第6話 妖コンサートin横浜大さん橋〈一〉
寒空にフルートの音色が響き渡る。流れるような旋律が、晴れ渡った冬の空に向かって伸びやかに上昇していく。
1月末、象の鼻桟橋を臨むビルの屋上。朝霧まりかは、独りフルートを奏している。幼い頃から慣れ親しんできた横浜港の光景を薄目で眺めつつも、夢と
時間が経つのも忘れて、クラシックやジャズ、映画音楽の名曲たちを次々と演奏していく。
「――」
最後の曲を吹き終えた後、しばし余韻に浸る。そしてもう一度だけ、フルートを吹き始めた。
その曲は、静かな序奏で始まる。真夜中、月明かりに煌めきながら打ち寄せる波を、たった独りで眺めているかのような、ひっそりとした哀しさを感じさせる旋律。曲が進むにつれて、少しずつ少しずつ激しくなる。そして、ついに内なる想いが
やがて、夕暮れ時の穏やかな海を思わせる、静かで充足感に満ちた終奏により、今度こそ独りきりの演奏会は終わった。
美しい音色が屋上から消え去ると同時に、少しずつ喧騒が戻ってくる。広場を散策する人々の話し声や、通りを行き交う車の走行音。海鳥たちが鳴き交わす声。ゆっくりと目を開けてリッププレートから唇を離すと、ヒンヤリとした冬の大気を味わうようにして吸い込んだ。
潮風が、まりかの頬をふわりと優しく撫でながら通り過ぎていく。普段と何一つ変わらない港の風景を眺めながら、まりかは数日前のことを思い返していた。
あの後、まりかに仕事を依頼したはずの旧家の当主を訪ねてみたが、あの老人とは似ても似つかない人物だった。当然、
まりかはそれ以上、この件について追及するのを止めた。正体を明かさないことを老人が望んだのならば、それに応えるべきだと考えたからである。
それに、もっと頭を悩ませるべき問題を、現在進行形で抱えていた。
「うむ、悪くない演奏じゃったな」
その「問題」が、まりかに話しかけてきた。いつの間にか屋上に出てきて演奏を聴いていたらしい。
「あら、起きてたのね……って、ちょっと待って!」
扉の横にもたれるカナを見るなり、まりかは顔色を変えて瞬時に接近する。
「まさか、ずっとその格好で屋上にいたの?」
「ほえ?」
鬼気迫る表情のまりかを、カナが首を傾げてキョトンと見上げる。何も知らぬ者が見れば、さぞ微笑ましく感じることだろう。しかし、まりかはそんな仕草に一切心を動かすことなく、問答無用でカナの背中を押して屋上から屋内に素早く移動すると、両手でフルートを握り締めながらカナを詰問した。
「誰かに見られたらどうするのよ!」
まりかが怒るのも無理はない。カナが身につけているのは、例によって小さな腰布1枚だけだったのだ。当然、その小さな胸は剥き出しである。
しかし、カナには馬耳東風らしく、つまらなさそうに耳の穴に指を突っ込んでいる。
「何をそんなにカリカリしとる。心配せんでも誰にも見られんかったし、見られたとしても別にわしは気にせぬぞ」
「私は気にするのよ!」
この一言に万感の思いを込めて訴える。この高飛車な人魚にあれこれ正論を並べ立てても何ら効果の無いことは、たった数日の付き合いの中で十二分に思い知らされている。
「とにかく、もうその格好で外に出るのは止めてよね!」
そう言い置いて、さっさと階段を降りて自宅玄関前まで戻る。今日は休日なので、いつもよりゆっくり起きた後、屋上で悠々自適にフルートを演奏していたのだ。
カナが後ろからついて来るのを察しながらも押し黙ったまま扉を開けて室内に入ると、居間の椅子に座ってフルートの手入れを始めた。
掃除棒にガーゼを巻き付け、管内の水分を優しく丁寧に拭き取っていく。
続いて室内に入ってきたカナが、何も言わずに向かいの椅子に座った。興味津々な様子で、じっと手入れの様子を観察している。
しばらくして、カナが口を開いた。
「お主がその横笛で奏しておった曲の数々、どれもこれも逸品ばかりじゃったな。ついつい聞き惚れてしまったわい」
まりかの手が止まった。まさか、褒められるとは思っていなかったのだ。完全に不意打ちを喰らった形になり、何故か悔しさを感じてしまう。
「あ、あら、そう」
とはいえ、褒められること自体は嬉しい。照れくささを隠しつつも、謙遜の言葉を口にしようとする。
「じゃが、最後のあれはだけは、なーんか雰囲気が違ったのう。えらく曲調が変わるわ直情的だわ、うむ、いわゆる荒削りな出来というやつじゃな」
