第13話 横浜港の龍神〈二〉

 ビルの前に広がる開港波止場を突っ切って、高架橋の下をくぐり抜けた先。そこには、まさしく象の鼻のように伸びた防波堤に護られる形で、象の鼻桟橋が存在している。

 菊池あきらは、中央付近にある旅客船専用桟橋のすぐそばで、夕闇に沈む横浜港の姿を見るともなしに眺めていた。

「お待たせしてしまって、ごめんなさい」

 人が近づく気配に振り向くと、身支度を済ませた朝霧まりかが、申し訳なさそうな表情を浮かべてこちらに近づいてくるところだった。

「いえ、俺のことはお構いなく」

 明は欄干から身体を離すと、改めてまりかと対面する。

(こういうの、とんびコートって呼ぶんだっけ)

 まりかは例によって、いつも通りの格好をしていた。とんびコートの下は赤みがかった橙色の衣装、腕には手甲、足元には地下足袋を履いている。そして今回は、右手に小さめのハンドバッグを携えていた。

 先ほどのスーツ姿とはガラリと変わった出で立ちに、本来業務の傍らという割には、結構本格的なのだなと明は思う。

(でも、確かに服装って大事だよな。俺らのマントだって、手元が隠せたりして便利だし)

 そんな風に1人で納得した明は、まりかの背後に佇む少女に視線を移した。

 カナと呼ばれていたその少女は、さっきとほとんど同じ格好をしている。

 身につけているのは、フードがカエルの顔になっている緑色のパーカーのみ。靴も、靴下も履いていない。さっきと違うのは、長い髪を緩くひとつにまとめて身体の前に垂らしていることと、カエルのフードを深く被っていることくらいだった。

(どこの野生児だよ)

 東北地方出身でありながら寒いのが苦手な明としては、むき出しになった華奢な脚が潮風に吹き晒されているのを見ただけで、風邪を引いてしまうのではないかとやきもきしてしまう。

 物言いたげな明の視線に気がついたのだろう、まりかが少し困ったような顔で釈明してきた。

「えっと、この子はいつもこんな感じなので、大丈夫です。気にしないで下さい」

「え、ええ。分かりました」

 正直なところ、カナに関しては服装以外にも色々と気になる点があったが、他人の事情に首を突っ込むつもりは更々無いので、ひとまずは気にしないでおくことにする。

「フンッ」

 カナは、不機嫌そうに明を睨みつけると、腕を組んでそっぽを向いてしまった。

(こりゃ、完全に嫌われちまったな)

 別に好かれたいという訳でもないが、ここまであからさまな態度をとられると、さすがにチクチクと胸が痛む。

「カナ、もういいでしょ。そもそも、あれは完全にあなたに非があるんだからね」

「お前さんの監督不足でもあろう」

「全く」

 まりかはため息をついた。それ以上は言い合いを続ける気は無いらしく、明に断りを入れた上でさっさと桟橋の方へ去っていく。

(どういう関係なんだろうな。血縁には見えないけど)

 今までのやり取りを見るに、それなりに親しい間柄ではあるらしい。何らかの事情で知り合いの子供を預かっているのかもしれないなどと、明は勝手に推測してみる。

「良かった。ここにいてくれた」

 ほどなくして、何か目的のものを見つけたのか、まりかが安堵と嬉しさが混じった表情を浮かべた。「立入禁止」の札が下がった桟橋の出入口のチェーンを外して、カナと明に入るように促す。

「どうぞ、こちらへ。桟橋の所有会社には、立入りの許可はもらってますから」

「そ、そうですか。それでは」

 まりかの招きに応じて、カナ、明の順で桟橋に入ると、波に揺れる桟橋上を、ゆっくりと先端に向かって進んでいく。

「あの、少しだけここで待っててもらってもいいですか」

 まりかは、明を桟橋の中ほどに残すと、桟橋の先端に座って釣りをしているその老人に声をかけた。

「お久しぶりです、シロさん。お元気ですか」

「おやおや。こりゃあ、まりかじゃないかえ」

 老人が振り向いた。人間にしては大きな目玉と、額に生えた小さな角。シロさんと呼ばれたそのあやかしは、大きな目玉をギョロリと動かすと、まりかの背後にいるカナと明を探るように見つめた。

