第12話 横浜港の龍神〈一〉

 とある夕刻、象の鼻桟橋を臨むビルの3階で、朝霧まりかは事務所内を掃除していた。

「明日はどうやって過ごそうかしら」

 戸棚の上を水拭きしながら、来たるべき休日の過ごし方について独り頭を悩ませる。

 今日は金曜日。退勤前に事務所内を整理整頓するのはいつもと同じだが、次の日が休日の場合は、更に30分程度の時間を確保して掃除を実施することにしていた。

 まりかは水拭きを終えて脚立を片付けると、今度はモップを手にして、普段よりも丁寧に床掃除を始める。

 伊豆大島でカナと出会ってから、早いもので2ヶ月が経過しようとしていた。季節は春へと移り変わり、山下公園の草花の精霊たちも、少しずつ眠りから目覚めている。

 そして、まりかとカナとの同居生活についてだが、まりかの創意工夫と忍耐により、最近になってやっとライフサイクルが安定しつつあった。

 平日、まりかの仕事中は、昼食時を除いて4階の自宅部分に引きこもらせている。意外にもカナは、独りきりで外出しようとしたことが一度も無い。その代わりに、暇つぶしの道具やスイーツを多大に要求してくることが、まりかの目下の悩みとなっている。

 そういうわけで、休日ともなれば、まりかはカナを連れてあちらこちらの観光名所を回っていた。

 先週は、横浜ランドマークタワーの展望フロア。その前の週には、赤レンガ倉庫。超高層ビルのとてつもない高さに興奮し、そこかしこで売られている多種多様な食べ物に舌鼓を打ち、これまでのところ、カナは横浜の街を大いに満喫している。

(そうなると、いよいよコスモワールドデビューということになりそうね)

 ただでさえ、あのデジタル時計のついた観覧車は目立つのだ。カナが行きたいと言い出すのも、時間の問題だろう。もし連れて行ったら、全アトラクションを制覇するとかそんなことを言い出すに違いない。それに付き合うのは大変そうだが、それが嫌だとは思わなかった。

 掃除を終えて、コーヒーメーカーを片付けながら、まりかはコスモワールドの思い出を振り返る。

 コスモワールドに連れていってくれたのは、両親だけではない。白灯台の付喪神・すばると、赤灯台の付喪神・北斗の2人と一緒にジェットコースターに乗ったこともあるし、とまりかの3人で観覧車に乗ったことだってある。

 返す時が来たのだと、まりかは思う。今度は、自分が誰かを楽しませる番なのだ。

「よし。そうと決まれば、今夜は早めに寝なきゃね」

 一段落してデスクに戻り、受信メールをチェックする。急ぎの用件が舞い込んできていないことを確認すると、さっさとウィンドウを閉じてノートパソコンの電源を落とした。

 最後に、デスクの掃除と整理整頓を始めようとしたところで、事務所の電話が鳴り響く。

「はい、朝霧海事法務事務所です」

 ワンコールが鳴り終わる前に、サッと受話器を取って応答した。

「……ええ、はい」

 相手が目の前に居るわけでもないのに、ついつい頷いてしまう。まりかの癖のひとつである。

「……そういうことでしたら、階下まで来ていただければ……はい、では後ほど」

 まりかは最後に大きく頷くと、電話機のフックスイッチを静かに指で押して受話器を置いた。

「少しだけ空けるけど、すぐに戻るから」

 水槽の金魚たちに声をかけた上で、玄関に向かう。

 電話の主は、父の代からの取引相手だった。なんでも、たまたま事務所の近くに来る用事ができたため、本来は事務所あてに郵送するつもりだった書類を、直接事務所に持参することにしたらしい。

 もう少し早めに電話をかけてくれても良いのにと思いつつ、昔馴染みの感覚を持ち続けてくれているということでもあるのだろうとも考える。

 長時間の立ち話をしないようにせねばと肝に銘じながら、扉を開けようと手を伸ばした。

 ピーンポーン。

 間の抜けたインターホンの音が、まりかのすぐ横で鳴り響く。

「えっ」

 一瞬、さっきの電話主が早くも事務所に辿り着いてしまったのかと焦ったが、モニターを見てすぐに、全くの別件であることが分かった。

(――これって)

