第5話 海難法師とワガママ人魚〈五〉

 「薄明」という、日の出前や日没後の、空が薄く明るい状態を指す言葉がある。この薄明は時に、空の明るさの度合いによって更に3つに分類される。そのうちのひとつである「航海薄明」は、地平線や水平線が識別可能な、日の出や日没後の1時間程度の時間帯を指す。

 その航海薄明の下、まりかと海難法師かいなんぼうしは、じりじりと間合いをとりながら互いの出方を伺っていた。

 肉体を持たぬ怨霊である海難法師に対し、霊力が高いとはいえ所詮は人間でしかないまりかは、疲労困憊である。

 海難法師と呼ばれる男は、大きく肩で呼吸をするまりかに、不思議なものを見るような視線を向けていた。果てしのない攻防を続けるうちに、煮えたぎるかのごとき怒りは影を潜め、代わりに戸惑いや困惑の感情が沸き上がってきている。

「何ゆえ、そこまでするのだ」

 ついに男が口を開いた。一旦は話し合いを拒絶したものの、当初から感じていた疑問が膨れ上がり、まりかの口から直接理由を聞きたいという欲求が勝ったのだ。

「そもそもお主は、金銭で雇われたに過ぎぬ。その身をわざわざ危険に晒さずとも、さっさと現世うつしよに逃げることもできただろう。それとも、余程金に困っているのか」

 まりかはほっと息を吐いて、後れ毛を掻きあげた。そろそろ最終手段を使うべきかと考えていたのだが、もうその必要は無さそうである。

「私ね、お金には全然困ってないのよ。白状すると、強引な手段はいつでも使えた。でも、それは極力したくないの」

 まりかは両手を身体の横に広げた。

「海難法師さん。貴方さえ良ければ、そろそろ終わりにしないかしら。これまでも、現在も、そしてこれからも、海難法師という怪異で在り続けるのは、とても虚しいことだと思うの」

「……」

 虚しい。

 それは、怪異としての自身を真っ向から否定する言葉だった。しかし、怒りは感じない。代わりに、しんしんとした侘しさが、虚ろな幽体の中に染み込んでいくような心持ちを覚える。

「そうか、俺は虚しいか」

 この言葉を口に出して噛み締めてみる。

 計略により殺され、はや数百年。人間だった頃の記憶は自分の名前も含めてほとんど忘れ去り、その間隙を埋めるかのごとく増大した怒りや憎悪が、怪異である自分を突き動かしてきた。

 その有り様は、まるで虚ろな人形。

 既に男からは、怪異として存在し続けたいという気持ちは消え失せていた。

「だが、どうすればいい? 俺は、どこに行けばいいのだ」

 そこまで言って思い出す。まりかが何度も言っていた言葉を。

「お主は俺を、どこに導くというのだ」

 まりかは柔らかな笑みを浮かべた。見るものを安堵させるような、穏やかな瞳で男を見つめる。

「海の底」

 まるで秘密を打ち明けるかのように、それを告げる。

「深い深い海の底」

 男は思わず足元を見た。

 とっぷりとした闇を湛えた、幽世かくりよの海。

 これに呑まれた先にあるのは。

「そこあるのは、地獄か」

「どうしてそう思うの?」

 まりかが不思議そうに問い返す。

「決まっておろう。怪異と成り果てた俺が、浄土などに行けるわけがない」

「大丈夫よ」

 自嘲気味の男に、まりかがきっぱりと言った。

「あそこはね、地獄とか浄土とか、黄泉の国とか天国とか、色んな呼び方があるけどね。そのどれでもあるし、同時に、そのどれとも違うの」

 一瞬だけ、まりかの目がどこか遠い場所をさ迷うが、すぐに男に視線を戻す。

「現世や幽世における善悪なんて、あの場所では超越してる」

「それを聞いて、俺が安心できると思うか?」

 男が呆れたように聞いた。この娘は嘘をつけないのだろうか。

(だが、悪い気はしないな)

