第17話 犬吠埼沖糧食盗難事件〈前編〉

 葉桜が新緑へと移り変わろうとする、うらららかな昼下がりのこと。海の怪異〈海異〉の謎を携えて、ひとりの客人が朝霧海事法務事務所を訪れた。

「どうぞ」

 応接用ソファに腰掛けた客人の前に、穏やかな香りを漂わせる湯呑が静かに置かれる。

「これは、知覧茶ですな」

 客人は両手でそっと湯呑を持ち上げると、深く皺が刻み込まれた目尻を下げ、小さく口元を綻ばせた。

「お好きでいらっしゃると、父から聞いておりました。もう少し時期が遅ければ、新茶をお出しできたのですが」

「そういえば、もうそんな時期ですか」

 客人は感慨深そうに呟くと、整った所作で湯呑みを口に運ぶ。

(良かった。上手く淹れられたみたい)

 ホッと息をついて表情を緩ませる老紳士を眺めながら、朝霧まりかは密かに胸を撫で下ろした。

 この老紳士こと今井竹虎たけとら氏は、横浜市に籍を置く大手海運会社の代表取締役であり、同時に、まりかの父・朝霧利雄の古い知人でもある。いかにも厳つい名前とは裏腹に、綺麗に整えられたグレイヘアとブラウンのオーダースーツという出で立ちからは、紳士然とした物腰の柔らかさと人当たりの良さを感じることができる。

 まりかは、どことなく父と似た雰囲気を持つこの老紳士に親しみを感じつつも、内航海運ないこうかいうんというこの国の物流の要を何十年にもわたって担ってきた超重要人物であるという事実を思い起こし、くれぐれも粗相の無い対応をせねばと一層気を引き締めた。

「それでは、本題に入るとしましょう」

 今井氏は、小皿に盛られた個別包装の茶菓子には手を付けず、本革のビジネスバッグからファイルを取り出すと、ホチキス止めされた資料をローテーブルの上に置いた。

「お話は既に、秘書の松前からお聞きになっておられるでしょう。各海運会社から聞き取った被害状況は全て、こちらの資料に詳しく記載させていますので、どうぞお受け取り下さい」

「拝見します」

 まりかは資料を手に取って、素早く全ページに目を通す。

「……船種、船籍、運航会社。どれも見事にバラバラですね。これだけ雑多な情報を集約するのは、かなり大変だったのではありませんか」

「その辺りは、松前が上手いことやっておりましたからな。もっとも、私も少々手を貸しましたが」

 なんてことの無い顔で、さらりと言ってのける。

「ご謙遜を。それだけ内航海運業界において、今井様の存在が大きいということでしょう」

「それに、松前も優秀ですからな」

 やけに秘書の働きを強調する今井氏に、まりかは思わず笑みをこぼす。

「その松前さん、一度お会いしてみたいものです」

 まりかは半ば本心からの言葉を返すと、再び資料に目を落とした。

 今井氏の秘書である松前氏からまりかが連絡を受けたのは、およそ3日前のことである。

犬吠埼いぬぼうさき冲を通過する商船しょうせんから、怪異らしき存在により食糧が盗まれる事案が多発している』

 犬吠埼は、関東平野の最東端、銚子半島に位置する太平洋に突出した岬である。そしてこの犬吠埼の沖合は、貨物船やタンカーなどの商船が昼夜を問わず行き交う海上交通の要所となっている。

 調査によると、犬吠埼沖を通過する商船から食糧が盗まる事案が確認できたのは、この数ヶ月間に限定されるとの事だった。1回に盗む量はそこまで大したことが無いらしいのだが、それでも、大切な船の食糧が盗まれているという事実に変わりは無い。

 そういうわけで先日、事態を重く見た各運航会社や船主オーナーたちが一堂に会した。そこで顔を突き合せて相談した結果、今井氏が業界を代表して朝霧海事法務事務所に解決を依頼することになったというのが、今回の経緯である。

 ちなみに、業界内において今井氏は、自由人としても有名だった。現に「たまには独りで出歩きたい」というだけの理由で、誰一人同伴させずに単独で事務所を訪問している。そしてこの後は、「松前に内緒で」日本郵船歴史博物館に足を運ぶつもりであるとの事だった。