 モニターに映る人物を見て、まりかは眉をひそめたものの、すぐに応答する。

「はい、どちら様でしょうか」

「あの、海上保安庁の者なのですが」

(やっぱりそうだ)

 まりかはため息をつくと、扉を開けてその人物と対面した。

「事前連絡も無しに、どのようなご用件でしょうか」

 言葉に棘を含んでいる自覚はあるが、この場合は全面的に相手に非があるので、このくらいは許されるだろうと考えている。

「それについては、非常に申し訳ないと思っております」

 相手は謝罪の言葉を口にして、落ち着いた動作で証票を広げると、名乗りと用件を述べ始めた。

第三管区だいさんかんく海上保安本部かいじょうほあんほんぶ、海洋怪異対策室の、菊池と申します。本日は、海の怪異について何かしらのお知恵をお借りできればと考え、伺わせていただきました」

 菊池と名乗った海上保安官は、男性だった。歳の頃はせいぜい20代半ば、まりかと大して変わらないように見える。制服らしきものを身につけているが、まりかが知る一般的な海上保安官の制服とはデザインが全然違った。

 パッと見で共通しているのは、色が青系統であることと、頭に乗せたマリンキャップに付いたコンパスマークくらいである。銀色の金具と飾り紐の付いたマントの下は、詰襟のブレザーとスラックス。足元には、綺麗に磨き上げられた革靴を履いている。

「……どうぞ、お入りください」

 ほんの一瞬だけ追い返そうかと考え、止めておくことにする。今この瞬間にも、先ほどの電話主が階下でまりかを待ち侘びているのかもしれないのだ。これ以上、時間を無駄にするわけにはいかない。

 それに、この事務所には心強い味方が3人もいるのだ。

「実は、事務所の外に急用がありまして。数分で戻りますので、少々お待ちください」

 まりかは応接用のローテーブルではなく、書棚の前に置いてある作業机に菊池を案内した。

「お忙しいところ、本当に申し訳ありません」

 菊池は恐縮した様子で帽子とマントを脱いでから、折りたたみ椅子に静かに腰かける。

 その様子を見届けるのもそこそこに、まりかは急ぎ足で玄関に向かった。

『3人とも、よろしく』

 水槽の横を通り抜ける際、菊池に気付かれないように小声で金魚たちに声をかける。

 まりかは階段を下りながら、職員不在の事務所内における彼の振る舞い次第では、今後一切の海洋怪異対策室への協力を拒もうと決心した。




 事務所の扉が完全に閉まった途端、菊池あきらは脱力して作業机に突っ伏した。

「どうして俺が、こんなことしなきゃならねえんだよ」

 絶望的な表情で大きく息を吐いて、両手で頭を抱え込む。

 アポ無しで押しかけることが無礼千万な行為であることくらい、明にも分かっている。あの海事代理士の女性には言わなかったことだが、実は何度かこの事務所に電話をかけてみたのだ。しかし、間の悪いことに何度かけても通話中だったため、やむを得ずそのまま事務所に出向いたという次第である。

(室長も、あんな案件蹴っちまえばいいんだよ)

 明は、海洋怪異対策室室長の厳つい顔を思い浮かべて、陰鬱な気分を一層深める。

 完全に手詰まりの状態であると報告した明に対して、朝霧海事法務事務所の存在を教えたのは室長だった。

『まだ若いが、相当の霊力と技術を持っているらしい。彼女なら、解決の糸口を見い出せるかもしれん』

 有無を言わさぬ口調でそう断言されてしまうと、まだ下っ端職員に過ぎない明としては、案件を投げて定時退庁するという訳にはいかなかった。

 自衛隊ほどでは無いにせよ、上意下達が基本となっているこの組織においては、自らの意思に反した行動をとらねばならない場面も少なくない。なかなか世知辛いが、明としては、あの海事代理士の女性にわざわざそんな事情を話す気は無かった。

 組織外の人間からしてみれば、明が命令されたのかどうかなど、全くもって関係の無い話である。

(あれは、どう考えても怒ってたよな)

