第14話 横浜港の龍神〈三〉

 岩場の多い海底を、足元に注意しながらゆっくりと進んでいく。

「人間って、海の中でもやたらと歩きたがるよな。俺たちみたいに泳げばいいのに」

 案内役の妖・多聞丸たもんまるが、左右5対の脚をスイスイと動かしながら、呆れたように言い放った。

「俺たち人間はな、なんだかんだ言って、地に足が着いている方が安心するんだよ」

 ただでさえ不安定な足場を、抜き身の直刀ちょくとうを手に持った状態で乗り越えながら、菊池あきらが言い返す。

「ふーん、変なの」

 明の返答を聞いた多聞丸は、太くて硬い、堂々たる触覚をワサワサと左右に動かしてみせた。

 多聞丸と名乗るこの妖は、伊勢海老とのことである。龍神・蘇芳すおうの側近である黒瀬くろせの配下であり、明が蘇芳から命じられた「難題」の元へ、明を案内する役目を与えられている。

 多聞丸の大きさはおおよそ50cm程度と小柄だったが、無数の小さな棘が付いた鎧を身に纏い、腰に刀を提げたその姿からは、身体の小ささなどものともしない勇猛さが感じられた。

 多聞丸に従って高低差のある岩場を降り、少し粗めの砂に覆われた海底に出る。歩くのが少しだけ楽になった明は、これまでのことを頭の片隅で振り返ってみた。

 蘇芳から「難題」を言い渡された明にとって、引き受けないという選択肢など存在しなかった。龍神の報復を恐れたことも理由のひとつだが、自分のためだけにここまで尽力してくれた朝霧まりかの存在も、それなりに大きい。

 明の身を案じたのか、文字通りの無理難題を言いつける蘇芳に対して進言しようとした彼女を、明はとっさに制した。

『俺も、海異かいいを専門とする人間です。ここからは自力でどうにかします』

 その後すぐに潮路しおじが目的地への〈門〉」を開き、黒瀬に呼ばれた多聞丸と共に〈門〉を通って岩場の多いこの海にやってきたのである。

 ここでふと、明は肝心なことに気がついた。

「そういえば、龍宮城に戻る時はどうするんだ? あんな〈門〉なんて代物を出せる妖なんて、そうそう居ないだろ」

 なるべく多聞丸を傷つけないように、遠回しな表現を使って確認する。

 明の質問を受けた多聞丸が、そんなことも知らないのかとでも言いたげな顔で明を見た。

「そんなの、蘇芳様が常にご覧になっておられるから、なんの問題にもならんぞ」

 要するに、明が目的を果たした時点で、再び〈門〉が開けられるということなのだろう。

「とにかく、蘇芳様は凄い御方なんだからな」

 そう言って誇らしげに胸を張る多聞丸を尻目に、明は独りで納得しながら頭上を見回す。

 とっくに夜になっているにも関わらず、この辺り一帯の海は、昼間の浅瀬より少し暗い程度の明度となっているのだ。

(これは、あの龍神の計らいなんだろうな)

 龍神にとって、自身の支配下にある幽世かくりよの海に力を及ぼすことなど、朝飯前に違いない。明は改めて、自分が対峙している存在がとてつもなく強大であることを実感した。

「けどよ、わざわざ明るくしてくれるなんて、意外と親切なところもあるんだな」

 「難題」という割には少々甘いのではと考えたのだが、すぐさま多聞丸が反論してきた。

「何を言うか、小僧!」

 明の鼻先に、ビシッと鋭い触覚を突きつけてくる。

「アレはな、視界が明るくなった程度でどうこうできる存在ではないのだぞ!」

「え、そうなのか」

 明が足を止めた。同様に、多聞丸も泳ぐのを止める。

「というか、凶暴化した怪異が一体いるってこと以外、何も聞いてなかったな。多聞丸は、知っているのか?」

「小僧、お前なあ。何も知らぬままに引き受けたのか」

 多聞丸が、心底呆れたというように10本の脚を小さく動かした。

「いやだって、詳しいことを教えて欲しいなんて言える雰囲気じゃなかったし。それに、聞いても聞かなくても、命令に従うことには変わりなかったからな」

「まったく。だが……そうだな」

 多聞丸はしばし、考え込む。

「アレは、オイラがあれこれ説明するよりも、己の目で確かめた方が早いかもしれないな」

「ふうん、そうか」

 明は、あっさりと引き下がった。事前にあれこれ聞いて不安になるよりも、現場で実物を確認し、その場で対策を練るというやり方が自分には合っていると考えているため、例の怪異についてはそれ以上聞かないことにした。

