第35話 牛鬼と濡女〈一〉

 生ぬるい潮風が、髪や制服をなぶりながら船の上を通り過ぎていく。菊池あきらは、ギラギラとした真夏の日差しに目を細めつつも、船内には入らず外側の手摺に掴まったままじっと前方を注視している。

「我があるじよ!」

 舳先へさきの彼方に見える赤色の防波堤灯台から、海鳥と魚を混ぜ合わせた姿をした少女が大きな翼を広げて飛んできた。

 少女は船に並走するような形で明の横につくと、屈託のない笑顔を浮かべてこう報告した。

「我が主が向かっていることを、北斗さんに伝えてきました。あと、すばるさんや猩々しょうじょうのおじさんも一緒だったのですが、皆さん、我が主に会えるのが楽しみとのことです!」

「そっか。連絡ありがとうな、水晶」

「これくらい、お安い御用です!」

 水晶と呼ばれた少女は、滑空しながらエヘンと胸を張った。顔の横にある左右一対の魚のヒレが陽光を受けてキラキラと輝き、焦げ茶色のメッシュが入った白色のショートヘアはサラサラと潮風になびいている。

(俺じゃなくて、俺が持っていく「供物」を楽しみにしてるだけだろうけど)

 明は、近づきつつある赤色の防波堤灯台――横浜北水堤すいてい灯台を眺めながら、そこで待ち受ける面々の顔を思い浮かべて小さく苦笑した。

 海鳥と魚の姿をした式神の少女・水晶との衝撃的な出会いから、早くも2ヶ月以上が経過した。式神や使い魔を従えた経験が無く、姉も妹も持たない明にとって、外見年齢が7、8歳程度の少女との暮らしは何もかもが手探り状態だった。ぎこちないながらも懸命によりよい暮らしを模索し、日々努力したお陰か、今のところ水晶との関係は良好に保たれている。

(というか、この子がめちゃくちゃ良い子なんだよな)

 ふたりの生活がこれほど上手くいっているのは、水晶が実体を持たない式神であるがゆえに、人間の少女と暮らす上での困難が生じていないからに過ぎないというのもあるだろうと、明は感じている。また、友人の海事代理士・朝霧まりかによる大小様々なサポートの存在も大きかった。

(それに、横浜港のあやかしたちも水晶に良くしてくれてるし)

 勤務中、特に室内での事務仕事の時など、せっかくの強力な式神を常に明の隣に控えさせておく意味も無いだろうという海異対の総意もあり、水晶には毎日、横浜港の「巡回」をさせている。明としても、無駄に室内に籠らせるよりも自由に空を飛び回らせてやった方がずっと良いという考えだ。

 その結果として、水晶は横浜の妖たちとすっかり仲良しになった。元気いっぱいで礼儀正しく、そして霊力が高い式神の少女は、物珍しさもあり行く先々で好意的に受け入れられているということである。

(俺ひとりだったら結構悲惨なことになってた気がするな、うん)

 この恵まれた環境には、つくづく感謝の念を禁じ得ない。

 そうして感慨に耽っていたところ、操舵室の方から声がかかった。

「菊池君、そろそろ到着だ。準備は任せてもいいな?」

「はい! 大丈夫です!」

 明は機関エンジンの駆動音に負けないように大声で返事をすると、皮手袋をはめて上陸の準備を開始した。

 明が今乗っているのは、同じ組織――第三管区だいさんかんく海上保安本部に所属する灯台見回り船「ゆめひかり」である。灯台見回り船は、海上警備や救難活動を主な任務とする巡視船艇とは異なり、灯台や灯浮標の巡回整備を主な任務としている。なので、「ゆめひかり」は海洋怪異対策室の任務に直接従事しているというわけではない。

 それでも、現在の「ゆめひかり」船長が海異対かいいたいの室長・九鬼龍蔵と同期であるという縁もあり、手が空いている時などはこうして海異対の仕事をサポートしてくれたりする。それに、これから向かう場所は「ゆめひかり」の任務と全く関係が無いというわけでもなかった。

『赤灯台の付喪神様に、いつもありがとうと伝えておいてくれ』

 出航直前、「ゆめひかり」船長が柔和な笑みを浮かべて明に伝えた言葉である。海異対の室長も、同じとは言わないまでも少しくらい険しい表情を緩めてほしいものだと明は思う。