 明は、身体を起こして事務所内を見渡してみる。

 事務所内には、明しか居ない。数分で戻るとは言っていたが、それにしたって不用心では無かろうか。ましてや、彼女は間違いなく、明に対して最悪な印象を抱いている。そんな人間に、よりにもよって法務事務所の留守を任せるものだろうか。

(もしかすると、少しくらいなら事務所を空けても差し支えないと信じるに足る何かが、この事務所にはあるのかもしれないな)

 明は、壁にかかった戦時徴用船の絵画や結索けっさく標本を、数秒ずつ凝視してみた。

「……なんもねえな」

 額縁の裏にまじないの類が仕込まれているのはよくある話だが、こうして見た限りでは特に変わったところは感知できない。

 明は、額縁から視線を外して小さく欠伸をした。

(額縁を裏返して、直接確認する方が早いんだけどさ)

 とはいえ、誰にも見られていないことを理由に、事務所内の物品を勝手に動かすような真似をするつもりは無い。

(十中八九、協力は断られるだろうな。そりゃあそうだ。さっさと引き下がって、やっぱり無理でしたって報告して退庁してやろう)

 今日は金曜日なのだ。明日も出勤の予定は無いし、早く帰って映画を観るなり読書をするなり、いつもより夜更かししてのんびり過ごしてやろうと意気込んでいる。

「ん?」

 明は、目をしばたいた。

 水槽内をゆったりと泳いでいる金魚たちが、こちらを見ていた気がしたのだ。

『ヌシ! 今日は煎餅を持ってきてやったぞ!』

 明の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。

 ヌシと呼ばれていた、歳経た鯉の大妖。外部の攻撃的な怪異や妖たちから池の生き物たちを護っていた、正にヌシというべき存在だった。

「もしかして」

 少し迷ってから、席を立ってゆっくりと水槽に近づく。

 水槽には、3匹の金魚がいた。派手な模様が2匹と、地味な模様が1匹。明には金魚についての詳しい知識は無かったが、その大きさ、そして妖力の高さから、おそらく何十年も生きているだろうことが予想された。

(やっぱり、怪異化してる。しかも、3匹全員だ)

 金魚たちの額に小さな角が生えているのを見つけて、明は口元を緩ませる。怪異化した動物の全てに角が生えるという訳では無いので、角が生えた動物を見つけると、明はなんだか得をした気分になってしまう。

 もっとも、このことは誰にも話したことは無い。そして、これからも話すつもりは全く無い。

(なるほど、みっちり監視されていたわけか)

 明は心の中で苦笑すると、身をかがめて目線を水槽の高さに合わせた。

「えっと、初めまして。菊池明といいます」

「……」

 返事は無い。

 明は、そのまま金魚たちに話しかける。

「今日は、突然押しかけてきて、本当に申し訳ないと思ってる。多分、朝霧さんとの話はすぐに終わると思うし、俺はすぐにここを出ていく。もちろん、朝霧さんが戻ってくるまでは何もせず大人しく待っているつもりだ。だから、安心してほしい」

「……」

 3匹のうち、地味な色をした金魚が、正面から明を

「ごめんごめん」

 普通の金魚とは明らかに異質な、圧を感じさせるその視線に、明は慌てて水槽から距離をとる。

(あの妖力の高さなら、変化へんげもできるかもしれないな)

 もっとも、明には絶対にその姿を見せないだろうが。

 明は水槽に背を向けると、作業机に戻ろうとした。




 時を遡ること数分前。

「おいっ、起きんか! このっ!」

 事務所のひとつ上の階、まりかの寝室のベッドの上で、カナは動かなくなったポータブルDVDプレーヤーと格闘していた。

 ちなみに、今のカナは全裸である。パーカーはもちろん、あの腰布すら身につけていない。

「ええいっ! もういいわいっ」

 ボタンを連打し、背面を叩き、それでも反応しないプレーヤーを投げ出すと、叫び声を上げてベッドの上で大の字になる。

「うええ、暇じゃあ」

 パタリと倒した腕の先には、まりかから与えられたマンガが何冊か平積みされている。なんでも、吸血鬼ヴァンパイアと吸血鬼ハンターのコンビが主役のコメディということであるが、残念なことに人間社会の諸事に明るくないカナにとって、この漫画におけるコメディの文脈を捉えることは極めて困難だった。