 だから、この娘を信じようと思えるのだろう。

「不安にさせたのならごめんなさい。でも、これだけは言える。現世であれ幽世であれ、生きとし生けるものは全て、いつしかあそこへ還っていくの。あそこが本当の安らげる場所なのよ」

 真剣な表情で訴えるまりかの顔を眺めながら、男はしばらく思案する。そして、ふうっと息を吐き出した。

「つまり、ここでこうしているよりは遥かに楽しめる、という理解で良いか?」

「ええ、絶対に」

 まりかが断言した。男は思わず笑いだしそうになるのを堪えて、ゆっくりとまりかに歩み寄った。打刀は既に腰に収めている。

 まりかは両手を前に出した。

「水先人を用意するわ」

「ミズサキニン?」

「まあ、見てて。コール・ザ・パイロット!」

 高らかな声で唱えるやいなや、両手の間に渦巻く光が出現する。

 男は思わずたじろぐ。

 それはみるみるうちに形を変化させると、あっという間に光輝くひとつの像を形成した。

「なんだ、これは」

 男の顔に、ポカンとした表情が浮かぶ。

「ケルピーっていうのよ」

 まりかが何故か、得意気な顔で説明する。

「上半身は馬だし、あなたにも馴染みやすいかなと思って」

「……」

 男は返答に窮した。確かに上半身は馬だが、下半身は魚である。怪異である自分が言うのも可笑しいが、このような妙ちきりんな代物が死出の旅の供というのは、いささか締まらない気がする。

「何を出すかと思えば。まあ良い」

 ブツブツ言いながらも、ケルピーの首に手をかけて背に跨がる。その途端、ケルピーの身体からふわりと風が起こった。

「なっ」

 あっという間に、ケルピーの身体が豪華絢爛な馬具で彩られる。沃懸地いかけじに蒔絵や螺鈿で龍の姿が描かれた鞍に、同じく沃懸地に蒔絵で装飾された鐙、頭と胸と尻には朱色の房飾りが掛けられ、頭絡も装着されている。

 男は、贅の限りを尽くした馬具をまじまじと見回した。

「まあ、存外悪くないな」

 ボソリと感想を漏らす。

「そう、良かった」

 安堵の笑みを浮かべるまりかを、少し呆れたように男が見つめる。さっきまで敵として向き合っていた相手に良くしてやろうなどと、どうして思えるのか。

(そもそも、最初から敵とは考えてなかったのだろうよ)

 それは、この娘の慈悲深さによるものか。それとも、自身の優越を信じて疑わぬ高慢さによるものか。或いは、その両方か。

「娘よ、手間を取らせたな」

 男は手綱を握った。最期の旅路に、わざわざ余計な思考を巡らせて気を悪くすることも無いだろう。

「お気をつけて」

 まりかが静かに、それだけを言った。飾り気も無く、感傷も感じさせないシンプルな言葉。そのよそよそしさが、海難法師という怪異だった男にはひどく心地好かった。

「ヤアッ!」

 男は正面を向いて、かけ声と共に手綱を引いた。

 コオオオオォ……

 洞窟の中を風が吹き抜けるかのような不思議ないななきを発すると、ケルピーはその身を輝かせながら薄明の空へと飛び立った。

「っ!? 貴様、どこへ」

 男があわてふためく間にも、みるみるうちに上昇していく。

 やがて、島全体が一望できる高さに達した。男は眼下の光景に目を見開く。

(これが、伊豆の島なのか)

 夜明け前の薄明かりに照らされた伊豆大島が、暗い大海の中に幻想的に浮かんでいる。さらに南に目を向けると、利島や新島、神津島とおぼしき島影も確認できた。

(人の身であっては、視ることが叶わなかった景色だな)

 男にとっては忌むべき地であるはずなのに、ただただ目の前の光景を美しいと感じている。

(最後の最後まで、やってくれるわ)