「ついでに、もうひとつ聞いてもいいか」

 そう言って、蘇芳から借り受けた直刀を多聞丸に見せてみる。

「この刀がどういう物か、知ってたりするか?」

「それ、オイラも気になってた! 初めて見たぞ!」

「そ、そうか」

 元気いっぱいの多聞丸の回答に、明は肩の力が抜けるのを感じた。

「何の説明も無しに渡されたんだけどさ、これを使って退治しろってことなのか?」

 反りの無い、真っ直ぐな刀身を軽く撫でながら、半ば独り言のような問いかけを口にする。

「普通に考えたら、そうだと思うぞ」

「でもさ、それにしては実用向きじゃないというか。むしろ、装飾品として造られたもののような気がするんだよな」

「言われてみれば、確かにそうだな」

 そんなことを言い合いながら、一緒になってその直刀の柄の部分をまじまじと観察してみる。 

 柄の材質は、木や皮革、布などではなく、金属だった。こんなもので打ち合いをしようものなら、柄を握る手に直接衝撃が伝わり、すぐに疲れてしまうに違いない。

 また、その金属製の柄には、文様化された龍らしき姿が彫り込まれていた。更に、柄の先には環状の透かし彫り細工がくっついているのだが、これもまた龍の姿をしているという徹底っぷりである。

「龍みたいなのが彫られてるし、あの龍神――蘇芳様が造られた物だったりしてな」

 実際、蘇芳はいとも簡単に拳銃を模造してみせたのだ。刀を造るなど、児戯にも等しいだろう。

 明は、再び刀身に目を向けてみる。

 反りのない刀身と同様に、短く反りがない切先きっさき。波紋は、直刃すぐはというタイプの単純な直線状をしている。

 そしてその刀身は、仄かに赤い光を反射していた。

「ん?」

 目をこすって、もう一度刀身を凝視する。

「……やっぱり、赤い」

「ホントだ、赤いな!」

「ちょっと確認してみるか」

 明は、ブレザーのポケットからある物を取り出した。

「あっ、オイラ知ってるぞ! 数珠ってやつだろ!」

 多聞丸がやたらとはしゃぎながら、片方の触覚で数珠を指す。

「正解」

 短く答えて、左手に持った数珠を刀身に翳して意識を集中する。

 この数珠は、明が親戚の寺関係者から譲り受けたものだった。108個の星月菩提樹せいげつぼだいじゅと、6個のラピスラズリ、紐房ひもふさ銀輪ぎんわなどで構成されている。なお、そのままだと長すぎるので、普段は二重にした状態で使用していた。

「そうか! 小僧、お前坊主ってやつだな! オイラ知ってるぞ!」

 何がそんなに面白いのか、多聞丸がますますはしゃぎながら、盛んに明に話しかける。

「俺は坊主じゃねえよ。親戚が寺やってるだけだよ」

「それじゃあ、生臭なまぐさ坊主ってやつだな!」

「だから坊主じゃねえって言ってるだろ! つうか、どこでそんな言葉を覚えてくるんだよ!」

 勇猛ながらも小動物らしさ溢れるその姿に似合わない言葉が飛び出したため、明は一旦作業を中断して問いただしてみる。

「へへん! 龍宮城にはな、ありとあらゆる現世うつしよの情報が集まってくるのだぞ! すごいだろ!」

 多聞丸が、鼻高々といった様子で答えた。

 明は、龍宮城の面々を思い浮かべてまたもや脱力する。

(あの龍宮城、いくらなんでもゆる過ぎるだろ)

