うもののひとつである。
「伊良部さんにセクハラするなんて、命知らずですね!」
その横で、渡辺隼人が正直すぎる感想を披露した。どうやら辻元の言動を賞賛する意図は無いらしいことは、一応は見て取れるのだが。
「渡辺、お前なあ」
「うち、渡辺君のそういうところ好きやわあ」
明と楓が非難がましい目で渡辺を見たが、恐らく通じていないだろう。
「でも確かに、あそこの警救の雰囲気が良くないって話は聞いた事ありますね。なんでも課長が」
「まあ噂話はともかくとして、話を元に戻そうか」
それまでずっと黙っていた村上が、微笑を浮かべてやんわりと渡辺の話を遮った。渡辺は首をすくめて素直に口を閉じる。
村上翔は、魔術師である。楕円型の眼鏡をかけて漆黒の長髪を後ろで縛ったその姿からは、穏やかで控え目な印象を受ける。九鬼とは正反対の親しみやすい性格をしているが、ふたりはそれなりに長い付き合いとのことで、意外にも仲は悪くない。
明は気を取り直すと、話を進めるため九鬼に質問を投げかけた。
「そういえば、内偵中に霊障が出るに至った経緯については、何か説明はあったのですか。詳しい場所とか状況、あと倒れた捜査員についても知りたいと」
「ない」
「えっ」
「密漁の内偵に関わる情報は、部外には一切明かせないと言われた」
「……」
九鬼の言葉に、なんとも言えない微妙な空気がその場を支配する。
「それはつまり……直接話を聞きに来いということなんでしょうか」
「機密性が高い情報いうのは分かりますけど、協力を依頼するにしては少しばかり礼を欠いとるいう印象がありますわ」
「室長、これ断っても良いと思いますよ」
明と楓、そして梗子が、それぞれに不快感を表明した。
しかし、九鬼は首を横に振った。
「少なくとも、職務中に霊障で倒れた人間がいるのは事実だ。明日、俺と村上の2人で、横須賀の警備救難課長に話を聞いてくる」
有無を言わせぬ口調でそう言い切ると、斜め前に座る一之瀬に小さく頭を下げた。
「一之瀬さん、しばらくの間よろしくお願いします」
「ん、行ってこい」
一之瀬が口にした言葉はそれだけだった。
海洋怪異対策室の予算担当である一之瀬春は、実は九鬼よりもいくつか年上である。三本部海異対の実質的な権力者は一之瀬春だなどと冗談めかして言われることもあったが、一之瀬自身は権力を振りかざすことなどまるで興味のない、朴訥とした男だった。
「それじゃあ、俺と室長は本部に行ってくるから」
打ち合わせを終えると、九鬼と村上は連れ立って事務室を後にした。
海洋怪異対策室は本部直属の組織であるが、本部が入るのはここから少し離れた合同庁舎の高層階で、この横浜海上防災基地には横浜海上保安部が入っている。そのため、九鬼や村上、一之瀬は必要に応じて合同庁舎に足を運び、事務処理や情報交換などを行っていた。
「良いんですか」
事務室から十分に離れたところで、村上が九鬼に話しかけた。その顔からは、部下たちに向けていた微笑はとっくに消えている。
「横須賀には近づくなと、言われているんでしょう?」
しばらくの沈黙の後、九鬼がぶっきらぼうに返した。
「少し様子を見るだけだ」
「まったく、知りませんよ」
村上は、肩をすくめただけだった。そしてすぐに別の話題に移る。
「本部長と話した後は、どうします? 俺は警備救難部で色々と話を聞いてみようと思いますけど」
「俺も行く。あそこに知り合いがいる」
「そりゃ助かります」
ふたりは廊下を曲がって階段を降りると、正面玄関の方へと消えていった。
横須賀海上保安部は、横浜駅から電車で約30分の横須賀中央駅から、更に約4kmほど離れた海沿いに建つ港湾合同庁舎の中に存在する。
協力依頼を受けた次の日、九鬼と村上は横須賀海上保安部・警救救難課を訪れていた。
「――まさか、密漁者が2人も消えていたとは」
ひと通りの説明を聞き終えた村上が、ローテーブルを挟んだ真向かいに座る辻元に言い放った。
「そんなに大変なことが起こっていたなんて、あの依頼内容からは全然想像もできませんでしたよ」
責めるような話しぶりとは裏腹に、村上の表情は平穏で、口元には薄笑いすら浮かんでいる。
そんな村上の態度に苛立ちを感じながら、辻元がソファの上で吐き捨てた。
「密漁するようなクズが1人や2人消えたところで、大して騒ぐ話でもねえだろ」
腕を組んでボキボキと首を鳴らすと、ギラついた目で村上を