「……これだけ詳細に整理してまとめていただけて、とても助かりました。松前さんに、私が礼を言っていたと伝えていただいてもかまいませんか」

「ええ、松前も喜ぶことでしょう」

「ありがとうございます」

 今井氏に軽く頭を下げて、まりかは資料の最終ページに目を落とす。

 そこには、被害に遭った全ての商船の位置が、赤丸によって地図上に記されていた。

 まりかは、地図上のある一点をじっと見つめる。

(もしかしたら、もう分かっちゃったかも)

 資料から顔を上げると、こちらを探るように見つめる今井氏と目が合った。まりかは、怪異の正体について閃きがあったことなどおくびにも出さず、今井氏に向かってニッコリと笑いかける。

「ご安心ください。今日明日というわけにはまいりませんが、週明けには良い結果をお伝えできるように努めさせていただきます」

 断固としたまりかの言葉に、今井氏が少しだけ気圧されたような表情を浮かべた。しかし、すぐに柔和な笑みを取り戻すと、居住まいを正して真っ直ぐにまりかを見つめる。

「さすがは、利雄さんの娘さんだ。頼りにしていますぞ」

「っ!」

 父の、娘。

 今井氏の口から出た言葉に、まりかは胸がいっぱいになる。

「はい! お任せ下さい!」

 こうしてまりかは、何ヶ月にもわたって船員たちを悩ませている、犬吠埼冲糧食盗難事件に挑むこととなったのだった。

「……とは言ったものの、どうするのが一番良いのかしらね」

 今井氏を見送って茶器を片付けた後、すぐに資料を片手にデスクに戻って頭を悩ませ始める。

「止めて欲しいと伝えたところで、素直に聞いてくれるとも思えないし」

 資料に記載されている報告を熟読しながら、まりかは小さくため息をついた。

 今回の事件を引き起こした犯人の正体については、既に見当がついていた。現地に足を運ぶまでは断定できないが、それでも、まず間違いないだろうと踏んでいる。

 問題は、どうやってその犯人を説得するかだった。

「怪異や妖って、本当に人間の食べ物が好きよねえ」

 何杯目になるか分からないコーヒーを啜りながら、水槽内で悠然と泳ぐ金魚たちを見るともなしに眺める。ついでに、コンビニで買ったティラミスを上の階でパクついているであろう人魚の顔も思い浮かべてみる。

 あの人魚にスイーツ禁止令など出そうものなら、大いに不満を噴出させてビル中をしっちゃかめっちゃかに荒らしてくれるに違いない。

 まりかは椅子の背もたれに背中を預けると、くるりと椅子を回転させて海側の窓に身体を向けた。

 そこにあるのは、いつもと変わらぬ横浜港の景色。

 ランドマークタワーに、観覧車。スイカだのメロンだのと散々な呼び方をされているホテルの建物に、赤レンガ倉庫。そのすぐ近くには、海上保安庁の巡視船が停泊している。

(あ、そういえば)

 ここでまりかは、菊池あきらの存在を思い出した。

は海保が管理してる施設なんだし、ひょっとしたら何か参考になる話が聞けるかもしれない)

 まりかはスマホの画面を操作して、明の連絡先を呼び出そうとする。彼なら、こちらのメッセージに気がつき次第、すぐに反応を返してくれるだろう。

 まりかが、最初の文字を打ち込んだ時だった。

「わっ!?」

 静かな事務所内に、固定電話の大音量が鳴り響く。

「え、まさか」

 こういう時のまりかの勘は、非常によく当たる。

 まりかは、妙なスリルに胸をドキドキさせながら、そっと受話器を取り上げた。




 およそ1時間前のこと。菊池明は、赤レンガ倉庫の近くの岸壁に停泊している巡視船「あずま」を訪れていた。

 「あずま」は、PLHという記号で示されるヘリコプター2機搭載型の巡視船である。全長150m、総トン数約6,500トン、そして航続距離は20,000海里以上と、海上保安庁では最大の運用能力を誇っている。

 明は、たゆたう波の動き合わせてゆらゆらと前後に揺れるタラップを渡って「あずま」に降り立つと、船内に入って階段を降り、「第二公室こうしつ」と呼ばれる広めの部屋に足を踏み入れた。