 教育上よろしくない言葉を小さな妖たちに教えないでほしいと思いつつ、今度は邪魔をしないように多聞丸に言い含めた上で、再び数珠を刀身に翳した。

「――――」

 ヂリヂリ。

 ヂリヂリヂリ。

 数珠によって増幅された妖力らしき波動が、明の手のひらの皮膚を焦がすように刺激する。

 明は小さく息を吐くと、左手を刀身から離した。

「かなり薄いけど、意識があるみたいだ」

「なんか言ってたか!?」

 多聞丸が勢い込んで訊ねる。いかにも期待に満ちた様子で、触覚をブンブンと左右に激しく振っている。

 しかし、明は首を横に振った。

「明確な意志を伝えられる程の、強い自我じゃなかった。ただ……どうした、多聞丸?」

 急に多聞丸の様子が変わったことに気がつき、明は話を中断した。

「シッ」

 多聞丸が、真剣な顔つきで触覚をアンテナのように動かして周囲の様子を探り出す。

「すぐそこだ」

 ほとんど声を発さずに口を動かすと、触覚をクイッと動かして方向を示した。多聞丸と明は押し黙ったまま、その方向にある岩陰に音を立てずに移動する。

 多聞丸が、岩陰から少しだけ顔を覗かせた。

『いたぞ』

 声を出さずに、視線と触覚だけで明に伝えてくる。

 明は多聞丸と場所を交代すると、そろそろと向こう側の様子を伺ってみた。

「っ!?」

 瞬間、生物としての本能的な恐怖が湧き起こり、全身が一気に氷点下まで冷え込むような錯覚を覚える。

(ウ、ウツボ!?)

 そう。それは、確かにウツボだった。

 ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科の「海のギャング」という俗称を持つ、大型の肉食魚。ウナギの仲間でありながら、時には漁網すらも引き裂く大きな口と鋭い牙を持っていることは、釣り人や漁業関係者の間ではあまりにも有名な話である。

 そして、明が目の当たりにしている怪異化したウツボは、生物としてのウツボよりも格段に凶悪化していた。

 通常、ウツボの体長は、せいぜい4mまでしか成長しない。しかし、およそ50mほど離れた砂地をゆっくりと這っているウツボの怪異は、どう少なく見積もっても20m以上はありそうだった。

 そして、極めつけは。

「――おいおい。酒、持ってきてねえぞ」

 その理不尽すぎる光景に、明は思わず引き攣った笑みを浮かべる。

 龍神・蘇芳の「難題」の正体は、8つの頭を持った、巨大なウツボの怪異だった。




 8つある頭のうちの1つが、こちらを向いた。

 小さく不気味なウツボの目が、遠く離れた岩陰に潜む明の姿を捕捉する。

(まずい!)

 明はとっさに、多聞丸を抱えてその場を飛び退いた。

「ギエエエエエエッ!!」

 直後、恐ろしい速度で距離を詰めてきた八頭ウツボが、その強力なあぎとで明が潜んでいた岩場に喰らいつく。

「っ!」

 ガリッゴリッ、ゴリリッ、ガゴゴッ。

 硬いはずの岩が、8つの顎によって、身の毛のよだつ音を立てながら噛み砕かれていく。

(冗談じゃねえよ)

 束の間、明は己の最期を幻視した。

 生きながらにして文字通りの八つ裂きにされ、手や足や内蔵や頭が、てんでばらばらに咀嚼される。髪の毛1本たりとも残さず、綺麗に胃袋に収まることだろう。

 しかし、明は即座に意識を現実に引き戻した。

 腕の中に抱え込んだ多聞丸が小さく身動みじろぎするのを感じながら、素早く身体を起こして即応態勢をとる。

(俺独りならともかく、多聞丸をウツボなんかに喰わせるわけにはいかねえ)

 決して多聞丸が弱いと考えているわけではない。とはいえ、多聞丸のような小さな妖にとって、この八頭ウツボが相手ではあまりにも分が悪過ぎるのも事実なのだ。

 明は、数珠を握る左手に力を込めた。

(馬鹿にするなって言われそうだけど、俺がこいつを守らねえと)

 明が態勢を建て直すと同時に、岩を砕くことに飽きた八頭ウツボが、16個の小さな眼球を一斉に明に向けてきた。

「フシュウウウ……」

 8つの禍々しい顎から、威嚇するような鳴き声が気泡と共に漏れ出てくる。

 多くの海洋生物たちと同様、生物としてのウツボは発声器官を持たない。しかし、怪異化した生物においては、そのような「常識」が通用しないことは少なくない。それどころか、彼らは時として、人間と同等以上の知能を獲得していることすらあるのだ。