このカナの発言に、今度こそまりかの身体が固まった。そんなまりかを余所に、カナは腕を組んで思案を続ける。
「……むう、分かったぞ!」
カナがポンと手を叩いた。
「まりか、お前さんが作った曲じゃろ!」
「っ!」
「ぬふふ、図星じゃな」
まりかの表情が変わったのを見て、カナが得意気にふんぞり返った。
「まあ、人間共が作った歌や楽曲に込められた諸々を読み解くなど、このわしからすれば児戯にも等しいものよ」
「荒削りで悪かったわね」
とてつもなく不機嫌な一言により、その場の空気が一気に氷点下まで冷え込んだ。
「えっ」
カナが戸惑ったようにまりかを見る。今の自分の発言が、ここまで相手の気を害すものだとは全く考えていなかったらしい。オロオロと両手の指をさ迷わせてから膝の上に揃え、恐る恐るまりかの様子を伺う。
気まずい沈黙の中、まりかは丁寧に残りの手入れを終えると、フルートをケースに収め、無言のまま寝室に入った。
フルートのケースを部屋の隅に安置して、ぼすんとベッドに倒れ込む。
「ひ、一言も悪いとは言っとらんじゃろうがあ」
扉の向こうからカナの弁解が聞こえてきたが、まりかはあくまで無言を貫く。
別に怒っている訳では無い。むしろ、カナの評価は的を射ている。問題は、今日この曲を演奏することになった原因が、まさしくあの人魚にあることだった。
(結局、過去への執着からは逃れられないのかしら)
伊豆大島の小さな漁港でカナと交わした取引を思い出し、まりかは
見知らぬ過去への執着など、とっくの昔に振り切ったつもりでいた。しかし、いざ新たな可能性が目の前に現れるや否や、まるで飢えた獣の如く、なりふり構わず食いついたのだ。
そんな自分の有様に、まりかは少なからずショックを受けていた。
フカフカの枕に頬を埋めて、果たして自分の判断は正しかったのだろうかと自問自答を繰り返す。
「うー、ゴホン。まりか、さん ?」
扉の向こうから仰々しい咳払いが聞こえてくる。
「その、若干配慮が足らなんだ。済まぬ」
「……」
これでも、本人なりに誠心誠意謝っているつもりらしい。頭をずらして寝室の扉をぼんやり眺めながら、小さくため息をつく。
(連れてくるにしても、居候はさせるべきではなかったかもしれないわね)
カナを連れ帰ってから今日までの数日間を思い返し、今度は別の意味で自問自答をする。
事務所の水槽に住んでいる金魚の精霊たちとは、あっという間に打ち解けた。海水と淡水という住む世界の違いなど、大した障壁にはならないらしい。カナが語る海の様々な話が、あの3人にはとても魅力的に感じるようだ。
それについては、何も問題ない。金魚たちが楽しそうなのは良い事だ。問題は、他のところにあった。
最初は、カナを事務所に置いていた。何をしでかすか分からないし、目の届くところで監視しようと考えたのだ。すると、事務所の中の物が珍しいのか、あちらこちらの棚や物品を漁り始めた。本棚にある書籍や雑誌の並び順を次から次へと変えられるくらいならまだ我慢できたのだが、あわやリース品のプリンターを分解されそうになったところで、やむ無く事務所への出入禁止令を発することにしたのである。
それからは、ずっと自宅内に引きこもらせてる。室内の物を勝手に移動させないように言い含めた上で、暇潰し用にマンガやDVDを与えた。今のところはそれでなんとかなっているが、それもそろそろ限界が来そうだった。
「おい、なんとか返事せんか」
トスン、とカナが扉にもたれて座り込む気配がした。まりかはのろのろと身体を起こす。
金魚たちとの相性も悪くは無いし、一度受け入れると決めた以上、簡単に追い出す訳にはいかない。気の合わない同居人と良好な関係を構築するためには、相応の手間と努力と創意工夫が必須である。
(そうだ)
まりかは、壁際に置いてある紙袋を見た。数ある問題のうちのひとつについて、この状況を利用すればすんなりと解決に導けるのではないかと閃いたのだ。
朝霧まりかは、転んでもタダでは起き上がらない。
「カナさん、開けるわよ」
扉の向こうへ声をかけ、数秒おいてから紙袋を持って寝室を出る。
「むう?」
扉から離れて床に胡座をかいたカナが、不審そうにまりかを見上げる。
まりかが満面の笑みを浮かべていたのだ。
「なんじゃ。今度はえらく機嫌が良いではないか」
にこやかに笑いかけてくるまりかを、探るように見つめる。
