第15話 横浜港の龍神〈四〉

 黒と橙色の影が、板敷の広間で果てしのない攻防を繰り広げている。

黒瀬くろせとか言うたか。人間の小娘相手に、容赦無きことよのう」

 漆塗りの脚付き膳に盛られた刺身を素手で口に運びながら、カナが呆れ顔で独り言ちた。

「その調子だあっ。黒瀬など、完膚無きまでに叩きのめしてしまうが良いっ」

 ラタン調の寝椅子で胡座をかいた蘇芳がしきりに拳を振りながらも、まりかの気を散らさないように声量を抑えて応援している。

 ひゅんっ。

 ぱしんっ。

 木刀とじょうが接触し、または空を切る乾いた音が、緊迫した空気を伝ってまりかの耳介を爽快に刺激する。

 菊池あきらが蘇芳の命を受けて〈門〉の向こうへと消えた直後から、まりかは蘇芳の側近である黒瀬を相手に杖道の特訓を開始していた。

 「着杖つきづえ」から始まる十二の基本形を順になぞって肩慣らしウォームアップした後、蘇芳のかけ声と共に実戦形式の試合稽古を開始し、そして今に至る。

 もっとも、2人が今演じているのは、黒瀬が独自に発展させた幽世かくりよ流杖術とでも呼ぶべきものだった。そもそもの話として杖道は形武道なので、これを実戦に用いようとすれば形に変化が生じるのはごく自然なことと言える。

 そして、黒瀬とまりかの鬼気迫る攻防は、明らかに試合稽古の範疇を超えていた。

「っ!」

 黒瀬が、まりかの鳩尾みぞおちを突こうと鋭く間合いに踏み込む。まりかはそれを左足から退きながら杖で受け流し、すかさず木刀を打ち落とそうとした。

(え?)

 軽すぎる杖の感触に、まりかの首筋が粟立つ。

 直感で足元に目をやると、床面に沈み込むような形で、黒瀬が杖を潜り抜けようとしていた。

 楕円形の鋭い眼光が、まりかのがら空きの急所を捕捉する。

(それなら!)

 ひゅっ。

 黒瀬の木刀が虚空を突いた。

 とんっ。

 地下足袋を履いた足が、黒瀬の背中を軽やかに一蹴りする。

 赤橙の衣装が、振り向いた黒瀬の視界でひらりとはためく。

(黒瀬さんなら、この程度はすぐに反応する)

 まりかは身体を捻りながら何とか黒瀬の方を向いて降り立つと、杖を握った右手を額にとり、左手で杖先じょうさきを握る「かすみ」の構えをとった。

「くっ」

 容赦なく振り下ろされる木刀をすんでのところで左にかわし、杖を素早く手の中で滑らせる。

 カッ。

 木刀を逆手ぎゃくて打ちにして、間髪入れずに左足を思い切り前方に踏み出し、黒瀬の顔面を攻めようとした。

 カーンッ。

「っ!」

 木刀に巻き上げられた杖が、くるくると宙を舞う。

 木刀の切先きっさきが、まりかの眉間すれすれに突きつけられる。

 カッカラランッ。

 杖が、乾いた音を立てて床に落ちた。しかし、まりかはそちらには頓着せず、得物を手放してもなお、自分を降した相手と真正面から睨み合う。

「……」

 異相の老人の鋭い眼が、切先の向こう側から射貫くようにまりかを見つめる。

「勝負あり」

 蘇芳のぶすっとした声が、2人の間に割って入った。

 その途端、張り詰めていた空気が一気に弛緩し、まりかが大きく息を吐く。そしてすぐに床に横たわった杖の元に駆け寄ると、優しく両手で拾い上げ、労わるようにそっと表面を撫でてやった。

 まりかの愛刀ならぬ愛杖〈夕霧〉。普段は一本挿しの簪としてまりかの髪の中に収まっているが、その正体は、深い海の青色をそのまま切り取ったような美しいグラデーションを描く、長さ128cmの杖である。