「こんにちは。海洋怪異対策室です」

「菊池さん!」

 明が姿を見せるや否や、右腕に赤線の入った腕章を付けた若い乗組員が、明の元に駆け寄ってきた。

「お久しぶりです! まさか、菊池さんまで三管サンカンに異動になってたなんて思ってませんでしたよ!」

「まあ、海異対かいいたいは全国転勤だからな。竹内の方こそ、管区間異動なんて珍しくないか?」

「ちょっと、実家の方で色々とありまして。五管ゴカンの人事課にすごく良い人がいて、事情を話したら俺がこっちに来られるように尽力してくれたんですよ」

「へえ、そりゃあ良かった」

 明は、目の前に立つ後輩の明るい顔を見て、まるで自分事のように嬉しく感じた。

 彼の名は、竹内勇気。明がまだ海異対に配属される以前、第五管区のとある巡視船の乗組員として勤務していた時期に、2年ほど一緒だったことがある。航海科の明に対して竹内は主計しゅけい科であるため、業務内容はあまり重ならなかったものの、数少ない若手同士、何かと協力し合いながら厳しい訓練や船の雑務に追われる日々を乗り切っていたのだ。

「入港してすぐに海異対の人が来るって聞いたので、無理を言って今日の当直を代わってもらったんですよ」

 何故か得意げな顔で説明する竹内に、明はあえて素っ気ない態度で質問をする。

「それは、仕事熱心であるという自慢と受け取ればいいのか?」

「久々に菊池さんに会いたかったからですよ!」

「そ、そうか。俺も会えて嬉しいよ」

 後輩から強めの口調で返されて、明は少したじたじになる。

 しかし、竹内はすぐに真剣な顔つきになると、ついてくるように明を促した。

「熱心というか、例の件については、どうしても自分の口から説明したかったんです」

 2人は第二公室を出ると階段を降り、「食料庫」と書かれた部屋の前に辿り着く。

「最初の被害に気がついてすぐに、扉にこれを貼っておいたんですけど……やっぱり、多少おまじないができる程度じゃ全然駄目なんだと痛感しました」

 竹内が気落ちした様子で説明しながら、制服のポケットから透明なジッパーの袋を取り出した。

「いや、最初に被害を受けた段階で海異対に報告してくれれば良かったんだよ。お前のせいじゃないって」

 明は、船の上層部を暗に批判しつつ、後輩を励ましてやる。

 海洋怪異対策室という、海の怪異への対処に特化した組織が発足して10年程が経つが、現場においては未だに、そんなものは霊力がある乗組員に対処させておけば十分であるという認識の者も少なくない。

(後で、村上さんに愚痴ってみよう)

 海異対の室長とは対照的に、社交的で親しみやすい性格の頼れる上司の顔を思い浮かべながら、明は竹内からジッパー袋を受け取った。

「味を占めたのか分からないですけど、1回目より2回目の方が多めに盗られてました。あと、チョコレート系が好きみたいです」

 竹内は憮然とした様子で説明しながら、食料庫の扉を開ける。

 そこには、常温保存が可能な大量の食材が、木組みの棚に整然と収められていた。パスタなどの麺類に、小麦粉、缶詰、調味料、ミネラルウォーター、などなど。また、栄養だけでなく乗組員の嗜好を満たすために、菓子類や夜食用のカップ麺、ジュース類なども蓄えられている。

「1回目も2回目も、冷蔵庫は無事でした。最初からお菓子だけを狙ってたんじゃないかって気がしますね」

 竹内の推理を聞きつつ、明は食料庫内に入ってぐるりと全体を見渡してみた。それから、ジッパー袋に入れられたそれに目を落とす。

「……これを、突破されたのか?」

 それは、何らかの御札の残骸だった。

 明は、無残にも燃えカスのような破片と化した御札を、霊力を集中させてじっと観察してみる。

「そうなんですよ!」

 竹内が、いかにも悔しそうな様子で訴えてきた。

「それ、祖母に教えてもらった大黒天の御札なんです。苦労して書き上げた自信作だったんですけど、まさか突破されるなんて……菊池さん?」

 竹内は、御札の残骸を凝視したまま黙考する菊池の様子に不安を感じ、そっと声をかける。

(これを破るほどの妖力を持ちながら、ただ食い物を盗むだけ?)