「あの2人のことは、大丈夫です。私が保証します」

 まりかはハンドバッグの中からカップ酒を取り出して、老人に差し出す。

「これで、すぐに潮路しおじさんを呼んできてもらえませんか」

「なんと、これは!」

 差し出されたカップ酒を見た途端、 老人はぴょんと飛び上がって釣竿を放り出すと、素早くカップ酒を受け取り、すぐさま蓋を外して中身を飲み始めた。

(シロさんったら、相変わらずだなあ)

 カップ酒を一気に飲み干す妖を見ながら、まりかはやれやれと苦笑する。

 彼は、この象の鼻桟橋の、いわばヌシのような存在である。といっても、龍神・蘇芳すおうが支配するこの横浜の海に、危険な怪異や妖が来襲することなどほとんど無い。そのため、やることといえば、日がな一日釣りをするか、妖仲間たちと四方山よもやま話をするか、泳いで遊ぶくらいなものであった。

「ふう。馳走になった」

 老人は空になったカップをまりかに渡しながら素手で口を拭うと、くるりと背を向けた。

「そいじゃ、ちょっくら潮路様をお呼びしてくるわい」

「よろしくお願いします」

 無造作に海に飛び込む老人に向かって、まりかは軽くお辞儀をする。

 直後、少し離れた海面から、1匹の大魚が飛び出してきた。

 パチャンッ。

 その額には、間違いなく角が生えている。

「あやつ、魚じゃったか」

 いつの間にか横に来ていたカナが、何故か羨ましそうな顔で本来の姿を現した妖を眺めている。

 優に50cmは超えるかと思われるその大魚は、その堂々とした体躯を誇るかのように空中で身体をくねらせると、大きな波飛沫を立てて、今度こそ幽世かくりよの海へと消えていった。

