第4話 海難法師とワガママ人魚〈四〉

 幽世かくりよの海が、音もなく波打つ。一切が沈黙したこの世界で、ふたつの人影が激しい攻防を繰り広げている。

「チイッ」

 海難法師と呼ばれる男が悪態をついて後退した。

 これまで、男の攻撃はことごとく躱されている。目の前の女の、杖を操る腕前がかなり熟達したものであることは認めざるを得ない。しかし、それ以前に、杖が打刀よりも長い関係上、間合いの面で始めから女に有利なのだ。その事に男は苛立ちを感じている。

 加えて、杖の打突だとつと同時に何かを仕掛けてきているらしい。杖が身体に当たった場合はもちろん、掠っただけでも男の幽体から何かが抜けていくような奇妙な感覚を覚えていた。最初は全く気が付かなかったが、何度も打突を受けるうちに違和感を覚えたのだ。

(どういうつもりか知らんが、小賢しい真似をしてくれる)

 向こうが小細工を仕掛けるというなら、こちらも相応の対応をするまで。男は唇の端を小さく歪めると、何度目かになる喉への突き技を繰り出した。

「ヤアッ!」

(何度繰り返したって同じよ)

 まりかは左足から退きながら打刀を受け流そうとする。

 その刹那、男が柄から手を放した。

「!?」

 ゾワッと肌が粟立つ。

(まずい!)

 とっさに身体を大きく捻って回避行動をとる。

 ドンッ。

 まりかは、堤防から突き落とされた。

「ハッハッハッ! 小娘が、してやったりよ!」

 男は大笑いしながら海面を覗き込み、そして直ぐに笑みが消えた。

「ちょっと! 突き落とすなんて酷いじゃない!」

 まりかが海面に立って男を見上げている。特に怪我を負ったようにも見えず、男の攻撃は全く痛痒を感じさせなかったらしい。

「ふふ、そうか。そうか」

 暖簾に腕押し、糠に釘。豆腐にかすがい、泥に灸。

 自分が繰り出す何もかもがこうまで受け流されてしまうと、怒りを通り越して最早笑いが起きてしまう。

 男は自らも海面に降り立つと、間合いよりも遠くの位置からまりかに話しかけた。

「お主、人間にしては幽世に馴染んでおるようだな」

 生身の人間が幽世で行動をするに際しては、意思の力、平たく言えば想像力が非常に重要になる。現世ではできないことでも、幽世で「できる」という強い意思を持ちさえすれば、水中でも呼吸できるし、水底を歩行することもできる。一見、簡単なことのように思えるが、人間の固定観念を崩すのは案外難しい。いざやろうと思っても、なかなか上手くはいかないのだ。それに、幽世で慣れないことをすれば、それだけ霊力も消耗する。

 まりかはそれを、自然体でこなしていた。それも、怪異や妖と同程度に。

「まあね。物心ついたときから、幽世に出入りしてたし」

「怪異が恐ろしくないのか」

「うーん、あんまり思ったことないわね」

 まりかは、男の雰囲気が変わったことを感じ取った。油断せずに杖を身体の前に着きつつも、男と会話を続ける。

「見事な杖の技だな。杖道とか言うたか」

「お褒めいただきありがとう」

「しかし、何故に杖なのだ。杖では、いつまで経っても俺を祓うことなどできぬ。最も、打突に交えて何か仕掛けておったようだが」

「あ、バレてたのね。ごめんなさい」

 軽い非難が込められた視線を受け、まりかは素直に謝罪する。

「後で説明しようとは思ってたのよ。決してあなたに害を与えるものではないし」

「では、何なのだ」

「あれはね、憤怒や妄執を取り除いていたの」

 まりかの説明に、釈然としない表情で男が問い返した。

「そんなことをして何の益がある。お主は、俺を祓いに来たのだろう」

「聞いて、海難法師さん」

 まりかは改まって男に呼びかけた。ここからが正念場だと、一層気持ちを引き締める。

「確かに私は、あなたを祓うように依頼された。でもね、その具体的な方法については、特に何も言われてないのよ」

 ひと口に祓うと言っても、その内容は様々だ。怪異や妖をその場から追い払うだけのもの、土地や岩などの依代を用意して封印するもの、何らかの術を使って強制的に対象の邪気や邪念を浄化するものなど、祓う対象やその場の状況、そして術者個人の考え方によって、「祓い」は全く異なるものとなる。

「つまり、結果さえ良ければ、私の好きにして良いということ」

「だから、どういうことなのだ」

 焦れたように男が問う。それには答えず、逆にまりかが男に質問した。

「ところで、さっきと比べて冷静に物事が考えられるようになってると思うのだけど、どうかしら」

 しばし、沈黙が下りる。

「確かにそうだ」

 男が静かに認めた。

「そうか、さっき言っておったのはこういうことか」

 要するに、怒りや憎しみの感情を取り除くことで、男に理性を取り戻させようとしたということになる。

「ようやく、あなたと落ち着いて話ができそうね」

 まりかは少しだけ肩の力を抜いた。今から提案することに男が素直に応じるとは限らないが、それでも、嫌がる相手を無理矢理「連れていく」ことは回避できそうだと感じたのだ。