 大黒天に限らず、天部や明王を奉った御札なら、大体誰が書いても小さな怪異や妖程度は容易に退けることができる。そして、竹内が祖母から教わったというこの御札は、竹内の霊力と相性が良いのか、通常よりも高い効力を発揮していたように感じられた。

 もちろん、強い力を持った妖なら、このレベルの御札による結界を突破することは可能である。ただ、そうした妖が乗組員や船そのものに危害を加えることなく、単にお菓子を盗んだだけという事実に、明は妙なチグハグさを覚えたのだ。

(無邪気な妖らしいといえば、らしい気もするけどな)

 明は、竹内に断りを入れた上でジッパー袋をポケットに収めた。この御札の破片以外に痕跡が見られない以上、ここであれこれ考えていても仕方が無い。

 第二公室へと戻る道すがら、明はあれこれ言葉を尽くして竹内を励ましてやった。

「ひとつ言えるのは、お前はもっと自信を持って良いってことだよ。なんなら、海異対に来て霊力と技術の向上に励んでも良いんだぞ」

「か、勧誘ですか!? 俺には無理ですって!」

「ごめん、冗談だよ。まず、幽世かくりよに慣れるのが大変だしさ」

「というか、幽世って結構危ないって噂を聞くんですけど」

 そんなこんなで第二公室に戻って適当な席に着くと、明はメモ帳を取り出し、改めて竹内から聞き取り調査を行った。

 盗難が発生した日時や位置、盗まれた食料の詳細などを、丁寧にメモ帳に書き込んでいく。

「実は、他にも被害に遭った船が2隻いるんだけどさ。竹内のお陰で、痕跡らしい痕跡が初めて掴めたよ」

「いえ、そんな」

 ボールペンを走らせながらさらりと褒めてくる明に、竹内は嬉しそうにはにかむ。

「それじゃあ、何か分かったら連絡するから」

「はい、ありがとうございます!」

 明は、まだ何かを話したそうにしている竹内に別れを告げて「あずま」を降りると、海異対が入る建物に向かいながら思考を巡らせた。

(あまりにも、手掛かりが少なすぎる)

 被害に遭った時期は3隻ともバラバラで、犯人の姿を直接見た者も無し。位置については犬吠埼の沖合という共通項があるものの、これだけで犯人の見当をつけるのは、正直かなり難しい。

(いや、待てよ)

 明は足を止めて、建物とは反対方向に目を向けた。

 そこにあるのは大さん橋と、昨日から停泊中の豪華客船。

(……そもそも、被害に遭ってるのは巡視船だけなのか?)

 豪華客船に目を向けたまま、明は数週間前に友人になったばかりの海事代理士の姿を思い浮かべた。

(聞くだけ聞いてみるか)

 何かあったら助けるなどと豪語した手前、再びこちらから協力要請をするというのも気が引けるが、事の重大さを鑑みると四の五の言ってる場合ではない。

 明はスマホを取り出すと、電話帳を開いて朝霧海事法務事務所の欄をタップした。




 そして1時間後。まりかと明は、応接用のローテーブルを挟んで向かい合ってた。

 ローテーブルから少し離れたところでは、折りたたみ椅子にだらりと身体を預けたカナが、万華鏡をくるくる回しながら夢幻の世界に浸っている。

「うーむ。至極単純な構造ながら、まるで真理の体現であるかのようなこの美しさ。人間もなかなかやるではないか」

 明が事務所を訪れた途端、計ったように事務所の奥の扉から姿を現したこの人魚。もしかしたらビル周辺に結界でも張っているのではないかと、まりかは密かに疑っている。 

 ちなみにこの折りたたみ椅子は、背面と座面を1枚の帆布で仕上げた、ちょっとリッチな品だった。事務所内におけるカナ専用の居場所を作ろうと考えてひとまず用意したものだったが、ソファよりも涼しくて座り心地も良いと、予想以上の高評価を受けている。