 フッと男が小さく笑った。そして、景色から目を外して手綱を握り直す。

「もう良い。十分堪能した。俺を海の底へと導いてくれ」

 ケルピーが高らかにいなないた。名残を惜しむように、ぐるりと島の周囲を回りながらだんだんと下降し、やがて海面に辿り着く。

 まりかが見守る中、海難法師と呼ばれた男は、海面に溶けるようにして消えていった。あとに残るのは、いつもの海と島の姿だけ。

 まりかは、男が消えた辺りを眺めながら、先ほどのやり取りを思い出す。

『あそこが本当の安らげる場所なのよ』

(私って、やっぱりずるい)

 嘘をつかない代わりに、都合が悪いことや説明が難しいことを敢えて話さないという選択肢をとってしまうことがある。今回もそうだ。

 まりかは頭を振って感傷を追い払った。まだ、やるべきことが残っている。25人の亡霊たちを、この地から解き放ってやらねばならない。

「って、あれ?」

 ここでようやく、亡霊たちが一人残らず消えていることに気がついた。慌てて周囲を見渡すと、あの人魚が結界のそばで、波間に揺られながらうたた寝をしている。

「ちょっと、あの人たちはどうなったの?」

 結界を消して人魚の元に駆け寄る。人魚は薄目を開けてまりかを見ると、ふあっと大あくびをした。

「あんなもん、妖力を吸い尽くしてやったら、各々勝手に海に潜りよったわ。あとは知らん」

「ああ、そう。それなら良いけど」

 まりかはホッとした。妖力が吸い尽くされることで、溺死したことへの無念やら何やらの感情が浄化され、還るべき場所を自然と思い出したのだろう。

「なんじゃ、礼のひとつくらい言わんか」

「私の仕事を邪魔したんだから、それくらい当然でしょ」

 口を尖らせて文句を垂れる人魚に対し、すげない態度で言い返す。

「当然じゃと!?」

 途端、人魚が喚き出した。

「あの数から一度に吸うのは本当に大変だったんじゃぞ!? 少しは老体を労わんか!」

「分かったわよ。とても助かりました、感謝します」

「ふん、分かれば良い」

 投げ槍感のあるまりかの謝罪に、人魚は満足そうに頷いた。もっと気持ちを込めて謝罪しろと言われると思っていたので少し驚いたが、これ以上は何も言わないでおくことにする。

「それじゃあ、私はこれで」

「待てい!」

 面倒なことにならないうちにさっさと退散しようとするも、そうは問屋が卸さなかった。

 細い腕を目一杯広げてまりかの行く手を防ぐ小さな人魚の健気な姿は、彼女の言動を知らない者ならば、むしろ微笑ましささえ感じただろう。

「何のためにお前さんを待っていたと思っとる?」

「あら、わざわざ私を待っててくれてたのね。ご苦労様」

「仕事とか抜かしておったが、いつもいつもこんな大物を相手にしとるのか?」

「いつもじゃないし、不定期だし、年に数回しか依頼は来ない。何を期待してるか知らないけど、私ではあなたのお役には立てないわ。というわけで、さようなら」

「待て待てーい!」

 横をすり抜けようとするのを、人魚が小さな身体で必死に阻止する。

「ひとつ頼みがある。このわしを、お前さんのところに置いてはくれんか?」

「えっと、私の話、聞いてた?」

 まりかの表情が凍りついた。

 突如出現したかと思うと颯爽と仕事の邪魔をし、反省もせず、挙げ句の果てに自宅に押しかけるつもりでいる。常識外れの厚かましさに、最早唖然とするしか無い。

「断言する。わしは必ず役に立つ!」

「それが事実だとして、それでも貴方がいることによる損害の方が遥かに大きくなると思うの」

「ええい! わしの力の偉大なることくらい、お前さんにも分かるだろうが! もうちっと信用しろ!」

「あんなことされて、信用できるわけないでしょ!」

 まるで子供の喧嘩である。これではいつまで経っても収拾がつかない。

(もう、強引に逃げようかしら)