「手伝うよ」

 防波堤に上陸するための歩み板ワーフラダーの準備をしていると、乗組員のひとりが明に声をかけてきた。明は恐縮しながら礼を述べると、ふたりで手際良く残りの準備を進めていく。やがて船が上陸地点に到着すると、ふたりで声をかけ合ってアルミ製の歩み板ワーフラダーを持ち上げ、船から防波堤へと橋渡しをした。

「気をつけて渡れよ!」

「ありがとうございます!」

 それ自体は頑丈ながらも波の動きで不安定に揺れる歩み板ワーフラダーの上を、明は一気に渡り切る。防波堤に上陸するや否や、すぐに歩み板ワーフラダーを持ち上げて、船側にいる乗組員と息を合わせて歩み板ワーフラダーの収納を支援した。

「どうもありがとうございました!」

 明は「ゆめひかり」に向かって大きく手を振って叫んだ。

 そして、大人しく隣に控えていた水晶に向かって朗らかに声をかける。

「さあ、北斗さんたちのところに行こうか」

「はい!」

 水晶が尾羽をヒョコヒョコと動かしながら、とびっきりの笑顔で返事をした。

 ふたりは、遠ざかる「ゆめひかり」に背を向けると、おかよりも強い風が吹きつける防波堤の上を進み始めた。




 水晶の知らせ通り、横浜北水堤灯台――通称・赤灯台のそばには3人の妖がいた。

「お久しぶりです、北斗さん。それに昴さんも」

「おう、久しぶりだな」

「久しぶりだね、明君。元気そうで何よりだ」

「これ、『供物』です」

 明はリュックサックの中から「供物」と称する酒のボトルと珍味のセットを取り出すと、目の前に立つふたりの付喪神に差し出そうとした。

 北斗と、昴。このふたりは、横浜のみならず日本で最も古い防波堤灯台の付喪神である。北斗が赤灯台、昴が白灯台なのだが、白灯台の方は何十年も前に役割を終えて、現在は氷川丸の横で記念灯台としての余生を送っている。

 そして、ふたりの付喪神としての姿は、その正反対の性格を表すように対照的だった。昴が書生風の服装をして丸メガネをかけているのに対し、北斗は着流しのみを身につけている。昴はいかにも優男といった印象だが、北斗の眼光は鋭く、そしてその妖力は昴を遥かに上回る。共通点といえば顔立ちと背丈、それから下駄を履いていることくらいだった。 

「おおっ、高級缶詰じゃねえか。なかなか洒落たもんを持ってきやがるな」

 北斗が機嫌の良さそうな顔になって、明が差し出した「供物」に手を伸ばそうとする。

「ちょっと! いつもこんな高いもの持ってきてもらってるの!?」

 そこへ、昴が物凄い剣幕でふたりの間に割って入ってきた。北斗がいかにも面倒くさそうな顔で昴を見やる。

 明は大いに困惑しつつも、一応は北斗を擁護することにする。

「え、ええ……赤灯台の付喪神様に〈門〉を開けていただくのですから、我々としては、このくらい当然のことだと考えて……」

「いやいや、足元見すぎだって!」

 昴は大きく首を振ってバッサリ切り捨てると、キッと北斗を睨みつけた。

「北斗なら龍宮城まで〈門〉を開けるのに大して妖力使わないでしょ! こんなの暴利だよ!」

「人間の便宜を図るために、付喪神の力を行使するんだぜ? 正当な対価だっつーの」

「明君! 次からはカップ酒とチー鱈でも与えておけば良いから!」

「勝手に決めるんじゃねえよ!」

 完全に明たちそっちのけで言い争いを始める、ふたりの付喪神。明や水晶が口を挟めるはずもなく、ここは傍観に徹するのみである。

「まーた始まったわい」

 少し離れたところに座っていた猩々が、源蔵徳利を片手にこちらへと近づいてきた。

「我が主よ。この人が猩々のおじさんです」

「ああ、いつも言ってる例の……」

 明は初対面なので、今のうちに軽く自己紹介をしておくことにする。

「菊池明です。水晶がいつもお世話になっていると聞いています」

「くるしゅうない。我ら横浜の妖は、珍しいものはなんでも大歓迎じゃて」

 猩々は小さな手をヒラヒラと振ると、明の隣にちょこんと座って源蔵徳利を仰いだ。

 目が覚めるような鮮やかな赤色の蓬髪に、くたびれた赤い小袖と白い股引。大きさは水晶よりも小さいが、声は完全に成人男性のものである。顔の大半が蓬髪で隠されているため表情はよく分からないものの、明にはこの猩々が特に害のない存在であることがすぐに分かった。

