第18話 犬吠埼冲糧食盗難事件〈中編〉

 三方を海に囲まれた断崖絶壁に屹立する、犬吠埼いぬぼうさき灯台。1874年にイギリス人技師の設計によって建造されたこの白亜の塔は、それから140年以上が経過した現在もなお、110万カンデラの眩い光を放って夜闇を進む船を導き続けている。

「まさに絶景ね」

「圧巻だな」

「うむ!」

 朝7時を少し回った頃。まりかとカナ、そしてあきらの3人は、雄大な太平洋を臨む犬吠埼灯台へとたどり着いた。

 幸いにも、本日は晴天なり。海況もすこぶる良好で、晴れ渡った青空と穏やかに波打つ海面が遠く水平線で交わり、ひとつの青に溶け合っている。

「これは、なんとも泳ぎ回りたくなる光景ではないか」

「頼むから、崖から飛び込んだりしないでよね」

「分かっとるわい!」

 口うるさく注意するまりかに、カナが小さな拳を振り上げて言い返す。

 カナの服装は、例によってアニマルデザインのパーカーである。昨日、出発ギリギリまで悩んだ末に、フードがサメの顔となった紺鼠色のものを選んだのだが、縁どりがサメの歯を模した白いギザギザになっているのがカナにピッタリであると、まりかと明はこっそり思っている。

 ちなみに、まりかの説得により、今回は太ももまでの黒いタイツを履かされている。最初は落ち着かない様子だったが、初めての電車の旅やホテルで過ごす体験により気が紛れたらしい。傍目には特に気にしていないように見える。

「せっかくだから、後で登ってみようっと」

「登る?」

 心地よい海風を受けて両手を大きく広げていたカナが、怪訝そうな顔でまりかの方を振り返る。

 まりかの服装は、スーツでも赤橙の衣装でもなく、動きやすさ重視の普段着だった。足元はスニーカーで、髪はスッキリとまとめて〈夕霧〉のみを挿している。また、明もスーツや制服ではなくボサっとした感じの普段着を身に付けていた。これは何も気合いが入っていないとかではなく、極力しようという、2人なりの配慮によるものである。

 カナの問いに、まりかがボストンバックの肩紐を掛け直しながら、白亜の塔を指さした。

「犬吠埼灯台は『参観灯台』と言ってね、一般の人でも灯台の上まで登れるのよ」

「むう! それはなんとしてでも登らねば!」

「ちょっと!」

 まりかの静止も聞かず、カナは一目散に灯台へと走り去ってしまった。今回は普段の外出時のようなスリッパではなく、水遊びにも使えるメッシュシューズを履いているため、カナがその気になれば十分機敏に動けるのである。

「はあ、全く」

「追った方が良くないか?」

 やれやれと首を振るまりかに、明が心配そうな顔で確認する。

「大丈夫よ。こういう時は、好きにさせてあげるのが一番なの。それにね」

 ふと、まりかが意味深な表情を浮かべた。

「あの子、子供じゃないから」

「えっ?」

「行きましょう」

 明が問い返す前に、まりかが歩き出した。明も慌てて後を追う。

 明は、早足でまりかを追い越して先に受付に辿り着くと、受付の担当者と何やら言葉を交わした。事前に話は通してあるとのことで、明はすぐにまりかの方を向くと、そのまま敷地内に入るように促した。