 そもそも、海難法師の相手で疲労困憊の状態なのだ。いい加減、宿に戻って休みたくてたまらない。

 隙を見て陸地の方へ駆け出そうとした、その時だった。

「いやはや、お見事でした」

 背後から老人の声がした。

「えっ?」

 振り向いたまりかの目に飛び込んできたのは、まさしくあの老人だった。赤い作務衣に下駄履きと、数日前に事務所で会ったときと全く同じ格好をしている。違うのは、柳行李を背負っていないことくらいだ。

(うそ、どうして)

 思いもよらぬ人物の出現に、まりかは言葉を失う。

 老人は、相変わらずの好々爺然とした笑みを浮かべながら、まりかに言った。

「これなら、安心してお任せできますな」

「それは、どういう」

 問い返そうとしたまりかを、突風が襲う。

「なに、この風」

 暖かい、けれど叩きつけるような突風に思わず目を閉じ、すぐに開けると、既に老人の姿は消えていた。

 慌てて辺りを見回すが、人魚以外には人っ子ひとり見当たらない。

 まりかは、信じられぬ思いでその場に立ち尽くした。

 ここは未だ幽世、しかも海上だ。老人のことは事務所で会話しながら観察していたが、自由自在に幽世に出入りできるような能力者には全く見えなかった。

 ただ、事務所での出来事を思い返すと、いくつか不自然なことに思い当たる。そのひとつが、老人が土産として持参してきたマンデリンだ。まりかがコーヒー好きで、しかもマンデリンを特に気に入っていることなど、両親や親友などのごく一部の人物しか知らない。服装だって、作務衣はともかくとして、おかしな音がする下駄に柳行李と風呂敷という組み合わせは、現代ではあり得ないとまでは言い切れなくても、少しくらい違和感を感じても良かったはずだ。

 そう、何よりもおかしいのは、今こうして思い返すまで、こうした不自然な点の数々を全く認識していなかったということだった。

 まるで、誰かに目隠しされていたように。

「この私が、化かされるなんて」

 身体の芯が一気に冷え込むような感覚に、まりかは自身を掻き抱いた。怪異絡みでこのような感覚を味わうのは、これで3度目だ。

「クァーッハッハッハ!」

 唐突に人魚が哄笑した。一体何が面白いのか、その目には涙まで浮かんでいる。ひとしきり笑うと、高みから見下すような目をまりかに向けた。

「よく聞け、小娘」

 明らかに人魚の雰囲気が変わった。幼子のごとき挙動は消え去り、長き年月を生きた者だけが持ちうる重みとでもいうべきものが、人魚の幼い顔立ちに陰を与えている。

「確かにお前さんの霊力は高い。加えて武術にも秀で、頭も悪くはないときた。慢心するのも当然じゃろうて」

 人魚の獰猛な本性を表すかのようなギザギザの歯が、口の動きに合わせて唇の間からチラチラと見え隠れする。

「だがな、所詮は人間よ」

 人魚は片方の手を器のようにして海水をすくった。指の隙間から手の縁から、ポタポタと海水が零れていく。

「お前さんを含め、この世界について人間共が知りうることは、極微にも満たぬ。例えるならば、大海からこの手にすくった一杯の、更にそこから漏れたうちの一滴。所詮、その程度じゃ」

 バシャリ。すくった海水を海面にぶちまけて、凄みのある笑みを浮かべながら、正面からまりかを見据える。

「自惚れるなよ、小娘。世界は驚異と神秘に満ちておる。それを、ゆめゆめ忘れぬことだ」

 明けつつある薄明の下、金色の瞳が鋭くまりかを射貫く。

 まりかは気圧された。そして、人魚の指摘がそれなりに的を射ていることも認めざるを得なかった。とはいえ、そんなことを話そうものなら、無駄に優越感を与えてしまうに違いない。