 張り詰めた空気が、ひと呼吸分だけその場を支配した。

 そして。

「キシェェェ!!」

 中央の頭が、絶叫しながら鎌首をもたげた。

「や、やられる!」

 多聞丸が、腕の中で悲鳴を上げる。

 明はすかさず、左手に持った数珠を八頭ウツボに向かって突きつけた。

 そして素早く、祈りを込めてを唱える。

「『オン・ケンバヤ・ケンバヤ・ウン・パッタ・ソワカ』!」

 詠唱を終えると同時に、星月菩提樹の数珠が、幽世中の海を満たさんばかりの神々しい光を放った。

「ギャアアアアアアア!」

「今のうちに逃げるぞ!」

 目が潰れそうになるほどの強烈な光にのたうち回る八頭ウツボの姿を確認することなく、明はその場から脱兎のごとく走り去る。

「おい、今のはなんだ!?」

 多聞丸が驚いた様子で、後方に遠ざかる八頭ウツボを眺めている。

三宝荒神さんぽうこうじん陀羅尼だらにだよ」

 不安定な足場を直刀や多聞丸を落とさぬように必死で乗り越えながら、明が短く返す。

「ダラニ?」

「呪文みたいなもん」

 岩場をいくつか乗り越え、砂地を走り抜け、八頭ウツボからかなり離れただろうと思われる頃、明はようやく足を止めて、安全な岩陰に座り込んだ。

伊良部いらべさんが聞いたら、大ウケしそうだな)

 大きく肩を上下させて荒く呼吸を整えながら、海洋怪異対策室の〈異形〉の先輩の顔を思い浮かべる。8つの頭を持つウツボの怪異がいたなどと話そうものなら、腹を抱えて大笑いするに違いない。

(こっちは全然笑えない状況だけどな)

 多聞丸を腕から解放し、直刀を脇に置いた明は、更に呼吸を整えながら数mほど上にある海面を仰ぎ見る。どうやら、蘇芳が明るくしているのは海中だけらしい。海面の向こう側は、墨を流したような真っ暗闇に支配されている。

 明は顔を元に戻すと、不安そうに自分を見つめる多聞丸に小さく笑いかけ、すぐに表情を引き締めた。

 そして顔を寄せ合い、2人きりの作戦会議を開始する。

「そもそも、何が原因で凶暴化したのか知ってるか?」

「分かんねえ。数日前に、どこか別の海からやって来たと思ったら、誰彼構わず襲おうとしてきたらしいぜ。それで、この辺の怪異連中はみんな逃げちまったんだ」

 多聞丸の回答に、明はふむと思案顔で小さく唸る。

「ウツボって、本当は臆病で大人しい性格をしてるらしいんだ。いくら怪異化したとはいえ、何の理由も無しに暴れているとは思えないんだよな」

「でもさ、頭が8つもあるようなヤツだぜ? 普通のウツボがやらない事なんか、いくらでもやりそうな気がするぞ」

「それは、そうかもしれねえけど」

 明は何か釈然としないものを感じつつも、左手に握ったままの数珠を目の前に掲げて、この「難題」の最適解を見出そうと頭を巡らせる。

 八頭ウツボに遭遇する前に考えていた作戦は、砂地部分に「マンダラ」を描き、そこに誘導した上で「浄化」を試みるというものだった。

(でも、あの大きさに見合ったマンダラを独りで綺麗に描くのは無理だ)

 それ以前に、マンダラを描くのに必要な広さの砂地が、どうもこの一帯には存在しそうにない。

 となれば、全く別の方法で解決を図るしかないだろう。

 明は、脇に置いていた直刀を再び手に取った。

 柄を両手で握り、刀身立てて眺めてみる。

(やっぱり、これを使えってことなのか)

 とても実用向きとは思えない、美術館にでも展示されてそうな龍の文様が彫り込まれた豪奢な柄。

 赤い光を弱く反射する刀身。

 微弱ながらも、その身に宿る確かな意思。 

(ちょっと、試してみるか)