「やっぱり、どうしても黒瀬さんには勝てませんね」

 黒瀬の所に戻ったまりかが、胸の前で〈夕霧〉をギュッと握りながら嘆息する。

「黒瀬よ! 一度くらいまりかに勝たせてやらんか! 大人気ないぞ!」

 蘇芳が拳をブンブン振り回しながら、自らの側近に野次を飛ばした。

 そんな主に対して、黒瀬は平静かつ断固とした態度で己の意志を表明する。

「蘇芳様、それではまりか様の為にはなりませぬ」

 それだけ言って、黒瀬はまりかに向き直った。試合中の容赦の無さが嘘だったかのように、和やかで人好きのする表情がその異相に浮かんでいる。

わたくしめに勝つには、最低でもあと100年の鍛錬が必要となりましょうな」

 しかし、と微笑みながら続ける。

「まりか様。前回よりも、格段に上達されておりますぞ」

「本当に!?」

 黒瀬から褒められたことの嬉しさに、まりかは思わず言葉を崩してしまう。

 慌てて口を抑えるまりかに、黒瀬は慈愛に満ちた眼差しを向けている。

「伊豆大島において、海難法師かいなんぼうしを見事に打ち破られたとのこと。やはり、実戦に勝る鍛錬など、存在しないということでしょうな」

「でも、私が無事に帰ってこられたのは、黒瀬さんに鍛錬していただいたお陰です!」

 さり気なく謙遜するかのような言い回しに、まりかはすかさず黒瀬を賛した。

 その真っ直ぐな言葉に、黒瀬はその楕円形の目を細めて、目の前の娘を見つめ返す。

 黒瀬の正体は、サメの大妖である。もっとも、サメといってもホホジロザメやジンベイザメなどのような大型で目立つ種類ではない。ホシザメという名の、沿岸域に生息する大人しい性質の小さなサメである。

 黒瀬の変化へんげの姿は、もう1人の側近である潮路しおじよりも人間離れしている。手足や胴体こそは完全に人間を模倣しているが、体表を覆うのは皮膚ではなく、楯鱗じゅうりんと呼ばれる細かく硬い鱗だった。頭部も含めて毛髪は1本も生えておらず、眼球はサメそのままの楕円形と、本来のサメとしての姿をかなり反映した変化となっている。

 しかし、このような異相にも関わらず、威圧的とか堅苦しいといった印象は、普段の黒瀬からは全く感じられなかった。

「そのお言葉、ありがたく頂戴いたしますぞ」

 黒瀬は胸に手を当てて礼を述べると、もう片方の手に提げていた木刀をくるりと回した。

 木刀だったはずの像がゆらめいたかと思うと、あっという間に派手な柄の羽織へと形を変える。合気道の道着と袴を身に付けた黒瀬が、当然のようにその羽織に袖を通した。

(私が子供の頃からずっとこうだったから当たり前に思ってたけど、改めて考えるとかなり奇抜な組み合わせよね)

 まりかは、毛髪の無い黒瀬の頭部に巻かれたこれまた派手な柄のバンダナを見つめながら、人間社会では絶対にお目にかかれないような斬新な服装ファッションであると思った。それと同時に、これこそが最も黒瀬らしさを表しているとも思う。

 黒瀬と、潮路。数百年もの永きに渡り、龍神・蘇芳の側近を務める強大な存在。そんな2人を、幼い頃のまりかは「じいや」「ばあや」と呼び慣わし、まるで本当の祖父母であるかのように接していた。実際のところ、まりかには祖父母というものが存在しないため、まりかの心象世界においては、黒瀬と潮路こそが実質的な祖父母としての立ち位置を占めている。