「それより、協力はしてもらえるんだろうな?」
「ええ、もちろん」
村上は鷹揚に頷いた。
「職員の安全を〈海異〉から護ることも、我々の重要な役目ですから」
そう答えた上で、少しだけ首を傾げて辻元の目を覗き込む。
「捜査の人間は、海異対なんて怪しげな組織に頼るのを避ける傾向にあると聞いたこともあるのですが。辻元さんは、とても部下想いな方なのですね」
「……へっ」
こちらを見透かそうとでもするような村上の言い草に、辻元は濃い髭がブツブツと生えかけた口元を小さく歪めた。
事務室の中央に配置された応接セットで、九鬼と村上はふたりの人間と向かい合っている。ひとりは、警備係長の辻元
角張った顔に日焼けした肌の辻元残波と、青白い顔に眼鏡をかけ、いかにも神経質そうな顔つきをした鬼頭優雅。対照的なふたりだが、おおよそ親しみやすさというものが感じられない点については共通していた。
(全くもって噂通りの男みたいだな、辻元は)
村上は、辻元からたった今聞いた話を脳内で反芻する。
数日前の夜、横須賀から車で数十分ほどの場所にある、三浦半島南部のとある海岸に2人の捜査員が出向いた。霊障で倒れたのはそのうちのひとりで、辻元の部下の山内という男である。
岩陰から何時間にも渡って密漁者たちの動向を見張っていたところ、やにわに密漁現場が騒がしくなったという。
『なんだ、トラブルか?』
怪訝に思いつつ静観していた山内たちだったが、やがて密漁者のひとりが大声で呼びかけてきた。
『おーい! 海保の捜査員さんたちー!』
『っ!!』
『どうせ見張ってるんだろー! 仲間が海から上がってこねえんだよー! 助けてくれー!』
『ったく、どうして見張ってるって分かるんだよ……』
山内は小さく悪態をついたという話だが、実のところ、密漁者たちが捜査員の存在に勘づくことはさして珍しくない。密漁に限らず、夜闇に紛れて法を犯す人間というのは、往々にして気配というものに対して異常なまでに敏感なものである。また、捜査員にとっても密漁者にとっても、互いが互いを常に出し抜こうとしていることなど「常識」の範囲内だった。
『どうする? このまま隠れ続けたって、意味無くないか』
『それはそうだけど。俺らが今出ていったところで、事情聴取しかできねえぞ』
暗闇の中、顔を突き合せて相談する山内たち。そんな彼らを嘲笑うかのように、密漁者が更に大声を張り上げる。
『保安官さーん! 民間人を見殺しにするんですかー!』
『……仕方ねえな』
結局、山内たちは密漁者たちの前に姿を現すことにした。相手が犯罪者だからといって、助けを求める手を振り払う理由にはならない。それが、捜査と救助という全く異なる職務を同時に担う、海上保安官としての矜恃でもある。
そうして、
『なんか、海の方を見て物凄く目を剥いていました。その後、気を失っちまって……救急車呼んで搬送してもらう時には、ものすごい高熱が出てましたよ』
その時の状況について、もうひとりの捜査員はこのように話していたという。
結局、山内は今日に至るまで霊障にうなされたままである。また、
村上は膝の上で両手を組むと、辻元の目をじっと見つめたまま問いかけた。
「ところで、山内君は御守りや護符の類は持ち歩いていなかったのですか。
「ああ? まあ、持ってるって話は聞いたことがあるな。見た事はねえけど」
「では、どうして霊障を受けてしまったと思いますか」
「俺が知るかよ」
辻元が鼻で笑った。そして、村上を侮蔑の目で見返す。
「つうか、お前らの方が詳しいだろ。俺に質問してどうすんだよ、少しくらい考えてからものを言えや」
村上は、辻元の
おもむろに制服のポケットから何かを取り出すと、辻元と鬼頭に対して掲げて見せる。
「これ、何か分かりますか」
「……護符ってやつか」
「そうですね。ちなみに、弁財天の護符です」
「それがなんなんだよ」
辻元が苛立った声を上げた。
そんな辻元を、村上は落ち着き払った態度で観察し続ける。
「実は、ここに来る前に山内君のお宅にお邪魔したんです。幸い、熱も下がって近日中には復帰できるとのことでした」
「へえ、そうか。それは良かった」
「それで、山内君の護符を見せてもらったんです。護符の効力の強さを計ることで、霊障を与えた怪異や妖をある程度絞り込むことが可能ですから。そしたらですね」
村上が、護符の一点を指さした。