 もしかすると刀の意に反するかもしれないという思いもあったが、解決すべき「難題」を背負っている以上、今はそれを無視せざるを得ない。

 明は、背筋を伸ばして顎を引くと、控え目ながらも明朗な声で、さっきと同じ陀羅尼を唱えた。

「『オン・ケンバヤ・ケンバヤ・ウン・パッタ・ソワカ』」

 唱え終わると同時に、刀身に何かが浮かび上がる。

「おい、なんか出たぞ!」

 脇で見守っていた多聞丸が、興奮して触覚をブンブンと振り回す。

 刀身に浮かび上がったのは、明が唱えた陀羅尼だった。

「なんだか見慣れない文字だぞ」

「これは梵字っていうんだ」

「ふうん」

 梵字とは、広い意味ではサンスクリット語を表記する文字を指す。日本においては、墓地の卒塔婆などに表記されているものが比較的身近といえるだろう。

 ぼんやりとした光を帯びる刀身を観察しながら、明が呟いた。

「どうやらこの直刀には、陀羅尼の効力を上乗せすることができるらしい」

「マジか! 凄いな!」

 しかし、陀羅尼が浮かんだのは僅か数秒だった。

 陀羅尼が消えると同時に、刀身を満たしていた陀羅尼の効力もあっという間に消失する。

 多聞丸はガッカリしたような声を上げると、触覚をしおれさせた。

「こんなにすぐに消えちまうんじゃ、使えねえよ」

「いや、それについては多分心配ない。むしろ、少し光明が見えた気がする」

「どういうことだ?」

 多聞丸は、明を見上げた。明の顔には、さっきよりも明るい表情が浮かんでいる。

 明は多聞丸の質問には答えず、腰ベルトに付けた小さなポーチの中から何かを取り出した。

「ここで、直刀と一緒に待っててくれ。ちょっと偵察してくる」

 言いながら、多聞丸の側頭部にポーチから取り出した物を貼り付ける。

「なんだよ、これ!?」

 それは御札だった。何かの梵字が一文字だけ大きく書かれたその下には、漢字で「摩利支天まりしてん」と書かれている。

「敵から姿を隠してくれる御札だよ」

 明は数珠だけを持って立ち上がると、岩陰から顔を出して周囲の様子を伺った。

「あのウツボの様子を探ってくる。とにかく、敵を知らないことにはどうにもならないからな」

「そ、そんなの!」

「安心しろ。ちゃんとした隠形おんぎょう法を使って接近するから」

 事も無げにそう言って、さっさと岩陰を出ようとする。

「ま、待てっ」

 多聞丸が、明を呼び止めた。

 明が、怪訝そうに振り返る。

「そ、その……ありがとう。守ってくれて」

 尻尾を内側に丸め込み、もじもじと小さな脚を擦り合わせながらも、ハッキリとした声で礼を述べる。

(今、そんなこと言われたら、まるで俺が帰ってこないみたいじゃねえか)

 明は少しだけそんなことを思ったが、もちろん口に出すようなことはしない。

「どういたしまして」

 素直で簡素な言葉だけを返して、今度こそ明は岩陰から一歩を踏み出した。




 八頭ウツボは、想定よりもずっと早く見つかった。

(もうこんなに迫ってきてたのかよ)

 冷や汗を流しつつも、念の為に多聞丸に御札を付けておいて良かったとホッと胸を撫で下ろす。

 明は、八頭ウツボの至近距離に位置する小さな岩陰で片膝を着くと、軽く目を瞑り、両手で印を結んだ。

 左手を虚ろに握り、それを右手のひらの上に置く。いわゆる「隠形印おんぎょういん」と呼ばれる印である。

「『オン・マリシエイ・ソワカ』」

(摩利支天よ、我の姿をお隠し下さい)

 摩利支天の真言しんごんを1回唱えるごとに、心臓、額、左肩、右肩、頭頂の順に隠形印を移動させていく。

 それを終えると、一旦ブレザーのポケットに入れていた数珠を再び左手に持ち、ひらりと岩陰から躍り出た。

「フシュウウウ……」

 八頭ウツボは、間合いよりも少し遠いくらいの所まで迫っていた。しかし、隠形法により身を隠した明の存在に気がつくことはなく、その大きな顎から呼気と気泡を盛んに吐き出しながら、岩場の多い海底を、ずるりずるりと移動している。

 明は、八頭ウツボの身体に触れないように注意を払いながら、その巨体をくまなく観察し始めた。

 黒褐色と黄色のまだら模様の体色に、円筒型の細長い身体。その顎は、眼球よりも更に後方まで開くほどに大きく、口内には鋭く尖った歯が何十本も立ち並んでいる。

(見た感じ、頭が8つあることと身体が大きいこと以外は、普通のウツボと変わらねえな)

 つまり、あの聞くにも恐ろしい咽頭顎いんとうがくも、ほぼ確実に備わっているに違いない。

 咽頭顎というのは、その名の通り喉に付いたもうひとつの顎である。こんな凶悪な器官を持つウツボに噛まれれば大怪我するのは当然として、目の前にいる八頭ウツボに1度でも噛みつかれようものなら、確実に生命を失うだろう。

(やっぱり、あれに噛まれて死ぬのはナシだな)

