雨の降る放課後に、君に入部届を渡したくて
三衣 千月
雨の降る放課後に、君に入部届を渡したくて
しとしと降る雨の中。校内に鳴り響くのは、下校時刻を知らせるチャイム。
独特の喧騒と静寂が校舎を満たす中、一人の男性が今は使われていない空き教室の前に立っている。
深く息を吸って、ゆっくりと吐く。彼は手に持った紙をまじまじと見つめてから、それを胸ポケットにしまい込んだ。紙には、入部届と書かれていた。
意を決して教室の扉を開く。
すると部屋の中で座っていた女性がすぐさま彼に声をかけた。
「や、健介。遅かったね」
「……ああ。転部の件で部長に捕まってさ。これでも急いで来たんだぜ」
彼は彼女の姿を見てどきりと心臓が跳ねるのを感じた。いつもと変わらぬ彼女の声だが、今日は雰囲気が違う。放課後の校舎という、このシチュエーションのせいだろうか。制服姿の彼女から目が離せなかった。
彼女は健介の姿を見た。そして「ふうん」と一言呟き、制服のスカートの裾をぺちりとはたいて、挑戦的な目をしながら、ゆっくりと足を組んでウインクして見せた。
「それじゃ、さっそくはじめよっか。生徒指導のヤマセンに見つかったら面倒だし」
「おう、そうだな」
彼は部屋に入り、積まれている机やら椅子やらの中から一脚、がたごとと乱雑に椅子を出してそこに座る。
息を短く吐いてから、彼は懐から先ほどの一枚の紙を取り出した。そこに記されていた入部届の字をもう一度見て、静かに頷く。それから彼女に向けて真っすぐ差し出した。
彼女が一瞬だけ驚きの表情を浮かべ、しかしすぐさま口の端を上げて不敵に微笑む。
「へえ、今日は正攻法でくるんだね」
「やっぱりこれが一番だと思ってな」
それは、これまで、幾度となく繰り返されてきたやりとり。
彼は、入部届を彼女に手渡すことを望んでいる。これは、ある種のゲームのようなもので、彼女が所属する部活に入るための儀式的なやりとりだと言ってもいい。部に入るための条件は一つ、相手に入部届を受け取らせること。
彼女は、とある部活動の、たった一人の部員であり、つまり部長であった。部長、兼、部員の一人二役をこなすかたわら、常に部員は募集していた。多くの者(主に男子生徒、稀に女子生徒)がその手に入部届を握りしめ、彼女の元を訪れた。
だが、彼女はただの一度たりとも、誰からの入部届も受け取らなかった。
中には彼女の鞄にひっそりと届を忍ばせる者や多勢で取り囲むようにして受け取りを迫った者もあった。
しかしそれでも、彼女は常に孤独に部活動を続け、そして今に至るのである。
頑ななまでの彼女の態度に、入部希望者は一人減り、二人減り、今ではもう、彼だけが入部届を持ってくるのみとなっていた。
そして彼女もまた、彼が入部届を持ってくるのをいつも楽しみにしていた。
「それで、今回はどうやって渡してくれるのかな? まさか素直にはいどうぞってだけじゃあないよね」
「ああ、もちろん。でも、その前に一つ質問していいか」
「もちろん、なんなりと。でも、手短にね。早くしないとヤマセンに見つかる」
「……あのさ、来週フランスに行くって、本当か?」
彼女は不敵な笑みを崩さない。くつくつと笑って、彼に向かって言った。そしてさも当然といったように「本当だとも」と言ってのけた。
「あれだよ、俗に言う、親の御都合。ああ、断っておくけれど旅行なんかじゃないよ。国境を越えたお引越しってやつさ」
「じゃあ、今日が最後のチャンスなんだな」
そう言うと彼はネクタイを緩め、小さく咳ばらいをした。何度、彼女とこうして話をしただろう。いつもいつも、入部届は受け取ってもらえなかった。しかし、それは拒絶ではなかった。まるで正解を導き出すのを待っているかのような彼女と、繰り返し入部届を手渡そうとし続ける彼。
そんなモラトリアムに浸ったような二人の関係。それも、いつまでもは続かないことを、彼は突き付けられたのだ。
「最後のチャンス、モノにできるといいねえ、健介」
「なんだよ、そう思うなら素直に受け取ってくれたっていいだろうに」
「ふふ、そこはそれさ」
瞬間、彼は勢い込んで立ち上がった。はずみに椅子が倒れ、がたんと存外大きな音が鳴る。それは雨足が強くなり始めた外の天候の音と相まって雨降る夕方の校舎に響いた。
「わっ、なんだい驚いたなあ」
「これを見てくれ」
彼はポケットから刺繍の入った小箱を取り出した。ところどころにズレや歪な部分はあるものの、その装飾は全体としては良くできたものだった。彼女は一つ頷き、無言で彼の言葉の続きを待つ。
「今の俺の実力だ。これで、裁縫、料理、清掃、簿記のスキルは揃った。入部の条件として申し分ないと思う。前回までは確かに裁縫の観点が抜けていた。どうだ、これで完璧だろう。入部届を受け取ってくれないか」
彼はどうだとばかりに真っ正面から彼女を見つめる。そして二人の間に流れる静寂。
「はぁ……健介……」
彼女はがっくりと肩を落として首を横に振る。それを見て狼狽する彼。雨はいよいよ激しくなり始めた。
「ちょ、ちょっと待て! 部の活動内容としては申し分ないはずだろう!?」
