エコールド・パリの日々

@8163

第1話

 見違えるほど痩せた新次が、久しぶりにアトリエに顔を出した。余りの変貌ぶりに新次だと判らない奴もいて、夏休みが明け、新入りが来たと勘違いした者もいた。無理もない。でっぷりと太った芸人のような風貌が、スマートなデザイナーにしか見えない雰囲気なのだ。つまり、メガネだけが同じの別人28号になって現れたのだ。七月の中旬から一月半、ひと月ちょっとでの変身には秘密があるのだが、それは又あとで話す事にして、ここは予備校の芸大コース、美大を目指す浪人が集うアトリエだ。みんな油絵、日本画、デザインと、専攻は違うがデッサンは共通だ。だから女子を含めて知らぬ者はいない。

 初めて家を出て下宿を借りた。油絵を描くので広い部屋が必要で、予備校のリストから屋根裏部屋だが、十二畳の広さのある物件を選んだ。そこに新次を呼んだ。顔を見せなくなった訳を聞こうと言うのだ。

 仲間も集まり、麻雀をやろうと炬燵の天板をひっくり返し、緑色の面を表にし、ジャラジャラと牌を掻き回す。天板の裏には薄いフェルトが貼ってあり、滑らないし、音も少しは小さくなり、階下の苦情も減るかも知れない。

 階下には家主の八十を過ぎたお婆さん。それと北側の部屋には、曰くありげな夫婦者が住んでいた。日本家屋の二階部分をぶち抜き、ベニヤ板で囲った部屋は、隣の家が新築する際、仮住まいする為に改築したらしく、そのまま放って置くのもアレなので、格安で貸し出したらしい。信じられないが、家の北には塀に囲われた五十坪ほどの畑があり、名古屋駅に近い住宅地だとは思えない景色だ。

 半チャン終った頃だろうか、新次がやおらバッグを引き寄せ、中からリプトンの紅茶の缶を取り出し、中味を英和辞典の薄い紙に包み、舌で舐めてくっ付けると、ライターで火を点け、少し煙を吸い込むと息を止め、親指と人差し指で挟んだソレを、隣の奴に回して目で合図した。

 知っている。アメリカ映画でよく観る、大麻、マリファナだ。回し飲みをして皆でラリるのだ。ひとくち吸った隣が、咳き込みそうになったが、我慢して息を止め、こちらに回して来た。拒む理由はない。モジリアーニはラリったまま描いている。どんな世界なのか確かめたい。多めに吸い込んで息を止めた。

 不味い。枯れ草を吸っているようだ。これに比べたらショートピースの何て旨いことか!だが、吐き出す訳には行かない。滅多にお目にかかれない貴重品だ。違法薬物なんだ。

 新次は休んで北海道へ行き、野生の大麻を採取し、干して乾燥させ、紅茶の缶に入れて持って来たのだ。そして、大麻はアルコールを飲んでいては効かず、また、腹が膨れていても効きが悪いと言う。だから新次は、飯も食わず、酒も飲まずにひと月暮らし、ラリって痩せて変身したのだ。

 ところが、2本目を回し飲みをしても何の変化もない。目がまわるとかクラクラするとか、吐き気がするとか、そんなことは何も起きない。騙されたのじゃないかと新次を見たが、新次はチーピン捨て、リーチを掛けた。3本目に火を点ける気配はない。2本で十分だと言うことなのか?そうこうする内に、麻雀パイの様子が変わったのに気付いた。濡れて光っているのだ。角の丸みや文字が、濡れたように鮮やかになっている。特にマンズの紅が綺麗だ。ソウズの緑と並べたのなら、一層引き立つに違いないと、ボンヤリと考えていたが、効いているんだと自覚したのは、もう少し後になってからだ。

 酒は飲んでないから、誰かがドライブに行こうと言い出して、雨模様の中、路上駐車をしていた奴の車で、駅前に転がしに出かけた。ネオンを捜しての事だ。車でネオン街を流せば、さぞ綺麗だろうと、意見の一致を得たのだ。

 雨が降りだし道路が濡れ、小さな水溜まりもある。普段なら避けて歩く嫌な事だが、むしろ水溜まりを捜して車を走らす。照明に反射する光が尾を曳いて美しく、横断歩道の白いゼブラ模様も、足早に歩く人達の差す傘も、光に照らされ濡れて耀く。中でも一番はパチンコ屋のネオンだ。明滅するたびに色が変わり、その色が湿り気を帯び感情に作用する。光が人の感情を左右するなんて、それが麻薬なのかも知れないが……。

