死にたい僕と、死なせたくない彼女

釧路太郎

前編

 家族にあてた手紙を書くのはもう何度目だろう。今まで書いていた手紙の全てを集めて読んでも、僕の言いたいことの半分も伝わることは無いと思う。でも、僕はそれでいいのだと思っていた。

 僕は小さいころから遠くの景色を見るのが好きな子供だったと思う。空を見るのは昼も夜も好きだったし、車の中から見える遠くの山の稜線をひたすら目で追いかけていたこともあった。


 僕は遠くを見過ぎていたのかもしれない。近くにあるちょっとしたことにも気付かないくらいだったし、僕はもう何もする気力もわいてこないのだ。

 なぜか、遠くに見える山よりもビルの屋上から見下ろすコンクリートの地面の方が遠くに感じていた。そんな事は錯覚だと思っているのだけれど、僕にとっては見知らぬ誰かが行きかうこの街よりも、人のいない自然に囲まれた山の中の方が近いように感じていた。


 僕は落下防止用の柵に手をかけて向こう側へ行こうと思っているのだけれど、どうしてもこの柵を乗り越えることが出来ないでいた。勢いをつけて乗り越えてしまえばそのまま下まで行けると思うのだけれど、僕にはその一歩を乗り越えることが出来ずにいた。

 今日もこのまま遠くを見て家に帰ろうかと思っていたのだけれど、今日に限っていつもと違う事が起こってしまった。

 誰も来ないと思っていた屋上に誰かがやってきてしまったのだ。僕は本能的に怒られることを察知して隠れたのだけれど、屋上にやってきたのは僕と同じ学校の制服を着た女子生徒だった。

 その女子生徒は先程までの僕と同じように柵のギリギリに立って下を眺めているのだけれど、何かを確認するように辺りを見回しながら僕の隠れている方へ歩いてきた。


「ねえ、誰か知らないけどさ、そこに隠れているんでしょ?」


 おそらく、この状況を考えるに僕に話しかけているとは思うのだけれど、僕はその問いかけに答えることが出来なかった。今まで僕に話しかけてくる女子がいなかったという事もあって緊張していたのかもしれないが、僕は単純に行けないことをしていたのが見つかったような気持ちになっていたので出ていく子が出来なかったのだ。


「出てきたくないならこっちから行くけどさ、そこにいるのわかってるんだよね。あたしも暇じゃないんで出てきてくれると助かるんだけど。いつまでも隠れているって言うんだったら、警備の人呼んじゃうよ」

「ごめんなさい。出ていくんで呼ばないでください」


 僕はあのまま隠れてやり過ごそうと思っていたのだけれど、警備の人を呼ばれると面倒なことになるのを知っていた。少なくとも、僕にもこの少女にも得な事は一つもないだろう。

 先ほどまでは後ろ姿しか見えていなかったのだけれど、こうして正面に立って顔を見てみると、全くもって見覚えは無かった。確かに、ウチの学校の制服を着てはいるのだけれど、学校内で微かにも見た記憶は無かった。他の学年なのかもと思ってみたのだけれど、そもそも僕には学校内に知り合いがほとんどいないので思い出せるはずもないのだった。


「時々見てたんだけどさ、いっつも柵のギリギリに立って何してるの?」

「何って、あそこから見える景色を見てただけなんだけど。ほら、あそこに立つと街の様子と遠くに見える山が見えるでしょ。それを見るのが好きなんだよね」

「へえ、確かにいい景色だね。でもさ、わざわざ地面を覗くように見る必要はなくない?」

「でも、人工物と自然物の対比でより良く見えるって事もあるからさ」

「そう言うもんなのかな。でも、言われてみたらそうかもしれないね」


 僕の言っていることはほとんどでたらめだ。そんな事は微塵も思ったことは無かったのだが、そうでも言っておかないとこの子は僕を引き留めようとするだろう。自殺しようとして何度も思いとどまっているなんて知られたら、僕は男として恥ずかしいじゃないか。


「でも、落下防止用の柵があるとはいえ、屋上の鍵が施錠されていないなんて不用心だよね。君はどうやってここに入れることを見付けたの?」

「どうやってって、鍵を持ってるからね」

「鍵を?」

「うん、このビルの鍵を持ってるよ」

「なんで?」

「なんでって、このビルは僕のおじいちゃんの物だからね。屋上は小さい時からの遊び場なんだよ」

「へえ、凄いんだね。でもさ、屋上で遊んでて危なくないの?」

「危ない事なんて無いよ。ボール遊びとかしないし、夏場に使うプールだって子供用の小さいやつだからね。それに、一人で屋上に言っちゃダメだって言われてるからさ」

「でも、今は一人で屋上に来てるんじゃないの?」

「そうだけどさ、一人で行くなって言われたのは子供の頃だったから」

「今だって子供じゃん。大人ではないでしょ」

「大人ではないけど、高校生だし」

「そっか、高校生なんだ。年下かと思ってた」

「年下って、中学生に見えたって事?」

「うん、絶対にあたしよりも年下なんだろうなって思ってたよ。どこの高校なの?」

「君と同じ高校だよ。その制服は南高のでしょ?」

「そうだよ。へえ、同じ高校なんだ。でも、あたしはほとんど学校に行ってないから学校の事はあまり知らないんだよね。君は学校の事良く知ってるの?」

「良く知ってるわけじゃないけど、そこそこ知ってると思うよ」

「じゃあさ、学校の事を教えてよ」


 僕はこの子に知っていることを教えてあげることになったのだけれど、残念なことに僕が知っていることなんてほとんど無かったのだ。二年生になっていればそこそこ知っていることもあるのが普通だと思うのだけれど、クラスの事も僕はろくに知らなかったのだ。