「わしも、『供物』のおこぼれに預かっとったんじゃがのう」

 言い合いを続ける北斗と昴を眺めながら、猩々が少々残念そうな声で言う。

「『喧嘩するほど仲が良い』とは、こういうことを言うのですね」

「うん、まあ、そうかな……」

 感心したように付喪神たちを眺める水晶に、明はなんと言っていいか分からず曖昧に頷く。

「あ、ふたりともゴメンね」

 水晶の言葉を聞いたのか、昴がバツの悪そうな顔で言い合いを中断した。

「龍宮城に行くんだったよね。帰りはどうする?」

「10分くらいでお願いします。長居するつもりは無いので」

 このまま長時間待たされると覚悟していた明は、すかさず昴の質問に答える。

「だな、それがいいぜ。蘇芳のおっさんに捕まると面倒だからな」

 明の言葉に、北斗がいかにも嫌そうに顔をしかめた。龍神の「おっさん」呼ばわりに明は内心ヒヤリとしたが、長話になっても困るため特に突っ込まないことにする。

 北斗は、スっと片手を海に向かって伸ばした。

「それじゃ、繋げるぞ」

 何もない宙に手をかざして、ふわりと妖力を込める。

 ぐわん、と空間が大きく歪んで渦を巻いたかと思うと、あっという間に消失する。

 2秒と経たないうちに、何も無かった空間に海の底の景色が出現していた。

(やっぱり、現役で稼働している付喪神の力はすげえな)

 「神」と名のつく付喪神だが、その実態はせいぜいが神寄りの妖といったところである。それでも、北斗が付喪神の中でもかなり強い存在であることは間違いない。

「北斗さん、すごいです!」

「これくらいどうってことねえよ」

 北斗は、水晶の称賛をなんてことのなさそうな顔で受け流すと、早く〈門〉を通り抜けるように促した。

「いつも助かります。では、また後ほど」

「おう」

 こうして明と水晶は、龍宮城が存在する幽世かくりよの海の底へと進入したのだった。




「これが、龍宮城……」

 少し和風が入った中華風の屋敷を、水晶が目を丸くして見上げている。

「このお屋敷の中に、横浜港の龍神・蘇芳様が住まわれているのですね。ご挨拶に伺わなくても大丈夫なのですか?」

「それについては心配ない。会いに来るだけなら、いちいち報告しなくて良いって言われてるから」

 明は龍宮城の門の前で、キョロキョロと辺りを見回した。

「屋敷の裏側にでも行ってるのかな……ちょっと探してみるか」

 そう呟きながら、塀に沿って歩き出そうとした時だった。

「きゅいーーーっ !」

 背後から、何かの鳴き声が近づいてくる。

「っ!」

 振り向いた明と水晶の目に飛び込んできたのは。

八重桜やえざくら!」

 明は破顔して、八つの頭を持つウツボの妖に駆け寄った。

「ぐるるるる……」

「分かった、分かったから」

 しきりに顔を擦り寄せてくる八頭ウツボをどうにか宥めて引き離すと、明は水晶に向き直った。

「紹介するよ。こいつが八重桜だ」

「きゅい!」

 八重桜は水晶には見向きもせず、明の隣で嬉しそうに喉を鳴らしている。

 数ヶ月前、龍神・蘇芳が明に試練として課した怪異退治の相手が、この八つの頭を持つウツボだった。明の独断により退治を免れたこのウツボは、蘇芳により「八重桜」の名を与えられた上で龍宮城の門番に任じられた。といっても、龍宮城を襲撃する怪異や妖など存在するはずもなく、餌を取ったり遊んだりして日がな一日のんびり過ごしているらしい。

 そんなわけで明は、命を助けた者の責任として八重桜の様子を時々見に来ているというわけである。

(我が主にあんなにもベタベタと……恩を感じているとはいえ、馴れ馴れしいにも程があるんじゃないの)

 明に顎の下を撫でてもらって気持ちよさそうな八重桜を、水晶は複雑な気持ちで眺めている。

(でも、名前を付けたのは我が主じゃないのね)