 乾燥大麻を分けてもらった。こんなに良いのかと言う程の量だったが、沢山あるよと、新次は気前が良かった。無くなったらまた北海道へ行けば良いと屈託がない。両切りタバコのショートピースの中身を揉んで出し、草を詰め、箱に納めた。用心に越した事はない。臭い匂いなのでフランスのゴロワーズとかドイツのゲルベゾルトに詰め替えた方が良いのかも知れないが、それでは如何にもなので、ピースで我慢だ。これで職質で見つかる確率は下がるだろう。まあ、杞憂だとは思うが。

 麻薬だとは言うが、吸ってヘロヘロになるのかと言えば、そんなことはない。歩いていても電車に乗っても、誰にも気付かれる事はない。タバコのように一本吸い、地下街を歩いたり地下鉄に乗ったりするのが好きだった。マリファナは色だけでなく音にも作用する。地下街の雑踏の中、若い女のハイヒールのコツコツと響く音を聞き分ける事が出来るのだ。電車の中ではモジリアーニの秘密を解明した。描かれたままの女の顔を見たのだ。

 モジリアーニは彫刻家だった。カリアティードと言われる柱彫刻みたいな物を彫っている。画家と彫刻家はデッサンの描きかたが根本的に違う。絵描きは空間を意識するが、彫刻家は量を意識する。つまり、一番出っ張った所が判るように描く。球体ならば手前が明るくて段々暗くなる訳だ。それがそのままモジリアーニの画だ。下塗りをした上に、絵の具を点描のように乗せてゆく。空間ではなく質と量を描いているように思える。人の顔も瓜実型の塊に鼻は出て目は穴が空いたように虚ろに描かれている。そこまでは、ああ彫刻家なんだと納得するが、頬とかうなじに、まるで白粉を塗り残した跡のような斑な表現があり、これは何なんだと疑問だったのだが、ラリって解った。そうゆう風に見えるのだ。

 地下鉄に乗っていた。この日も一本吸ってドアの近くに立ち、地下鉄の音を楽しんでいた。轟音の中にモーター音、レール音、人の話し声、それぞれがクリアに聴こえる。瞼を閉じていれば、まるでコンサート会場だ。誰とも話したくない。沈黙が楽しかった。でも、ふと気配を感じて目を開けると、ドアのガラスにこちらを見ている女の人の顔が、天井の照明に照らされて映っていた。その顔がモジの絵だった。化粧をしているのだが、生え際とかうなじに塗り残しがあり、それがハッキリと判った。しかもガラスに映った姿は実際よりも明度が落ち暗い。塗り残した顎の下や首の後ろは、黄色く燻んで沈んでいる。ファンデーションが上手く塗られてないのだ。その粗が薬で暴かれてしまう。頬やおでこ、鼻の頭と沈んだ部分では、明度の差がありすぎ、白さが飛んでいる。まるで白い絵の具を筆で置いたようだ。でも、モジリアーニの絵がマリファナの効果で成り立っていると言いたい訳ではない。あの絵の不思議さは哀しみにある。慎ましい女たち、瞳は虚ろで悲しみに満ち、衣服に装飾はなく、貧しい。


 一緒にデモに行かないかと誘われた。ヒロトの兄が何処かのセクトに属しているとの噂がある。が、ヒロトの目当ては其処にはない。女子大生の間にもぐり込み、ナンパをしようと言うのだ。そんな話は聞いたことがない。モテようとヘルメット姿でゲバ棒を振り回す奴はいるかも知れないが、ナンパを目的にデモに参加する奴がいるのか?下手をすれば怪我をする。リスクは大きい。面白い。どうなるのか、見てみようと同行した。

 名古屋テレビ塔の下、広場には、なるほど、女の子が大勢集まっていた。どこかの女子大が参加したのだろう、さすがにスカート姿ではなく皆ジーパンだが、華やかな雰囲気で、とてもデモをするとは思われない。そんな中にヒロトが、半袖シャツの胸ボタンをひとつ外して肌を見せ、「混ぜて」と声を掛け、スルリと入り込んで手を繋いでしまった。呆れて見ていたが、ヒロトが手招きをし、こちらも取り込まれて手を繋いでしまった。まるでフォークダンスををする前の、中学校の体育祭のようだ。