「本当に入館料を払わなくてもいいの?」

「まだ開館前だし、業者扱いにしてくれるってさ」

「なんだか申し訳ないし、代わりに募金でもしようかしら」

 そんなことを話しながら、白い壁にぐるりと囲まれた犬吠埼灯台の敷地内に足を踏み入れると、灯台の少し手前まで進んで一旦立ち止まった。

「さてと。どっちから確認しようか」

「そうねえ」

 明とまりかは、敷地内に存在する建物のうち「犬吠埼灯台資料展示室」と「旧犬吠埼霧信号所霧笛舎」を見比べながら思案する。

「……製造年が古い、つまり、年上の子から順に話を聞いてみるとか」

「そうだな、そうするか」 

 まりかの提案に明が同意して、再び歩き出そうとした時だった。

「あら。こんな早い時間に、もうお客さん」

「っ!」

 唐突な気配の出現に、2人は素早く振り向いて声の主に向かい合う。

「……付喪神」

 まりかはそう呟くと、安心して肩の力を抜いた。同じく、明も警戒を解いて自然体に戻る。

 2人の背後、間合いよりも数歩遠いくらいの位置に立っていたのは、1人の少女だった。

 外見年齢は10代後半。ほっそりとした身体には、半袖のブラウスと水色のロングスカートを身に付けている。黄色いカチューシャを挿した黒髪は腰までのストレートヘアで、足元を飾るのは目にも鮮やかなエナメルの赤い靴だった。

 少女の姿をした付喪神は、2人の反応を見ても特に驚く様子もなく、首を傾げて小さく笑う。

「そろそろ来るんじゃないかなって、思ってたところなのよ」

 少女の、薄曇りの空の下に立ち込める深い霧のような灰色の瞳が、明を見て、次にまりかを見た。

「あら」

 意外そうな声を上げて、少しだけ目を見開く。

「あなた……あの時の子ね。姿はすっかり変わってしまったけれど、間違いないわ」

「えっ、私のこと覚えてたの?」

 今度は、まりかが驚きの声を上げる。

「ええ、だって」

 少女がクスリと笑った。互いに驚き合う自分たちの様子に、愉快さを感じたらしい。

風の乙女シルフィードが、人間の子供を連れていたのよ 。あんな珍しいこと、ここでは滅多にお目にかかれないじゃない?」

 明が、怪訝そうな顔でまりかを見た。まりかは苦笑いして少女を見返している。 

 事務所で作戦会議を重ねる中で、まりかは明に対し、一度だけ家族旅行で犬吠埼灯台を訪れたことがあると話していた。そして、その時に付喪神らしい少女の姿を見かけたことも。

 しかし、自身の家族構成やエリカの正体などの私的領域プライベートに関わることは、まだ何も話していないのだ。

「あら、何か不味いこと言っちゃったかしら?」

 2人の微妙な反応に、少女がはたと口を抑える。

「いいえ、気にしないで。それより、もし名前があるのなら聞いてもいいかしら。私はまりか、よろしくね」

 まりかは、半ば強引に話題を変えた。明も、何事も無かったかのように少女の方を向いて、自己紹介をする。

「俺の名前は明。海上保安官なんだけど……海洋怪異対策室って聞いたことある?」

 そっと探るように、少女の反応を伺ってみる。

 少女は明の質問には答えず、胸に手を当てると、そっと大切そうに自分の名を口にした。

「あたしの名前は、ひびきというの。響って呼んでくれていいから」

 響は、敷地の奥の方を指さした。

「ここで突っ立ってるのもなんだし、向こうでお話しましょう」

 そう言って、スタスタと歩き出す。まりかと明は顔を見合わせて頷き合うと、響の後に続いた。

 3人は「犬吠埼灯台資料展示室」の前を素通りして、その隣に広がる小さな草地にたどり着く。

「やっぱり、あなたは霧鐘むしょうだったのね」

 を目にするなり、まりかが腑に落ちたという顔で頷いた。

「ふふっ、知っててくれて嬉しいわ。みんな、レンズの方にばかり気を取られるんですもの」

 響が嬉しそうに笑って、コンクリートの台座に安置された本体を見上げる。

 それは、霧鐘と呼ばれる巨大な鐘だった。

 閃光によって船を導く灯台に対し、霧鐘は、濃霧に覆われて視界不良となった船を、一定の間隔で打鐘だしょうして音を響かせることによって遭難を防ぐ役割を持つ。

 この霧鐘はかつて、青森県は下北半島の尻屋埼しりやざき灯台に設置されていたが、その後紆余曲折を経て、現在は犬吠埼灯台敷地内のこの場所で、ひっそりと余生を送っている。