 水晶は、その事実に安堵を感じる。

 それから、何故その事実に安堵するのだろうかと疑問に思う。

「水晶、おまたせ」

 しかし、生まれてまだ日の浅い式神の少女には、その感情の正体を掴み取るのは難しかった。

「少し早いけど、北斗さんの忠告もあるし、いつ〈門〉が現れてもすぐに通れるように待機しておこう」

 切なそうに自分を見つめる八重桜に手を振る明を見て、再び安堵を感じる水晶。

 そうして八重桜に別れを告げて、龍宮城に背を向けようとしたふたりだったのが、そうは問屋が卸さなかった。

「菊池様」

「うっ……」

 突如として背後に現れた気配に、明は歩みを止めてそろそろと振り返る。

 そこにいたのは、ニコニコ笑顔を浮かべたひとりの老女。白髪混じりの濃緑色の髪は肩より短く、小さな顔の横でふんわりと揺れている。その身に纏うのは、優美かつゆったりとしたデザインのいかにも女官といった服装で、袖は完全に腕を隠すほどの長さがあった。

 彼女の名は、潮路。数百年を生きるアオウミガメの大妖であり、龍神・蘇芳の側近を務めている。

「……お久しぶりです、潮路さん」

 無視するわけにもいかず、明は仕方なく潮路と向かい合う。

 そんな明の心境を知ってか知らずか、潮路はニコニコ笑顔のまま片方の袖を上げて、龍宮城の門を示した。

「どうぞ、龍宮城へ。蘇芳様がお招きです」

「あ、あのっ」

 明は必死で頭を回転させて、どうにか上手い断り文句を捻り出そうとする。

「その、手土産がありませんし、このような服装で接見するのは失礼にあたるかと」

 明は今、海異対の夏用の制服を着て、腰巻式のライフジャケットを装着していた。また、必要ないと判断したため、マントは職場の個人ロッカーの中に置いてきている。蘇芳への手土産が無いというのも事実だった。

 しかし、潮路は頑として譲らなかった。

「そのようなこと、お気になさらず。菊池様は、我らが龍神が手ずから宝具を授けられた特別なお方です。どうぞ、ご遠慮なくお入りくださいませ」

 物腰は柔らかく言葉遣いも丁寧だが、その笑顔の裏には有無を言わせぬ迫力のようなものを感じさせる。

 明は、やむなく観念することにした。

(まあ、今日は急ぎの仕事は無いし、さすがに室長も分かってくれるだろう。それより、今度また赤灯台に行って事情を話さなきゃだな)

 明は潮路の後に続いて屋敷へと足を踏み入れながら、〈門〉を開けてくれているはずの北斗に心の中で謝罪する。

「一体どんな方なんでしょう……」

 明に付き従いながら、水晶が不安そうに呟いた。

「大丈夫だよ」

 明は、安心させるように優しく声をかけた。

 そして前を向くと、右手首の腕時計にそっと触れて、その冷ややかな感触を確かめる。

(少しでも水晶におかしなことをするようなら……)

 蘇芳が座す広間を前に、明は鋼のような決意を胸に秘めたのだった。




 そして数分後。

「あなたが水晶ちゃんなのね!」

「式神に会うのって初めてー」

「その翼、触ってもいい?」

「きゃー! ふかふかー!」 

 水晶は、小さな女の子の妖たちに取り囲まれていた。彼女たちは潮路の配下であるとのことで、大半が人魚なのだが、中にはタコやイカ、クラゲ、ウミウシなどが少し人間に寄ったような形をした妖も混じっている。ちなみに潮路は、この龍宮城の主である龍神・蘇芳の横で酌をしている。

「水晶って、そんなに噂になってたのか?」

 明は、漆塗りの脚付き膳に盛られた海の珍味とジュースによる歓待を受けながら、隣に浮かぶ伊勢海老の妖・多聞丸に訊ねた。

「当たり前だろ!」

 水晶を熱心に見つめていた多聞丸が、触覚を先端までピンと立てて叫んだ。

「海鳥と魚の姿をしためちゃくちゃ霊力が強い式神の可愛い女の子が横浜にやってきたとか、噂にならない方がおかしいっつーの!」

「そ、そうか……」

 多聞丸の剣幕に気圧された明は、よく分からないながらもとりあえず頷いておく。

 例の試練の際に案内役として明を導いたのがこの多聞丸だったのだが、あの時の勇猛さはどこへやら、鼻の下をだらしなく伸ばし、ついでに触覚もだらりと垂らして、少し離れた場所で女の子たちに囲まれる水晶に熱烈な視線を注いでいる。