 結局まりかは、無言でその場を去ることにした。漁港内の海面上を陸地に向かってスタスタと歩きながら、この人魚にどう対処したものか頭を悩ませる。

「ちょっと待たんか!」

 案の定、人魚はまりかを追いかけてきた。つい先程までの威厳は跡形もなく消え失せ、ぴょこぴょこと必死でまりかに纏わりついてくる。

「ご高説賜り恐悦至極に存じます。でもね、貴方を私の家に招くのはご勘弁願いたいの」

「なんじゃい! この流れなら居候をすんなり受け入れると思うたに!」

「どうせそんな魂胆だろうと思った」

 まりかはため息をついた。陸地に上がると同時に、幽世を抜けて現世に戻る。郷愁をそそる幽世の匂いは遠ざかり、そこかしこから生き物が活動する気配が感じ取れる。

 幽世も悪くは無いが、躍動する生命に満ち溢れた現世こそが自分の在るべき世界なのだと、今は思っていた。

「ひとつ確認しておきたいことがあるんだけど」

 まりかの後を追って当然のように現世に現れた人魚に、あくまで素っ気ない態度で声をかける。

「おう、なんじゃ。なんでも聞けい!」

 コンクリートの波打ち際に直立した人魚が、小さな拳でむき出しの胸をトンと叩いた。

「仮に私の家に貴方を泊めるとして、宿代を払ってもらう必要があると思うの。その辺りについては、どう考えているわけ?」

「む? 食客というわけにはいかんのか?」

 人魚がキョトンとした顔で問い返した。まりかは頭を抱える。

「あなた、タダ飯を食らうつもりだったのね」

「食客と言うたじゃろ! お前さんこそ、ちゃんとわしの話を聞かんか!」

「そんなの」

 同じことではと反論しかけて、まりかは黙った。確かに、自分は役に立つとか言っていたし、意識的に食客という言葉を選んだのならば、そこには何か意味があるはずだ。

 気を取り直して、人魚に別の質問してみることにする。

「さっきの海難法師についてだけど。ひょっとして、あのとき私が介入しなければ余裕で祓えてたのかしら」

「もちろんじゃ。それも、お前さんよりもずっと早くな」

 あからさまな嫌味は気にせずに、淡々と次の質問に移る。

「霊力を一切使わない体術の類いは使える?」

「水中ならば、わしの右に出るものはおらんぞ。この自慢の尻尾でしばき倒してくれるわ!」

 まりかは、縁がギザギザになった尾をヒョコヒョコ振りながら拳を振り回す人魚を、生暖かく見守る。話し半分に聞いておいた方が無難だろう。

「他には何か得意なことは?」

「何を言う、わしはなんだってできるぞ!」

「具体的には?」

 えへんと胸を張って主張する人魚に、質問を畳みかける。

「そうじゃなあ」

 人魚が、意味ありげな笑みを浮かべてまりかを見た。

「例えば、気に入った人間に人魚マーメイドの加護を授けるなんてこともできるぞ。お前さんの母親のようにな」

「どうしてそれをっ」

 思わず反応してから、しまったと口を抑える。

「なんと、図星だったか。」

 意外なことに、人魚も驚いたらしい。ふむふむと頷きながら種明かしを始める。

「お前さんに、風の乙女の加護が授けられとるのは一目で分かった。それも、人間の身には余りある量じゃ。これは加護どころではない、むしろ寵愛や溺愛のように感じてな。そこから親から子への愛情表現という発想をしてみたんじゃが、まさか本当だったとは」

 珍しいこともあるものだと、何やらひとりで感激している。

 一方のまりかは、ショックで天を仰いでいた。

 自分の母親のことがバレるのは、そこまで気にならない。純粋に、単純な誘導尋問に引っ掛かったことが、ショックでたまらないのだ。

(やっぱり疲れてるんだわ)