 響は、コの字型の水色の鉄骨に吊り下げられた自分の本体から目を離すと、コンクリートの台座に背中を預けて明を見た。

「海洋怪異対策室のことなら、少しだけ聞いたことがあるわ。人間に対する明らかな害意が無い限り、怪異や妖を無闇矢鱈と傷つけるようなマネはしないんですってね」

「ああ、その通りだ」

 すかさず明は、はっきりと答えた。

 響はそれを疑うでもなく、小さく首を傾げて笑いかける。

「何があったか、聞かせてもらえないかしら」

 明とまりかは、再び顔を見合わせた。何もかもを把握しているとでもいうような口振りの割に、全く焦る様子の無い響に対し、2人は戸惑いを感じている。

(悪意は、無いみたいだけど)

 まりかは、素早く周囲の気配を探った。ごくごく微弱な霊力をさざ波のように周囲に広げて、反響定位エコーロケーションの要領で怪異や妖、人間の存在について確認する。

(……後ろに2人いるわね)

 ただ、害意の様なものは特に感じられない。このまま放置しても問題ないだろう。

「明、とりあえず全部話してみない?」

「ああ、そうだな」

 明は首肯した。どの道、ここのにはこちらの事情を詳しく説明するつもりでいたのだ。

「それじゃあ、私が主に説明するから、明は海保の被害について補足してくれる?」

「ああ、頼む」

 こうしてまりかと明は、霧鐘の付喪神・響に対して事件の概要を説明し始めた。響は一言も口を挟まず、時折小さく相槌を打ちながら、ひたすら耳を傾けている。

 2人が話し終えると、響は小さくため息をついた。それから、まりかと明の少し横まで進んで、建物の陰に向かって声をかける。

「ルミエール。そこで聞いているんでしょう。あなたにお客様ですって」

 数秒後、響とは別の付喪神が顔を覗かせた。そろそろと顔の半分だけを出して、こちらの様子を伺っている。

 まりかは、2、3歩前に出ると、安心させるように笑いかけて手を差し伸べた。

「あなたとは多分、初めましてよね。大丈夫よ、何もしないから」

「……」

 まりかの呼びかけに、その付喪神がおそるおそる建物の陰から出てくる。

 そして、その後ろには3人目の付喪神がいた。不安そうな様子で、2人目の服をギュッと握って立っている。

「あなたがルミエールなの?」

 まりかが、優しい声で問いかけた。

「うん」

 ルミエールが、ぶすっとした声で短く答える。

「その後ろの子の名前も、聞いていいかな」

 今度は明が、穏やかな声で問いかける。

「こいつは」

「私は、あかり!」

 ルミエールの声を遮って、3人目の付喪神が精一杯叫んだ。

「そう」

 その微笑ましい光景に、まりかと明は思わず頬を緩ませる。

 2人の付喪神は、どちらも子供の姿をしていた。

 少年の姿をしたルミエールと、小さな女の子の姿をしたあかり。

 ルミエールの外見年齢は、大体10歳くらいに見える。耳の上までの栗色の巻き毛に、長い睫毛に覆われたヘーゼルアイの瞳。足元は裸足で、白いシャツと緑色の吊りズボンの袖と裾を捲ったその姿は、いかにもガキ大将といった印象である。

 一方のあかりは、ルミエールよりも更に幼く、7、8歳くらいに見えた。肩より少々短い黒髪に、焦げ茶色の瞳。少し丈の短い赤色の着物と草履という組み合わせは少々古めかしく感じるが、同時に心地の良い懐かしさも感じられた。