(続きが早う観たい)

 ぼけっと天井を眺めながら、直前まで観ていた外国製ホラー映画の、カナにとっては抱腹絶倒だった場面の数々を思い起こす。

(まりかは、あとどのくらいで戻ってくるんじゃ)

 眼球だけを動かして部屋の時計を確認したが、最低でも30分はかかるだろうと思われた。

「そんなに待てるかっ!」

 カナは勢い良く起き上がると、壊れたプレーヤーを掴んで寝室を出て、玄関とは反対方向に足を向けた。

(昼食時以外は来るなと言っておったが、時間も時間じゃし、たまには良かろう)

 物置として使われている空部屋に入り、段ボール箱や衣装ケースの間を通り抜け、普段は使用されていない、階下へと繋がるもうひとつの扉を開ける。

(まーた服を着ろと怒るんじゃろうが、わしとあやつしか居らんのだから別に良いじゃろう。あ、金魚たちもおったな)

 まりかに貰ったパーカーによって衣服に対する印象が激変したとはいえ、未だカナにとって、服を着るというのはそれなりに煩わしい行為だった。あのパーカーに関しても、肌触りやデザインに関しては非の打ち所は無いのだが、やはり長時間着ていると、どうしても暑いと感じてしまう。

 そもそも、あの腰布ですら、やむを得ず身につけているに過ぎない。カナにとっては、全裸こそが正義なのである。

 カナは3階の扉を開けて、書庫として使われている部屋をスタスタと通り抜けると、事務所に繋がる扉を大きくノックした。

「おい、まりか! 映画が観れなくなった! どうにかしろ!」

(扉を開ける前にちゃんとノックするわし、えらい!)

 カナは小さな拳でドンドンと扉を叩きながら、得意気な顔でまりかの返事を待ち構えた。




 菊池明が作業机に戻ろうとしたその時、突然、事務所の奥の扉がドンドンと叩かれ出した。

「おい、まりか! 映画が観れなくなった! どうにかしろ!」

「こ、子供!?」

 思いもよらぬ出来事に、明はその場で動きを止めて慌てふためく。

(俺が声をかけるのは、不味いか?)

 もしこれが屋外だった場合、赤の他人である自分が知らない子供に声をかけるのは、完全に御法度である。しかし、この状況で無言を貫くことが果たして適切な行動と言えるかどうか、明は必死で頭を巡らせる。

(さすがに朝霧さんの不在くらいは、伝えても問題無いよな?)

「おらぬのか!? 開けるぞ!」

 そうこうしているうちに、痺れを切らしたカナが扉の取手に手を伸ばす。

 明は慌てて叫んだ。

「あ、朝霧さんは不在で!」

 バターン!

 カナが、力任せに扉を開け放った。まりかが見ていたら、もっと扉を大切に扱えと諌めたことだろう。

「は?」

「んん?」

 ガタン。

 ポータブルDVDプレーヤーが、カナの手を離れて床に落ちる。

 明とカナは、しばし呆然と見つめ合う。

 こうして、いくつものスイスチーズの穴を潜り抜け、海上保安官・菊池明と人魚・カナは、奇跡的な対面を果たしたのだった。




「はあ。思ったより、話が長引いちゃった」

 まりかは、とじ紐付きの角2封筒を両腕で抱えながら、テンポ良く階段をかけ上る。

(事務所にお迎えしてたら、更に話し込むことになってただろうなあ)

 あのエリカと親子をやってきただけあって、他人の長話に付き合うこと自体はそこまで苦痛とは感じない。それでも金曜日の終業間際にそれをされるのは、いくら何でもごめん蒙りたいと感じるのが人情である。

 あと数段で、階段を上り終えるという時だった。

「まりか様!」

 まりかの前に、水槽で泳いでいたはずのトネが現れる。

 それも、酷く取り乱した様子で。

「トネ!? 事務所の外に出てくるなんて、一体何があったの!?」

 普段、3匹の金魚たちが事務所の外に出ることは、まず無い。怪異化しているとはいえ、金魚たちにとって水槽から離れ過ぎることは、そのまま生命の危機に直結する。

 それに、金魚たちにはまりかがいた。まりかが色んな話しをしたり、色んな食べ物を買ってきてくれるだけで、金魚たちは十分に満ち足りているのだ。

 つまり、これはかなりの異常事態が起こっていることを示している。

(まさか、あの海上保安官!)