「てっきり、お前さんが龍宮城への〈門〉を開けるものと思っとったが」

 カナが、小声でまりかに訊ねる。

「本当はできるんだけどね。さすがに、それは見せたくないかなって」

 まりかも声をひそめながら、桟橋の中ほどに佇む明をそれとなく視線で示す。

「まあ、それもそうじゃな」

 うんうんと頷くカナの動きに合わせて、頭に被ったカエル顔のフードがわさわさと揺れた。ここだけ見れば、完全に年端の行かぬ少女である。

 まりかはカナを連れて明のところまで引き返すと、もう少しだけ待ってほしい旨を伝えた。

「ここの主である妖に、龍宮城への使いを頼みました。それほど時間はかからないとは思いますが、お待たせしてばかりですみません」

「いえ、お気になさらず」

 明は手を振って小さく笑うと、まりかへの驚愕と疑問符だらけの本心を抑え込み、雑談も兼ねて、もっと素朴でなんてことの無いような質問を投げかけた。

「あの、さっきの妖は、もしかしてボラでしょうか」

 ボラとは、ほぼ全世界の海に生息する、人間にとって身近な大型魚の名前である。

 明の問いに対し、まりかは少し嬉しそうな顔をしつつも、残念そうに首を振った。

「おしいですね。正確には、シロさんはトドなんです」

 まりかの回答に、しばし明は考え込む。

「トド……そうか、出世魚しゅっせうお!」

「そう、その通り!」

 今度こそ、まりかが嬉しそうな顔をした。

「おい! ワシにも説明しろ!」

 勝手に盛り上がる2人の間に、カナが憤りを露わに割り込んでくる。

「ごめんってば」

 まりかは軽く謝ると、出世魚について簡単に解説する。

 出世魚とは、成長段階に応じて名前が変わる魚のことである。ボラの他には、ブリやスズキ、カンパチなどが、出世魚として広く知られている。

「それでね、さっきのシロさんみたいに、ボラが最も大きく成長したときに、トドと呼ぶのよ」

 まりかの説明に、カナは腕を組んでしばらく考え込んだ。

「つまり、なんじゃ」

 そして、いかにも不可解そうに、まりかと明を交互に見つめる。

「お前さんら人間は、同じ種類の魚に対し、大きさに応じて異なる呼び名をいくつも与えておるということか?」

「そうだけど?」

 それがどうしたという様子のまりかに、カナは顔をしかめて大きく首を振った。

「前々から感じておったことなんじゃが。お前さんら人間はちと、いや、かなりおかしいわい」

「うーん。そう言われれば、そうかもしれないわねえ」

 何せ、イルカとクジラの違いすらどうでもいいと言ってのけるカナだ。出世魚の概念など、尚更わけが分からないのだろう。

 そして明も、カナの指摘により、人間の分類癖の異様さについて自覚を持ったらしい。まりかと明は、顔を見合わせると思わず苦笑した。

「あの、ひとつお尋ねしてもいいですか」

 さっきよりも場の空気が緩んだところで、明が別の質問を投げかける。

「ええ、どうぞ」

「朝霧さんの怪異に関するお仕事には、何か名称はあるのですか」

「ああ、そのことですか」

 まりかは、肩の力を緩めた。自分やカナについての突っ込んだ質問が来るのではと構えていたのだ。

「会計処理上は、浄霊師という扱いにしています。ただ……」

「ただ?」

 まりかは、どう答えたものか、顎に手を当てて少々考え込む。

 そして、結局はありのままに話すことにした。

「浄霊師、呪術師、魔術師、祈祷師……それから、葬送者なんて造語を作ってみたり、外国語の中からそれらしい単語を探してみたこともあります」

「はあ」

「でも、どうしても自分に相応しい呼称が思いつかなくって。結局、事務所のWebサイトに『海の怪異や妖の相談を受け付けています』とだけ書いている状態ですね」

「そうですか」

 呼称を決めることがそんなに難しいだろうかと明は思ったが、それは口には出さず、代わりにひとつ提案をしてみることにする。

「あの、差し出がましいようですが、海の怪異のことを〈海異かいい〉と表記するのはどうでしょう。少しは印象が変わるかもしれないと思うのですが」

「〈海異〉、ですか」

 明の提案に、まりかが思ってもみなかったという顔をした。

「ええ。俺の所属する海洋怪異対策室は、内部では『海異対』と略して呼ぶことが多いですし、最近では公文書でも〈海異〉の表記を使うようになったくらいでして」

「良いですね! 早速、使わせてもらいますね」

 明が話し終わらないうちに、まりかが〈海異〉の採用を表明した。

「〈海異〉かあ。これで、少しは分かりやすくなるかも」

「フンッ。呼称なんざどうだって良かろう」

 〈海異〉の言葉にやたら嬉しそうな反応をするまりかと、終始面白くなさげな様子のカナ。

(なんか、さっきの事とは関係無しに嫌われてないか?)

 明は、フードを目深まぶかに被ったカナの表情を、そっと伺う。

「……」

 カナが、じとりとした視線を明に向ける。

 金色こんじきの瞳が、宵闇の中でチカチカとまたたいたような気がした。

「あっ、潮路さん!」

「っ!?」

 まりかの声に、明はハッと我に返った。

(あれ、なんか今)

