海と夕暮れ。私と凛。
烈川エト
本文
私は生まれてからずっと、この町で育った。特別なものは何もない。ただの田舎町。でも海があった。子供の頃から嗅いでいた潮の匂いは、いつしか日常の匂いとなり、私の中に溶け込んでいた。
今日の天気は快晴。雲一つ見えない状態のこと。中学校で習ったのをふと思い出す。私はあてもなく、海沿いを歩いていた。
この道は私にとってはいわゆる『庭』というもの。小学校までの通学路だったから。道中には昔ながらのカフェ、小さい水族館がある。ちなみにカフェのおすすめメニューはオムライス。
海沿いの道はうねっているイメージがある。この道もまた、そのイメージを強調させる要因の一つだ。
しばらく歩き続けていると、花を発見した。何種類も綺麗な花がそこにはある。何かのお祝い?
「おーい!」
一人の女の子が私の方に向かって駆けてきた。手をぶんぶんと振りながら。元気な様子がもう、それはそれは伝わってきた。
「お久だね。杏ちゃん」
「それな。今夏休みだし。にしても本当に元気だな、凛は」
凛が私の名前を口にした。なぜか懐かしさがとてつもなく込み上げてきた。不思議だ。
「杏ちゃんに話したいこといっぱいあるんだよね。今日のあたしは、もう止まらないぜ」
「ほう」
今日の凛はやる気に満ち溢れている。昔からそういうときの凛の話は面白くない。というか、しょうもない。だけど凛が楽しそうに私に話しかけてくれると、どんな話でも聞きたくなった。
私たちは海沿いを歩き始めた。
「それじゃ手始めに、あたしが海でフランクフルトを十五本食べた話とバイト先で肉まん二十個廃棄にした話、どっちがいい?」
いや、クセ強すぎ。だけど二つとも気になる。
「じゃあ肉まんで」
「よし、じゃあフランクフルトね」
「おい」
どうやら凛に遊ばれているようだ。凛のくせに生意気だな。このやろー。
私と凛は小学生からの知り合いだ。かれこれもう何年も経つ。小学校入学前、凛とは夕方の浜辺で出会った。誰もいない浜辺で、凛は一生懸命一人で砂のお城を作っていた。私は不思議な子がいるなと思った。まじまじ見ている私に気がつくと、凛は笑顔でスコップを一つ差し出した。その日は暗くなるまでお城を作った。その後、同じクラスになったのがきっかけで仲良くなった。ちなみにその浜辺は今私たちの右手にある。
そこからは色んな場所でよく遊んだ。特に多かったのは、やはり海の浜辺だった。水平線に落ちていく太陽が今でも目に焼き付いている。
そんな昔のことを思い出していると、凛が持ってきた手始めの話は終わっていた。
「どう? あたしが持ってきたスーパー爆笑エピソード。めちゃ面白かったでしょ」
「そりゃもうお腹いっぱいですよ」
「面白かった?」
「うん」
「……」
凛は一瞬少し寂しそうな顔をした。それはいつもの凛には似合わない。そんな顔すんなよ凛。やっぱり凛には笑顔が似合うよ。
「ねぇ、杏ちゃん。覚えている? 始めて会ったときのこと」
「もちろん。覚えているよ」
凛は浜辺を見渡しながら言った。テンションは高くないが、落ち込んでいるわけではなさそうだ。ただゆっくり、何かを思い出すかのように。
「あたしさ、あのときはまだこっちに引越して来たばかりでさ。友達もいなかったから嬉しかったんだ。本当に」
「そっか」
正直、凛がそんな風に思っていたのは意外だった。私は人見知りだし、話すのも得意じゃない。凛は小学生の頃から人当たりが良く、人に囲まれていた。そんな凛でも私と似た不安を持っていた時期があったらしい。人とは分からないものだ。
「あれからさ、色々あったよね」
「そうだね。凛とはずっと一緒だったからね」
「あたしは中学の修学旅行が今でも忘れられないなー。杏ちゃんがみんなの前で派手に転んだやつ。あれは腹抱えて笑ったよ」
「いいよ、言わないで。めちゃめちゃ恥ずかしかったんだから」
私はよくクールに見られてしまう。それもあって恥ずかしさは普通の人の五十倍くらいだったと、今でも思っている。
「高校受験も頑張ってさ、同じ高校に入るために一緒に勉強したよね」
「私が凛の勉強を見てあげたんだぞ」
「あたし本当にギリギリだったもんね」
私は理系科目が得意だったから凛に数学を教えてあげた。その代わりといって、凛は私を夕飯によく誘ってくれた。おばさんの筑前煮うまいんだよなー。
「高校に入ったらクラスが別になっちゃったけど、何かと一緒にいたよね」
「だって同じ部活入ったんだもん。そりゃそうだよ」
私は一組で凛は七組だった。七組の方が、昇降口が近くて羨ましかった。ちくしょう。
私たちは高校でボランティア部に入った。活動内容は地元のボランティア活動にめちゃめちゃ参加するって感じ。浜辺の清掃からお祭りの屋台の手伝いまで。
時々『遠征』という名目で遠くの街までボランティアに行くこともあった。福岡の街は綺麗で食べ物も美味しくて、最高だった。
「二人でボランティア部に入ってさ。色んな場所に行ったよね。あたしはね、一番感動したのは北海道の海鮮」
確かに。あれもまことに美味しかった。
「色んな場所に行ってさ、夢ができたよね。大学生になったら日本中だけじゃなく、世界を二人で旅するって」
「決めたね」
「……」
「凛?」
「決めたよね……?」