 学校の先生の事は良く知っているのだけれど、それは僕がクラスメイトと一緒に居る時間よりも先生たちと過ごす時間の方が長い事を証明することになるのだが、それを話している時点で僕はその事に気が付いていなかったのだ。


「二年生って事はさ、あたしよりも一つ上って事だよね。でも、知ってることってあたしとあんまり変わらなそうだね。あたしの家にも先生方がよく来るんだけどね、うちってパパもママもほとんど家にいないから居留守を使っちゃうんだ」

「先生が家に来るって、何かしたの?」

「うん、ちょっとね。でも、あたしは悪くないんだよ。向こうが変な事してきたからやり返しただけなのにさ、それで怒られるのってちょっと理不尽だよね。こっちの話も聞いてくれたらいいのにさ、向こうの話ばっかり聞いてるんだよ」

「それって、喧嘩でもしたって事なのかな?」

「喧嘩になるのかな。でも、あたしは本当は相手にしたくなかったんだよね。自分より下の相手に手を出すのって良くないでしょ。だから、あたしは手を出すつもりはなかったんだ」

「自分より下って、中学生と喧嘩したの?」

「いや、同じクラスの人だよ。なんか、入学式の日からずっとウザ絡みしてきてたんだけど、ちょっとやり返したら物凄い大げさに言ってあたしを悪者にしようとしたんだよね。そういうのって良くないと思うんだけど、君はどう思うかな?」

「同じクラスの人なのに下って、どうしてそう思ったの?」

「もう、あたしが聞いてるのに質問してこないでよ。でも、せっかく質問してくれたから答えるね。その人ってさ、名前は知らないんだけどとにかくブスだったの。性格って顔に出るんだなってくらいブスだったんだけど、なんかその人達のグループの中心だったみたいでさ、一人でいるあたしに対してグループでいることしか勝ってないと思ってるあいつがウザ絡みしてくるようになってたんだ。あたしはずっと無視してたんだけど、毎日毎日ウザ絡みされてイライラしちゃってさ、授業中にそいつに牛乳をかけてやったんだ。そうしたら、そいつが泣きわめいて大変なことになっちゃったんだよね。あたしの方が被害者だって言うのに、みんなあたしの事を悪く言うし。最初はちゃんと理由を言ってたんだけど、先生たちもあたしの言う事を聞き流すようになったんだ。だから、あたしはそんな学校に行くのを辞めたってわけ」

「そんなにウザ絡みされ続けるってヤバいね。結構長い期間そうされたの?」

「うん、入学式の日にされたんだ」

「入学式の日からずっとって事?」

「そうだと思うよ。だって、あたしが牛乳かけたの入学式の次の日だからね。もう、あたしの事を悪く言われるのに耐えられなくなっちゃって」

「え、入学式の次の日って、一日しか経ってないんじゃない?」

「そうかもしれないけど、あたしにとっては凄く長い一日に感じたんだと思うよ」

「まあ、大変だとは思うけど、我慢するのって辛いもんね」

「そう、そうなんだよ。我慢するのって辛いんだよ。誰もそれをわかってくれないんだよね。みんな我慢しろ我慢しろって言うけどさ、それだったらあいつも我慢するべきじゃないの。なんであたしだけ理不尽に怒られなくちゃいけないのよ。そう思わない?」

「確かにね。でも、我慢の限界なんて人それぞれだと思うし、無理するのは良くないと思うんだけどな」

「よくわかってるね。さすがは先輩だ。で、先輩はここで何しようとしてたの?」

「何って、景色を見てただけなんだけど」

「嘘だね。だって、ほら、これを見てみて」


 僕に差し出されたのは一通の手紙だった。そこには見覚えのある字で『遺書』と書かれていた。

 僕は隠れる時に遺書をそのままにしていたらしく、彼女はそれを見てしまったのだ。


「自殺するなんて良くないよ。何があったかなんて知らないけどさ、こんなところで死んだらダメだって。ここって思い出が詰まってるんでしょ?」

「そうだけど、思い出がたくさんあるからこそここが良いていうか」

「そんなのダメだよ。ここって先輩だけの思い出の場所じゃないんでしょ。先輩の家族とかにもたくさん思い出があると思うんだよ。だから、ここで自殺しちゃダメだって」


 僕は死ぬことを考えていた時には自分のことしか考えていなかった。辛い事が沢山あったこの一年間ではあったので、最後くらいは楽しい思い出に包まれて終わりたいと思っていた。

 でも、ここに楽しい思い出を持っているのは僕だけじゃないという事を聞かされた瞬間、僕の心の中にその言葉が染み渡った。確かにそうだ。ここは僕だけの思い出の場所ではないのだ。ここで死んでしまっては、みんなの楽しかった思い出が悲しい思い出に書き換えられてしまう。


「そうだね。ここは僕の死ぬべき場所じゃないね。ありがとう、君の言葉で考えが変わったよ」

「そうだよ。だからさ、どうせ死ぬならここじゃない場所にしようよ。あたしが最後までちゃんと見届けてあげるから安心してね」

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