 霊力の扱い方を学ぶために、子供の頃から頻繁に寺に出入りしていたからだろうか。明には、自身の生に対する執着心はあまり無い。今現在の生活にはそれなりに満足しているし、希死念慮を抱いているという訳ではないのだが、もし明日で寿命が尽きると知らされたとしても、さほど抵抗することなくそれを受け入れるだろうと、明は漠然と感じている。

 とはいえ、わざわざ痛い思いをしながら死にたいという特殊な願望は、生憎と持ち合わせていなかった。

(それに、今回はちゃんと生還しなきゃならねえ事情があるからな)

 明は2つの顔を思い浮かべる。ひとつは、もちろん多聞丸。もうひとつは、朝霧まりか。

 明がウツボに喰われたと聞けば、明を龍神に引き合わせたことについて、多少なりとも自身を責めてしまうだろう。自分などのために、そのような無用な感情を彼女に抱かせるのは申し訳ないと、明は思う。

(狙うとすれば、胴体しか無いな)

 八頭ウツボとは安全な距離を保ちながら、枝分かれした頭部がひとつにまとまった胴体部分がよく見える位置にゆっくりと移動する。

(それにしても、何がどうなって頭が8つになったんだよ)

 元々は1匹だったウツボから頭が8つに枝分かれしたのか、或いは、8匹のウツボが合身して1匹の巨大な怪異と化したのか。

 各々の頭が自律的に動きつつも、進行方向について互いに争うような動きは今のところ見られない。ある程度の意思統一、もしくは思考の共有はできていると考えるべきだろう。

(頭同士で喧嘩させたところで、却ってやっかいなことになりそうだしな)

 あれこれ思案しながら、ゴチャゴチャと重なり合った枝分かれ部分に目を凝らしてみる。

 キラリと、何かが光を反射した。

「ん?」

 もう一度目を凝らしてみるが、特に何も見えない。

(いや、確かに何かが見えたぞ)

 明は、腰のポーチから倍率3倍の折りたたみ式オペラグラスを取り出した。

 今度はオペラグラス越しに、八頭ウツボの枝分かれしたところを観察する。

「――あれは!」

 よくよく注意しなければ気が付かないほどの薄い光が、ウツボの皮膚の上でチラチラと反射しているのが見えた。

「そうか、そういうことか」

 オペラグラスを顔から離し、八頭ウツボを見つめたまま、押し出すようにして呟く。

 この瞬間、菊池明は、自分が何を為すべきなのかをはっきりと理解した。

(早く、助けてやらねえと)

 明はくるりと踵を返すと、一刻も早く多聞丸に作戦を伝えるため、急いでその場を後にしたのだった。




 8つある頭のうちの1つが、遠い岩陰で何かがゆらゆらと揺れているのを視認する。

 その情報は瞬く間に他の7つの頭にも伝わり、8つの頭は一斉に、まるで自分を誘うかのように揺れるその物体に、憎悪を込めて狙いを定めた。

「キシャアアアアア!!」

 雄叫びを上げると、不安定な岩場をものともせず、その巨体からは想像もできないような速度で一気に距離を詰め、躊躇なくその物体に喰らいつく。

「来たぞ!!」

 摩利支天の御札を付けた多聞丸が、大声で明に合図をした。

 多聞丸の手には、細長い流木が握られている。その先端には明のマリンキャップとマントが括り付けられていたのだが、それらはたった今、八頭ウツボの鋭利な牙の餌食となってしまった。

「シャアアアアッ!」

 八頭ウツボは、単純な手口で誘導されたことに怒りながら、頭を振ってマリンキャップとマントを放り出すと、すぐ目の前で片膝を着く明に襲いかかった。

「『ナウボ・バギャバテイ・タレイロキャ・ハラチビシシュタヤ・ボダヤ・バギャバティ……』」

 幽世の海に、朗々と詠唱する声が響いた。

「ギャアアッ」

 明を喰らおうした頭の1つが、透明な壁にぶち当たったかのように強く弾かれる。

「『……アビシンシャトマン・ソギャタバラバシャナウ・アミリタ……』」

 明は、目の前で怒り狂う八頭ウツボにはまるで頓着せず、左膝を砂地に着き、右足は立膝にして、長く複雑な陀羅尼を淀みなく唱え続けている。

「すげえ。あんな簡単な印で、結界を張ってやがる」

 多聞丸は安全な岩陰で成り行きを見守りながら、明の霊力の高さと技術の巧みさに瞠目していた。

「『……アユサンダラニ・シュダヤ・シュダヤ……』」

 明の左手の親指と人差し指の間には、紐房を下にした状態で数珠が引っ掛けられている。そして右手は、人差し指だけを突き出して地面に触れさせる印の形をとっていた。

 その名も、降魔印ごうまいん。形だけなら誰にでも可能なこの退魔法は、怪異や妖が多少見える程度の人間が真似をしても、ほとんど効力を発揮しない。せいぜい、自我が希薄な生まれたての怪異が怯えて逃げる程度である。