 真っ先に菊池明を疑ったまりかだが、トネの言葉がすぐにそれを否定した。

「そ、それが、カナ様が……!」

「っ!」

 まりかは数段飛ばしで一気に3階まで辿り着くと、俊敏かつ無駄の無い動作で事務所の扉を開けて身体を滑り込ませる。

「!!!!」

 信じられない光景が、目に飛び込んできた。

「どうか、お止め下さい!」

「まりか様がお怒りになってしまいます!」

 キヌとタマが、オロオロとカナの頭上を飛び回っている。

「痛っ! ちょっ、まっ」

 菊池明が、事務所の隅で頭部を庇いつつ、カナとの対話を試みようとしている。

「ぬおりゃーーー! このヘンタイ、ヘンタイめがぁ!」

 そしてカナは、疑いようもなく全裸だった。

 大事なところが丸見えの状態で、書棚の蔵書を次から次へと明に向かって投げつけている。

 まりかは、事務所の奥の扉の前にポータブルDVDプレーヤーが落ちているのを見て、全ての事情を察した。

「ど、どうしましょう」

 トネがおずおずと、まりかに訊ねる。

 まりかは、何も言わない。

 トネは、まりかの顔を覗き込んだ。 

「……」

「まりか様?」

 心配するトネをよそに、まりかは無言を貫いたままカナに向かって足を踏み出す。

「これで、トドメじゃあ!」

「あ、それは!」

「カナ様、それだけは本当にお止め下さい!」

 凶悪な笑みを浮かべたカナが手にしたのは、枕の代わりに使えそうな程の分厚さがある加除式の法令集だった。

 加除式とはその名の通り、内容に変更が生じたページのみを加除さしかえすることにより、丸ごと1冊を買い直すことなく最新の情報を保つことを可能とする書籍の方式である。

 加除式の書籍は、扱いやすいようにバインダー方式が採用されている。それはつまり、乱暴に扱えば容易に空中分解するということを意味する。

「くらえーー!!」

 カナが雄叫びを上げながら、重たい法令集を力いっぱい頭上に振り上げた。

 その時。

「ひっ」

 カナの鼻先スレスレに、〈夕霧〉の杖先が突きつけられる。 

 痺れる両腕を上げたまま、カナは恐る恐る〈夕霧〉の持ち主に視線を向けた。

「……ふふっ」

 〈夕霧〉を構えたまりかが、ニッコリと笑う。

「そ・こ・ま・で」

「……はい」

 笑顔という名の無言の圧力に、カナはあえなく降伏したのだった。




 およそ10分後。

 まりかは応接用のソファに腰かけた菊池あきらの前に、ドリップパックで淹れたコーヒーを差し出した。

「本当に、本当にごめんなさい。完全に私の監督不足だったわ」

「いえ、もう気にしないでください。元はと言えば、こんな時間に押しかけてきた俺が悪いんですから」

 明はポケット六法の角が当たった側頭部をさすりながら、苦いブラックコーヒーを喉に流し込む。本当はスティックシュガー2本分程度の甘味が欲しかったが、そのような事を言えた立場でもないので、ここは彼女の誠心誠意をありのままに受け入れておく。