「本当に少しだけですが、ボールペンの書き込みがありました。こんなことをしたら、護符の効力なんて消滅しますよ。困ったものです」
「……」
僅かに、辻元の唇の端がピクリと動いた。
村上は、黒に塗り込められた双眸を眼鏡の奥から辻元の顔に注ぎ続ける。
「山内君は、犯人探しには興味が無いと言っていました。だから、これは完全に俺の独断だし、山内君には何も伝えてません。その点については強調しておきますから」
「……何が言いたいんだ」
「魔術を使って、護符を汚した犯人を突き止めました」
「て、てめえっ」
辻元が、声を荒らげて立ち上がった。
そして、すぐに後悔する。
「あ……ぐっ……」
村上の、九鬼の、鬼頭の、そして課内で耳をそばだてていた職員全員の視線が、一斉に辻元に刺さった。
顔を紅潮させて立ち尽くす辻元に、村上が穏やかに笑いかける。
「……どうして、あなたが焦るんですか」
「こ、このっ」
「やめろ、辻元。見苦しい」
逆上しかけた辻元を、鬼頭が制した。
鬼頭は、ソファに腕と足を組んで座ったまま細い眉を不快そうにひそめて辻元を見上げると、顎を動かして座るように促した。
「あ、あの課長」
「やってくれたな、辻元」
「えっ」
鬼頭の冷ややかな反応に、辻元は面食らったような顔をした。鬼頭はため息をつくと、九鬼と村上にチラチラと視線を向けながら、滔々と非難の言葉を並べ立てる。
「捜査中の職員を怪異などという得体の知れん存在から護るために、話を大ごとにして他部署を動かし、挙句に捜査情報を部外者に漏らしたというのに。これでは、私の面目が丸潰れではないか」
「え、そんな、課長!」
「まあ待て」
辻元が何事かを鬼頭に訴えようとしたところに、九鬼の声が割って入った。岩石のような巨体から発せられる重く低い声色に、鬼頭と辻元はピタリと動きを止めて九鬼に向き直る。
「せっかくこうして出向いたんだ。予定通り、内偵に同行させてもらう。もちろん、邪魔にならないよう、最大限の配慮はするつもりだ」
村上も、微笑を浮かべて鬼頭に頷きかける。
「我々も、三浦半島の海沿いに出る〈海異〉がどれほどのものか、新たな知見を得たいと思っているのです。人間とって有害なものであればその場で祓うつもりですし、このまま続行した方が、双方にとって得なはずですよ」
「……ふん、良いだろう」
少しだけ探るように九鬼と村上を見てから、鬼頭は承諾の意を示した。
村上は破顔すると、早速ボールペンと手帳を取り出して、その場の雰囲気を強引に打ち合わせモードへと切り替えてしまった。
「それでは、まず日時についてですが、事前に伺っていた通り早速今夜ということで――」
村上は何事も無かったかのような顔で、九鬼や鬼頭、それから他の職員たちも呼び寄せて、和やかに打ち合わせを進めていく。
その中で辻元は、終始、濁り切った目で村上を睨み続けていた。
横須賀海上保安部を辞した九鬼と村上は、横浜から乗ってきた公用車のミニバンに乗り込んだ。
「昼飯はどうします? コンビニに寄りましょうか」
エンジンをかけながら訊ねてきた村上に、助手席に座った九鬼が無言で頷く。
村上はカーナビの目的地を最寄りのコンビニに設定すると、さっさとミニバンを発進させて保安部を後にした。
「本当に、どういうつもりなんですかね」
最初の信号待ちで、村上が前を向いたまま九鬼にボヤいた。
「……」
九鬼からの返事はない。
九鬼の口の重さなど今に始まったことではないので、村上は気にせず話を続ける。
「昨日、警救部でも言われましたよ。『鬼頭優雅には気をつけろ』ってね」
信号が青に変わった。アクセルを踏んで再び発進すると、法定速度を守りつつ黙々と道なりに進んでいく。
ほどなくして、目的のコンビニに到着した。
「一緒に室長の分も買ってきますよ。何か欲しいのありますか」
シートベルトを外しながら、軽い口調で問いかける。
「なんでもいい、任せる」
「後で文句言わないで下さいよ」
村上は鍵を残したまま運転席を降りると、足早にコンビニへと消えていった。
直後、九鬼のスマホの着信音がミニバンの内部に鳴り響く。
(もう勘づいたのか)
九鬼はスマホの画面を確認して小さく息を吐くと、わざと3コールほど長引かせてから通話ボタンをタップした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます