第3話 海難法師とワガママ人魚〈三〉

 伊豆大島は強風地帯である。

 帆船はもとより、機関エンジンを使って船を動かすようになった現在においても、風向きや風の強さが船の運航に与える影響は大きい。そして、日本有数の強風地帯である伊豆大島に船で訪れようとする場合、どの港に入るのかはその日の風によって左右されることが多い。

 1月24日の昼前。まりかは、伊豆大島に2つある出帆港のひとつ、岡田港に降り立った。島の北東部に位置する岡田港は、西風が吹いても波が穏やかなため、西風が強いこの時期は岡田港に入ることが多いのだ。

 もっとも、まりかがその気になれば、風向きを変えて島の西部にある元町港に入港させることもできただろうが、自分勝手な都合で船の運航を左右するような真似はしないことにしていた。それに、今回の目的地に近いのは岡田港なので、そもそも風向きを変える必要は無かったというのもある。

 岡田港のターミナル前にはタクシーが何台か停まっていたが、そちらには寄らずに事前に予約しておいたレンタカーを店舗で受け取り、早速乗り込む。

 大島一周道路に出ると、時計回りにしばらく車を走らせ、島の北東にある小さな漁港で車を停めた。すぐそばに人の背丈ほどの小さな神社があったので、一礼して訪いを告げてから漁港内に足を踏み入れる。「関係者以外立入禁止」の看板があったが、島民から咎められたら正直に事情を話すつもりだった。旧家の当主からの依頼だと説明すれば、きっと「関係者」扱いしてくれるだろう。

 島の言葉で「ナライ」と呼ばれる北東の風が強く吹き荒ぶ中、悠々と堤防を歩いて突端に辿り着くと、しばし景色を堪能する。足元では磯波が激しく砕け、沖合いでは強く白波が立っている。そして遥か彼方には、そんな海象とは無関係に、房総半島が泰然と横たわっていた。

 まりかは目を閉じると、深く息を吸い込んだ。強烈な潮の香りの中に、微かに混じる甘い匂い。目を開けると、今度は身体を乗り出して海面を覗き込む。

 事前にネットで調べた通り、魚影が濃い。そして、魚たちに混ざって、この世ならざる存在がチラチラと見え隠れしている。

(この場所で良さそうね)

 まりかは踵を返してさっさと車に戻ると、次の目的地に向かった。

 今度は、漁港に程近い神社を訪れる。駐車場が無いので仕方無く路上駐車をして、なるべく早く用件を済ませることにする。

 鳥居を潜った途端に、周囲の空気が一変した。

「すごい」

 目の前の光景に、まりかはほうっと嘆息した。

 未舗装の参道の左右には杉の大木が天に向かって整然と林立し、木々の間からは柔らかな陽光が差し込んでいる。深呼吸すると、心を洗い流すかのような清涼な香りが鼻腔をくすぐり、肺を満たした。

(ここはもう、幽世かくりよね)

 あるいは、ここでは現世うつしよ現世と幽世の区別がほとんど無いのだろう。現世で吹いている強風はここには影響していないらしく、遥か上方の樹冠から葉擦れの音がそよそよと聞こえるくらいだった。

 まりかは、爽やかな気持ちで参道を歩き出した。舗装されていない、自然そのままの道を踏みしめていく。

『誰か来たわ』

『来たわ』

『ウフフ』

『フフフフ』

 精霊たちのものと思われる笑い声が、木々の隙間から漏れ聞こえてくる。

「こんにちは。少しだけお邪魔するわね」

 まりかは、にこやかに声をかけてみた。

『キャッ』

『聞こえてる!』

『まさか見えてる?』

『隠れなきゃ』

『隠れなきゃ』

 囁き合いながら慌てふためく精霊たちを微笑ましく思いながらも、たまには寄ってきてくれたって良いのにと少々寂しく思う。存在を認識されることに慣れていない精霊たちは、得てして恥ずかしがりやなのだ。

 精霊たちはしかし、まりかには興味津々らしく、姿を隠しながらついてきている。

『ねえ、あの子から風の乙女の気配がしない?』

『ほんとだ』

『ほんとだ』

『仲間かしら』

『でも、人間よ』

『人間ね』

『ヘンなの』

 そんなに気になるなら出てくれば良いのにと思ったが、今は仕事が優先なので精霊たちには構わず、足元に木の根が増えてきた参道をひたすら進んでいく。

 やがて、森の中にポツンと佇む小さな本殿に辿り着いた。手水舎で手と口を清めてから本殿の前に立ち、作法に則って礼拝すると、自身の名前と住所を述べ、この島を訪れた理由を説明した。

「――余所者の分際で恐縮ではありますが、先に述べました事情により、この地で能力を行使いたしますことを許していただきたく、お願い申し上げます」

 まりかは口を閉じた。目を瞑ったまま微動だにせず、しばらくの間その場に立ち尽くす。

 返事はない。周囲の空気にも何一つ変化はない。まりかはそれを、肯定と受け取った。

「お許しいただき、厚く感謝申し上げます」 

 最後に深く一礼して、本殿に背を向ける。これまでに寺社仏閣の神仏に何かを問うたり話しかけたりしたことは何度もあるが、直接的な反応があったことは一度も無い。それでも、場の空気が悪い方へ変化するなどの明らかな拒絶を感じさせる現象が起きない限り、まりかの存在や活動を容認しているものと考えて差し支えないと結論づけていた。

 精霊たちの興奮したような囁き声に見送られながら参道を戻って鳥居を出ると、そのまま右に向かってしばらく歩き、森の中に2基の祠がひっそりと佇む場所を見つけた。

「こんにちは、海難法師かいなんぼうしさん」

 さっきまでとは違い、今度は気さくな感じで祠に話しかける。

 反応は無い。

 まりかはジャケットのポケットの中から個別包装の切り餅をひとつ取り出すと、包装から出して祠に供えた。

「つき立てとは違う、固いお餅でごめんなさい。港で和菓子か何かを買おうかとも思ったんだけど、あなたに気に入ってもらえるかどうか、分からなかったから」

 それに、餅を供えるという慣習そのものに呪術的な効果が込められている可能性もあったため、いたずらに変更するのは適切ではないという判断もあった。

 まりかは立ち上がって数歩下がると、真っ直ぐに祠を見据えた。

「果たし合いをしましょう。丑三つ時に、この近くの漁港で待ってる」

 ゴオッと風が鳴った。ざあざあと木々が揺れ動き、さざめきとなって森一帯に響き渡る。まりかはしかし、その中でも平然と立っている。

(ちゃんと伝わったみたいね)

 海難法師は他の島々にも出現する。それは、海難法師が複数いるというよりも、本体から発せられた強烈な怨嗟の念が、単なる現象としての怪異をいくつも造り出した結果であると考えられる。となると、魂を持った怪異である本体を祓わなければ、何の解決にもならない。

 そういうわけで、どこに出現するか分からない海難法師の本体に確実に出会うために、まりかはこちらから呼びかけることにしたのだ。この祠が本当に海難法師にまつわるものなのかどうか心配していたが、こうして無事に連絡をとることができた。

「それじゃあ、また後でね」

 ひとまず安心して、祠に背を向ける。

 カサリ。

 草むらの中で生き物が動いたような音がした。

 素早く振り向くが、特に生き物らしき影は見えない。

(怪異や妖かしら)

 少なくとも、悪意の残滓はこの周辺からは感じ取れない。立ち聞きされたのだとしても、わざわざ後を追って対処をする必要性は低いと思われた。

 それに、海難法師を祓う機会はこの一度きりしか無い。どのみち予定を変えることは不可能なのだ。

 まりかはそのまま祠を立ち去ると、車で岡田港まで戻って昼食をとった。その後は、今後の参考にするため再び車を走らせて周辺の土地の状況を確認し、それから宿泊先の旅館にチェックインすると、夜に備えてゆっくりと身体を休めた。




 1月25日の午前2時過ぎ。丑三つ時。まりかは漁港の堤防上で、灯りひとつ持たずに海難法師を待ち受けていた。普段はハーフアップにしている髪は、今はひとつにまとめ、簪は〈夕霧〉のみを挿している。その身体に纏うのは、赤みがかった橙色の上衣とショートパンツ。どちらにも金糸銀糸の刺繍がさりげなく施されているが、上衣は流水紋、ショートパンツには青海波という違いがある。手足には、それぞれ紺色の手甲と脚絆、そして地下足袋を身に付けていた。

 待つのに飽いたまりかは、何気なく空を見上げてみる。今夜は曇りで月が見えない。闇に呑まれた夜の海からは、ちゃぷちゃぷと波がたゆたう音だけが耳に届く。

 まりかは視線を夜の海に戻して、大気の匂いを確認した。

(そろそろかしら)

 潮風の中に含まれる甘い香りが、少しずつ強くなってきている。まりかは右手を頭に伸ばした。

「〈夕霧〉」

 名を口にして簪を抜く。その途端、簪の大きさが変化した。

 長さ128cm、直径2.4cm。簪の時は濃紺一色だったそれは、まるで深い海をそのまま切り取ったかのような繊細な青のグラデーションを描いている。

 〈夕霧〉と名付けられたそれは、杖だった。杖道や杖術において使用される、一見すると単なる丸い棒にしか見えない武具であり、まりかの愛刀ならぬ愛杖である。そして、〈夕霧〉には特別な力が込められていた。

「久々に、あなたの出番が来るかもしれないわね」

 まりかは杖の中心を持って身体の横に提げると、表情を引き締めて沖合いを見据えた。〈夕霧〉を扱う際に邪魔にならぬよう、上衣の袂は前もってたすき掛けをしてある。

 事務所で老人の話を聞いたその時から、今回の依頼は荒事になるという予感を持っていた。まりか自身は、戦いとか試合とかの類いに特別熱くなるような性格ではない。ただ、〈夕霧〉を活躍させてやる機会が少ないことに、常々申し訳無さを感じていた。だから、嬉しいとまではいかないものの、依頼を引き受けて良かったくらいのことは感じている。

 やがて、数百メートルほど沖合いに、赤い帆を張った弁才船がゆらめきながら現れた。イカ墨を流し込んだような暗闇の中、まるで幻のようにぼうっと光を放っている。

 弁才船の出現と同時に、まりかの周辺世界がしいんと静まり返った。例えるなら、その場で杖をカツンと着いた音が、まるでコンサートホールにいるかのように見事に響き渡るような静寂。そして、濃厚な甘い匂いが暴力的なまでの質量でもって周囲を満たしていく。まりかはそれを、味わうように吸い込んでみた。

 海水にホットミルクを注ぎ込んだかのような、甘くてしょっぱい、郷愁を誘う匂い。小さな頃から慣れ親しんできた、幽世の海の匂い。

 今やここは現世ではなく、完全に幽世に変化していた。

 まりかが見ているうちに、弁才船から小舟が一艘だけ降ろされたと思うと、海面を滑るようにしてこちらに向かってきた。

 小舟の中に、人影が見える。

 しばらくして、小舟が堤防の陰に隠れ、突端に一人の男が上がってきた。

 丁髷ちょんまげ半裃はんかみしも、腰には大小二本挿しという、典型的な武士の装い。少し服装が乱れ、全身が海水で濡れそぼっていること、そしてその眼に光が無いことを除けば、普通の人間とさして変わらないように見える。

 しかし、まりかには、その男が紛れもなく怪異であり、そして怨霊でもあることが一目で分かった。男が激しい憎悪の念を込めた視線をまりかに向けてきたが、まりかは平然とそれを受け止める。