「ルミエール」

 響が、相変わらずぶすっとした様子の仲間に呼びかける。

「あなた、この2人に何か言うべきことがあるんじゃないのかしら」

「……うっせーな」

 ルミエールがボソリと呟いた。

 キッと顔を上げると、思いっきり響を睨みつけて叫び出す。

「大体、俺より遅く生まれたくせして年嵩ぶるのは止めろって、いつも言ってんだろ!」

「たった数年の違いじゃない。それに、あたしの方がよっぽどオトナな性格をしてると思うけど?」 

 響が、自分より背の低いルミエールを煽るように見下ろす。

 しかし、ルミエールがすかさずビシッと言い返した。 

「なーにがオトナだよ! 響だって、俺が持ち帰ったポテチをちゃっかり食ってたじゃねえか!」

「そ、それは……」

 響が、気まずそうに視線を逸らして口を抑えた。

「だって、捨てるのももったいないし……ねえ?」

 まりかと明をチラリと見て、ペロリと小さく舌を出す。

「ほら見ろ! 偉そうなこと言えねえじゃねえか!」

「2人とも止めてよお」

 あかりが半泣きになって、ルミエールのシャツを引っ張っている。

「えっと、取り込み中のところ悪いんだけど」

 まりかが、少し大きい声を出して間に割って入った。付喪神たちにこの場を任せては、とても話が進みそうにない。

 まず、まりかはルミエールに向き合った。両手を膝について、少し目線を低くする。

「ルミエール。あなたが、今回の事件の主犯ということでいいのかしら」

 穏やかに、かつ有無を言わせぬ雰囲気を醸し出しつつ問いかける。

「う、うん……」

 まりかから何かしらの圧を感じ取ったのか、興奮状態だったルミエールが素直に頷いた。

「あかりも、一緒に船に行ったの?」

 今度は、少し声を柔らかくしてあかりに訊ねる。

「え、えっと」

「あかりは1回だけだ! それだって、俺が強引に連れてったから、その」

 ルミエールが、あかりを庇うように必死に言い募る。

「本当なの?」

「う、うん……」

 あかりが、躊躇いがちに頷いた。

 まりかが、身体を起こして小さく息を吐く。

「あ、あのさ!」

 ルミエールが、思い詰めたような顔でまりかに話しかけた。響とあかりも、不安そうな様子で2人の人間を見つめている。

「まさか、俺たちを祓いにきたなんてこと」

「しないわよ」

「しねえって」

「へっ?」 

 ルミエールが、虚を衝かれたような顔をした。

「今日はね、あなた達と話がしたいと思って来たの」

 言いながら、ボストンバッグの中からある物を取り出す。

「あっ、お菓子!」

 ルミエールの顔がパッと輝いた。響とあかりは、思いもよらないといった顔でお菓子と人間たちを交互に見ている。

「みんなで食べながら話しましょう」

 まりかが、にこやかに小さな付喪神たちを誘う。

「敷地の外側には出られるか? さすがに、ここで飲食するわけにはいかねえから」

 明が、響を見て確認した。

「ええ、その程度なら全然平気」

「良かった。それじゃあ、行きましょう」

 まりかが門に向かって歩き出した。

「ルミエール……」

「大丈夫だって」

 不安そうなあかりをルミエールが促し、まりかの後に続く。

「こんなの、良いのかしら」

 困惑した様子で呟きながら、響も歩き出す。

(食べ物で釣るというのも、あんまり良くない気はするけどな)

 響の斜め後ろを歩きながら、明が苦笑いする。もっともそれは人間の子供の話であって、この最果ての地に住む3人の付喪神たちに菓子を振る舞うくらいのこと、たまにしたってばちは当たらないだろうとも思っている。

 そういうわけで、お菓子で緩んだ雰囲気の元、ちょうど灯台から降りてきたカナも加わり、ルミエールの口から事件の全容が語られることとなったのだった。




 一等八面閃光フレネルレンズ。それが、付喪神・ルミエールの本体である。

 1874年に犬吠埼灯台の光源として設置、点灯されて以来、何十年にもわたって数多の船を海難から護り続けてきた。しかし、諸般の事情により付喪神として顕現するより前にその役目を終え、現在は「犬吠埼灯台の初代レンズ」として旧霧笛舎内で展示されている。

 数ヶ月前のある日のこと、ルミエールは灯台のてっぺんにある灯室という部屋の中から、ボンヤリと外の景色を眺めていた。

『なーんか面白いこと、起きねえかなあ』

 そんなことを呟きながら、自分の後継として設置されたレンズをポンポンと叩く。

 犬吠埼灯台のような大きな灯台というのは、大抵が人里離れた場所に存在する。この犬吠埼は観光地としても有名なので人間の出入りは比較的多いが、それでも、ここが辺境の地であることに変わりはない。目の前の大海原を眺めて過ごすのは嫌いではなかったが、ここでの生活はいかんせん刺激が少なすぎた。

