後編
僕は彼女の後をついていくだけなのだが、その足取りは自分で思っているよりも軽快なように思えた。誰かと話したのなんて久しぶりだったし、それもこんなに可愛い子だなんて今までの不幸が帳消しになるんじゃないかと思ってしまった。
一体どこまで歩いていくのかなと思っていたのだけれど、彼女は公園前にある三階建ての家の前で立ち止まった。
「ここがあたしの家なんだよ。今はあたし一人で住んでるんで、遠慮しないで入ってね。それにさ、あたしの部屋からは先輩があのビルの屋上にいるのが丸見えだったんだよ」
「一人で住んでるって、家族はいないの?」
「家族はいるんだけどね、弟が入院しててみんなそっちの付き添いに行ってるんだ。あたしもそっちに行こうかなって思ってたんだけど、ママもパパもあたしには高校があるんだから大丈夫だって言ってるんだよ。あたしは家事は一通りできるんで問題ないって思われているのかもしれないけど、学校自体に行ってないのを二人とも知らないんだよね。でも、あたしは別に学校になんて行かなくてもいいんじゃないかなって思ってるんだ。だってさ、学校に行っても楽しくないんだもん。先輩もそうでしょ?」
「まあ、学校は楽しいところではないと思うけど、ご両親が心配するといけないから時々は学校に行った方がいいんじゃないかな」
「はあ、先輩ならわかってくれると思ったんだけどな、でも良いの。そんな先輩にお願いがあるんだけど、あたしのお願いを聞いてもらえるかな?」
「お願いって、どんなお願い?」
「あたしはさ、一人の生活にも飽きちゃってて、ちょっと刺激が欲しいなって思ってるんだよね。だから、今日からあたしと一緒に暮らしてイイ事していこうよ。ねえ、先輩は死ぬつもりだったって知ってるんだからさ、死ぬ前にあたしと楽しい事をして過ごそうよ。どうせ死ぬんだったらさ、最期にあたしを楽しませてほしいな」
人生において不幸が続いているといつかそれが幸福に好転することがあると聞いたことがある。そう考えると、僕が今までずっと不幸だったのはこの日のための長い助走期間だったのではないかと思えてきた。
イイ事がどんなことなのかはわかっていないのだけれど、僕は誰にも言えないような事を頭の中で想像している。それも、その相手は目の前にいるとても可愛い女の子なのだ。
「そうだね、君の言う通りにしようか。僕に出来ることがあったら何でも言ってね。出来ることは何でもするからさ」
「嬉しいな。先輩はお腹空いてたりするかな?」
「うん、お腹は空いているよ。実は、屋上に行くときは朝も昼も食べないことにしているんだよね。なんか、お腹に物が入ってると飛び降りた時に汚くなるんじゃないかなって思っちゃってね。下に落ちたらそんなの関係ないってのはわかってるんだけど、なんとなくそんな習慣が出来ちゃってるかも」
「そうなんだ。じゃあ、あたしが何か作ってあげるよ。でも、ご飯の前にお風呂に入ってきてもらおうかな。先輩って、替えの下着とか持ってきてないよね?」
「うん、持ってきてないよ。お風呂に入るなんて思ってなかったからね」
「そっか。じゃあ、パパが買い置きしてる新品があるからそれを使ってもらおうかな。お風呂まで案内するから、そこにあるのをどれでも使っていいからね。あと、全身綺麗に洗ってくれたら嬉しいな」
僕は彼女の後についていってそのままお風呂を借りていた。ウチのお風呂よりも広いお風呂で落ち着かなかったのだけれど、湯船も広かったので思いっきり足を延ばすことが出来た。
そして、僕はいつも以上に念入りに体を洗い、新品のトランクスを履いて用意されているパジャマに着替えた。パンツもズボンもサイズはおかしくないのだが、パジャマのシャツの袖が異常に長い作りになっていた。僕の手を通しても腕一本分くらいの長さが余っていたのだ。これが萌え袖というやつなのかと思っていたけれど、男がやっても仕方が無いように思えていた。
お風呂から出た僕は空腹で今にもお腹の音が聞こえそうになっていたのだが、先程までいたリビングにもキッチンにも彼女の姿は見当たらなかった。トイレにでも言ってるのかなと思ってソファに座って待っていたのだが、しばらく経っても彼女がやってくることは無かった。
もしかして、ここは彼女の家ではなく誰か他人の家なのかと思っていたけれど、入る時には鍵を開けていたのを見ていたし、飾られている家族写真にも彼女の姿が映っているので、ここは間違いなく彼女の家だとは思う。それでも、見えるところにいないというのは不安になるものだ。