 気ままにくつろぐカナを尻目に、まりかと明は真剣な表情で、ローテーブルの上に広げられた資料に目を通していく。

「まさか、巡視船も被害を受けてたなんて」

 明の持ち寄った資料を確認しながら、まりかが眉を顰めた。

「俺だって、まさか商船がここまでの被害を受けてたなんて、想像もしてなかったぜ」

 複写された今井氏の資料をめくりながら、明が被害の多さに絶句する。

「そうだ、2ページ目に唯一の目撃証言が載ってるんだけど」

「えっ、それかなりの重要情報だぞ」

 明は勢い込んで、まりかに示された部分を熟読する。

「――子供の姿をしていた、か」

 ふむ、と明が小さく唸った。

「明」

 そんな明の反応を伺いながら、まりかが切り出す。

「実はね、犯人の正体について、これじゃないかって考えてるものがあって」

 まりかは、自身の推理を明に披露した。明は、資料の最終ページに載っている地図を眺めながら、じっとまりかの話に耳を傾ける。

「――というわけなんだけど、どうかな」

 まりかは少しだけ緊張しながら、明の答えを待つ。

「なるほどなあ、そういうことか」

 明が、納得したというように深く頷いた。

「それはもう確定だな。あそこにって話は海保俺らの間じゃ割と有名だし、まず間違いないと思う」

「うーん、そっかあ」

 まりかが複雑な表情で頷いた。推理が当たったことについてはホッとしたものの、まだ重要な問題が残っている。というより、ここからが本題なのだ。

「なんか、また助けられちまったな」

 明が、右手の指で頬を引っ掻いた。右手首を飾るフルメタルのGショックが、午後の柔らかな日差しを受けて仄かに赤い光を反射している。

「朝霧からの情報提供が無かったら、犯人の特定に何倍も時間がかかってたと思う。本当に助かったよ」

「そうね。でも、肝心の解決策が思い浮かばないのよ」

 明が、まりかを見た。

 まりかが、口元に微笑を浮かべてこちらを見ている。

「それでさっき、明に連絡しようとしてたのよ。まあ、タッチの差で先を越されたけどね」

(そうか、ちゃんと俺を頼ってくれてたんだ)

 それは、明にとって意外なことだった。同時に、自身の認識を改める必要があると自省する。

(何せ、友人だもんな。もう少しくらい気軽に考えたって良いよな)

 明は、モヤのように頭を覆う鬱陶しい感情を強引に追い出すと、力強くまりかに頷いてみせた。

「そうだな。商船のために海保として出来ることが何か無いか、俺も一緒に考えてみる」

「うん、ありがとう」

 まりかが嬉しそうな顔で頷き返す。

 かくして、まりかと明は協力関係を結ぶこととなった。

 そして、それを面白くなさそうな顔で見ている者が、約1名。

「さっきから、なーにを深刻そうに話しておるんじゃ」

 カナが、チョコレート菓子を頬張りながら言い放った。どうやら、いつの間にか戸棚を探って見つけ出してきたらしい。そして、そんなカナの勝手気ままな振る舞いに関して、まりかは既に諦めの境地に至っている。

 菓子に引き続き、冷蔵庫から持ち出した紙パックのりんごジュースをストローで吸いながら、カナがいかにもどうでも良さそうに話を続ける。

「人間を襲うとかならまだしも、ちょっくら食い物をくすねとるだけではないか。ほれ、なんかそういう題名の映画もあるんじゃし、少しくらい大目に見てやったって」

「そんなの絶対駄目よ!」

「絶対に駄目だ!」

「ふへっ!?」

 思いも寄らぬ猛烈な反発に、カナはビクリと肩を跳ね上がらせて姿勢を正した。

「な、なんじゃい、そんなムキになってからに」

「あのね、カナ」

 まりかが、眼鏡をクイッと掛け直した。

 これは本気であると、カナは直感する。

「船の食事というのはね、船員さんたちにとって、とーーっても大切なものなのよ」

 まず、当然の話として、航海中に食糧を調達することは不可能である。数人分の魚ならともかく、肉や卵、米、野菜、その他諸々の食材は、出港前に全て仕入れておく必要がある。例えば、船員20名の船で7日間の航海をする場合は、単純計算で420食分を用意しなければならないということになる。

 そして、これも当然の話であるが、ただ闇雲に食材を仕入れれば良いという話でもない。この例の場合だと、船の調理担当者が事前に7日間分の献立表を作り、それに合わせて食材を仕入れることになるのだが、これにはかなりの知識と経験を必要とする。もちろん、航海が長引けば長引くほど献立表の作成や食材のやり繰りの難易度も高くなるし、他にも、野菜の新鮮さをできるだけ長く維持するように保存方法を工夫したりと、船の調理担当者の苦労は計り知れないのだ。