 ローテーブルから少し離れたところでは、カナという名前の少女が、緑色のパーカーを着せられた上で床に正座していた。 

「海上衝突予防法第五条。船舶は、周囲の状況及び……」

 子供には少々重たそうな法令集を膝の上で広げ、まるで読経でもするかのような調子でボソボソと条文を読み上げている。

「うんしょ」

「こらしょっと」

 書棚の周辺では、人型に変化した金魚たちが互いに協力し合いながら片付けをしている。

「軽い雑誌類だけをまとめてくれれば十分だから。終わったら、水槽に戻って休んでてね」

「はい、お任せ下さい」

 まりかは金魚たちに労いの言葉をかけると、小さく息を吐きながら明の向かいに腰かけた。

「それでは、改めまして。朝霧まりかです」

三本部さんほんぶ海洋怪異対策室の、菊池あきらです」

 まりかは穏やかに自己紹介をしながら、正面に座った海上保安官の様子をさり気なく観察する。

 完全なる不可抗力により全裸のカナと対面した挙句、何十冊もの本や雑誌を投げつけられるという災難によるショックからはほとんど立ち直ったらしい。時折、側頭部を押さえているのが気になるが、治療費の類いは一切必要ないと強い口調で宣言されてしまったため、まりかとしても、これ以上は詫びについては言わないことにしている。

 次にまりかは、菊池明の人物について考える。

(カナには、特別な興味は無さそうね)

 まりかが真っ先に心配したのは、明がいわゆる小児性愛者である可能性だった。しかし、これまでの明の表情や視線の動きから、その可能性はほぼ無しと結論づけている。

 ついでに言えば、まりかに対しても特に個人的な興味は抱いていないようだった。

(海保にも、こういう温和で慎ましいタイプの若い男の人がいるのね)

 ここに来てようやくまりかは、この海上保安官に対する警戒を緩めることにする。

 実の所、まりかが菊池明に対して厳しい目を向けていたのは、何も終業間際のアポ無し訪問だけが理由ではない。

 それは、10才頃に起こった出来事。週末にクルージングを楽しんでいた朝霧家の前に巡視艇が現れ、臨時検査を受けるように要求してきたのだ。

 それ自体は法的根拠があっての行為なので、何も問題は無い。しかし、その時の海上保安官たちのありえない不手際が、幼いまりかの記憶と心に、鮮明に焼き付けられることとなった。

『パパの大事な物なのに、海に落とすなんてひどい!』

 巡視艇から差し出されたタモ網に、まりかの父・利雄の小型船舶操縦士の免許証とクルーザーの検査証書を入れたところ、あろうことかタモ網ごと海中に落としてしまったのだ。

『いやあ、すみません。すぐに拾いますので!』

 重要書類を落としたというのに大して悪びれもしない海上保安官。その男の部下らしき若い男性は必死に謝っていたような記憶もあるが、とにかくこの一件により、海上保安庁に対するまりかの印象は、極めて悪いものとなってしまった。

(それでも、少なくとも目の前の彼は、あの時の海上保安官とは違う)

 あの出来事から、15年以上も経つのだ。もうそろそろ、過去に抱いた印象を引き摺り続けるのは止めるべきだろう。

 まりかはスッと背筋を伸ばすと、改まった口調で明に語りかけた。

「菊池さん」

「はい」

 菊池が、緊張した面持ちでまりかを見返す。

「先ほどは、あの子がとんだご迷惑をおかけしました。必ず協力するというお約束はできませんが、それでもよろしければ、お話だけでも聞かせて下さい」

 まりかの言葉に、菊池が意外そうな顔をした。それからホッとした様子で、軽く頭を下げる。

「はいっ、それだけでも十分過ぎるくらいです。ありがとうございます!」

 こうして、菊池明はやっとのことで、その事件について朝霧まりかに話すことができたのだった。




「トモカズキ、ですか」

 菊池明の説明に、まりかは顎に手を当てて考え込む。

 共潜トモカズキとは、海の中に現れる怪異のひとつである。目撃者が海女あまなら海女の姿に、潜水士なら潜水士の姿にといったように、目撃者そっくりの姿に変化へんげをし、人間を惑わそうとしてくる。その正体は時と場合によりけりで、悪戯好きな海河童が変化しただけということもあれば、蛤の大妖が見せた幻だったという事例、そもそも原因が不明といった場合も少なくない。