 パチパチと目をしばたいてみたが、カナは既に明から視線を外し、桟橋の先端に駆け寄るまりかの後を追っている。

 明もすぐに2人に追いつくと、一緒になって海面を覗き込んだ。

「ウミガメ?」

 宵闇の中、じっと目を凝らしてみると、桟橋から数歩先くらいの海面上に、亀のような頭と甲羅の一部が出ているのが見えた。

 まりかは、膝に手をついて身をかがめると、ごく自然にそのウミガメに話しかける。

「桟橋には、私たち以外は誰もいません。あと、この2人のことなら大丈夫です」

「そうですか。それでは」

 ウミガメが、人の声を発した。

 その途端、周辺世界が一気に幽世へと変化する。

「は?」

 幽世特有の、水を打ったような静けさ。

 そして、海水に濃厚なミルクが混じったような匂いのする、幽世の大気。

 まるで、オセロゲームで全ての石を一気にひっくり返した時のような急激かつ見事な変化に、明は思わず海に向かって構えをとった。

「えっ」

 ウミガメの姿は消えていた。

 代わりに、穏やかな微笑を浮かべたひとりの老女が、幽世の海面に立っている。

 呆気に取られる明をよそに、まりかとその老女は、幽世に似つかわしくない和気あいあいとした雰囲気で言葉を交わし始めた。

「お久しぶりです、潮路さん。突然、お呼び立てしてしまってすみません」

「良いんですよ、そのようなことは。お嬢様のお呼びとあらば、この潮路、東奔西走なんのそのでございますとも」

「潮路さん!」

 まりかが顔を赤らめて、制するように両手のひらを潮路に向けた。

「お、お嬢様呼びは止めてくださいと、もう何度も」

 もにょもにょとした声で話しながら、背後にいるカナや明の様子をそっと伺う。

「いいえ」

 潮路が穏やかに、しかしきっぱりと宣言する。

わたくしめにとっては、お嬢様は、いつまでもお嬢様のままなのです。お嬢様の方こそ、幼き頃のように、いつでも『ばあや』とお呼びしてくれてもよろしいのですよ」

「潮路さーん!」

 まりかがますます顔を赤らめて叫ぶが、潮路はニコニコと笑うのみである。

 まりかは、カナと明の方を向いてコホンと咳払いをした。

「えっと、紹介します。こちら、潮路さん。アオウミガメの大妖にして、龍神・蘇芳様の側近でもある方です」

「まあまあ、これはご丁寧に」

 潮路が、カナと明に対しても穏やかな笑みを向けた。

 潮路の外見年齢は、おおよそ50代前半といったところである。服装は、いわゆる女官のような、優美かつゆったりとしたデザインをしている。白髪混じりの濃緑色の髪は肩よりも短く、潮路の性格を表すかのように小さな顔の横でふんわりと揺れていた。

「潮路と申します。以後、お見知りおきを」

 カナと明に対し、潮路が丁寧に頭を下げる。龍神の側近というだけあって、その動作のひとつひとつに気品が滲み出ていた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 明は緊張しながらも、挨拶と簡単な自己紹介を済ませる。

「うむ。カナじゃ」

 一方のカナは、相変わらずのふてぶてしい態度を貫いている。

(なんなんだよ、この子は!? 相手は龍神の側近だぞ!?)

 その信じ難い言動に、明は目を剥いてカナを凝視した。

 まりかは、そんな明の胸の内を見て取り、それから潮路の方を向くと、顔の前で手を合わせて謝罪する。

「本当にごめんなさい、潮路さん」

「良いんですよ。カナ様のお噂は、かねがね聞いておりますから」

「あ、やっぱり龍宮城まで話は届いてるんですね」

 正直なところ、北斗とすばるにカナとの出会いの経緯を話した時点で、カナの情報はすぐに龍宮城に伝わるだろうことは分かっていた。それでも、龍宮城を始めとしたこの幽世の海で、カナは一体どのような噂のされ方をしているのか、それを考えると、まりかは最早苦笑するしかない。

 潮路は、海面を滑るようにして桟橋から距離をとり、桟橋前面の空間に向き合った。

「それでは、皆様方のために、特別製の〈門〉をご用意して差し上げましょう」

 そう言って、潮路は目を瞑った。

 束の間、耳が痛くなるほどの幽世の静寂が、その場を支配する。

 ふいに、心地の良い旋律メロディが、海面上を穏やかに流れ出した。

(一体、どこから)

 とても生き物から発せられているとは思えない、まるで天上の楽の音のような、その美しさ。明は最初の数秒、周囲を見渡してその発生源を求めていた。

 そして、それが潮路から発せられていることに気がつく。

(鼻歌、というより、ハミングだな)

 口元に微笑を浮かべて楽しそうにハミングするその姿は、まるで夢見る少女のように瑞々みずみずしい。

 潮路のハミングに誘われるように、桟橋前の海面が柔らかな光を放った。それから、光を帯びた海水がゆっくりとせり上がり、少しずつ枝分かれしていく。

「むう」

 カナが小さく唸った。

(すごい)

 明は一言も発することなく、ひたすら目の前の光景に目を奪われている。

 海水が生き物のようにその身をくねらせ、絡み合い、刻々と光の彫像を造り上げる。その蠱惑的な光景から目を離すなどということは、むしろ冒涜的ですらあるのではないかと明は感じる。