 そして、黒瀬と潮路にしても、最初は蘇芳の命令に従っていたというだけだったのが、いつしか、朝霧まりかという人間の娘のことを、本心から愛するようになっていた。

「お嬢様。さんざっぱら黒瀬にしごかれて喉が渇いたでしょう。お冷をお持ちしました」

「ありがとうございます、潮路さん」

 まりかは礼を述べて、潮路が盆に乗せて運んできたヴェネチアングラスを手に取り、とろりとした水飴のような、冷たく優しい味わいの液体を一気に飲み干す。龍宮城で「お冷」という場合、ただの冷たい水ではなく、薄い甘味や塩味が付いた幽世版スポーツドリンクとでも呼ぶべき特別な飲料のことを指す。

「まりかよ。せっかくの〈夕霧〉なのだ。出し惜しみせず、もっと余の神霊力を使うが良いと何度も言っておろう」

 まりかの持つ物よりも大きく豪奢な細工のヴェネチアングラスでウィスキーを舐めながら、蘇芳が寝椅子の上から話しかける。蘇芳としては寝椅子から降りて至近距離から話をしたいのだが、黒瀬と潮路、そして他ならぬまりかからキツく止められているため、やむを得ず広間の一段高くなった場所に設置された寝椅子に留まっているという事情がある。

(幼き頃は、膝に乗せて図鑑などを読んでやったものを。それを、あの紫泉しせんが余計な口出しをしおってからに!)

 荒れ狂う蘇芳の胸中を知ってか知らずか、まりかは申し訳なさそうな顔で壇上の蘇芳を見上げた。

「蘇芳様のお気持ちは、本当にありがたく想っています。実際に、伊豆大島では畏れ多くもお力をお借りすることで、窮地を抜けることができました。それでも、私が成すべきことは、なるべくなら私自身の力のみで成し遂げたいのです」

 カナの乱入というありえないようなイレギュラーだったとはいえ、龍神の神霊力に頼ってしまったのは己の未熟さゆえであると、まりかは考えている。

 まりかの言葉を聞いて、蘇芳は小さくため息をついた。

「全く、お前という娘は。もう少し他人に頼るということをせんか。まあ、そんなところも、まりからしくて良いのじゃがな」

 何だかんだ言いつつも、この龍神は最後には必ずまりかを肯定する。だからこそ甘える訳にはいかないのだと、まりかは気を引き締めるのだった。

 そんなやり取りをする一同を、きな粉をまぶしたわらび餅を頬張りながら生暖かい目で眺めているのは、半ば空気と化しているカナである。

(なるほどのう。人間のみならず、龍神や妖連中からもこうまで愛されておったとは。まりかのような娘が育つはずじゃわい)

 カナは最後のわらび餅を口に放り込むと、魚の浮き彫りが入った小さなヴェネチアングラスを手に取って唇を付けようとした。

「カナ様」

「むっ!?」

 いつの間にか、潮路がカナの脇に腰を下ろしていた。

「なんじゃい、いきなり」

 カナがつっけんどんな返事をする。

 そんなカナに潮路は特に機嫌を悪くすることも無く、長い袖の中から青白い腕を出すと、両手のひらに載せた物をそっとカナに差し出した。

「蘇芳様からの言伝です。まりか様に気取られぬよう、お独りの時に聴いていただきたいとのことであります」

 それは、法螺貝だった。全長は15cm程度と、40cmを超えることも多い法螺貝としてはかなりの小ぶりである。

 カナは、まりかや黒瀬と談笑する蘇芳の横顔を見つめた。この、自分に話しかけてこない龍神の意図を、推し測ろうとでもするように。

(どうやら、ただの阿呆というわけではなさそうじゃな)

