第11話 シルフィードの娘〈後編〉
いつ自分が生まれたのかは、覚えていない。気がついたら、そこに在ったというだけ。
来る日も来る日も風に乗って、時には独りで、時には他の精霊たちと戯れながら、上昇して、下降して、漂泊して、静止する。そんな毎日。
あの日、あの時までは。
「私ね、クルーザーのデッキで読書をする利雄さんを見つけたの。普段なら気にも留めなかったはずなのだけど、その時は私独りだったし、風も完全に止んでしまっていてね。他にすることも無かったから、興味本位で近づいてみたのよ」
クルーザーに降り立ち、内部も含めて隅から隅まで観察した後、デッキにいる人間の真正面に出て、その手に持つ物体の表面を凝視する。
『本に興味があるのかい?』
『きゃあ!?』
その人間は本を脇に置いて立ち上がると、少し上空へと逃げた
『驚かせるつもりは無かったんだ。ただ、精霊も本に興味を持つのかと思うと、つい嬉しくなってしまってね』
その人間は、おおよそ質量というものを感じさせない、透き通った身体を持った風の精霊に向かって、そっと手を差し出した。
『もし嫌でなければ、僕と話しをしてほしい。独りきりのクルーズにも、飽き飽きしていたところなんだ』
それが、当時20歳だった朝霧利雄との出会いだった。
「利雄さんったら、いきなり国際法の話なんかしてくるのよ。そんなの、精霊に分かるわけがないのに」
エリカは、その時のことを思い出してクスクスと笑う。
利雄は、本当にたくさんの事を知っていた。
海洋生物の分類について熱心に語る利雄を、
『人間って、どんなに小さくて取るに足らない物にも名前をつけたり、分類したりするのね』
『それは少し違う。この世界にはね、取るに足らない物なんか1つだって存在しないのだよ』
やがて日が傾き、辺り一面は恐ろしいくらいの夕焼け色に覆われた。
利雄は、水平線に沈み行く太陽を指さす。
『ほら、見ててごらん。一瞬だけ緑色に光るはずだ』
そして、太陽が完全に没する直前、赤い弧の端で緑色の光が輝いた。いわゆる、グリーンフラッシュと呼ばれる現象である。
その大自然の神秘に、
『こんなの、今まで全然気が付かなかったわ』
『この世界には、見ようとしなければ見えない物が山ほどあるんだ。僕だって、まだまだ見えてない物の方が多いさ』
その後は、ふたりで星空を眺めながら、様々な事を夜通し語り合った。何千年もの間、人類は星を頼りにして夜の海を渡ってきたこと。星屑のひとつひとつに名前がついていること。星座のこと。星物語のこと。そして、利雄自身のこと。
やがて、世界は朝を迎えた。同時に、ふたりの時間は終わりに近づく。
『残念ながら、僕はもう帰らなくちゃいけない。いつまでも海の上にいるわけにはいかないんだ』
『そんな、ひどいわ』
そう言ってから、初めて気がつく。自分は、この人間と離れたくないのだと。
そんな
『君さえ良ければ、一緒に来ないかい』
『一緒に? あなたと?』
利雄の顔が、真っ赤になった。恥ずかしさを押し殺しながら、必死で言葉を絞り出す。
『地上はごちゃごちゃしてるし、
利雄が、決意を胸に
『絶対に、退屈させない。共に、楽しい日々を送ろう』
『……』
ドクンと、無いはずの心臓が脈を打った。
生まれて初めて感じる暖かな気持ちが、妙な生々しさをもって全身に広がっていく。
反応が無いことに、これでは不十分だと感じたのだろう。利雄は叫ぶようにして、ついにその言葉を口にした。
『き、君が、大好きなんだ!』
大好き。それはつまり、利雄にとって
そして、
縦横無尽に
『私も』
朝日が、透き通った
『あなたが大好き』
その途端、朝日よりも強烈な光が
『っ!?』
『こ、これは』
やがて風のヴェールが解かれると、そこにはひとりの女性が出現していた。
キャラメルブロンドの髪に、陶器のように滑らかな肌。身につけるのは、白いシルクのドレスのみ。
その女性は、ふわりとデッキの上に降り立つと、ゆっくりと足を踏み出した。
1歩、2歩。
潮風が、キャラメルブロンドの髪をそよそよと揺らしながら通り過ぎていった。
『これで、あなたと触れ合えるわね』
こうして、人間の愛を得た風の精霊は、より強い魂と実体を兼ね備えた
『実は、ずっと君の名前を考えていたんだ』
利雄は、この生まれ変わったばかりの新しい恋人にエリカという名前を贈ると、一刻も早く就籍と婚姻の手続きを進めるため、すぐさま帰路に着いたのだった。