 やがて、あぎとを開いた巨大な光る龍の彫像が、桟橋前の海面上に形成された。同時に、ゆっくりと潮が引くときのように、美しいハミングが消えていく。

 歌い終わった潮路が、ゆっくりと目を開いた。

 満足そうにニコリと笑って、再び滑るような動きで海面を移動する。

「それでは、龍宮城へご案内いたします」

 荘厳な彫像を前に、優雅な仕草で腕以上の長さがある袖を振って、鋭い牙の向こう側を示す。

 龍の口の奥には、幻想的な光を帯びた螺旋階段が、はるか海の底へと続いていた。




 七色に明滅する夜光虫が漂う幻想的な空間を下ること、およそ10分。一行は、龍宮城が存在する幽世の海底に到着した。

 一行を先導していた潮路に続いて螺旋階段から出てきたまりかは、そこが龍宮城の前ではないことにすぐに気がついた。

「あれ? ここって、龍宮庭園ですよね」

 そう言って、キョロキョロと周囲を見渡す。

 一行が辿り着いたのは、現世うつしよの横浜の海では考えられない程に色鮮やかで美しい、まさに海の中の庭園とでも言うべきところだった。

 色とりどりの珊瑚やイソギンチャクはもちろんのこと、大小様々な魚やエビ、カニ、クラゲなどの海洋生物たちが、外敵のいない幽世の海でのんびりと過ごしている。中には、現世の海では絶滅の危機に瀕しているような貴重な生物の姿も見られ、さながら海洋生物たちの楽園とでも呼べる空間となっていた。

 問いかけるような視線を向けるまりかに対し、潮路があっけらかんと白状する。

「ええ。久しぶりに、お嬢様と共に庭園を散策したいと思い立ってしまいまして、つい」

 言いながら、片方の袖を前に伸ばす。

 念動力でも使ったのか、するするとひとりでに袖が捲られると、すらりとした青白い人間の腕が顔を覗かせた。

「蘇芳様には、内緒ですよ」

 人差し指をそっと、小さな唇に当てる。

 要するに、本来ならすぐにまりかを龍宮城に連れていくところを、まりかとの時間を少しでも楽しむために、わざとこの場所に〈門〉の出口を繋げたのだ。

「もう、潮路さんったら」

 側近らしからぬ潮路の好き勝手な振舞いに、まりかはついつい吹き出してしまう。

 潮路は穏やかで優しい性格をしているが、他方、頑固でこだわりが強く、自由気ままといった面も併せ持っている。

 まりかは、そんな潮路が子供の頃から大好きだった。

「では、参りましょう」

 潮路は、人間の腕をさっさと袖の中に隠して消してしまうと、一行を促して龍宮庭園の中を進み始めた。

「龍宮城なら、もうすぐそこだから」

 まりかは、後方をのたのたと歩くカナに声をかけてから、少し困ったような顔で明を見た。

「なんだか付き合わせてしまって、ごめんなさい」

「いえ、大丈夫です」

 明は手を振って短く答えたが、内心は別の意味で大丈夫では無かった。

(朝霧まりか……一体全体、何者なんだよ)

 龍神の側近と和やかに談笑しながら前を歩く女性海事代理士の横顔を、明は信じられない思いで凝視する。

 明がまりかの元を訪れた理由は、龍神に関する情報を少しでも得るためだった。それが、いざ蓋を開けてみれば、あろう事か龍神と師弟関係にあるという。しかも、側近との会話から察するに、その関係はどうやら幼少時から続いているらしい。

(そりゃあ、ガキの頃から幽世の海に出入りしてるなら、楽にできるのも当然だよな)

 思わず喉に手を添えながら、ここが海の中であることを極力意識しないように努める。

 東北地方の内陸部出身の明にとって、幽世の海中に生身で進入することは、常に緊張を伴う行為だった。幽世においては、物理法則よりも意志の力が重要となる。だから、その気になれば海の上を歩くことも、海の底に酸素ボンベ無しで長時間滞在することも、理論上は十分に可能である。

 とはいえ、実際には口で言うほど容易いことではない。いざ、幽世の海の底を歩いてみようとしても、水の中では呼吸ができないなどといった「常識」が、どうしても邪魔をしようとしてくる。だから、幽世の海で活動するには、それなりに経験を重ねる必要があった。

(多少は慣れてきたけど、あんな風に肩の力を抜いて雑談するのはまだ難しそうだな)

 ここで明は、隣を歩く少女のことを思い出す。

(今更だけど、この子は幽世の海なんか入って大丈夫なのか?)