まりかが手に持った紙袋を掲げた。
「カナさん、そろそろ街に出てみない?」
「っ!」
途端、カナが勢いよく立ち上がる。
まりかは、紙袋の中身を取り出してダイニングテーブルに並べた。それを見たカナが、ギョッとしたように半歩たじろぐ。
まりかが取り出したのは、子供用の黄色いダウンコートとピンクのサンダルだった。
「これを着てくれたら、出してあげる」
笑み浮かべたまま首を傾げてみせる。
「どうしても、着なければならぬのか?」
カナが懇願するような目でまりかを見るが、まりかは鉄壁の笑顔を微塵も崩さない。
「これだけで良いから」
ほら、とダウンコートを指し示す。
「むぐう」
カナが呻き声を上げた。普段のカナならば着衣など断固拒否するところなのだが、さっきの失言を考えると、ここは自分が折れるべきなのだろうと考えている。
それでも、この得体の知れないモコモコとした衣服を身につけることを素直に受け入れるのは、カナにとっては至難の技なのである。
(もうひと押しね)
ダウンコートを前に躊躇するカナに、畳み掛けるようにして最後の説得を試みる。
「今このときだけ、これを着てくれればいいから。今日だけ私に協力して欲しいの」
「むう」
まりかの真剣な訴えに、カナがついにダウンコートに手を伸ばした。顔をしかめて、グルグル回しながら全体を観察する。フードを引っ張ってポケットを裏返し、ファスナーをつまんで何度か往復させてみる。
やがて、隅々まで弄り倒してしまうと、ダウンコートをまりかに向かって突き出してきた。
「まあ、そこまで言うなら着てやらんこともない。着方が分からんから、着せろ」
視線を逸らしてぶっきらぼうな口調で要求する。今まで一貫して服を着ることを拒否していた手前、どうしても素直に着る気にはなれないのだろう。
「はいはい、分かりました」
そんなカナの心中を察しながらも、まりかは気づかぬふりをして受け流し、手際よくダウンコートを着せてやる。
「ファスナー、という名前なんだけどね、これは上まで上げない方がいいかしら」
「わしは全部開いておってもいいぞ」
「それは駄目」
まりかは鎖骨の辺りでファスナーを止めると、玄関横の姿見までカナを導いた。
「よく似合ってるわよ、カナさん」
「わしが服を着とるとは、なんとも奇妙なものじゃ」
固い表情でダウンコートの表面をモフモフと押す。感触に関しては気に入ったらしい。
「じゃが、肌に貼り付くのはいただけんな。それに、やっぱり暑いわい」
「それじゃあ、さっさと街めぐりを済ませちゃいましょう!」
まりかはサンダルを玄関のたたきに並べ、それを履くようにカナを促した。
「今日のところは、このビルから歩いて行ける範囲を軽く案内するわね」
「そういや、甘味と酒を売っとるところはないのか」
「それはまた今度」
ピシャリとカナの要望を却下する。今のカナは、ほぼ全裸の上にそのままダウンコートを羽織っただけの公序良俗に抵触しかねない装いをしている。そんな状態の「子供」を商店や公共施設内に連れて入るなど、まりかの倫理観が許さない。
もっとも、玄関から一歩出た時点で既に一線を超えているような気もするのだが、それについてはあえて考えないようにしている。
人生とは、白にも黒にも寄らない、灰色の選択の連続なのである。
ふたりが最初にやってきたのは、山下公園だった。
「石と鉄だけでできた街と思っておったが、まあまあ草木もあるではないか」
カナが感心したようにキョロキョロと公園内を見渡す。これは意外と知られていないことだが、人間の街や文化にすんなり馴染んでしまう怪異や妖は多い。それでも、身近に自然があった方が彼らにとって暮らしやすいことも、また事実である。
「向こうに噴水があるから行ってみましょう」
カナを促し、緑地の小道をのんびりと歩き始める。
「春から秋にかけて綺麗な薔薇が咲くんだけど、今は冬だから見せられなくて残念だわ」
「そうか」
まりかの説明に、カナは気のない相槌を打つ。ひょっとすると、薔薇を見たことがないのかもしれない。そうこうするうちに噴水広場に到着した。
「うーん、今日はいないみたい」
「何がじゃ?」
「時々、海からウンディーネたちが遊びに来るのよ。せっかくだから貴方を紹介しようと思ったんだけど」
「ふうん」
カナは適当に返事をすると、噴水の中央に鎮座する女神像を指差した。