「何よりも、陸上との繋がりも遮断されて単調になりがちな船の生活において、1日3回の食事の時間は、船員さんたちにとって何よりの楽しみと言っても過言ではないのよ」

 もっとも近代以前と違って、本や映画、ゲームなどの娯楽を陸上から持ち込んで楽しむことはできるので、まりかの説明は若干大袈裟なきらいはあるかもしれない。

 それでも、船員の健康を維持するという意味でも、船の食事が非常に重要であるという事実に変わりはない。厳しいようだが、資源が限られた船の生活において、借りぐらしなどという牧歌的な営みを許す訳にはいかないのだ。

「船のメシって、本当に大事だからな」

 滔々と語るまりかの横で、明が腕を組んで何度も頷いている。

「補給長の腕が良いと船の雰囲気も良くなるし、不味いって評判の補給長が異動してくるなんてことになれば、みんなガッカリするんだよな」

「補給長? ああ、司厨しちゅう長のことね」

「そっか、商船だと主計科のことを司厨って呼ぶんだっけ」

 まりかと明、それぞれ異なる立場で「海」の仕事をする人間同士、意外と話が盛り上がり、ついつい本題から脱線しそうになる。

「むうう〜」

「ごめんってば、カナ。アイスあげるから機嫌直して」 

 まりかは、内輪ネタから弾き出されてむくれているカナに謝ると、冷凍庫からチョコミントの棒アイスを取り出した。

「でも、人間にとって食がどれだけ大切かなんてこと、怪異や妖に分からないのは当然かもな」

 美味しそうに棒アイスを舐めるカナを見守りながら、明がさり気なくフォローする。

「確かにそうね。怪異や妖たちが人間の食べ物を欲しがるのは、純粋に嗜好を満たしたいからというだけだし」

 まりかも、明の意見に同意を示した。そして、腕を組んで再び頭を悩ませ始める。

「それでも、今回の犯人には、きちんと話して理解してもらわなきゃいけないのよね」

「それなんだけど、ちょっと思いついた事があるんだ」

「えっ、本当!?」

 まりかは、思わずソファから腰を浮かせた。

 明は落ち着くようにと、まりかを制する。

「ただ、俺1人で決められる事じゃないから、一旦この話を持ち帰っても良いか? この後すぐに、海異対で話し合ってみるよ」

「……うん、分かった」

 一瞬だけ明の目を見つめて、まりかはソファに座り直した。明の思いついた案を今すぐ聞き出して、自分でもそれを検討したいという気持ちはあったが、ここは明を信用して任せてみることにしたのだ。

「ところで、この週末にでも現地に向かおうと思ってたんだけど、明はどうする?」

 代わりに、互いの予定について早めに調整しておくことにする。

「そうだな。どうせなら一緒の方が良いよな。現地集合にするか?」

「どうして? せっかくだから一緒に行きましょうよ」

「そ、そうか? 朝霧がそれで良いなら、良いけど」

 明が、チラリとカナの表情を伺った。

 アイスの棒を咥えたカナが、じとりとした目で明を睨む。

 そんなカナの様子にお構いなく、まりかが明るい声でカナに話しかけた。

「カナ、そろそろ電車デビューしましょう! いきなりの長距離になるけど、その方が却ってすぐに慣れると思うわ」

「電車……あの蛇みたいに長くて大量の人間が押し込められとる乗り物か」

 カナが、顰めっ面でアイスの棒をガリガリと噛む。

「大丈夫よ、人の少ない車両を使うから」 

 言ってから、まりかがハッとして明を見た。

「あ、ごめん。つい、特別車両を使う前提で考えちゃってて」

「いいって。というか、俺もそっちの方が良い。人混み苦手だしさ」

 明は、安心させるようにヒラヒラと手を振った。特別車両の料金は自腹となるが、カナが快適に電車に乗れるのならそれに越したことはないし、人混みが苦手というのも本当のことである。

「それじゃあ、途中で銚子電鉄に乗り換えってことになるな」

 明はスマホを取り出すと、経路検索アプリを起動した。

 まず、出発地の欄に「横浜駅」と入力する。

「銚子電鉄かあ。乗ったことないから楽しみだわ」

「そういうば、俺も乗ったことないな。というか、そもそも銚子に行くこと自体初めてだぜ」

 そんなことを話しながら、明は目的地の欄に「犬吠埼灯台」と入力した。

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