 また機嫌を悪くするだろうと考え、カナに気がつかれないように、そっと横目で様子を伺ってみる。

「……」

 カナは、目深に被っていたカエルのフードを取っ払っていた。まりかと潮路の会話を聞いているのかいないのか、のんびりと周囲の美しい眺めを楽しんでいる。

(この子はこの子で、かなり謎なんだよな)

 長い白髪に、褐色の肌。金色の瞳と、全身を覆う青色の入れ墨。朝霧まりかとの血縁関係は無いか、あってもかなりの遠縁と思われるので、やはり霊力が強い知人の子供を何らかの理由で預かっているといったところだろう。

(でも、上手く言えないんだけど、なんか違和感があるんだよなあ)

 明はもう一度、チラリとカナを盗み見る。

(もしかして〈異形〉なのかも)

 明は、同じ海洋怪異対策室に所属する〈異形〉の先輩のことを思い浮かべる。口で表現するのは難しいが、〈異形〉の雰囲気は普通の人間のそれとは少し違う。それはおそらく、その存在が怪異、ひいては幽世に近いためだろう。

 その〈異形〉と、カナという少女が纏う異様な存在感が似ているような気もしたのだが、それでも明は、今一つしっくりこなかった。

 そんなことを考えているうちに、一行はいつの間にか龍宮城の門の前に到着していた。明にとっては、つい数時間前に訪れたばかりの場所である。

「カナ、これが横浜港の龍宮城よ」

「ふむ。これはなかなか、結構な住まいじゃな」

 カナが、感心した様子で龍宮城を見上げている。それにつられるように、明も改めて龍宮城の外観を見渡してみた。

 龍宮城から受ける全体的な印象は、中華風の建築物が少し和風に寄ったというものである。高校時代に修学旅行で訪れた沖縄の首里城に、似ていなくもない。

 明はそのまま、はるか遠い幽世の海面を見上げてみた。具体的な深度は不明だが、少なくとも100m以上はあるような気がする。これが現世の海ならば日中でももっと暗いはずなのだが、ここは幽世。人知を超えた力により、昼間の浅瀬と同じくらいの明るさを保っていた。

(俺は今、現世でいうとどの辺りに居るんだろう)

 ふとそう思ったが、すぐに意味の無い疑問であると頭の中から打ち消す。

 ここは、龍宮城が存在する、幽世の深部。現世と幽世との空間的な隔たりは、陸上や浅い海とは比較にならないほど大きいとされる。もしも、こんな場所で現世に「浮上」しようものなら、どこに出るのか分かったものでは無い。もっとも、そんなことをしようものなら、即座に水圧に潰されて終わりである。正確な浮上先の調査など、永遠に不可能だろう。

 明が顔を前に戻すと、ちょうど潮路が、瓦葺きの仰々しい門に近づくところだった。

「カナ様、菊池様。ようこそ、龍宮城へ」

 潮路が改まった口調で、カナと明の両名に対して丁寧にお辞儀をする。

 そして、少し困ったような笑みを浮かべて、まりかを見た。

「お嬢様。蘇芳様が、大変首を長くしてお待ちいたしております」

「……少し頭が痛くなってきたわ」

 まりかが、本当に頭痛がするかのように額に軽く手を当てる。

「どうした? 蘇芳というのは、お前さんの師匠なのじゃろう?」

「すぐに分かるわ」

 怪訝そうに訊ねるカナに、まりかは門を見たまま短く返した。

「蘇芳様。お嬢様を、お連れしました」

 潮路が、上品さを損なわない程度にハキハキとした声で、門の向こう側に呼びかける。

 重量感のある観音開きの門が、音もなく、独りでに開いていく。

(いよいよだな)