 早く宿に戻って泥のように眠りたいと、夜明けの空を眺めながら考える。

 しかし、次に発せられた人魚の言葉に、呼吸が止まった。

「何がどうなってそんなことになったのか非常に興味をそそるが、今のわしには精度の高い過去視など出来ぬからな。もう少し怪異共から妖力を吸い取らねば」

「過去を視られるの!?」

「ぬおっ?」

 勢い込んで訊ねるまりかに、人魚はタジタジになる。

「いや、だからのう、今のわしは弱体化しとるから」

「力を取り戻しさえすれば、過去を見透すことができるようになるのね?」

「なる。なるから、ちと離れんか」

「あ、ごめんなさい」

 まりかは人魚から身体を離すと、その場でしばし黙考する。

(そんな、だってあの方でも無理だったのよ)

 思いがけぬ情報に、つい取り乱してしまった。人魚にも余計な弱味を見せてしまったし、そもそも、この人魚の自己申告がどの程度信用できるかは怪しい。

 それでも、もし本当に、まりかの過去を見透してくれるというのなら。ここで無下に人魚の頼みを断れば、隠された過去を知る唯一の手立てを、永遠に失うかもしれないのだ。

「それじゃあ、こうしましょう」

 まりかは顔を上げて人魚を見つめた。

「私の仕事や生活に支障を及ぼさない範囲でのみ、あなたに協力する。そして、力を取り戻した暁には、私の過去を見透してもらうわよ」

 人魚は目をぱちくりさせた。

「それは、お前さんの家にわしを住まわせてくれるということか?」

「もちろん居候としての立場は弁えてもらうけれど」

「いやっほーい!」

 人魚が、喜色満面で腕を振り上げながらぴょんぴょんと跳ねた。

(本当に大丈夫かしら)

 海水をバシャバシャさせてはしゃぎ回る人魚を見ていると、早くも決意が揺らぎそうになる。しかし、一度受け入れると表明した以上、取り消すわけにはいかない。

(まずは、金魚たちとの相性ね)

 金魚たちが少しでも人魚を嫌がることがあれば、即座に出ていってもらおうと固く心に誓う。

「私は朝霧まりか。まりかと呼んでもらえればいいわ」

「わしのことは、カナと呼ぶがよい」

「それじゃあ、私は一旦宿に戻って休むから。次に落ち合う時間を決めましょう」

「宿だと!? わしも連れてけ!」

「なんでそうなるのよ!?」

「この島で独りで過ごすのは飽いたんじゃ。そうだ、人間の町にも連れてけ!」

「分かったわよ。とりあえず宿に連れてくから」

 まりかはすぐに引き下がった。押し問答をする気力は既に無い。

「え、ちょっと待って」

 しかし、結局すぐに押し問答をする羽目になる。

「なんなの、その格好は?」

「む? なにかおかしいか?」

「おかしい!」

 まず、人魚の下半身は完全に人間のそれに切り替わっていた。それはいい。〈異形〉がふたつの異なる形態を持つことは特に珍しいことではない。問題は、その服装にあった。

 丈の短い薄黄色の腰巻き。以上。極めてシンプルなコーディネートである。

「せめて胸を覆うくらいはしなさいよ!」

 気が遠くなるような思いで説得を試みる。いくらなんでも、この格好で宿に連れていくわけにはいかない。

「イヤじゃ! 大体な、わしは服を着るのが大キライなんじゃ! 暑いわ擦れるわで良いこと無しなんじゃわい!」

「少しの間だけで良いから」

「イヤと言ったらイヤじゃー!」



 朝焼け空の下、小さな漁港内で、ひとりの人間とひとりの人魚が、やいのやいのと言い争う。

 はてさて、このふたりの出会いは偶然か、それとも必然か。  

 そして、この出会いが大海にもたらすのは、安寧か、はたまた混沌か。

 それを知るものは、誰もいない。

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