 見かねた明は、多聞丸に提案してみることにした。

「そんなに気になるなら、話してくればいいじゃねえか」 

「馬鹿か小僧!」

「へっ?」

「オイラが、あの輪の中に入っていけるわけが無いだろ!」

 多聞丸は叫びながら、左右5対のうちの片側5本の脚でビシッと指さした。そこにはいつの間にやら、女性向けファッション雑誌を囲んで楽しそうにお喋りする水晶と小さな女の子たちの華やかな空間が形成されている。

(雑誌なんて、どうやって手に入れるんだろ)

 興味津々といった顔で紙面を覗き込む水晶を眺めながら、ヴェネチアングラスの盃を片手に明はそんなことを考える。 

 すると、水晶が顔を上げた。

「……!」 

 明が自分を見ていることに気がつき、迷うようなそぶりを見せる。あるじをほっぽり出して妖たちと遊ぶなど、従者としてあるまじき行為と感じているのだろう。

 明は、水晶に笑いかけた。

 水晶は目を見開き、それから安堵の笑みを浮かべる。そして、女の子たちとのお喋りに戻っていった。

(また新しい友達ができたみたいだな)

 和気あいあいとした小さな女の子の妖たちの輪を眺めながら、明は胸をほっこりさせる。

「うわーっ! あの子、オイラのことを見て笑った!」

「はあ?」

 多聞丸が、ただでさえ赤い顔を更に赤くして叫びながら、明の肩を激しく揺さぶってきた。

「いや、あれはお前じゃなくて俺を見たんだよ」

「ハッ! あの子、もしかして!」

 明は冷静に聡そうとしたが、興奮状態の多聞丸の耳には何一つ入っていない。

「オイラのことが好きなのかもーっ!?」

「どうしてそうなるんだよ……」

 あまりに強い思い込みっぷりに、明は呆れ返ってため息をついた。

「ほほう。何やら面白そうな話をしておるではないか、多聞丸よ」

「ひいっ!?」

 突然割って入った重々しい声に、多聞丸が悲鳴を上げた。

「く、黒瀬様っ! これは、その」

 自らの主の出現に、見ていて可哀想になるくらい慌てふためく多聞丸。

 サメの大妖である黒瀬は、蘇芳のもうひとりの側近である。一応は人間の形を取っているが、皮膚の代わりに楯鱗じゅうりんと呼ばれる細かく硬い鱗が全身を覆い、毛髪は1本も生えていない。そして眼球はサメそのままの楕円形と、潮路よりも人間離れした変化へんげとなっている。

 合気道の道着と袴を身につけて派手な柄のバンダナを頭部に巻くという斬新な出で立ちをした黒瀬は、普段は非常に温厚で、蘇芳や潮路と比べればずっと人間寄りの感覚を持っていた。

 しかし、木刀を床に着いて多聞丸を凝視する今の黒瀬からは、一切の冗談が通じないであろう剣呑さが醸し出されている。

「稽古を抜け出してどこへ行ったかと思えば。まさか、女子おなごにうつつを抜かしておったとは……」

 黒瀬が、いかにも悲しそうといった体で大袈裟に首を振って見せる。

「お前、稽古を抜け出してきたのかよ……」

「あ、いえ、その」

 明の横で多聞丸は、恐怖に塗りつぶされたような顔をして黒瀬を見つめ返している。蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことだろう。

「鍛錬が足りぬようだな。素振り10万回からやり直しだ」

「ひええっ! お慈悲を!」

 こうして多聞丸は、黒瀬の硬質な手にむんずと掴まれて広間を後にしたのだった。 

「いやあ、なんとも初々しい恋の一幕だったな。まるで日照りが続いてひび割れた大地に、新鮮な水が染み込んでいくような心持ちがしたぞ」

 呆れと哀れみを込めて多聞丸を見送っていた明の耳に、龍神の尊大な話し声が飛び込んでくる。

 明は顔を前に戻すと、なるべく平静を装って壇上に座る龍神・蘇芳を見上げた。

(なんだよ、俺に話しかけてるのかよ……)

 蘇芳は、ラタン調の寝椅子にふんぞりかえって機嫌の良い笑顔を明に向けている。

 美丈夫という言葉が相応しい整った目鼻立ちに、胸から腹にかけて大きく開いたエセ中華風の衣装と、首からジャラジャラと下がる宝飾類。外見は完全に人間の形をとっているが、美しい蘇芳色の髪と優に2mを超える高身長については人間離れしているといえるかもしれない。