「のう、まりかよ。あの像はわしのような人魚にすべきとは思わんか?」
「そうねえ」
どう答えようか考えようとしたその時だった。
「マリカー! ひさしぶりダナー!」
振り向くと、そこには宙に浮いた1匹の小さな人魚。大きさは事務所の金魚たちと同程度だが、その形態はかなり異なる。手足は完全に鰭の形で、毛髪も無く、服も着ていない。人魚といってもカナのような〈異形〉とは違い、普通の魚類が怪異化したか、小さな海の精霊が魚と人が混じった形態をとったか、いずれかに分類される存在である。
最も、当の怪異たちは、こうした分類学的な話題にはさして興味を示さないのだが。
「むっちゃん!」
まりかがパッと顔を輝かせた。
「本当に久し振りね。元気にしてた?」
「オイラはいつでも元気サー!」
むっちゃんと呼ばれた小さな人魚が、パタパタと鰭を動かしてクルッと宙返りをしてみせる。
「ミンナあっちに来てるゾ! まりかに会ったら喜ぶはずサ!」
そう言うなり、あっという間に海の方へ飛んでいってしまった。
「この公園の前の海、小さな
ふたりは緑地を抜けて海に面した広い歩道に出ると、「むっちゃん」が消えた辺りの欄干に近づき、すぐ下の海面を覗き込んだ。
「こんにちは、みんな」
「コンチワー」
「ウッス!」
「まりかダー」
「ワー イ!」
まりかの声かけに、海面から賑やかしい歓声が湧き起こる。
山下公園前面の海には、たくさんの小さな人魚たちが集まっていた。「むっちゃん」と似た形態だけど色が赤味がかってる人魚、上半身は人間で下半身は魚という典型的な形態の人魚、人間の幼児くらいの大きさの人魚など、様々な形態の人魚たちが思い思いに泳いだりじゃれ合ったりしながら過ごしている。
「今日はね、みんなに紹介したい
まりかは、口々に話しかけてくる人魚たちを軽く手で制して静まらせると、その手で隣に立っているカナを示した。
「こちら、カナさん。みんななら分かると思うけど、れっきとした人魚よ。しばらくこの街で過ごすことになったから、よろしくね」
「おい、まりか。わしをあんな雑魚共と同列に扱うんでない」
カナが、あからさまに不満そうな顔で文句を垂れる。
「良いじゃない、一緒に遊んであげれば。どうせ暇してるんだし。それに、海に入れば服を着る必要もないわよ」
「だから子供扱いするなと言うとるじゃろ! あやつらの遊び相手など考えだけでも欠伸が出るわい! それなら、お前の家に引きこもって小難しい書物を読む方がずっとマシじゃい!」
「そこまで言うことないじゃない」
あまりの貶しっぷりに、まりかはすかさず人魚たちをフォローしようと海面に目を戻した。
「……」
人魚たちはしんと静まり返り、じっとカナを凝視している。
「みんな、どうしたの?」
まりかが問いかけるも、誰一人として答えない。やがて、カナを横目で見ながらヒソヒソと囁き合う声が方々から聞こえたかと思うと、一人残らず海中に潜って姿を消してしまった。
「え?」
「ほれ見ろ、これが格の違いというものじゃ」
呆気に取られるまりかとは対照的に、カナは得意気な顔でフフンと鼻を鳴らしている。
まりかはしかし、怪しむような顔でまじまじとカナを見る。
「あなた、一体何をやらかしたの?」
「どうしてそうなるんじゃ!」
カナが両腕を振り上げて抗議をする。
「ああ、もう分かったわよ。カナさんはすごい人魚なのね」
「うむ、分かれば良い」
一転してカナが満足気な表情を浮かべた。
単純で助かったと思いつつも、これは果たしてカナの本当の姿なのだろうかという当初からの疑念が更に膨れ上がる。
(今度、あの子たちに話を聞いてみよう)
とはいえ、まりかといえど人魚たちの本音をすんなり聞けるとは限らない。怪異や妖から詳しい話を聞き出すというのは、往々にして骨が折れるものなのである。
(本当にすごい人魚なのかもね)
そんなことは、伊豆大島で初めて出会った時から察していた。それでも、時にはワザとやってるとしか思えなくなるくらい言動が幼いこの人魚のことを、そう簡単に認めたくはないという気持ちも強い。
まりかは、これまでの人生でほとんど感じたことの無い種類の感情に心をざわつかせながら、カナを連れて次の目的地へと向かった。
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