 五・六人が手を繋ぎ横隊になり、ゾロゾロと広小路を歩いて行く。リーダーらしき男子学生が、「これからぁ、われわれわぁ、沖縄のぉ、核抜き本土なみ返還を目指しぃ、名古屋駅までデモをするぅ」と、拡声器で怒鳴っている。ここで初めて何の為のデモなのか、正体が知れた。まあ、核抜きは無理だろうと思った。それでは抑止力にはならない。核抜きにしても、相手にバレては話にならない。持っているフリをしなきゃ喧嘩は出来ない。こうやってデモをして、逆に核を持っていると証明しているのなら、上手いやり方なのかも知れない。

 右手を繋いでいるのは大柄な女の子、看護科の学生だと言う。よく笑う。箸が転んでも笑うだろう。まるでピクニックだ。お喋りが止まらない。あい間、あい間に、シュプレヒコールを繰り返す。「核抜き、返還!」「安保、反対!」黄色い声なので、まるでアイドルのコンサートのような響きだ。

 ところが、納屋橋まで来たら様子が変わって来た。歩道に群衆が集まっている。駅が近い。ますます増えてくる。夕方になり、薄暗くなり、歩道のあちこちからフラッシュの光が焚かれる。新聞に載るのだろうか、学生たちは顔を撮られるのを嫌い、うつ向いて、両手を前の人の肩に置き、密集して進む。そうなると視線が落ち、情報は耳からが殆どになり、リーダーらしき拡声器の声が頼りだ。

 「あっちの方で黒ヘルが投石を始めたらしい」噂が流れる。

 今だから解るが、携帯もない当時、そんな情報が伝わる筈がない。全てデモ隊をコントロールしようとするリーダーのテクニックだ。

 笹島の交差点を右折し、国鉄名古屋駅の前に来てデモ隊は止まり、座った。

 駅前は封鎖されたのか、車は一台も走っておらず、群衆は歩道に溢れんばかりに群れ、広い道路は車線を分ける白線ばかりが目立つ空間になっている。その向こうに機動隊の青い制服と、鏡のようなジュラルミンの盾が並んでいる。

 一段高い所にリーダーが現れた。さっきのTシャツ、ジーパン姿の男ではない。灰色の作業服だ。国労ではないのか?なぜ労働組合が……考える間もなく拡声器でアジ演説を始めた。

 何を言っているのか、前の方で拳を突き上げてシュプレヒコールを叫んでいるヘルメット姿の男達の所為で聞き取れない。そして、どこからか旗や竹竿を持った男達が現れ、十人ほどが竹竿を前に抱えて先頭の列を作ると、後ろは自然と十人づつの隊列になった。ただ、女の子は先頭からは外され、後ろや中に配置され、列の両端もヘルメットで固められた。その理由は後で解るが、そんな隊が幾つも出来あがり、一斉に動き出した。

 アンポで足を右・左、ハンタイで、また右・左。リズムを踏み、両手を前の人の肩に掛け、ムカデのように進む。やがて、慣れてくると円を描き、中心で反転して戻り、渦巻きになる。

 渦巻きデモは日本だけだ。デモの多いフランスでも香港でも見たことがない。御輿を担ぐ祭りの影響だろうか、嫌いではない。何故かと言うと、子供の頃、小学校の鼓笛隊の指揮をした事があって、楽隊を率いて渦を巻いた事があり、反転してすれ違う様に面白みとおかしみを感じた。ここでもリーダーがひとり竿の前に出て後ろ向きになり、渦を巻いてゆく。そして渦の中心を移動させ、徐々に機動隊に近づいて行く。

 鏡のようなジュラルミンの盾、動いてないので煌めいてはいないが、透明なフェイスマスクと青いヘルメットが、盾の上に並んで微動だにしていない。まだ五十メートルは離れているが、その距離を段々とリーダーが詰めてゆく。何が怖いと言って、この空間。車の走っていないアスファルトの黒い平面に続いている白い破線、その向こうに見える機動隊。その空間が怖い。三十メートル、二十メートル、近づいて行く。

 盾の後ろには装甲車が控えていて、これもジュラルミンの盾に囲まれた屋根の上で、指揮官がスピーカーから命令を叫ぶ。

 「中隊、前へ!」

 一斉に盾が動いてキラキラと光り、デモ隊の先頭とぶつかって鈍い音が幾つも、連続して響く。悲鳴とも雄叫びともつかぬ声が怒号となって渦巻き、カメラのフラッシュが無数に焚かれている。凄絶な光景だ。