「これは、後から聞いたんだけどね。利雄さんったら、完全に一目惚れだったんですって」
エリカが、両手を頬に当ててうっとりとしている。
「いつ聴いても、素敵な話だわ」
同じくまりかも、両親の
「甘すぎて胃もたれするわいっ!」
その一方でカナは、ソファにだらしない格好で座り、ティーカップの取っ手に指を入れてクルクルと回していた。
(聞いているこっちが恥ずかしくなるような、とんだゲロ甘な話じゃ)
目の前に並んで座る母娘を見比べながら、ロマンチストなところはよく似ているなどと密かに評してみる。
(席を立つなら、今しか無さそうじゃのう)
この様子だと、エリカの
カナは、ティーカップをカチャンとソーサーに置くと、ぴょんと立ち上がって玄関に向かおうとした。
「馳走になった。この上なく美味であったぞ」
「ちょっと、どこ行くのよ?」
「そうよ。まだ全然、カナちゃんとお話できてないわ」
エリカが、ふわりとカナの前に立ち塞がった。
「ま、まだ何か用か」
カナは、エリカから視線を逸らした。先ほど感じた嫌な予感が、再びじわじわと頭をもたげる。
そして、その予感は見事に的中した。
「ねえ、まりか。カナちゃんとふたりで、お出かけしてきてもいいかしら。私の友達に、カナちゃんのことを紹介してあげたいの」
まるでおねだりでもするかのように、両手を合わせて自分の娘に頼み込む母。
「良いわよ。せっかくの機会なんだし、ふたりで楽しんできてよ」
そして、本人の意思を確認することなく、快く許諾する娘。
「ち、ちょっと待てい!」
カナは両手を前に突き出した。
「勝手に決めるでない! そもそも、偉大なるこのわしが
冷や汗を流しながら必死に牽制しようとするカナだが、エリカは全く意に介さない。
エリカは身をかがめると、カナの頬を両手で優しく挟み込んだ。ほのかなハーブの香りが混じった吐息が、カナの顔にかかる。
「カナちゃんったら、照れちゃったのね。カワイイわあ」
「ち、ちが」
カナは、助けを求める視線をまりかに向けた。
「カナ」
まりかは、その顔に諦念を浮かべて、ゆっくりと首を横に振る。
「大変だと思うけど、とことん付き合ってあげてね」
「それじゃあ、行きましょう」
エリカはするりとカナの背後に回ると、ひょいとカナを抱えて浮き上がった。
「へ?」
「夕方までには戻るわ」
「うん、気をつけてね」
「おい、待て」
カナはエリカの腕を振り解こうとしたが、華奢なカナが成人女性の体格に敵うはずが無い。
「なんだか、まりかの小さい頃を思い出すわあ」
エリカは、独り想い出に浸りながらカナの身体をますます強く抱き込むと、合図も何も無しに窓からビルの外に向かって飛び出した。
「!!」
みるみるうちに地面が遠のき、建物や車が豆粒のように小さくなっていく。
「あ、え」
恐らくだが生まれて初めての体験に、カナの感受作用がその働きを停止した。
「カナちゃん、もしかして空を飛ぶのは初めてかしら? 楽しんでくれると嬉しいわあ」
上機嫌なエリカの声が、まるで他人事のように遠くで響く。
(わしは、この
カナは、呆然と眼下の景色を眺めながら、やっとのことでそれを自覚したのだった。
「最初はね、『まりん』にしようと思ってたのよ。だって、いかにも横浜らしいじゃない?」
地上約106mの高みで、エリカは藪から棒に娘の名前の由来について話し始めた。
「それに、この塔の名前だってマリンタワーでしょ。絶対にみんなに覚えてもらえると思って」
「そうか」
「そしたらね、利雄さんが言うのよ。『まりか』の方が可愛いし、エリカと末尾の音が同じだから母娘っぽいって。それで、『まりか』と名付けることにしたの」
「そうか」
全く勢いの衰える気配のないエリカのお喋りに対し、カナは身の入らない相槌を繰り返す。
ここは、横浜マリンタワーのてっぺん。数時間前までのカナならば、こんな高所に登るなど断固拒否していただろう。しかし、エリカとの飛行体験により、今では高さに対する感覚が完全に麻痺してしまっている。
最初は、横浜イングリッシュガーデン。次に、三渓園。そして、港の見える丘公園。どの場所でも、草花の精霊たちにつつき回され、エリカと精霊たちの長時間のお喋りに付き合わされ、聞いてもいない利雄との思い出話を散々聞かされ、カナは疲労困憊の状態となっていた。
「まりかを引き取った後で、名付けたのか?」