「凛……」
「ねぇ、答えてよ……杏ちゃん」
また凛が寂しそうな顔をした。
「ねぇ、杏ちゃん。杏ちゃん。なんで」
凛……。
「なんで死んじゃったの?」
……。
「あたし……もう、大学卒業しちゃうょ」
最後の言葉になるにつれて声が小さくなっていった。そしてその声は震えていた。
私は数年前に死んだらしい。といか死んでいるのか。
高校三年生の夏。いつも通り学校に行こうと自転車を漕いでいた私は車にはねられた。一瞬の出来事だった。気がついたときには、制服姿のまま、この世界で透明人間のような存在になっていた。なんでこうなったのかは、私にも分からない。
今日はいわゆる私の命日というやつらしい。
「話しかけたって何も返ってこないのにね」
ちゃんと聞こえているよ。それを伝える術はないけど。
「杏ちゃん。浜辺に下りてみようよ」
凛は石階段を使って浜辺に下りた。私もその後に続く。
そこは紛れもなく、私たちが出会った場所。
「ごめんね、杏ちゃん。本当はもっと早く会いに行こうと思ってたんだ。だけど、怖くて。どうしても行けなかった。ごめん」
謝るなよ。私は今日、凛に会えたことが単順に嬉しいんだ。
「杏ちゃんがいなくなった後、杏ちゃんの分も生きなきゃって決めたんだ。でも普通に大学生活を楽しもうとすると同時にさ、杏ちゃんのことを忘れ始めていることに気がついたの」
そんなこと気にしないでよ。
「あたし、最低だよね」
凛は両手を顔にあてた。指と指の間から雫がこぼれる。
「あたしは……どうしたらいいの?」
ああ、自分の無力さに嫌気がさす。私は大丈夫だよって、一言伝えたいだけなのに。私にはできない。
それでも、という思いで足を一歩踏み出した。すると右足に違和感を感じた。そこにはあの日と同じような砂の城があった。いつもは透けるから違和感なんてないのに。
それに反応するかのように凛がこっちを向いた。
「あん……ちゃん……? そこにいるの?」
びっくりした。凛には見えてないはずなのに。
「ねぇ……杏ちゃん」
大粒の涙が凛の目からこぼれている。そんな、そんな顔されたら。
「い、いるよ。ここに、いるよ」
その瞬間。突然眩しさが私を襲った。視界が真っ白になり、私は思わず目を瞑った。
目を開けた。するとそこは既に夕方の浜辺だった。足元にはあの時作った『砂の城』がある。誰かではなく、私と凛で作った城だ。
「杏、ちゃん……」
凛が私を呼んだ。
「あぁ……杏ちゃんだ……」
「見えて……るの?」
「う、ん。こんな、こんなことあるんだね」
私の目に涙が、溜まっていくのが分かった。
「ずっと、ずっと会いたかったよ。杏ちゃん」
その言葉に私の中に溜まっていたものが決壊した。
「私だって、私だって会いたかったよ」
「杏ちゃん、まだ制服なんだね」
指で涙をすくいながら凛は言った。
「凛はすっかり、もう大人の女性って感じだね」
えへへ、と凛は照れているようだ。
「やっぱり凛は笑顔の方が似合うよ」
「そう、かな」
泣き顔は似合わない。でも凛は悲しそうな顔をしている。
「あたし嫌だよ。怖いよ。これから生きていて、少しずつ杏ちゃんのこと忘れていって。一日に一回思い出していたのが一週間に一回、一ヶ月に一回になって。いつかは杏ちゃんのことすら忘れちゃうんじゃないかって」
凛は再び大粒の涙をこぼした。
優しいな凛は。久しぶりに話すと余計にそれを感じる。外見は大人になっても、中身は何も変わっていない。
「大丈夫だよ」
凛がこっちを向いた。目がもう真っ赤だ。
「凛が私のことを思い出さなくなっても、私たちが同じ時間を一緒に過ごしたことは何も変わらないんだよ」
「う、うぁ……」
また泣いた。よく泣くな。このむすめは。この……。
「でもさ」
私も声が震えてしまうのを堪える。
「全く思い出してくれないのは寂しいから、一年に一回くらいは思い出してよね」
笑顔で言ったつもりが、私の目からもこぼれ落ちていた。
「そうすれば私は凛の中にいられる。凛が見たもの、食べたもの、全部私も、私も感じられるんだよ」
「杏ちゃん……杏ちゃん……」
私の名前を呼びながら、凛は膝をついてしまった。ずっと泣いている。
私は凛に近づいて頭にそっと手を置いた。やはり触ることができない。だからかざしたという表現が正しいのかな。
「温かいね。杏ちゃんの手」
「そうかい」
良い笑顔だ。
「あたし忘れないよ。これから先、何があっても。もし忘れても絶対に思い出すよ、杏ちゃんのこと。ちゃんと、頑張って生きるよ」
別れとは寂しいものだ。でも何も変わらない。もう二度と会えなくても、声を聞けなくても。一緒に砂の城を作ったことやお祭りに行ったこと、この海沿いを歩いたこと、全て変わらない事実で思い出だ。私たちは間違いなく、あの時間を共に過ごした。
「うん。だから私は大丈夫だよ」
凛は今まで一番の笑顔を私にくれた。
あぁ、そうか。私はこれを伝えるために、この世界に残っていたのかな。
ある夏の日。
暑いはずなのに、不思議と涼しい。
美しい夕暮れの中。
私は、この世界から消えた。
海と夕暮れ。私と凛。 烈川エト @retukawa
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