 機動隊は警棒を使わず、盾を頭上に大きく持ち上げ、振り下ろしてヘルメットをぶっ叩いている。でも盾では面積が大きくて効きが悪い。デモ隊は首を縮めて遣り過ごす。警棒ならばメットは砕けデモ隊は血だらけで敗走するすかない。しかし過去のデモでそれが問題になり、新聞で叩かれた為、出来なくなっていたのだ。

 「回り込め!」隊長が叫ぶ。

 何の指示かと思ったら、機動隊員がデモ隊の側面に回り込み、弱い所、女の子を狙って引き剥がして行く。すると、そこから列は崩れ、分断され、一人一人両側から腕を掴まれて連れて行かれる。

 逮捕されるとマズイ。親に連絡され、少なくとも今の自由は無くなるだろう。下手をすれば賞罰が付き、噂の種に成りかねない。こうゆう賞罰、本人には勲章かも知れないが、親には堪えるのかも知れない。逃げよう。決めた。

 家にあった司馬遼太郎の歴史小説「関ヶ原」では、総勢二十万がぶつかり合った戦場から、島津は、たった千五百で脱出に成功している。どうやったのかと言うと、後に逃げず、前に、家康の本陣を目指して進み、目前で進路を変え、敵の背後を突っ切ったのだ。

 ここでも、前は指揮車があつて無理だが、横は機動隊も少なく、抜ければ歩道の群衆に紛れて逃げ切れるかも知れない。機動隊が列の左を崩している。隣の男が抵抗している隙に、機動隊員の腕の下をすり抜けて歩道の方へ走る。

 「待て!逃げたぞ!」と、隊員が叫んだが、構わず、走り抜けた。

 群衆の人々は走って近づくと避けて道を開けた。密集が裂けたのだ。それでも、縦には走れず、肩を横にしてサイドステップで群衆の奥へ紛れ込み、地下街への降り口を探し、階段を二段飛びにして降り、サンロード地下街を走って国鉄の名古屋駅を目指した。機動隊が笹島の方から来ていたからだ。

 だが、地上に出るのは危険だ。下宿に帰るには、上に出て駅の中央コンコースを通り抜け、新幹線口から太閤通りに出なければならない。出入口、改札の前などは固められているに違いない。足が止まった。振り返って後ろを見たが、機動隊の姿はまだない。ぐるりと見渡すと、一度入ったことのあるジャズ喫茶の入り口の扉が目に入った。壁の真ん中に古い木製の扉だけの店構えだが、中は広い。生バンドの演奏が聴ける。ちょっと迷ったが、扉を開けた。

 入ったが、休憩中なのか誰も出て来ず、席の方も、立ち上がる人もいれば座ったまま喋っている人もいて、ガヤガヤとざわついている。ステージではピアノの前で赤いスパンコールのドレスの女性歌手と黒いタキシードの男が立ち話をしている。何かの打合せだろうか、男の手が円を描くように動いている。それらを横目に隅を辿ってトイレを目指した。そこに隠れて時間の経つのを待つ積りだ。

 店の奥の、男子トイレの一番奥の個室の便器に座り、鍵を下ろし、一息ついた。休憩中だからだろうか、次々に人が入って来て用を足し、手を洗い、出てゆく。タイル張りなので音が響き、動きに対応した音響効果になり、時折、話し声もするが、二つある奥の個室に入る者は居なかった。

 演奏が再開したのだろうか、ひとしきり静になり、誰もいなくなったようだ。立ち上がり、何かないかとポケットを探ると、ピースのひしゃげた箱を見つけた。開けると、潰れた最後の一本が出てきた。指で真っ直ぐにし、同じ箱に突っ込んであった百円ライターで火を点け、煙を吸い込んだ。息を止め、目を瞑り、効いて来るのを待つ。興奮しているのか、なかなか効いて来ない。指で摘まんでもう一息吸ったが、指先が少し震えている。今ごろになって武者震いし出したようだ。

 微かにハスキーな女性歌手の歌声が聴こえる。ピアノの高音部も鳴っているが、ベースのリズムが最高だ。目の前の扉が共鳴しているのかと怪しむくらいに響く。演奏中は機動隊も踏み込めないだろうと考え、もう一口吸い込んで息を止め、立ち上がって吸い差しを便器に捨て、水を流した。二時間ほど隠れ、帰ったが、鋭敏になった耳のおかげで退屈することはなく、焦ることもなかった。

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