第2話

 モデルの女が隣に来て座り、タバコを咥えた。すかさず周りの男達が火を点けようとライターを差し出す。

 女は苦笑し、セカンドバッグから自分の高価なライターを出し、音を立てて蓋を開け、親指を動かして火を点け、紫煙を燻らせた。

 アトリエの裏にベンチが置かれ、喫煙できるようになっている。裸のモデルをデッサンする授業が始まり、その休憩時間だ。まだ鉛筆一本の線で女の裸体を表現するほどの力量はない。だから、もうひとりの、肥ったモデルの方がメリハリがあつて描きやすいのだが、こちらの方が格段に綺麗で色っぽい。若い男達に囲まれても余裕シャクシャクで、むしろ押されぎみなのは男達の方だ。薄いガウンの下には何も着けてはいない。とてもシュールな状況で、男達はトギマギと落ち着かないが、女は平気、そのままの雰囲気をモデル台の上まで持ってゆき、ガウンを脱ぎ捨てポーズを決める。

 皆、悩殺されてデッサンどころではない。すると、それを知ったモデルの女は、面白がって際どいポーズを連発して決める。時にはウブな少年に狙いを付け、凝っと見つめ、ポーズする事もある。悪ふざけだが、少年には解らない。当分の間、少年は思い悩み、苦しむ事になる。

 もう一人の肥ったモデルは子持ちらしい。女の子らしいが、勿論、見たことはない。でも女は、5分のポーズの時間を計る為、腕時計を学生に預け、時間を告げてもらう。その腕時計は赤いビニールのバンドで、文字盤にはミッキーマウスの顔があり、小学生の娘の物だ。

 「時間です」5分のポーズの終りを告げる。すると女はモデル台を降りるとガウンを羽織り、クロッキー帳を覗きに来る。ポーズの確認をするのだ。

 「次は立った方が良い?」女が言う。

 生徒のひとりに過ぎない。それが決めては烏滸がましい。困惑していると。

 「立つわね」と言ってモデル台に向かう。

 何故かが解らない。気に入られたのか?どうして。時間を計るくらい、どうってことない。言われればするよ。腕時計なら持っている。

 尚も女は挑発する。四つん這いに近いポーズをし、尻をこちらに向け、肛門と性器の一部をわざとらしく露出する。見せているのだが、子持ちの女をどうしろと言うのだ。まだ十九だぞ、童貞なんだよ。

 一枚の絵を描くにもすんなりとは描けない。課題を与えられても、大概はインスピレーションを刺激しない。乗れないのだ。予備校だから目的は美大へ合格することだ。だが最終目的は画家になることである筈だ。そのズレが問題になつてくる。

 美大に有名な画家がいて、その業績か喧伝され、その大学の実権を握ると、皆その絵を真似るようになる。特に受験生には顕著に現れ、絵の具を似たように処理した油絵が目立って増えてくるのだ。言外に、そうしないと合格しないぞと、言われているような気がする。才能があり、器用な奴がいち早く真似をし、それが合格でもすれば、教授の好みの絵を描かなければ合格しないとの固定観念が生まれ、それが暗黙の了解になってしまう。

 かくして、アトリエの上の方に飾られる優秀作は、同じようなタッチの油画ばかりになってしまう。真似をして合格しても、真似する画家なぞいらない。だが、ここで致命的な事実を発見する。本人には真似をしているとか、真似を、知らず知らずのうちに周りから促され、描かされているとの自覚はない。それに気付かず、さも自分の個性、才能だと、勘違いしたまま入学し、天才づらして、画家としての振る舞いをする。そんな輩の何と多いことか。恥ずかしい限りだが、自分がそうでないとは、言い切れない。美大教授の真似はしないが、多くの画家、デザイナー、イラスト、漫画。影響を受けて真似している。本当のオリジナルなんて、あるのだろうか。

 アトリエには、予備校だから教える教官がいる。講師として画家も教えに来る。教官たちは美大の大学院生。アルバイトらしい。つまり、教員免許は持っているのかもしれないが、画家になってはいないと言うことだ。何を教えようと言うのか。受験対策なのか?だが、一度も具体的に教えてもらった事はない。

 画家の先生は二人。ひとりは日展の画家。もうひとりは教育大の美術教授。ハガキ大の小さな絵を描くらしい。この先生に唯一作品に手を入れられた。何年か絵を描いたが、他人に作品を直されたのはこの時が最初で最後、いい気はしなかった。何処か見所があったから手を入れたのだろうが、細かい筆遣いは画家の個性であって、真似できるものではない。細部に美は宿るかも知れないが、美とは何なのかを知らなかった。

