ブダペストの魔術師
中田もな
マジャールのラドカーン
チェコからハンガリーまで、およそ七時間。観光用の列車に揺られながら、私は温泉の街・ブダペストへと辿り着いた。
「チェコも温泉が有名だけど、ハンガリーもすごいのよ! ブダペストに行ったら、街中温泉だらけなんだから!」
チェコに住んでいる女友達が、私にメールを寄こして聞かせた。彼女は有名な語学系大学を卒業し、今は観光ガイドとして働いている。
「どうせあなたは、毎日仕事、仕事なんでしょ? せっかくだから、有休でも消化して、こっちにいらっしゃいよ! 色んな温泉、紹介してあげるから!」
私は彼女の言葉に甘え、チェコで二週間、休養を取ることにした。そんな折に紹介されたのが、近くの国の温泉地だった。
「申し訳ないんだけど、緊急でガイドの仕事が入っちゃったの。でも、すごく有名な温泉だから、行ったらすぐに分かると思うわ!」
彼女の言う通り、そこはヨーロッパ最大規模の温泉地だった。私の片言の英語にも、街の人達は親切に教えてくれた。
「ああ、それは、セーチェーニのことだね。ほら、あのバスに乗るんだよ」
彼が指差したバスには、私と同じような観光客が、何人も乗っていた。地元の人に言わせてみれば、この街は毎日が温泉日和らしい。
「温泉はね、僕たちにとって、憩いの場所なんだよ。公園みたいな感じで、気軽に寄れる場所なのさ」
地元の人達の話を聞いて、私は実家のある大分を思い出した。あの街の住民も、同じようなことを口にする。離れた都市の似たような感覚に、私は思わず笑ってしまった。
セーチェーニ温泉は、友人の言う通り、行けば有名と分かる場所だった。まるで屋外プールのような広さで、浸かると確かに温かい。私はぼんやりと空を見上げながら、自由な時間を楽しんだ。
「失礼、少しいいかな」
そんなとき、私はとある男性に声を掛けられた。ブロンドヘアの美しい、灰色の目をした青年だった。
「あなたは、おそらく日本人だね? ふふふ、分かるよ。そういう浸かり方をするアジア人は、大抵日本人なのさ」
彼は自らを「ラドカーン」だと名乗り、次いで日本語を教えてほしいとねだった。何でも、温泉が好きな彼は、いずれ日本を旅行して、様々な温泉地を巡りたいのだそう。
「『こんにちは』と、『ありがとうございます』は分かるんだ。それ以外の使えるフレーズを、ぜひ教えてほしい」
ラドカーンは耳元で囁くと、とっておきの場所を教えると言って、私を室内温泉へと連れ込んだ。この温泉は、とんでもない大きさだ。巨大迷路に迷い込んだ、小さな子どものような気分になる。
「ほら、見てごらん。ここはちょっとした穴場なんだ」
その温泉は、まさに穴場と言っても過言ではなかった。黄色のお湯には花が浮かび、天井には銀河の絵が描かれている。こんなに素敵な場所を、何故他の人々は訪れないのか、私は疑問に思った。
「ここまで来るのに、随分と時間が掛かるからね。地図にも載っていないし、みんな気づかないのさ」
ラドカーンは私を手招くと、心休まる小さな温泉に浸かった。私も彼の真似をして、ぷかぷかと浮かぶ花を掴む。
「僕はね、この温泉が大好きなんだ。ほら、あの銀河の端を見てごらん。二十四の頭を持つドラゴンが、太陽を奪おうをしているだろう……?」
彼の指差す先には、実に不思議な竜がいた。日本神話に登場する、ヤマタノオロチのようだった。
「あれを見ると、昔のことを思い出すんだ。剣を振るって戦った、遠いとおい昔のことをね……」
彼は彼方を見るような目つきで、ドラゴンの逞しい体躯を眺めた。しかし、それは一瞬のことで、私は突っ込むタイミングを失った。
「さて、約束の通り、日本語を教えてもらおうかな。温泉の受付に立ったら、まずは何て言えばいいんだろう?」
実に勉強熱心な彼は、私の英語能力をよそに、次々と質問を投げ掛けてくる。私は忙しく頭を動かしながら、ハンガリー人の彼との会話を楽しんだ。
私は素晴らしい時間を過ごし、満足しながらチェコへと帰った。女友達と合流し、温泉の土産話を語る。
「何ですって? その子、『ラドカーン』って名乗ったの?」
……私の話を聞くや否や、友人は声を上げて笑い始めた。彼女が言うには、ラドカーンとは、ハンガリーの民話に出てくる、青年魔術師の名前らしい。
「あなた、冗談を言われたんだわ! まさかそれを聞いて、真面目に名乗ったりなんかしてないでしょうね?」
彼女は涙を流しつつ、腹を抱えて大笑い。何だか騙されたような気分になって、私は思わず頭を掻いた。――しかし、何故ラドカーンは、秘密の温泉の場所を知っていたのだろうか?
ブダペストの魔術師 中田もな @Nakata-Mona
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