『……あの船、どこに行くんだろう』

 ふとルミエールは、遠く航路を北上する船に目を留める。

 多種多様な形や大きさをした船が、来る日も来る日も北へ南へ流れていく。灯台の役割が船を導くことというのはもちろん知っていたが、その船がどこから来てどこへ行くのか、そもそも目的は何なのかなど、今まで考えたこともなかった。

『俺もあの船に乗って、どこか知らない場所に行ってみてえなあ』

 もちろん、本気で考えたわけではない。付喪神である自分は、本体から遠く離れて活動することはできない。その本体だって、巨大なフレネルレンズなのだ。余程のことが起きない限り、ここから他の場所へ移ることも無いだろう。

『それでも、ちょっとだけ乗ってみたりとか、できねえかな……』 

 そんなことを考えながら、自分の隣にあるレンズに何気なく触れた次の瞬間。

『……は?』

 ルミエールは、犬吠埼の遥か沖合を航行する貨物船の上に立っていた。

『はあ!?』

 慌てて周囲を見渡し、遠く左舷さげん方向に白亜の塔が立っているのを認める。ここからだと小さくて分かりにくいが、それでも、それが犬吠埼灯台であることは本能的に理解できた。

『うそ、なんで……』

 呆然と立ち竦むルミエールは、あることに思い至る。

 自分の後継として70年程前に設置された、あのレンズ。付喪神として顕現するまでにはもうしばらく時間がかかるが、その妖力が着実に増大しつつあることを、ルミエールは日々感じ取っていた。

『そうか、あいつが力を貸してくれたのか』

 もっとも、自我は未だ形成されていないはずなので、仲間であるルミエールの意識に自動的に反応して、その願いを叶える力を分け与えたといったところだろう。

『そうとなれば、遠慮なく楽しんでやるぞ!』

 元より怖いもの知らずのルミエールは、かつてないほど本体から離れていることなど全く気にせず、意気揚々と貨物船の探検を開始した。

 貨物が積み込まれた船倉せんそうを覆うハッチカバーの上を軽やかに跳ねながら通り過ぎると、船の操舵室や居住区がある部分に到達し、躊躇せず船の内部へと侵入する。

『意外と狭いんだな』

 それなりに人間の存在には気を配りつつ、物珍しげにキョロキョロと船内を見回しながら通路を進んでいく。

『――美味そうな匂いがする』

 やがて、食べ物の匂いを辿って辿り着いたのは、船の調理室。そっと中を覗くと、何人もの人間が大きな鍋をかき回したり包丁で食材を切り刻んだりと、忙しく働き回っていた。

 見たところ霊力の強そうな人間は居なかったが、さすがに人の密集した調理室に入ることは避けて、すぐ隣の食堂に入ってみる。

『これってもしかして、おにぎり?』

 そこでルミエールは、十数個のおにぎりが大皿に並べられているのを見つけた。犬吠埼を訪れた観光客が食べているのを見かけたことはあるものの、ルミエール自身はまだ一度も口にしたことが無い。

 ちなみに、このおにぎりは乗組員の軽食として作られた物だったのだが、そんなことを知るはずもないルミエールは、純粋な好奇心からおにぎりを手に取って、試しに少しだけ齧ってみた。

『うん、ウマいな』

 良い具合に塩が効いた白米のシンプルな味が、口の中に広がる。

 もうひと口、今度は大きく齧ってみる。

『ん! ウマい!!』

 口の中を満たす魚介類の香ばしい匂いと旨味に、ルミエールは目を丸くした。齧ったところを確認すると、ピンク色の具材が顔を覗かせている。おにぎりの具材の定番中の定番、鮭だった。