「で、そのトモカズキが、海中転落した拳銃を持ち去ったと」

「ええ。お恥ずかしながら……」

 事の発端は、こうである。

 それは、赤レンガ倉庫のすぐ隣に位置する、海上保安庁の専用岸壁で起こった。

 なんと、岸壁に停泊中の巡視船から、とある乗組員が拳銃を海に落としてしまったという。

「当然、銃規制が厳しいこの国で、落とした拳銃をそのまま放置という訳にはいきません。すぐに潜水士たちが岸壁前の海に潜って、拳銃の捜索に当たりました」

 そして、トモカズキに遭遇したというわけである。

 明は、説明しながら側頭部の辺りを指さす。

「海の怪異、海異かいいへの対策として、当庁の潜水士は全員、判別しやすい位置にドーマンセーマンの護符を縫いつけています。それが、トモカズキには無かったわけです」

 そして、トモカズキの手には、まさに探していた拳銃が握られていたという。

「そのトモカズキは、これ見せよがしに拳銃を掲げたかと思うと、さっさと背を向けてどこかへ消えてしまったそうです」

 海異が絡んだことにより、この事案は完全に海洋怪異対策室の担当となってしまった。可及的速やかに拳銃を取り戻すようにという本部長直々のありがたい命令が下り、他部署の不祥事の後始末をするべく、菊池明は手がかりを求めて幽世かくりよの海へと向かったのだった。

「それで、ご相談というのは、トモカズキの居場所についてでしょうか」

「いいえ」

 まりかの問いに、明は小さく首を振った。

「実は、既に拳銃の在処は突き止めているのです」

 そして、心底困り果てた顔で、明はその話を切り出したのである。




 海上保安庁の業務は、多岐に渡る。

 数ある業務のうちのひとつに、灯台や灯浮標の保守管理という、航海の安全を守るためのとても重要な仕事が存在するが、その「灯台」には、横浜北水堤灯台、通称赤灯台のような小さな灯台も含まれている。

 今日の昼過ぎのこと。菊池明は海洋怪異対策室の室長の指示により、赤灯台の付喪神・北斗の元を訪ねた。

『横浜北水堤灯台の付喪神たる北斗よ、本日は我らの……』

『あ〜、そういうのもういいから。いつも俺らの保守管理、ご苦労さん』

 そんなやり取りの後、明は簡単に事情を説明すると、見返りとして「供物」を北斗に手渡した。

『うおお! カラスミと日本酒じゃねえか』

『これで、龍宮城への〈門〉を開けていただけるでしょうか』

 明が、北斗を訪ねた目的。それは、横浜港の龍神に助力を嘆願するためだった。

「うちの室長曰く、横浜港の龍神は、怪異や妖たちだけではなく、時には人間に対しても知恵や力を貸してくれる稀有な存在である、とのことです。実際、うちの室長は龍神に接見した経験が一度だけあるらしく、今回の件についても、礼節を尽くせば何かしらの助力が得られるだろうと言っていました」

(海洋怪異対策室の室長って、一体どんな人なのかしら)

 まりかはその人物像に興味を持ったが、それよりも今は明の相談事が優先なので、まずはそちらに集中する。

「それで、北斗さんに〈門〉を開けてもらったわけですね」

「え? あ、はい、すぐに開けてもらえました」

(この人、あの付喪神の名前知ってるんだな)