「ギャオオオオオ!」

 ますます怒り狂った八頭ウツボが複数の頭で突撃するも、明の目と鼻の先でことごとく弾かれてしまう。

 明の詠唱は、まだ続く。

「『……ソウカ・タナウ・ビシュデイ・サラババラダ……』」

 子供の頃から幾度となく唱え続け、すっかり骨の髄まで染み込んでいる、真言や陀羅尼の数々。今、明が唱えている陀羅尼は、それらのうちでも特に強い力を発揮する、明の十八番だった。

「『……サマジンバサエンド・サラバタターギャタ・サマジンバサ・ジシュチテイ……』」

 尊勝陀羅尼そんしょうだらに。全ての悪業、魔障を浄化する力を持つそれは、詠唱と共に明の霊力と絡み合い、星月菩提樹の数珠に蓄積されていく。

「『……キリダヤ・ジシュタナウ・ジシュチタ・マカボダレイ・ソワカ』!」

 明は詠唱を終えると同時に、身体の右側に突き立てておいた直刀を手に取りながら立ち上がった。

「シュウウウ……」

 再度襲いかかろうとした八頭ウツボが、恨めしげな鳴き声を口々に漏らしながら、じりじりと後退する。

 明の全身からは、神々しいまでの威光が放たれていた。もし、小さな怪異や妖が相手だったのならば、目の当たりにしただけで戦意を喪失し、ひれ伏さんと欲する心すら持ったかもしれない。

 とはいえ、八頭ウツボほどの怪異となると、さすがにこれだけで屈服させることは不可能だった。それは明にとって想定内のことだったため、心を揺らすことなく即座に次の手順に移る。

 明は、仄かに赤い光を反射する刀身に、溢れんばかりの霊力で満たされた数珠を翳した。

(ここからが、正念場だ)

 鎌首だけでも自身の体長を遥かに上回る八頭ウツボの怒りと憎悪に満ちた視線を、凪いだ海のような平静な心で受け止める。

(お前を、苦しみから解放してやるよ)

 決意と、そして祈りを胸に、明は腹の底から叫んだ。

「『孔雀明王クジャクミョウオウ祈願キガンス!!』」

 数珠を持つ左手が、優しい暖かさに包まれる。

 その暖かさを刀身に向けて押し出すようなイメージを描きながら、孔雀明王真言をゆっくりと唱え始めた。

「『オン・マユラ・キランデイ・ソワカ』」

 唱えながら、数珠を上から下へゆっくりと滑らせていく。

「おお!」

 遠くで見守っていた多聞丸が声を上げた。

 数珠の動きに合わせて、明が唱えた真言が力強く刀身に刻み込まれていく。

「なんだか、さっきよりも文字が濃い気がするぞ!」

 明は真言を唱え終えると、すぐさま両手で直刀の柄を握って構えた。

(よし、成功した!)

 さっき試した時とは違い、今度は刀身に浮かんだ真言が薄れることは無かった。それどころか、数珠から刀身に注ぎ込まれた莫大な量の霊力が真言の詠唱を受けて変質したことにより、威力が増しているとさえ感じられる。

 明は右足を前にして、切っ先を八頭ウツボの分岐部分に向けた。

 刹那、孔雀明王を観想する。

 そして、明自身の純粋な想いを、祈りの言葉として昇華させた。

「一切諸毒を取り除き、彼の者を救済し給え!!」

 言い終えるや否や、鋭く間合いに踏み込む。

 黒褐色と黄色のまだら模様が眼前に迫る。

「ギィアアアッ!!」

 僅かに遅れて反応した八頭ウツボが、その恐ろしい顎を大きく開けた。

 ずぶり。

 直刀の切っ先が、硬いはずのウツボの皮膚に難なく潜り込む。

 ウツボの鋭い牙が、明の背後に迫る。

「うおおおおおっ!」

 明は気合いを発しながら、直刀を更に深くウツボの体内に穿ち、勢いのままに全てを一気に断ち切った。

「……」

 直刀を下段に構えた状態で、静止する。

 1秒、2秒、3秒。

 明にとって、永劫のような時間が流れる。

(もし失敗なら、俺は今ここで喰われる)