 明が、拳を握り締めてゴクリと唾を飲み込む。

 大人の手のひらほどの隙間が、門扉と門扉の間にできた時だった。

「まーりかー!! 待ちくたびれたぞーー!」

 成人男性のおちゃらけた声が大音量で響き渡ると同時に、かなりの重さがあるはずの門扉が一瞬にして全開となる。

「ぬお!?」

「っ!?」

「ああ、もう……」

「あらあら」

 突如として目の前に現れた龍神に対し、4人はそれぞれ違った反応を見せた。カナは驚き、明は固まり、まりかはため息をついて、そして潮路は微笑んだ。

「あの、蘇芳様」

「聞いたぞ、まりか! 余の力が遠く及ばぬ海で、怨霊と一戦を交えたそうではないか! お前という娘は、なんという危険なことをしでかすのか!」

 しかめっ面で一気にまくし立てると、今度は一転して、フニャリと表情筋を緩めてまりかをベタ褒めし始める。

「じゃがまあ、見事に撃退したそうじゃな。さすがは、まりか! 余は誇らしいぞ! こんなに大きく育って、この蘇芳、何も思い残すことは……くうっ!」

 そして、その逞しい腕で大袈裟に涙を拭って見せた。

「蘇芳様。お亡くなりになられては、我ら横浜の妖たちが困ってしまいますゆえ」

 潮路が微笑みを浮かべたまま、主人に対して至極真っ当な意見を述べる。

「ええい! 言葉の綾じゃろうが! いちいち水を差すでない!」

「蘇芳様。お客様がお待ちですよ」

 あまりにも傍若無人な蘇芳の振る舞いに対し、潮路はあくまで素っ気ない態度を貫く。

「ほお、客だと?」

 蘇芳が、ようやくカナと明の存在に気がついた。

 そして、その輝くような黄金こがね色の鋭い瞳が、明の姿を捉える。

「……男」

 蘇芳が、ボソリと呟いた。

 漏れ出た言葉の意味を掴みかねた一同は、とりあえず無言のまま、蘇芳の次の言葉を待つ。

 次の瞬間。

「男ーーーーっ!」

 蘇芳が、絶叫した。

 その大音量は、さながら稲妻のように、幽世の海をビリビリと震わせる。

「まりかがっ! 男を連れてきたーっ! 許すまじ!」

「へ?」

「違います! 落ち着いてください!」

「成敗してくれるわっ!」

 まりかの制止も聞かず、明に飛びかかろうとする蘇芳。

 しかし、その動きは、ある者によって即座に封じられる。

「ええい! 黒瀬くろせよ、離さんか!」

 蘇芳が拳を振り回しながら、バタバタと身を捩った。

「蘇芳様が頭を冷やされましたら、解放いたしますぞ」

 黒瀬と呼ばれた異相の老人が、背後から蘇芳の腰をガッチリと締め上げている。

「今すぐ離せいっ!」

 蘇芳は更に暴れたが、黒瀬は無言のまま、ますます腕に力を込めるのみである。

「それじゃあ、私たちは先に入って待ってましょうか」

 まりかが、あっけらかんとした笑顔で門の横にある通用口を開けた。

「大丈夫なのか?」

 通用口に手をかけながら、カナが訊ねた。門の前ですったもんだの大騒動を演じる龍神を、かなりのドン引き顔で見つめている。

「大丈夫よ。潮路さんと黒瀬さんがしっかり宥めてくれるから。あ、黒瀬さんもね、潮路さんと同じ側近なの」

「そうか」

 カナは、救いようがないとでもいうように小さく首を振ると、まりかに続いて通用口を抜けた。

 明も同じく、龍神に襲いかかられないうちにさっさと通用口を抜けてしまうことにする。

(もしかして、とんでもない存在に目をつけられちまったのかも)

 まりかを先頭に建物内を進みながら、不祥事の後始末のために龍神に敵視される羽目になったことについて、つらりつらりと考えてみる。

(損な役回りと思うのは簡単だけど、ここは貴重な経験ができて良かったと考えるべきなんだろうな、多分)

 事の発端はともかくとして、海上保安庁において、死と隣り合わせの状況下で任務を遂行する状況が生じるのは、何も海洋怪異対策室に限った話ではない。むしろ、特殊救難隊や機動救難士たちのことを考えれば、〈海異〉への対応など、比較をするのが失礼なくらい楽な任務であるとも思う。