 出来たてのおにぎりのあまりの美味しさに、ルミエールは夢中になっておにぎりにがぶりつく。1個だけでは飽き足らず、2個目のおにぎりにも手を伸ばす。

 背後で叫び声が上がったのは、2個目のおにぎりを半分ほど食べた頃だった。

『こ、子供っ!?』

『っ!?』

 振り向くと、自分を見て唖然としている人間の姿が目に入る。完全に油断し切っていたルミエールは、あたふたと手を振り回した。

『あっ、いや、そのっ!』

 焦りながらも、咄嗟に自分の本体であるフレネルレンズの姿を強く念じる。

 次の瞬間、ルミエールは、自分の本体が展示されている旧霧笛舎内に戻っていた。

『び、びっくりしたあ』

 無事に帰還できたことに安堵すると同時に、自分がしでかした大冒険の無謀極まりないことをジワジワと自覚し、ぶるりとその身を震わせた。

 それからというもの、ルミエールは週に2、3回のペースで船に「跳ぶ」ようになった。人間の食べ物の美味しさを知ってしまったことにより、もっと色々な食べ物を試してみたいという欲求にかられてしまったのだ。それに、単純に船に「跳ぶ」こと自体が楽しかったというのもある。

 ルミエールは船に侵入する度に、必ず調理室や食料庫を探し出した。ある時は食料庫からお菓子を持ち帰り、またある時は調理室にて、人間の隙をついて定食のトンカツを鮮やかな手つきで口に放り込み、更には冷蔵庫にデザートのプリンがあるのを見つけてその甘さに感激する。

 そうして十分に船に「跳ぶ」経験を重ねたある日のこと、ルミエールは初めてあかりを誘った。

『そんなに本体から離れて、本当に大丈夫なの?』

 灯室にて、あかりが不安そうに沖合を行く白い船を見つめている。

『心配するなって! もし危なそうだったら、俺が力を分けてやるからさ』

 対するルミエールは、頼もしい笑みを浮かべてガッツポーズをとってみせる。

 あかりは、かつて福岡県の沖ノ島灯台に設置されていたフレネルレンズの付喪神だった。しばらく前にその役目を終え、現在は犬吠埼灯台の資料展示室にて、回転装置と一体となった堂々たる姿で展示されている。

 そんなあかりが付喪神として顕現したのは、かなり最近の事だった。ルミエールも響も、あかりが新しい仲間として加わったことをとても嬉しく感じており、とりわけルミエールは、兄貴分としてあかりに良いところを見せたいものだと、常々機会を伺っていたところである。

 そういうわけでルミエールは、2回目となる巡視船「あずま」への侵入を果たした。「あずま」を狙ったのは、偶然ではない。初めてあかりを連れていくにあたり、万全を期して侵入したことのある船を選んだのである。

『これ、ヘリコプターっていうんだ。ほら、たまに空を飛んでるやつ』

『すごーい。こんなに大きいのね』

 初めて船に乗ったあかりのために、船内をひと通り案内してやってから食料庫へと向かう。

『あれ?』

 そこには、前回は無かったはずの結界が存在していた。あかりが、怯えた様子で扉に貼られた御札を凝視する。

『ねえ、もう戻った方が良いんじゃない?』

『せっかくここまで来たんだ。こんな結界、すぐに壊してやるよ』

 あかりに格好良いところを見せたいルミエールは、付喪神としての意地もあり、俄然張り切って結界を壊しにかかった。

『うおりゃあああああ!!』

 バチンッ。

 小さく火花が散って、燃えカスと化した御札がパラパラと床に落ちる。

『ヘヘンッ、どんなもんだい!』

 不安そうに燃えカスを見つめるあかりの前で、ルミエールは得意げにふんぞり返る。

 そして、食料庫から普段より多めにお菓子を頂戴して、犬吠埼灯台に帰還したのだが。

『げえっ!?』

 そこで2人を待ち構えていたのは、険しい顔をした響だったというわけである。




 ルミエールが語り終えると、響が缶ジュースを片手にため息をついた。

「コソコソ隠れて何かやってるなとは思ってたのよ。でもまさか、本体から何kmも離れたところで人間たちの食料を盗んでたなんて、思いもしなかったわ」

 ルミエールが日々退屈な思いをしている事は響にも分かっていたため、当面は様子見に徹するつもりだったという。しかし、まだ右も左も分からない状態のあかりを巻き込んだとなると、ルミエールと同様にあかりのことを大切に想っている響としては、追求しないわけにはいかなかった。