 カナは蘇芳から視線を外すと、潮路の手から法螺貝を受け取り、すぐに手元から消し去った。

「まあ、思い出したら聴いてやらんでもない」

「蘇芳様は、お返事をご所望されておりますゆえ」

「分かった分かった。夜更けにでも聴いてやるわい」

 物腰は丁寧ながらも遠慮の無い龍神の側近に対し、いかにも面倒くさそうに手を振ってみせると、話は終了とばかりにさっさとグラスの中身を口に含んだ。

「むう! 美味いではないか!」

 いつもまりかが買ってくる紙パックのジュースとは明らかに次元の違う味に、カナは一気に機嫌を直す。

「これはなんじゃ、桃か!?」

「ご明察です。お気に召されたようで何よりでございます」

 潮路がニコニコと答える。

「お主らは、このような陸地の食い物を一体どこで手に入れてきとるんじゃ」

「それはですね」

 カナの質問に答えようと、潮路が口を開いた時だった。

「潮路よ、あの小僧がやりおったぞ」

 蘇芳が、寝椅子の上から潮路に声をかけてきた。

「〈門〉を開けよ。何やら、興味深いことになっておるぞ」

 何故だか上機嫌な様子で命令すると、グラスに残ったウィスキーを全て飲み干し、空になったグラスを潮路に向かって差し出す。

「それはそれは、ようございました」

 潮路はどこからともなく盆を取り出して蘇芳のグラスを受け取ると、またもやどこかへ消してしまう。それから、形成した両腕を長い袖の中に隠し、滑るような動きで広間の中央に進み出た。

「良かった。成功したのですね!」

 まりかは〈夕霧〉を簪の姿に戻して髪に挿すと、潮路の少し手前の空間まで走り寄った。

(幽世から出た後で、きちんと謝らないと)

 特訓中は意識的に平静を保つよう努めていたものの、ただの人間に過ぎない明を安易に蘇芳に引き合わせたことを、まりかは後悔していた。

(たかだか二十数年の付き合いで蘇芳様のことを知った気になっていたなんて、いくら何でも浅はか過ぎた)

 幼少時から、龍宮城の面々と親密な交流を続けてきたせいだろう。蘇芳は紛れもなく龍神――すなわち神の一員であり、他の妖や付喪神たちよりも遥かに人間離れした存在であるという認識を、しばしば失念してしまうのだ。

 実は、まりかが中学生になって間もない頃、とある事件をきっかけとして「本来あるべき」「正しい」関係性を、蘇芳や側近たちとの間に新たに構築しようとしたことがある。

 しかし、その時点で既にまりかを溺愛していた彼らが、すんなりとそれを受け入れるはずも無かった。結局、黒瀬はともかくとして、蘇芳も潮路もまりかに対する接し方をほとんど変えることをせず、今日に至っている。

 そしてまりか自身も、そんな彼らに次第に妥協するようになり、一度は身に染みて思い知ったはずの「畏れ」の感情が薄まってしまっていた。

 まりかは、開きつつある〈門〉を愉快そうに眺める蘇芳を盗み見る。

 一見すると支離滅裂な蘇芳の言動も、単に人間には推し量るのが困難というだけで、必ず何かしらの理由はある。しかし。

(――それが必ずしも人間の為になるとは、限らない)

 確かに蘇芳は、人間にも助力を与えることはある。だが、第一優先はあくまで幽世の存在、怪異や妖だ。

 ぐにゃりと歪む空間を見つめながら、朝霧まりかは己に問いかける。

 自分は、現世うつしよ幽世かくりよ、一体どちら側の存在なのだろうかと。

「まりか、もう少し下がっておれ」

「は、はいっ!?」

 思考の対象からの唐突な声かけに、思わず上擦った声を上げてしまう。

 まりかは、蘇芳の言う通りに数歩後ろに下がった。

 直後、歪んでいた像が安定し、完全に〈門〉が開く。

 すると。 

「わ、分かったから! だから落ち着けって!」

「うわあっ!?」

 なだれ込むようにしてこちらに戻ってきた菊池明の有り様に、まりかはまたもや上擦った声を上げることとなった。

「もう良いから! 分かったから! やめっ」

「う、ウツボ……?」

 明は、ウツボの怪異にのしかかられていた。しかも、そのウツボの頭は8つもあり、各々が細長い身体をぐねぐねと盛んに明に擦り寄せている。

「小僧のやつ、完全に懐かれちまいました」

 案内役として明に同行していた伊勢海老の多聞丸が、触覚を上げ下げしながら一同に説明する。

(ウツボって、人に懐くんだな)