「私はね、あなたを導きたいの。祓うなんてことは、したくない」

「導く、だと」

「そう。それも、あなたに納得してもらった上でね」

 導く。その意味するところは知らないはずなのに、その言葉の響きに何故だか胸を打たれる。

(俺に、それを受ける資格があるのか)

 先ほどの攻防により、僅かながらも生前の記憶を思い出している。

 代官として、貧苦に喘ぐ島民たちから、鞭打つように年貢を搾り取れるだけ搾り取った。農民や漁民などというのは、幕府や藩に年貢を納めるために存在している。対して、家禄は低いとはいえ、自分は武士だ。武士は、低い身分の者には何をしても咎められない。

(だが、それだけではなかった)

 所詮は、下級武士。弱い者たちから取り立てねば咎を受けるのは自分であり、そして家であった。この背中には常に、家名が重くのしかかっていたのだ。

(俺には、あのようにしか生きられなかった)

 持たぬ者から取り立てることに快さを感じなかったと言えば嘘になる。高い身分に産まれ、質素ながらもそれなりに充足した暮らしを享受していることによる圧倒的な優越感。特権階級としての意識。島民たちからすれば、餓鬼道にでも突き落とさねば治まらぬ存在に感じただろう。

 しかし、だからといって、あのような最期が受け入れられるものか。謀られて殺されることに何も怒りを感じてはならぬなどと、誰が言えたものか。

 到底、納得できるものではない。

(だから俺は、海難法師になったのだ)

「海難法師さん?」

 呼ばれて、物思いから我に返る。

「なに、お主の提案を吟味していたまでよ」

 内面で生じていた感傷などおくびにも出さずに返答する。

 それに続いて、まりかの提案についての疑問を口にしようとした、その時だった。

「うおりゃーーーーーーー!!」

 何の前触れもなく甲高い雄叫びが上がったかと思うと、小さな影が海難法師に飛びかかった。

「隙ありぃ!」

「ぐわああ!」

 細腕で男の頭部にガッシリしがみついて、小さなギザギザの歯で月代さかやきに齧りつく。

 それは、子供の人魚だった。

「は?」

 あまりにも想像を絶する展開に、まりかはしばし身体が固まる。しかし、すぐに我に返り、人魚を引き剥がそうと暴れまわる男の元に走り寄ると、躊躇せず杖で人魚を打とうとした。

「!?」

「いきなり何をするんじゃ!」

 杖先が空を切り、背後から声がする。すかさず振り向いて人魚の姿を視認すると、サッと間合いをとり、杖先を鋭く顔面に突き付けた。

「どういうつもり?」

「どうとは、なんじゃ」

「だから、どうして私の邪魔をするのよ!」

 怒りながら質問しつつも、抜かりなく目の前の人魚を観察する。

 ひと口に人魚といっても、その内訳は多種多様である。普通の魚類が何らかの原因で怪異化して人の顔や手足を持つようになったもの。海の精霊のうち、人と魚が混ざったような形態をとったもの。それから、海洋生物の中で特に霊力の高い個体が、長い年月を経て人の姿と知能を得て、それが人と交わって産まれた〈異形〉などなど。

 目の前の人魚に関して言えば、下半身はイルカやクジラのそれに似ている。左右の腰骨の辺りからは小さめの胸びれが生え、腹側は白色、尾びれの幅は肩幅よりも広い。

 臍から上の人間部分は、9歳か10歳のくらいの華奢な子供の姿をしていた。肌は褐色で、緩やかな曲線の青色の入れ墨が全身を覆っている。軽いウェーブのかかった髪は真っ白で、腰までの長さがある。左右の頬には、青い横線のみのシンプルな入れ墨。耳にはチェーンのピアスに、首には金色の細めのチョーカー。ピアスとチョーカーには、それぞれ違う種類の宝石がついている。

 人魚の顔立ちは、幼子そのもの。しかしその目元には、外見に不釣り合いな老獪さが現れている。そしてその瞳は、闇夜の海でも輝かんばかりの金色こんじき。ただの子供の〈異形〉と考えるには、あまりにも不自然だった。

「そりゃあ、良い頃合いだったからのう。こやつから、根こそぎ妖力を吸い取ってやろうとしたのじゃ」

 警戒心を露わに威嚇せんばかりのまりかとは対照的に、人魚の態度は呆れるくらいふてぶてしい。ぷくんと頬を膨らませるその姿は、普通の人間ならコロッとほだされていただろう。