 ふたりはそのまま無言で睨み合う。

「フンッ」

 先に声を発したのは男だった。いかにも不愉快そうに鼻を鳴らす。

「俺を見ても気が狂わぬとは、わざわざ呼びつけるだけのことはあるようだな」

「こんばんは、海難法師さん」

 まりかは穏やかに挨拶をした。

「まずは、お名前を聞いても良いかしら」

「そんなもの、とうの昔に忘れたわ」

 海難法師は吐き捨てるように答えると、腰から打刀を抜いて正眼に構えた。

「果たし合いなどと抜かしておったが、大方、俺を祓いに来たのだろう」

 切っ先をまりかに向けて、じりじりと間合いを詰めてくる。

 空気が張り詰め、肌がピリピリするのを感じながらも、まりかは落ち着いた動作で、杖を身体の前に着いて杖先を右手で握った。

 海難法師が歯を剥き出した。

「小娘が、返り討ちにしてくれるわ」

 瞬間、大きく踏み込んで一気に間合いを詰めると、まりかの頭部に打刀を振り下ろす。

「なっ!?」

 打刀が空を切る。同時に、男の左小手に鈍痛が走った。

「くっ」

 すかさず打刀を振り上げて、再度まりかに斬りかかろうとする。

「ぐああっ!」

 再び左小手を打たれ、男が叫び声をあげた。思わず退いた男の顔面に、スッと杖先がつきつけられる。

「着杖(つきづえ)」

 杖先の向こうから、まりかが少し怒ったように男を見た。

「いきなり斬りかかるなんて、酷いじゃないの」

「そうか、杖術か」

 男がボソリと呟いた。身体を打たれたことで、生前の記憶から該当するものが浮上したのだ。

「小癪な真似をしてくれるわ」

「正確には杖道というの。最も、あなたの時代には無かったから、知らないのも無理ないわね」

 杖道は、神道夢想流杖術を起源とする現代武道である。「突かば槍 払えば薙刀 持たば太刀 杖はかくにも はずれざりけり」という古歌が表す通り、攻撃を主とせず、相手の攻撃に応じて変化し、制圧するのが主旨となっている。

「でも、杖道って形武道なの。杖術の方はちゃんと教わったわけじゃないし、私が使ってるのは杖道を元にした我流の杖術と言うべきね」

「だったらその棒切れ、ズタズタにしてくれるわ!」

 男は怒気を滲ませると、有無を言わさずにまりかの喉元めがけて突きを放った。

「っ!」

 まりかは、とっさに左下方に半円を描くように杖を動かして打刀を大きく巻き落とすと、右足を踏み込んで男の顔面を攻める。男は右足を退いて杖を避けると一旦間合いをとり、息をつく間もなくすぐに攻撃を繰り出した。

「キエーッ!」

 上段に構えた打刀を正面に降ろすと見せかけて、左側から二の腕に鋭く切りつける。まりかは右足を踏み出しながら左手を頭上にして杖を斜めにすると、杖先で男の鳩尾を突いた。

「うぐっ」

 男は僅かに怯むもすぐに体勢を立て直し、今度は右肩から袈裟斬りを試みる。

「がはっ」

 まりかは難なく左にかわして男の右脇腹を突いた。

「雷打(らいうち)」

 何事も無かったかのように杖を構え直して、スッと杖先を男の顔面に突きつける。

「ちょこまかと逃げ回りおって!」

 打刀を握った拳を振り回しながら男が怒鳴り散らした。まりかは心の中でため息をつく。

(うーん、もう少し話を聞いてくれると思ったんだけどな)

 杖道の話題をきっかけにしてさりげなく本題に持ち込めないかと考えたのだが、甘かったようだ。一応言葉は通じるものの、この怨霊の理性は怒りや憎悪ですっかり塗り潰されている。

(というか、怨霊に冷静さを求める方がおかしいよね、やっぱり)

 いつ如何なる状況であれ、まずは相手との対話を試みるというまりかの信条は、法律屋としては適切でも、今回のような怪異を相手にした仕事においては、ともすれば致命的にすらなるだろう。

 まりかは自身の甘さを痛感しつつも、次の行動に移るためにさっさと気持ちを切り替えていく。

(まずは、話を聞いてくれる状態に持ち込もう)

 歯の隙間から低い唸り声を漏らして睨みつけてくる海難法師を注視しながら、杖を持つ右手を逆手に持ち替える。

(それが無理なら、最終手段よ)

 まず大切なのは自身の安全、そして依頼の達成である。金銭を得ている以上、ここは厳格に私情を排した上で、依頼達成のための最適な手段を選択し実行すべきなのだ。

「どうしたの、海難法師さん。もうお手上げかしら」

「黙れ!」

 あからさまな煽りに男は怒りを沸騰させると、雄叫びを上げながらまりかに斬りかかった。

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