 明は、全身にウツボの粘液と磯の匂いが染み込むのを感じながらも、無理矢理押し退けるのも可哀想な気がしてきたため、抵抗するのを止めることにした。

(何だかよく分からないけど、とりあえず引き剥がさなきゃ)

 我に返ったまりかが、八頭ウツボに対して説得をし始める。

 かくして菊池明は、蘇芳の「難題」を見事に達成し、無事に帰還を果たしたのだった。

 



「――というわけで、ご命令通りの退治ではなく、凶暴化の原因を取り除くのみに留めたという次第です」

 まりかの説得が功を奏して八頭ウツボから解放された明は、真っ先に事の顛末について蘇芳に報告した。

「うむ、大儀であった」

 真剣な表情で話す明に対し、蘇芳の態度はひどくあっさりとしたものである。

(えっ、良いのか?)

 てっきりとがを受けるものと覚悟していた明は、つい拍子抜けしてしまう。

「こうして見ると、ウツボって可愛いわよね」

 少し離れたところでは、まりかが八頭ウツボの相手をしていた。

「ぐるるるるるる」

 まりかが顎の下を撫でてやると、8つの頭全てが気持ち良さそうに目を細めて喉を鳴らす。

「なんだか、猫みたいね」

「そ、そうか」

 笑顔で八頭ウツボとふれあうまりかを、カナは微妙な表情で眺めている。

(ウツボが、可愛い? 可愛い、のか?)

 この2ヶ月というもの、カナはまりかと寝食を共にしながら、人間社会についての知識を急速に吸収してきた。その過程で1つ、まりかに関して気が付いたことがある。

 どうやら朝霧まりかは、一般的な人間と比べてかなり独特の感性を持っているらしい。

(まあ、慣れれば可愛く思えるかもしれぬな)

 カナとしては、まりかに対して一切の危害を加えないのであれば、じゃれるなり巻き付くなり好きにすれば良いというところである。

 そういうわけで、すぐに龍神と菊池明のやり取りに目を戻し、耳をそばだてた。

「あの、こちらの直刀ちょくとうですが、お返しいたします」

 明は直刀の刃先を両手で握ると、頭を下げながら柄を向けて蘇芳に差し出した。

「うむ」

 蘇芳は頷いて片手で直刀を受け取ると、もう片方の手でそっと刀身を撫でる。

「……ふっ、そうか」

 蘇芳が、輪郭のくっきりとした目を細めて微笑を浮かべる。

 そして、返却されたばかりの直刀を、再び明に向かって差し出した。

「合格だ。受け取れ」

「へっ?」

 蘇芳の意図が掴めず、明は困惑して龍神の顔を見返す。

「それは、どういう」 

「難題の解決などというのは、ただの口実に過ぎぬ。小僧、お前がその刀の主として相応しいか否かを見極めるというのが、余の真意だったのだよ」

 さらりとした口調で話しながら、唖然とする明の目の前で、片手に持った直刀を軽く上下に振ってみせる。

「およそ一千年。一千年もの永きに渡り、この刀は主となる人間が現れるのを待っておった」

「せ、千年!?」

「まあ正直、本当に出現するのかどうか大いに疑わしかったのだが。それがこうして無事に押し付け……じゃない、託すことが出来て、余もひと安心というものよ」

 肩の荷が降りたとでもいうような、清々しい表情で蘇芳が言ってのける。

(いや、あなた完全に忘れてましたよね!? しかも押し付けるとか言いかけてたし!)