「あ、もうお風呂から出てたんですね。ご飯なんですけど、もう少し後でもいいですか?」
「別に後でも構わないけど、何かあったのかな?」
「あのですね。あたし、ちょっと我慢出来そうにないんですよ。だから、先輩はあたしと一緒に地下に降りてもらえますか?」
「地下?」
「はい、ちょっとだけ掃除してたんで大丈夫だと思うんですけど、汚かったらごめんなさい。でも、地下じゃないとあたしは困っちゃうんですよ」
「まあ、君がそういうならついてくよ」
僕たちは階段の裏にある小部屋に入り、そこから地下へと続く階段を下りて行った。地下という事で、なんとなくジメジメしているような感じもしていたのだが、それ以上に何か鼻を突くような嫌な臭いを感じていた。嗅いだことのないような臭いではあるのだけれど、何か本能的に嫌悪感を抱くような臭いが鼻先にまとわりついていた。
「なんか、凄い匂いがしてるようだけど、大丈夫なのかな?」
「大丈夫ですよ。すぐになれると思いますから。それに、たまにはそんな刺激も必要なんじゃないですかね」
僕はその発言の奥に何か嫌なものを隠しているような気がしていたのだけれど、目の前にいるこんな可愛い子が僕を誘ってくれることなんてこれから先も絶対に無いと思うので、僕は自分の感覚よりも本能を優先させることにしてしまった。
「じゃあ、先輩はあの椅子に座ってくつろいでいてくださいね。ちょっと準備してきますから」
彼女は地下室の重い扉をゆっくり開くと、部屋の中央に置かれている一人掛けのソファを指さしていた。僕はそれに従ってソファに座っていたのだけれど、背もたれに寄りかかると思っていた以上にリクライニングしてしまった。どうやって戻すのかと思ってたのだけれど、僕の隣にやってきた彼女は僕の腕を掴むとそのままひじ掛けに乗せてベルトで固定してきた。僕はされるがままに固定されていたのだけれど、ソファが完全にリクライニングした状態になって僕は頭と両手足を動かないように固定されていた。横を向くことも出来ないくらいきつく頭を固定されていたし、手足もどんなに力を入れても動くことが出来なくなっていた。
「どうですか、リラックス出来そうですか?」
「頭と手足についてるのを取ってくれたらリラックスできると思うよ」
「まあ、それは気にしないでください。あたしが先輩のして欲しいことを全部してあげますから、楽にしててくださいね」
僕は腰以外は動かない状況に置かれているのだが、耳元で囁かれた言葉に思わず興奮してしまっていた。僕にこんな性癖があったなんて気付かなかったのだが、身動きが取れなくなるというのは征服されているような気になって案外悪いものではないのかもしれない。
そんな事を思いながらもなんとか彼女の姿を見ようとしているのだが、首が動かないので視界の端でも彼女を確認することは出来なかった。僕が一生懸命に首を動かそうとしているのを感じ取った彼女が近付いてきて、僕が倒した背もたれを少し緩めの角度に変えてくれたのだ。これで無理をしなくてもちゃんと彼女の事が見えると思ったのだが、彼女の近くにいつの間にかテーブルが設置されていて、その上には無数の針金のようなものが置いてあったのだ。
「最初は見えない方がいいかなって思ったんですけど、先輩はやられているところを見たい感じだったんでその角度にしときますね。でも、自分がやられるところを見たいなんて、自殺しようとしている人は変わってますね」
「やられるところって、どういう事?」
「どういう事って、今から先輩にこの針を刺していくんですよ。大丈夫です、そんなに痛くないですから。きっと、気持ちいいですよ」
「あの、それって針治療の針じゃないよね?」
「そうだと思いますよ。色々試した結果、これくらいの太さだったらそんなに痛みを感じないみたいですから。ほら、痛くないでしょ?」
彼女は嬉しそうに笑いながらそういうと、僕の脚に針を三本刺していた。刺された事に気付かないくらいだったので痛みは無かったのだが、足に刺さっていることを認識したとたんにズキンとした痛みに襲われた。
「あ、痛いかも」
「そうなんですか。先輩は男の子なんだからもっと我慢してくれなきゃダメですよ。ほら、次は違うところに刺しましょうね。見えなきゃ痛くないかもしれないですし、今度は見えない場所にしましょうね」