 こんなに不安で曖昧、無知で経験不足の毎日だったが、うわべは強気で歯切れよく、行動には余裕を持たせ鷹揚に振る舞った。虚勢なんだが、他も似たり寄ったりで、ずば抜けた天才はいなかった。

 知らなかったが、下宿の近くにも美術研究所があった。大通りを渡って駅に向かい、裏通りを二本入った奥だ。一帯も下宿の辺りと同じで、戦前の街並みのままが残った風情だ。軒の低い日本家屋の町並みの中に、鉄骨スレート葺き、倉庫のような建物があり、その二階がアトリエだった。鉄の外階段を上って扉を開けると、北側の窓が大きな板張りの広い部屋があり、そこで週一回のクロッキー会が開かれた。クロッキーとは素描、短い時間でデッサンをする事だ。

 そこは予備校と違い、社会人とか設計士とかの一般人の参加もある。ベレー帽を被ったプロらしき人の姿もあり、その雑多さが自由な雰囲気を感じさせ、毎週の楽しみとなって、いそいそと出掛けて行くようになった。途切れ途切れだった素描の線が、このところ繋がるようになり、女体の丸みも少しは表現出来るようになった。しかし、まだまだ空間を、距離を表すまでは遠い。かつて見たレンブラントの素描が頭にある。ペンにインクで、修正が利かないのに、躊躇いもなく自由ににペンを走らせている。そこには空間があり、頭と脚までの距離があった。

 ある日、モデルが現れず、中止かと諦めかけたが、主催者が参加者の女性と話始めて直ぐ、女性が頷き、服を脱ぎ始めた。モデルだつたのか経験者なのか知らないが、モデル台の前列に座っている者達からは拍手が湧きあがった。ごく普通のOL姿の女が、スーツを脱いだら豊満な美女に変身し、モデル台に立った。ポーズも決まり、素人ではない。モデルをするうちに描く方に廻ったのか、画学生がモデルのアルバイトを始めたのか、想像は尽きない。その連想を長い髪に纏わせ、実際よりも長くしなやかにさせ、肩に胸に艶やかに這わせ描いた。

 もうひとり、こちらは画学生に違いない。ボーイッシュなショートヘアー、最初から挑戦的なポーズを取る。腕を組み、斜めに立ち、片足を踏み出すように前に出し、こちらを睨んだ。"描いてごらん"そんな雰囲気だ。でももう怖じ気付く事はない。投げ出した脚も、組んだ腕も、一本の線で描けるのだ。曲線も力の入れ具合で太く細く、自在だ。女は、休憩で歩み寄り、クロッキー帳を覗き込んで"まあまあだな"と言うような顔をし、去った。これで一人前の画家になれたような気がして予備校を辞め、下町のアトリエに移った。受験を止めたのだ。

 

 予備校の友人に栗本と言うのがいた。そいつに相談があると呼び出された。下宿に近い大通りの喫茶店である。正面は全てガラス張りの洒落た店だ。普段はこうゆう店には入らない。絵の具がジーパンに付いているかも知れず、これでも気を使っているのだ。案の定、栗本の向かいにはデパートの制服姿の女性が座っていた。

 「由美子さん。高校の同級生」

 紹介されたが、彼女は椅子の背凭れから背中を離して座っており、長居をする気はなく、直ぐにでも立ち上がる気配だ。

 どうやら、彼女と再会した栗本が、マドンナだつた彼女の絵を描こうと、モデルをお願いしているらしい。

 「彼の下宿は近いんだ」

 思わずコーヒーを吹きそうになった。そうゆう事か。デパートに近い我が下宿をアトリエにし、彼女の肖像を描き、恋の思い出に、何なら口説いてモノにしようと目論んでいるのかも知れない。

 溢れそうになったカップを戻して目を上げると、彼女と目が合った。背筋を伸ばし、両手を膝で組み、座った仏像のように半眼を開けている。睨まれているような気がして、目を伏せ、首を引っ込めた。