 八頭ウツボのふところで、明は案外冷静に自身の最期を想像する。

 そして、4秒。

「きゅ?」

 上から可愛らしい鳴き声が響いた。

 同時に、八頭ウツボの巨体が、みるみるうちに収縮していく。

「ぐるるるるる?」

 普通のウツボよりひと回り大きい程度に縮んだ八頭ウツボが、喉を鳴らして8つの頭をこてんと傾けた。

(どうやら、大成功らしいな)

 さっきまでの凶悪さなど欠片も残らないその様子を見て、明はホッと胸を撫で下ろした。

「おい! 一体、何がどうなってるんだよ!」

 多聞丸が岩陰からすっ飛んできた。訳が分からないという顔で八頭ウツボと明を見比べ、触覚をブンブンと振り回す。

 明は、多聞丸から摩利支天の御札をはがしてやると、八頭ウツボのすぐ横に落ちているものを指さした。

「あいつの体内から、あれを取り除いてやったんだ」

「ひえっ」

 明が示した物を見た多聞丸が、そのおぞましさに触覚をブルブル震わせる。

「こんな物が身体の中にあったんじゃ、暴れるのも無理はねえよ」

 明はそれを拾い上げると、嫌悪感を露わにしながらも、その詳細を観察し始めた。

 八頭ウツボを凶暴化させていたものの正体。それは釣り糸だった。十数メートルもの長さがある上に、ご丁寧にも釣り針や釣り用オモリが付いたままとなっている。更に、何故かビニールの切れ端までもが所々に絡まっていた。

 釣り用語でテグスとも呼ばれるそれは、マナーの悪い一部の釣り人により、海ゴミとして投棄されることがしばしばある。そして、多くの海鳥や海洋生物たちが、このテグスの犠牲となっている現実が存在する。

 八頭ウツボの凶暴化の原因がこのテグスであることを看破した明は、災いや苦難を取り除くとされる孔雀明王真言の力を行使することを即座に決めた。

 つまり、直刀にこの真言の効力を上乗せすることで、八頭ウツボの身体を傷付けることなく、この場合の「諸毒」であるテグスのみを断ち切り、取り除くことを可能としたのである。

 明は、八頭ウツボから取り除いたテグスと穴の空いたマリンキャップを、ズタズタになったマントで包み込んだ。

 ゴミはきちんと持ち帰る。海に限らず、これはレジャーを楽しむ際の基本中の基本である。

「俺たち人間のせいで苦しい思いをさせて、本当にごめんな」

 明は、さっきから不思議そうな顔で自分を見つめている八頭ウツボに対し、謝罪の言葉を口にした。

「……」

 八頭ウツボは無言のまま、16の瞳でじっと明を見つめている。

 明は構わず、安心させるように小さく笑いかけながら言葉を続けた。

「実は、龍神からはお前を退治するように命令されてたんだ。でも、もうその必要は無さそうだ。命令違反ってことになるけど、何ら脅威にならない怪異を退治するなんてこと、俺は絶対にするつもりは無い。後は好きなようにしてくれ」

 ここは、蘇芳の勢力圏内。蘇芳が聞き耳を立てている可能性を十分に考慮しながらも、明は敢えて、自分の意見を堂々と述べることにした。

「小僧、お前」

 横で聞いていた多聞丸が、ピョコピョコと尻尾を振って明の顔を凝視する。

「なんだよ、文句あるか」

 明が腕を組んで応戦する構えを見せる。

 しかし、多聞丸の口から飛び出したのは、明にとっては想定外の言葉だった。

「すっごく優しいやつなんだな」

「……」

 完全に不意打ちを喰らい、明はスッと視線を反対側に逸らす。

「そんなんじゃねえよ」

 照れくささが表出しないように必死に胸の内に抑えながら、どうにか言い返す。

 しかし、多聞丸にはお見通しだった。

「照れてやがんの!」

「別に照れてねえよ!」

 その時、2人のすぐ横で、空間がグニャリと歪曲した。

「〈門〉が開くぞ」

 明はこれ幸いとばかりに言い合いを打ち切ると、八頭ウツボに背を向ける形で〈門〉に向かい合う。

「小僧!」

 多聞丸の悲鳴のような声が後ろで響く。

「っ!」

 明が振り向いたのと、八頭ウツボが明に覆い被さったのは、ほぼ同時だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る