 そういうわけで明は、組織で働く人間の悲しき宿命について、前向きに捉えることにしたのだった。




 およそ30分後。

 だだっ広い板敷の広間にて、まりかとカナ、そして明は、龍神・蘇芳と改めて向き合っていた。

 蘇芳の両脇には、側近である潮路と黒瀬が控え、主に潮路の進行により、その場の面々は1人ずつ簡単な自己紹介を済ませていく。

 最後に明が、龍神や側近たちに対して、これまでの経緯をかいつまんで説明した。

「なーんだ、さっきの小僧か。とんだ怒り損だったわい」

 明が話し終えた途端、蘇芳が盛大な悪態をついた。

「まりか以外の人間の顔なんぞ、いちいち覚えとらんからな。悪く思うでないぞ」

 籠のような形をしたラタン調の寝椅子でだらしなく寛ぎながら、全く悪びれていない顔で言ってのける。

 蘇芳の外見は、完全に人間のそれだった。ただし、その名が表す通りの蘇芳色の髪と、軽く200cmは超えるだろう高身長については、ある意味人間離れしていると言えるかもしれない。

 おそらく膝以上の長さはありそうな美しい蘇芳色の髪は、金銀に輝く髪飾りを贅沢に使って、ざっくりと纏められている。服装は、中華風と呼べなくもなかったが、多分この龍宮城の独自のものだろう。

 何故なら、いっそ脱げば良いのではと突っ込みたくなるくらい、胸から腹にかけてが大きく開いているのだ。そして、首から下がる宝飾類が、ただでさえ逞しい胸筋を更に盛り立てている。

 明は、美丈夫という言葉が相応しい龍神・蘇芳の顔を見据えると、単刀直入に切り込んだ。

「つきましては、拳銃を返却していただくことは可能でありましょうか」

 本来ならば、形式ばった口上を長々と述べてから本題に入るべきところなのだろう。しかし、この龍神に対して礼儀を尽くすことに、果たしてどれほどの意味があるのか甚だしく疑問であるとの思いが、明の自己防衛本能を侵食しつつある。

 つまり、菊池明は半ばヤケクソになっていた。

 そんな明に対し、しかし蘇芳は大して関心を持っていないらしい。小さな欠伸をひとつすると、パタパタと片手を振った。

「まあ、そうじゃな。ここは、小僧の頼みを聞いてやらんこともないぞ」

「ほ、本当ですかっ」

 思わぬ返答に、明はつい前のめりになって問い返す。

「いや、待て」

 しかし、すぐに蘇芳が己の言葉を打ち消した。

「へっ?」

 戸惑う明を放置したまま、蘇芳は明後日の方向をぼうっと眺めて、トントンと額を人差し指で叩き始める。

「この数日というもの、なーんか忘れとるような気がしてのう」

 トン、トン、トン、トン。

 トンッ。

「あ」

 ふいに、蘇芳が上半身を起こした。

 それから、眉間に激しく皺を寄せて、何故か明の顔をまじまじと見つめる。

「あの、蘇芳様」

 まりかが、少し不安そうに蘇芳に呼びかけた。

 潮路と黒瀬も、主君の不可解な挙動に怪訝そうな表情を浮かべている。

 当の明はというと、まるで蛇に睨まれたカエルのような心持ちで、目を逸らすこともできず、背に冷や汗を伝わせながら龍神の強烈な視線を全身全霊で受け止めていた。

 そして、たっぷりと1分は経過した頃。

「おお! ようやっと、思い出したぞ」

 そう小さく叫ぶと、パチンと指を鳴らした。

「!?」

 直後、明と蘇芳の間に、一振ひとふり直刀ちょくとうが出現する。

「か、刀!?」

 その直刀がゆっくりと、明に向かって下降する。

 明が思わず両手を差し出すと、直刀はそのまま両手の中に収まった。

「人の子、菊池明よ。汝に命ずる」

 更に戸惑う明に対し、これまでとはまるで別人のような風格と厳粛さを漂わせて、蘇芳がそれを告げる。

「遥か遠方、余の勢力圏の辺境に位置する岩礁地帯に赴くがよい。そして、一体の凶暴化した怪異を退治せよ。さすれば、汝の望みを叶えようぞ」

 蘇芳が口を閉じると、広間に沈黙が下りた。

 明は、蘇芳の黄金色の瞳から目を離せぬまま、直刀に触れる自分の指が酷く冷ややかであることを、どこか遠くの出来事のように感じている。



 この時の明には、運命の歯車がとっくに回り始めていたことなど、知る由もなかった。

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