僕は頭に鋭い痛みを感じていた。まさかとは思うのだけれど、頭にあの針を刺したのだろうか。触って確かめることも出来ないのだけれど、頭はどう考えてもマズいと思う。
僕はその後も二の腕や太ももやお腹などいろいろな場所に針を刺されていたのだけれど、途中から本当に痛みを感じなくなっていた。それどころか、針を刺してくる瞬間に彼女がするため息を見ると嬉しくなってしまっていた。
なんだかわからないけれど、僕は彼女が刺してくれる針ではなく、僕に針を刺している彼女の事の方が気になっていた。もう、針が何本刺さっているのかわからないけれど、もっと何本でも彼女に針を刺してほしいと思っていた。
「先輩って、あたしが思った通りの人だったんですね」
「思った通りの人って?」
「先輩って、変態ですよ。変態」
「そうかもしれないね」
自分でも驚くくらい体中に針を刺されているし、ところどころ血が滲んでパジャマもどす黒く変色していた。それでも、僕は彼女が針を刺してくれるのを今か今かと待っていたのだった。
彼女が用意してあった針が何本あったのかなんてわからないけれど、その全てが僕に刺さっていたのは間違いなかった。
その姿を鏡で見た時、僕は痛みではない強い衝撃を頭に感じていた。全身に針が刺さっているのにもかかわらず、僕はその事に痛みを全く感じていなかった。痛みが鈍化しているだけなのかもしれないが、その自分の姿に今まで感じたことのない幸福感さえ覚えていたのだ。
「全部刺しちゃったけど、先輩は大丈夫ですか?」
「不思議なんだけど、全然痛くないんだよね。むしろ、今まで味わった事の無いくらいの幸せを感じているかも」
「良かった。先輩もダメだったらどうしようかなって思ってたんです。でも、先輩は最後まで付き合ってくれて良かったです。死にたいって思ってる先輩だけ死なないって面白いですね」
「これが何なのかはわからないけど、君が嬉しそうでよかった」
「はい、あたしもこれで満足出来ました。先輩はもう少しそうしていてくださいね。あたしはちょっと用事を済ませてきますね」
彼女は再び重い扉を開けて外へ出ていったようだ。
僕は自分の姿が映しだされている鏡をずっと見ていたのだが、パジャマの白い部分がゆっくり染まっていくのをじっくりと眺めていた。
時計も無いこの部屋で聞こえるのは自分の吐息と時々針同士がぶつかり合う音だけなのだ。
どれくらい時間が経ったのかわからないけれど、扉が開く音が聞こえた後に僕の目の前に知らない男の人が三人やってきた。
その人達は苦痛を感じたような表情だったり、僕を見て一瞬で目を背けたりしていたのだが、三人とも僕に何か話しかけているようではあった。だが、僕の耳にはその人達の声は届いていなかった。
僕が目を覚ました時、僕に刺さっていた針は全て抜かれていた。手足を動かすことは出来なかったのだが、首を少し動かすと全身に包帯を巻かれているのだけは見ることが出来た。布団もかけられずに包帯でぐるぐる巻きの状態にされていたのだが、針を刺されていた時と違って僕が動くと包帯がすれて鈍い痛みを感じていた。
僕が体を動かして周りを見ようとしていると、僕に気付いた両親が今まで見たことも無いような泣き顔で何かを言っているようなのだが、僕には両親が何を言っているのかさっぱりわからなかった。
それからしばらく経って、自力で歩くことが出来るようになったのだけれど、相変わらず誰の声も聞こえることは無かった。
音のしないテレビを見ていたのだけれど、そこには僕が彼女と一緒に居た家が映しだされていた。
テレビには、高校生の長女が家族を惨殺したと書かれていたのだけれど、僕についての記載はどこにも見当たらなかった。
司会者が悲しそうな顔をして何かを言っているのだけれど、僕の耳にはその言葉は届かなかった。
隣には僕の手を握って泣いている母親がいたのだけれど、僕はそれに何の感情も抱くことは無かった。
結局僕は死ぬことが出来なかったのだけれど、どうせなら彼女の手で死んでみたかったなと思っていた。
彼女が誰なのか、今どこにいるのか、何もわからないけれど、いつかまた出会えたらいいなと思う。
僕は彼女に会えるその時まで、死なないと決めたのだ。
死にたい僕と、死なせたくない彼女 釧路太郎 @Kushirotaro
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