延々と繰り出されるお喋りを聞き流すことにも限界を感じ、こちらからも話題を振ってみることにする。会ったこともない人間の男の話題には関心が持てずとも、まりかのことなら、むしろ知りたいことはたくさんある。
そういうわけで、カナとしては何気ない質問をしたつもりだったのだ。
「カナちゃん」
エリカが、小さく息を呑んだ。
浮ついた雰囲気は影を潜め、一転して真剣な表情でカナを見つめる。
「そう。もう、そんなことまで話しているのね」
そこで一旦、言葉を切った。少し考え込んだ後、ゆっくりと話し始める。
「まりかを引き取ろうと決めてから、実際に我が家に迎えるまで、半年もかかったわ。それでもね、名前だけは、引き取る前に私たち夫婦で決めさせてもらったの」
「ふむ」
人間社会の諸事に疎いカナとしては、赤子ひとりを引き取るのに随分と時間がかかるものだなという感想が浮かぶ。
ちなみに、まりかの普段の仕事についてのカナの認識は、「小難しい決まり事で結ばれた人間同士の関係を取り持って金銭を得ている」というものである。
なので、捨てられた赤子を受け持つにしても、七面倒臭い「手続き」とやらが必要なのだろうとカナは理解する。
「あやつは、赤ちゃんポストとやらに捨てられておったと言っておったが」
「っ!」
「む、どうした?」
エリカが、その美しい顔を歪めた。
カナの問いかけには答えず、まるで痛みに耐えるかのように長い睫毛を震わせる。
(聞き方が不味かったかのう)
実体を得て人間と変わらぬ生活を何十年も続けているとはいえ、無邪気な精霊であるエリカに、重大な物事に対する感受性が備わっているとは思わなかったのだ。
カナは、己の配慮の無さをちょっぴり反省し、エリカが再び語り出すのを黙って待つことにする。
しばらくして、はるか遠くの高層ビル群を眺めながら、エリカが静かに口を開いた。
「私も、それから利雄さんもね、あの子は託されたのだと思ってるの。そして、そのことを何度もあの子に伝えてきたわ」
憂いを帯びた若葉色の瞳が、茫洋と広がる灰色の大都市を映す。
「それでもあの子は、自分は捨てられたのだと、そう受け止めているのね」
哀しみを滲ませたエリカの声を聞きながら、カナもはるか遠くの高層ビル群に目を向けてみる。
この、どこまでも果てしなく続く街並みのどこかに、まりかを捨てた人間が暮らしているのかもしれない。
「いかなる事情があったにせよ、まりかがそう考えるのは当然じゃろうて。ましてや、生みの親は一切の素性を明かしておらぬというではないか」
「それは」
エリカは何かを言いかけ、すぐに口を噤んだ。
眉根を寄せて俯くエリカの表情から、どうやら何か明かせない事情があるらしいとカナは推察する。
(まあ良い。わしが力を取り戻しさえすれば、簡単に分かることじゃ)
過去を見透し、まりかの出生の秘密を解明する。まりかもエリカも、さぞかし喜ぶことだろう。その日が楽しみだと、カナは思う。
そのまま、数分間が過ぎた。そろそろ別の話題を振ってみようかと考え始めたところで、エリカが質問を投げかけてきた。
「カナちゃんから見て、あの子はどんな風に見える? 人間にしては、すごく霊力が高いでしょ?」
「むう、そうじゃな。まあ、人間にしては、そこそこ出来るやつじゃとは思うが」
素直に認めるのも癪なので、ここは適当な返事をしておくことにする。
「……」
「なんじゃ、何か言いたいことでもあるのか」
エリカは、顎に手を当てて何かを考え込んでいたが、やがて小さく息を吐くと、言葉を押し出すようにしてその話をカナに語り始めた。
「あれは、あの子が2歳半くらいのことだったわ」
まりかは、言葉の習得が早かった。そして赤子の頃から、怪異や妖の存在を当然のように認識していた。
それ自体は、そこまで珍しいことでもない。だから、幼いまりかが草花の精霊たちに挨拶したり、軽くじゃれ合ったりする程度なら、エリカも利雄もひとまずは容認していたのだ。
そんなある日、エリカはまりかを連れて、
『あっ。あそこにお姉さんがいるよ』
まりかは、とある茂みを指さしたかと思うと、エリカが止める間もなくそこに駆け寄った。
『うん、うん……ええっ、そうなの?』
追いついたエリカが茂みに目を凝らすと、確かにそこには、女性のような形をした幽体が蹲っている。
エリカは、信じられない思いでまりかを見た。
(こんなに存在感が希薄な幽体だというのに、どうして意思の疎通ができるの?)