 もしかしたら知り合いなのかもしれないと、明は頭の片隅で考える。

『あいつ、面倒くさい性格してるからさ。なんつうか、まあ頑張れよ』

 「供物」を抱えて上機嫌な北斗に見送られ、明は〈門〉を通り、龍宮城が存在する幽世の海底へと進入した。

「抜けた先が龍宮城のすぐ前だったので、室長に教えられた通り、門扉を叩いて訪いを告げました」

 明は額に軽く片手を当てると、その後に起きた出来事をどう説明したものかと思案する。

「あの、どんなお話でも疑ったりしません。ありのままを話してもらえますか」

 まりかは、困惑した明を見かねて、そっと背中を押してやることにする。

「そ、そうですか。それでは」

 まるで心を読まれているようだと驚きつつも、まりかの言葉を信じ、龍神との嘘のような本当のやり取りについて語り始めた。

『ああ、あの人間の武器か? 余が持っておるぞ』

 姿を現すや否や、顔を薄い布で覆い隠したその龍神は、あっさりとした口調でとんでもない事を言い放ったのだ。

『なっ』

 唖然とする明をよそに、龍神は両の手のひらに、それぞれ金色と銀色の物体を出現させる。

『そ、それはっ』

『金色の拳銃と、銀色の拳銃。小僧よ、どちらでも好きな方を選ぶが良い』

『あっ、いえ、その……』

 この展開は一体何なのだとヤケになりそうになったが、仮にも明は海上保安官、司法警察職員の一員である。

 明は、座禅をする時の要領で心を落ち着かせると、慎重に言葉を選びながら、の返還を龍神に願い出た。

『どちらも、この下賎なる身が頂戴するには、至極勿体なき宝物ほうもつであると心得ます。つきましては』

『もうよい! つまらん! 人間なら少しくらい欲を出さぬか!』

 龍神は明の言葉を遮ると、両手から金銀の拳銃を消し去り、その場に渦を生成した。

『っ!』

『はるばるご苦労だったな。その土産は置いていけ。では、さらばじゃ』

 次の瞬間、渦が明を飲み込んだ。

 抵抗する間もなく、視界全体が泡立つ海水で満たされる。

『へっ?』

 あまりの急展開に頭が追いつくより前に、明は現世うつしよへと帰還していた。

 明は、ゆっくりと辺りを見回す。

『は?』

 明が立っていたのは、横浜ベイブリッジの真下、海のど真ん中だった。

 すぐ横には、巨大な橋脚。真上には、無骨な橋桁。

 ようやく状況を理解した明は、思わずこう叫んだ。

『なんっだよ、それ!!』

「……と、いうわけなのです」

 そう話を締めくくると、明は温くなったブラックコーヒーの残りを、一気に飲み干した。

 コーヒーカップをソーサーに置いて、まりかの反応を確認する。

「……」

 まりかは、片手を頬に当てて何かを考え込んでいる。

(これは、呆れられただろうなあ)

 龍神が相手とはいえ、仮にも怪異への対処を職務とする人間が、良いように遊ばれただけで終わったのだ。その上、身内だけでは解決に至らず、こうして民間人に泣きつく羽目になっている。

(せめて、危険に巻き込まないようにはしねえと)

 正直なところ、室長がこうも簡単に民間人への協力依頼を決めた理由が、明にはよく分からなかった。

 相手は、龍神なのだ。そんじょそこらの怪異や妖とは格が違いすぎる。付喪神だって、龍神の足元にすら遠く及ばないだろう。

 そのこともあって、明ははなから、まりかに助力を頼もうとは考えていない。せいぜい、龍神のご機嫌取りの方法についての耳寄りな情報でも手に入れば万々歳だと思っている。

 明は、背筋を伸ばした。

「朝霧さん。身内の恥を忍んで、伺います。どんなに小さなことでも結構です。何か、龍神に関する情報をご存知でしたら、教えていただければと」

「大丈夫です」

 まりかが、明の言葉をやんわりと遮った。

 すっくとソファから立ち上がると、未だにボソボソと海上衝突予防法を読み上げている少女の元に向かう。

「もういいわよ、カナ。お疲れさん」

「うええ」

 まりかが法令集を持ち上げると同時に、カナが正座を崩してぐにゃぐにゃと身体を倒した。

「ちょうど良い機会だから、カナも一緒に行きましょう。どっちみち、そろそろ顔を出さなきゃって思ってたのよ」

「ぬう?」

 カナが、話が見えぬという顔で、まりかを見上げる。

「あ、あの。行くってまさか」

「ええ。今から、龍宮城へご案内します」

 全く予想だにしなかった展開に、明はただただ、まりかを見つめることしかできない。

 そんな明の胸中を知ってか知らずか、まりかは何故か困ったような顔で笑って、その事実を告げたのだった。

「横浜港の龍神・蘇芳すおう様は、私のお師匠様なのです」

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