「しかし、『門』も造らずに瞬間移動とはのう。レンズとやらは実に興味深い」

 カナがスティック状のチョコレート菓子をポキポキ齧りながら、感心したように頷いている。

 一同は今、犬吠埼灯台敷地外の駐車場にいた。カナや付喪神たちは皆、駐車場を区切る低いブロック塀や車止めのブロックなど思い思いの場所に腰掛けて、どこまでも広がる青い海を眺めながらマイペースにお菓子やジュースを飲食している。

「そこは感心するところじゃないでしょう」

 まりかはカナを窘めると、ちょうどポテチを食べ終えたルミエールに質問をした。

「響にバレてからは、一度も船には行ってないの?」

「……2回行った」

 少し逡巡してから、気まずそうにルミエールが白状した。その視線は、呆れ顔の響とまりか、そしてカナの間をそわそわと行きつ戻りつしている。

 見た目こそ少年の姿をしているが、ルミエールは紛うことなき付喪神だ。まりかとカナが尋常ならざる存在であることは、とっくに理解しているらしい。そして、それは響とあかりについても同様だった。3人とも、カナからは程よく距離を置いて座っている。

「ルミエール。君に頼みがある」

 ルミエールの斜め向かいに腰掛けていた明が、そっと切り出した。ルミエールは黙ったまま、目だけで先を促す。

「今後は一切、無断で船から食べ物を持ち出すのは止めて欲しい。これは俺だけでなく、船に関わる全ての人間からの願いだ」

 穏やかながらも、断固とした口調でそう言い切る。

「……」

 ルミエールが、しょげ返った顔をして目を伏せた。

 今、彼の中で色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合っているのだろうと、注意深く見守りながら明は考える。

 付喪神たちをどう説得するのかについて、明とまりかは、事前にとことん話し合っていた。その最中で2人が合意したことのひとつに、「盗み」という言葉は使わない、というものがある。

 人間側から見れば、ルミエールがしていたのは明らかな窃盗行為である。しかし、ルミエールは「人間」ではない。

 まりかの母、エリカのように、恒常的な実体を得ているなどのいくつかの条件を満たせば、就籍して人間社会で暮らすことは可能だし、その場合は当然、人間の法律も適用される。だが、ルミエールや響、あかりはそうではない。少し語弊はあるが、今回のことは船倉に住み着いた鼠が食料をくすねていたのと大差がなく、もっと言えば自然現象のようなものであるとすら表現できてしまう。

 まりかと明がもっとも憂慮していたのは、「盗み」という言葉を使うことにより、付喪神たちに必要以上の罪悪感を抱かせてしまうことだった。盗まれた側からすれば、例え相手が怪異や妖だったとしても、きちんと反省してほしい、悔いてほしいと願うところだろう。しかし、そんな人間側の懲罰感情を彼らに押し付けることが適切であるとは、まりかも明も考えてはいなかった。

 それよりもここは単純に、どうして船の食べ物を勝手に持ち出されると困るのかということを丁寧に説明して、人間側の事情を理解してもらった上で協力を求める方がずっと穏当だし、現実的である。

 そういうわけで、明はあえて感情を込めずに淡々と、船員にとっての食の重要性や船という特殊な環境下での生活について3人に解説した。

 話し終えると、一同の間に沈黙が訪れた。穏やかな海面上では海鳥が鳴き交わし、カナは炭酸のペットボトル飲料をラッパ飲みしている。

「……もう、船には行けないの?」

 ルミエールが俯いたまま、ひどく切なげな顔で呟いた。

「ちょっと」

「待って」

 何か言おうとした響を、まりかが制す。

「いや、行けるさ」

「へっ?」

 思わぬ言葉に、ルミエールは意外そうな顔で明を見た。

「俺らが困ってるのは、食い物を持ち出されることに対してだ。予め分かっているなら、何の問題にもならない」

 明はポカンとした表情のルミエールに笑い返すと、少しだけ改まった口調で、こう宣言した。

「海上保安庁は、あなたたち付喪神を歓迎する」

「フンッ。なーにをエラそうに」

 カナはペットボトルから口を離すと、明の言葉を小さく混ぜっ返した。

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