 企んだのはオレじゃない。栗本の恋に付き合う義理もない。それにベニヤ張りの下宿の部屋を思い浮かべた。妙齢な女性の来るべき場所ではない。

 「素人は動いて描きずらい」精一杯の皮肉を言った。

 「それに金も無いし……」モデルとしてなら時給千円は出さなければならない。

 「金なら俺が出す!」栗本が言った。横を振り向くと、栗本が唾を飛ばして意気込んでいる。必死だ。

 「お金は要らないけど」彼女は座り直し、背凭れに上半身を付けた。

 どうやら、モデルを断わられるのに納得が行かないようだ。毎日、デパートの紳士服売場でビジネスマンの相手をし、ネクタイの見立てをする。男の扱いには慣れている。だが、この絵描きと言う人種は、そんな男達の範疇外なのか、無料でいいと言うモデルを断ろうとしている。そこに興味を持った。そんな感じなのか、話が進んで、まんまと栗本の目論み通りになった。それが嫌かと言えばそうではない。油絵の素人モデルなんて初めての経験で、急遽50号の大画面を張り、立ちポーズは疲れると考え椅子を用意した。初日は栗本が由美子の寮まで迎えに行き、一緒に下宿まで歩いて来た。並んで歩いて、栗本は上機嫌だ。

 驚いたのは大家のお婆さん。ガラス格子戸の玄関引き戸を開ければ、奥に続く土間の左は八畳二間のお婆さんの部屋だ。昔ながらの雪見障子、誰が入って来たのかは見えるのだ。

 ここへの訪問者は決まっている。近所の人か、嫁に行った娘の婿、警察官の夫が、警らの途中に立ち寄るか、だ。そこに華やかなデパートガールが出現したのだ、吃驚するのも無理はない。でも流石デパートガール、顔を出したお婆さんへの挨拶に澱みはなく、その笑顔には誰もが抵抗出来ないだろう。お婆さんの笑い声を久し振りに聞いた。

 階下の騒ぎに気付いて、頭を梯子段の上から逆さに出して覗くと、笑顔のお婆さんに頭を下げている彼女が見えた。如才なさは、社会人の証なのかも知れない。

 コスチュームは黒のワンピース。襟元に花柄の刺繍が施されていて、それも大きくはなく、ポイントとなって絵としては締まるのだが、やはり黒は難しい。

 明るさが足りないだろうと、リサイクルショップで工事用のメーターサイズの蛍光灯を買ってきてぶら下げのたが、黒は光を吸収して沈み込み、手応えが無い。体のラインが見えないのだ。

 最初、全身の構図だつたが、思い直して膝から上の半身像に描き直す事にした。顔と膝に置いた手を描くしかない。布にテレピン油を染み込ませ、大きく画面を拭った。腕を半径とする半円模様が筋となって残り、それを又拭って白い画面に戻すのだが、元通りの真っ白にはならない。黄ばんだセピア色になった。それでも直ぐに半身座像の輪郭を描いた。まだ油が乾いてないので滲んで、絵の具も垂れ、惨めな具合になったが、下塗りしている時間はない。一晩では乾かない。布で拭いて描き進めるしかない。完成するのだろうか、それより、モデルの由美子がアイドル写真のような仕上がりを期待しているのではないかとの危惧もある。いや、そんな顔をして座っているのだ。

 帰りも栗本が送っていった、が、長続きはしなかった。翌日、雨が降っていた。栗本は先に独りで来ていて、窓の外の様子を窺っていたら、小路の向こうに赤い傘が見え、玄関先にやって来て、「今晩は」と、由美子の声がした。栗本は迎えを断られていたのだ。この日から場の雰囲気は最悪で、元気のない栗本に掛ける言葉もなく、見守る事しか出来ず、絵も捗らず、陰鬱になった。構わず製作に没頭しようとしたが、それが赦される雰囲気ではなくなった。モデルの由美子の表情が怒りのような状態から冷淡に変わり、栗本に見られるのも我慢出来ない、と言うような無視する素振りをし出したからだ。多分、由美子はオレに興味を持ってモデルを承知したんだ。だからと言ってそれは認めたくない。オレの方からアプローチするのを待っている。だが、こうなると、それは漱石の"こころ"になって仕舞う。栗本は打ちひしがれ、絶望するだろう。まさか死にはしないだろうが、失恋の痛みは想像に難くない。憧れのマドンナだけに、モデルに成功して有頂天になってからの落差は激しい。

 帰りは暗いし、雨も降っているから、栗本も送って行こうとしたが、赤い傘の由美子は先に行き、追いかける栗本に気付くとクルリと振り向き、"ついてこないで!"と、鋭く叫んだ。声は雨の小路に小さく響いて反響した。それっきりだ。それで終わった。

          了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エコールド・パリの日々 @8163

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る