通常、この世を彷徨う魂の生前の記憶と姿は、時間の経過と共に薄れていく。エリカのような強い力を持った精霊といえど、そのような魂から何か具体的な話を聞き出すのは、決して容易なことではない。
それを、人間の幼児が、いとも簡単に行っている。
(この子は、一体)
しかし、まりかの驚きの行動は、それだけに留まらなかった。
『それじゃあ、お姉さんにお魚さんを作ってあげるね』
まりかは、顔立ちすらも朧気なその女性の幽体に笑いかけると、目を瞑って両手を前に差し出した。
手のひらの上に、光の球が出現する。
(自身の霊力を、凝縮している? 教えたことなんか一度も無いのに)
唖然とするエリカの目の前で、光の球はその形を変化させた。
きゅるん。
まりかの小さな手のひらの上に、暖かな光を放つ小さな魚が出現した。
『この
まりかの言葉と共に、小さな光る魚がクルクルと宙を泳いで上昇する。女性の幽体が、灯火のようなその光に惹かれるようにして後を追う。
『ばいばーい!』
海のある方角に向かってふわふわと飛び去っていく魚と幽体を、幼いまりかは元気いっぱいに手を振って見送った。
我に返ったエリカは、がっしりとまりかの両肩を掴むと、物凄い剣幕でそのあどけない顔を覗き込んだ。
『まりかちゃん! あなた一体、何をしたの!?』
『ええ?』
顔を強ばらせて自分を凝視する母親を、幼いまりかは不思議そうに見返す。
『あのお姉さんが、海の底にちゃんと帰れるようにしてあげたんだよ』
『う、海の底って』
まりかの返答に、エリカの背筋が凍りつく。
(嘘でしょ、そんな)
『ママ、ひょっとして知らないの?』
エリカの衝撃などつゆ知らず、幼いまりかはフフンと得意気に鼻を鳴らすと、こう言ってのけた。
『いきとしいけるものはね、最期はみんな海の底に帰るんだよ。パパもママも、キヌもタマもトネもみーんな海の底に帰るんだよ!』
エリカは、身体の震えを抑えるかのように、胸の前で両の拳を強く握り込んだ。
「恐ろしかったわ。もう、私独りの力では、抑えられないと思った」
それっきり、エリカは黙ってしまった。
「それで、結局どうしたんじゃ」
痺れを切らしたカナが問いかけるも、エリカは答えない。
と思うと、突然くるりとカナに向き直り、ニコニコと笑いながらカナに近づいてきた。
「ねえねえ。カナちゃんって、本当はすっごく強くて偉い人魚さんなんでしょ?」
「なんじゃい、全く」
カナは大きくため息をついた。精霊との会話など、所詮はこんなものである。質問にはろくに答えず、聞いてもいないことを好き勝手に喋り散らす。そして、これでもエリカは、精霊としてはかなり話が通じる方なのだ。
「分かっておるなら、もうちっと丁重に扱わんかい」
カナは、つまらなさそうに吐き捨てる。
エリカが、クスリと笑った。
「何がおかしい」
「だって、カナちゃん。本当は、そんなこと望んでいないでしょう?」
「うっ!?」
カナの肩が小さく跳ね上がる。
一気に気まずさが湧き上がり、視線を明後日の方向に逸らした。
「あらあ、図星ね」
「やかましいわいっ」
エリカに背を向けて、盛大な悪態をつく。
これだから、精霊は苦手なのだ。そして、この
「カナちゃん」
カナの背中に、エリカが優しく声をかけた。カナは振り向きもしなかったが、エリカは構わず言葉を続ける。
「まりかのこと、よろしくね」
潮風が、カナの背後をふんわりと吹き抜けた。
カナは、ほんの少しだけエリカの方を振り向く。
「あの子に何かあっても、私の力ではあの子を助けられない。助けられるとしたら、カナちゃん、きっとあなただけよ」
「何故、そう思う」
問うたが、やはりエリカは答えない。
その整った顔立ちに、寂しそうな笑みを浮かべるだけ。
「お前さんは、何もかも説明不足なんじゃい」
「ふふっ、ごめんなさいね」
「自覚があるなら説明せんかい!」
ここは、地上約106m、横浜マリンタワーのてっぺん。その高みで共に語らうは、
カナを抱えたエリカがビルの屋上に降り立つのと、まりかが屋上の扉を開けるのはほぼ同時だった。
「随分と遅かったじゃない。市外まで行ってるんじゃないかって思い始めてたのよ」