「なんて乱暴なことを。せっかく穏やかに解決できそうだったのに、全部台無しじゃないの!」

「あのようなまどろっこしいやり方に、いつまでも付き合ってられんわい」

「なんですって!」

「小娘が、よくも騙し討ちをしてくれたな」

 憎々しげな男の声がふたりの間に割って入った。

 まりかはハッと我に返ると、人魚にも注意を配りつつ、改めて男と向かい合う。

「あの時と、同じように」

 片手を額に当て、全身を怒りで震わせながら絞り出すように話す男。

 まりかはすぐさま弁明しようとした。

「聞いて、海難法師さん。この人魚と私は何も関係無いの」

「もう貴様の話しなど聞かぬ!」

 男はまりかの言葉を遮ると、サッと片手を掲げた。

「っ!?」

 瞬間、多数の亡霊がゆらぎながら海中から出現した。

 虚ろな目と、半開きになった口。だらんと垂れ下げた腕をぶらぶらさせてよろよろと海面を歩きながら、まりかと人魚を半円形に囲い込むような形で徐々に迫ってくる。

「これは、まさか」

 亡霊たちが着ているのは、くたびれた膝丈の小袖。人数はざっと20人以上で、全員頭から爪先までずぶ濡れの状態。間違いなく、代官を陥れて溺死させた島の若者たちだった。

「ちょっと! あんたのせいでややこしいことになっちゃったじゃないのよ!」

 杖先を亡霊たちに向けながら人魚を非難する。優先すべきは事態の収拾であり、口喧嘩している余裕など無いことは分かっている。とはいえ、ここまで状況を引っ掻き回されてしまったとなると、やはり文句のひとつくらいは言いたくなってしまう。

 人魚はしかし、迫り来る亡霊たちを興味なさげに眺めながら間延びした声で言い返した。

「さっさと祓えば良いものを、お前さんが甘いこと抜かしてもたもたしとるのが悪いんじゃ」

「はあ? 勝手に人の仕事の邪魔をしておいて、何様のつもり?」

「わしはな、こう見えてもかつては海の偉大なる支配者だったんじゃ。そのようなわしから見れば、お前のような小娘など大海に浮かぶ木っ端も同然じゃわい」

「あら、そうなの」

 まりかはこれ以上、この人魚の言葉に反応しないことにした。一応の警戒が必要な存在ではあるものの、今は依頼された仕事を完遂することの方が遥かに大切なのだ。

「まあ、見てなさい。あなたに邪魔された分なんて、すぐに取り返して見せるんだから」

 まりかは横目で海難法師の様子を伺った。まりか達から少し離れた位置でこちらを眺めている。亡霊たちがまりかに襲いかかるのを、ゆっくりと見物する気でいるのだろう。

 歯車がカチリと噛み合うように、頭の中で新たな作戦の手順が決まった。まずは、海難法師とふたりきりの場を作らなければならない。

 まりかは〈夕霧〉をそっと額にくっつけると、束の間目を閉じた。

(蘇芳様、力をお借りします)

「ヤアッ!」

 腹の底から力強く気合いを入れて、〈夕霧〉を海面に突き立てるようにして強く打つ。

 バチバチッ、バチッ

 青白い閃光が周囲に走り、強い風圧が渦巻きながら拡散する。

「のわーっ!」

 人魚が大袈裟に叫びながら吹っ飛ばされる。亡霊たちも、声にならない叫び声を上げながら宙を舞う。

 まりかは間髪入れずに右手を伸ばして手のひらを広げると、そこに光の玉を出現させた。

「数珠龍結界!」

 バッと上へ放り投げると、ひとつだった光の玉は無数の小さな玉に分裂し、一つ一つが小さな龍の形に変化した。そのままクルクルと舞いながら周囲に拡散し、互いの尾を噛み合って文字通りの数珠繋ぎになる。

 こうして、まりかと海難法師を囲む直径20m程の結界が完成した。

「コラ小娘! わしも結界の中に入れぬか!」

 人魚が拳を振り回しながら訴えてくる。それから結界を乗り越えようともしたが、小さな光の龍たちに阻まれて軽く弾き飛ばされた。

「あなたには、その亡霊たちの相手をお願いしようと思うの。だって、私よりも偉大な存在なんでしょ?」

「こんな大人数を一度に相手にするのは面倒極まりないんじゃい! というか、そもそもわしはな、そこの大物を喰いに来たんじゃよ!」

「じゃあ、頑張って」

 まりかは一方的に会話を打ち切ると、海難法師と向き合った。ゆっくりと近づいて、間合いの少し手前で立ち止まる。

「これで、誰にも邪魔されないわ。今度こそ貴方を導いてあげられる」

「フンッ。わしが逃げられぬように結界を張ったくせに」

「そんなことない、と言っても、あんなことがあっては信じられないのも無理はないわね」

 まりかは右手に提げていた〈夕霧〉をクルリと回すと、その大きさを簪に変化させて髪に挿してしまった。

「では、こうしましょう。私は今後一切の攻撃をしない。ただ結界の中を逃げ回るだけ。夜明けまでに私を倒せたら、貴方の勝ちよ」

「何を言い出すかと思えば、どうせ先ほどのように小細工を仕掛けるつもりであろう」

 男は疑り深い顔で吐き捨てたが、すぐにニイッと凶悪な笑みを浮かべた。

「だが、この勝負、俺が有利なことも確かだな」

 まりかは何も言わなかった。ただじっと、男の攻撃を待ち構える。

「せいぜい逃げ回れ、小娘」

 男は言い放つや否や、打刀をまりかに向かって投げつけてきた。

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