「ところで小僧、刀の様子はどうだ。何か言葉を発するようにはなったか?」

 適当な相づちを打って珍味を食べていた明だったが、蘇芳は全く気にする様子もなく、すぐに別の話題を降ってきた。

「いいえ。まだです」

 珍味を飲み込んでから、小さく首を振って答える。

 蘇芳は顎に手を当てて、仄かに赤い光を反射する腕時計をじっと見つめる。

「まあ、あれから数ヶ月しか経っておらんからな、そんなもんかもしれんな。そういえば、そやつに名前はつけとらんのか?」

「そのことなのですが」

 明は右手首の腕時計に触れると、元の姿に戻るように強く念じた。

 数秒後、明の手の中にひと振りの直刀が出現する。

 反りの無い真っ直ぐな刀身に、龍の姿が彫り込まれた金属製の柄。柄の先には環状の透かし彫り細工が付いており、これもまた龍の姿をしている。

 これこそが、試練の末に蘇芳が明に授けた龍神の宝具だった。

「実は、朝霧にも同じことを言われたばかりなのです。名前を付ければ、自我の形成が多少なりとも促されるのではないかと勧められまして」

 明はつい最近、朝霧まりかから〈夕霧〉についての話を聞いたばかりだった。 

 蘇芳の神霊力が込められているという、まりかの愛刀ならぬ愛杖・〈夕霧〉。持ち主であるまりかが名前を付けたということで、それについてはこんなことを教えてくれた。

『私が朝霧だから、この子は〈夕霧〉にしようと思ったの。それでね、数十年経って付喪神化したら、お祝いに下の名前も付けてあげるつもりよ』

 そう言って、少しだけ照れくさそうに笑っていた。

「うむ! さすがはまりかだな!」

 明の説明に、何故か鼻高々といった様子で酒の入った盃をあおる蘇芳。まりかの素っ気ない態度については、何も気にならないらしい。仮にも龍神として、それでいいのだろうかと明は思ってしまう。

(そういえば渡辺が、塩対応とかいう言葉を使ってた気がするな。ああいうので喜ぶ連中がいるとかなんとか……)

 自分には永遠に理解できない世界の話だと醒めた目で蘇芳を眺めつつも、脱線した話を元に戻すことにする。

「朝霧の話を聞いてから、名前の候補を色々と考えてはいるのですが。この刀に相応しい名前となると、どうしても慎重になってしまいますね」

「まあ、焦る必要はない」

 蘇芳は盃から口を離すと、打って変わって真面目な顔つきで話し出す。

「なにせ、千年の時を超えたのだ。そやつとて、たかだか数ヶ月や数年を待てないということはないはずだ」

「……そうですね。焦らず、じっくり考えます」

 破天荒な龍神による至極真っ当な助言を、明はありがたく素直に受け取ることにした。再び強く念じて直刀を腕時計へと変化させると、膳に盛られた残りの珍味をさっさと片付けてしまおうとする。

 ピロロロロ……

「!?」

 明のスラックスのポケットから、着信音がけたたましく鳴り響いた。

「うそだろ、どうして」

 慌ててスマホを取り出した明は、唖然として液晶画面を見つめる。

 幽世では、電波は一切通じない。それが、明のみならず「霊力を活かした仕事」をしている人間にとっての常識だったのだが。

「ああ、それか。まりかのために、いつでも使えるようにしてあるというだけだ」

「……」

 こともなげに言ってのける龍神に、明は絶句するしかない。

(どうなってんだよ、この龍宮城は)

 ピロロロロ……

 スマホは未だに鳴り響いている。

 明は液晶画面に視線を戻した。そこには「室長」の二文字がでかでかと表示されている。

(この場合、広間の外に出た方がいいのかな)

 すると潮路が、まるで心を読み取ったかのように、その場で電話に出ることを勧めてきた。

「どうぞ、菊池様。ご遠慮なくお話ください」

「そうだ小僧、うるさいから早く応じてやれ。一緒に聞いてやるから」

 蘇芳も、ニヤニヤと笑いながら電話に出るように促してくる。どうやら、本人の目の前で堂々と通話内容を「傍受」する気らしい。

(次からは、電源を切っておこう)

 明は心の中でため息をつくと、陰鬱な気分で「室長」の二文字を眺めながら通話ボタンをタップした。

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