まりかは、疲労困憊でフラフラのカナに駆け寄ると、その華奢な身体を軽く支えてやる。
「ふふっ、カナちゃんとのお喋りが弾んじゃって」
「どうせ、お母さんばっかり喋ってたんでしょ?」
「だってえ」
呆れ顔のまりかと、全く悪びれないエリカ。カナは母娘を見比べながら、これでは一体どちらが親なのか分からないものだと呆れ返る。
「それじゃあ、近いうちに本牧に帰るから」
ひとしきり言葉を交わしたところで、まりかが別れの挨拶を述べようとした。
「ちょっと待って」
エリカが、まりかの頭に手を伸ばす。
「お母さん」
まりかは、困ったような表情で手を避けようとした。
「子供じゃないんだし、もう大丈夫だって何度も言ってるじゃない」
「まりか。お願いだから、させてちょうだい」
エリカが、切なそうな顔で娘に懇願する。
「もう、分かったわよ」
まりかは、あっさりと抵抗を止めた。軽く目を瞑って、
エリカは、まりかの頭に優しく両手を添えると、その額にキスを落とした。
「『我が娘まりかに、
キスを落としたところから光の波が広がり、まりかの全身を包み込んで、そして溶けていく。
(なるほどな、こういうことじゃったか)
この光景を見て、カナはようやく納得した。
まりかの全身を溢れんばかりに満たす、精霊の加護。この状態はもはや、過量投与という言葉がふさわしい。害こそ無いとはいえ、これ以上の加護をどれほど重ねたところで、この世に蠢く禍いの全てからまりかを守り抜くことは、はっきり言って不可能だ。
(これが、親心というものか)
まるで
無邪気でお調子者で、遊ぶことしか考えていないような精霊が、人間の愛を得たことにより、こうまで変わるのだ。エリカの外見年齢は、せいぜいが20歳といったところ。ともすれば娘よりも若く見られそうな容貌をしているが、娘に向ける慈愛に満ちたその視線は、紛れもなく母親のものだった。
「ん、ありがと」
まりかは額に手を当てて、少し照れくさそうに礼を言う。
「それじゃあ、また来るわね」
エリカはカナに向かってパチッとウィンクを投げるかけると、その場でぴょんと飛び上がった。
シュルルル……
エリカの身体が半透明になり、ちょっとピンぼけして、煙のように解かれていく。
こうして朝霧エリカは、文字通り風となってビルの屋上から去っていった。
「や、やっと帰りよったわい」
エリカが屋上から消失したのを確認すると、カナはその場にへたりこんだ。
「お疲れさん」
「もう、二度とゴメンじゃあ」
まりかは、しょげかえるカナの頭をヨシヨシと撫でてやる。
(……久々にひとりの時間を楽しんでいたなんて言えないわね)
この高飛車な人魚が本気で意気消沈しているのを目の当たりにすると、極々僅かに罪悪感が湧いてくるような気がする。
(これは、押し付けた私にも多少の責任があるわね)
そういうわけで、まりかはカナを元気づけてやることにした。
「ねえ、そろそろコンビニデビューしてみない?」
時間が時間なので、ここは手軽かつ、カナが確実に喜びそうな手段を提案してみる。
「ぬっ!?」
コンビニという語に、カナが即座に反応した。
「コンビニとは、あのコンビニスイーツとやらが手に入るところか!?」
つい今しがたまでの激烈な落ち込みっぷりが嘘のように、
まりかは、カナを促して階下の自宅玄関まで一旦戻ると、そこでカナにスリッパを履かせた。
トントンとピンク色のスリッパをつっかけるカナを見ながら、近いうちに靴と靴下を試しに履かせてみようなどと思案する。
階段を降りてビルの外へ出ると、最寄りのコンビニを目指して、海岸通りの歩道をふたりで横並びに歩き始めた。
「実は、オススメがあるんだけどね。チョコミントのアイスというのがあって」
「それは、果たして美味しいのか?」
青海波の石畳を踏み締めながら、まりかとカナはスイーツ談義に花を咲かせる。
それは、ひとりの人間とひとりの人魚の、何の変哲もない日常の姿だった。
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