 明は、思わず心の中で突っ込みを入れた。

 それが表情に出たのだろう、蘇芳がむすっとした顔で明を睨む。

「小僧、何やら余に対して良からぬ考えを抱きおったな」

「断じて違います!」

 明は背筋を伸ばしてきっぱりと否定した。この龍神の前で緊張感を保つのは、座禅で眠気を感じるなというくらい困難な事になりつつある。

(この龍宮城のゆるさに慣れすぎないようにしねえと)

 そう自分自身を戒めながら、直刀を受け取ろうと手を伸ばした。

(あれ?)

 手が空を切った。柄が少し上方に移動している。

 再び柄に手を伸ばすも、今度は斜め下に柄が移動する。

「あ、あのっ!?」

 明が問い詰めるように蘇芳の顔を凝視した。この龍神は、一体どこまで自分を翻弄すれば気が済むというのか。さすがの明も、そろそろ我慢の限界を感じつつあった。

「ひとつ、条件がある」

 直刀を振って明を翻弄していた蘇芳が、存外真面目な顔つきでそれを告げる。

「この刀に、一滴足りとも血を吸わせてはならん」

「……」

「それを、この刀に誓え」

 今度こそ、蘇芳が直刀を差し出した。明は謹んでそれを受け取る。

 明は、柄を両手で握って刀身を立てると、赤い光を反射する直刀を見据えた。

「絶対に、一滴足りともお前に血を吸わせるようなことはしないと、ここに誓う」 

 そう、直刀に向かって静かに告げる。

 武器でありながら血を吸わせるなという一見すると奇妙なこの命令は、明にとってはすっきりと腑に落ちるものだった。

 八頭ウツボに遭遇する直前、数珠を翳した時に直刀から感じた微弱な意識。

 それは、怒りと悲しみの感情だった。

(赤い光を反射してるのも、怒ってるからだったりして)

 おそらく、過去に不本意な使われ方をした経験があるのだろう。この直刀が実用向きの造りでないことや蘇芳の命令を併せて考えれば、容易に想像がつく。

(安心しろよ。物理的な意味で生き物や妖を切るなんて、そんなこと絶対に俺がするわけがねえから)

 何せ、調理用の鮮魚を包丁で捌くことすらままならないのだ。この直刀で生き物や妖を文字通りの意味で切り裂くなど、想像しただけでおぞましい。

 直刀は、何も反応しなかった。相変わらず、仄かに赤い光を反射するのみである。

「うむ」

 それでも、蘇芳には直刀の意志が読み取れたらしく、独りで満足気に頷いている。

 明は片手を切っ先に移動させると、さてどうしたものかと横にした直刀を眺め渡した。

(受け取ったは良いけど、どうやって持ち帰ろう)

 この抜き身の状態で現世に戻れば、立派な軽犯罪法違反として、拳銃紛失に次ぐ新たな不祥事を作り出してしまうに違いない。

(鞘を付けてもらうようにダメ元で頼むか?)

 明がそこまで考えた時だった。

「うおっ!?」

 突如として、直刀がぐにゃんと変形した。

 蛇のようにその身を細長く伸ばすと、明の右手首にしゅるりと巻き付く。

「こ、これって」

 やがて、ぐにゃぐにゃとしていた像が安定すると、そこには、フルメタルのGショックが出現していた。

 仄かに赤い光を反射するメタルバンドに、チクタクと時を刻む秒針。紛れも無く、腕時計である。

(すごい。龍神の宝具ほうぐだ)

 明は言葉も無く、当然のように己の右手首を居場所とする直刀を見つめる。この期に及んでようやく、明は事の重大さを実感しつつあった。

(帰ったら物凄い騒ぎになるだろうなあ)

 果たして一連の顛末をどのように報告すべきかと、頭を悩ませ始める菊池明。

「ははっ! これで一件落着だな!」

 人間ひとりが抱える悩みなど些事に過ぎぬとばかりに、今回の事件を引き起こした張本人は、満足気に寝椅子にふんぞり返えるのだった。

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