彼は、これが入部届を渡す最後のチャンスだと思っていた。彼女は来週、遠くへ行くのだ。彼にとって、それを渡すことは自らの想いを伝えることと同義であった。
それが、こうもあえなく潰えることに、彼は納得できなかったのだ。
「いや、まあ、うん、そうなんだけどね。私が求めているのはこう、もうちょっと」
「これ以上必要なスキルは無いだろう。だって部活の名前は――」
彼女に詰め寄ろうとしたその時、部屋の扉ががらりと開いた。くたびれたスーツに身を包んだ壮年の男性がそこには立っている。部屋の中にいた二人を認めると彼は驚きの混ざった声で「お前ら、何やってんだ」と言った。
「あ、ヤマセンじゃないか。ご無沙汰してます」
「げぇっ、見つかっちまった。うす、お久しぶりっす」
ヤマセンと呼ばれたその男性は薄毛の進行くいとめやらぬ頭をがしがしと掻いて呆れながらに言葉を続ける。
「卒業してまで迷惑かけてくれるな。木下、後藤、ちょっと職員室まで来い」
控えめながらに落とされる、生徒指導教員からの雷。外は未だに雨が降り続いている。
○ ○ ○
職員室はかつてのままの風景だった。彼らが高校を卒業してから5年ほどしか経っていないので、当然と言えば当然だろう。
変わったことと言えば、ヤマセンの頭部戦線が少しばかり後退したことくらいだろうか。
彼らはかつてのように椅子に座らされ、ヤマセンは腕を組んで背もたれに体を預けている。
「で、どうした不法侵入者ども。確か、後藤は大学に行ったんだったな。もう社会人か?」
「うす、二年目です」
「いい年こいて何をやっとるんだまったく」
そうは言いながらも、ヤマセンの顔はどこか穏やかだった。不意に卒業生が訪ねてきたのだ。心憎からず思っている面もあるのだろう。ただし、彼らは無断で敷地内に入ったが。
「まあまあ、ヤマセン。多目に見てくれないかい? 健介には健介なりの考えがあったのだろうさ」
「木下、お前は確か専門学校だったな。その後藤の考えとやらが、卒業した高校の制服を着ることなのか?」
健介が慌てて割って入る。確かに母校に呼び出したのは自分だが、まさか相手が制服を着てくるなどとは甚だ思いもしなかった。
当年とって23になろうとする妙齢の男女であるのだ。このようなコスプレまがいを強要する男ではないと憤然たる思いで強く抗議をした。
「制服はこいつが勝手に着てきただけで……!」
立ち上がった拍子に、するりと入部届が床へと落ちる。
ヤマセンは両の掌を下に向け、まあまあとジェスチャーしてみせた。
「木下は昔から変な奴だったからなあ。あの、ほれ、部活とか何とか勝手に言ってたろう。顧問もいなかったのに。確か、ああ、そうだ、“お嫁さん部”だったか」
「正確には、“お嫁さんになりたい私のためだけの婿探し部”です。未だに良い旦那様は見つかりませんが」
「そりゃあ木下お前、高望みしすぎなんじゃないのか」
「たった一つですよ。私が相手に望む条件は」
それを聞いた健介が怪訝な顔で彼女を見るが、その視線を受け流して彼女は涼しい顔をしている。ヤマセンはふと下に落ちている紙片に気がつき、それを手にとった。健介は慌てて自らの胸ポケットを確かめるが、当然のように入部届はなかった。
ヤマセンが拾い上げたそれに書かれているのは『入部届』の三文字。少し目を細めそれを見て、次いで彼と彼女の方を交互に見る。そして何かに気が付いたように「あっ」と短く声を上げてその紙片をおずおずと彼に返した。
思い至ったのだ。お嫁さん部とやらに入部をすることの意味を。そして社会人となってわざわざ場を整えてまでそれを渡そうとすることの真意を。
「その、なんか、すまんな、後藤」
「う、いや、その……はい」
指三本でしずしずとそれを受け取り、耳の裏まで赤くしながら項垂れる彼。
それを横目に見ながら、彼女はすっくと立ちあがった。
「健介、いたたまれない時は人生の先達に慰めてもらうものさ、席は外しておいてあげるよ」
ひらひらと手を振り、彼女は職員室から悠々と歩き去った。
職員室に残された二人は気まずそうにしていながらも、恐る恐る教師が口を開く。
「その……、アレか? プロポーズ的なあれか?」
「的なアレっす。いやでも、さっきも受け取ってもらえなくてですね」
「お前も昔から不器用なヤツだったからな。あれだぞお前。男ならしっかりと相手を守ってやるもんだろう」
健介は情けなさそうな顔をしてヤマセンを見た。非難にも似た視線を送る最大の理由としては目の前の教師が未だ独身であることを知っている事、さらに付け加えるならば彼の悲しい頭部をかねてより見ており、その頭部戦線の維持に涙ぐましい努力をしていたことをよく知っていたからでもあった。
努力は実らない事を、教師はその身で以て示していたのだ。あえて頭部のことには触れず、健介は言った。
「ヤマセン、独身でしょ。あてにならねえっすよ」
「馬鹿もん。こういうのは古今東西万国共通だ。腹を括れ。覚悟ができたら帰ってよし」
こつん、と拳骨が健介の頭上に降る。その拳はとても慈愛に満ちていた。
健介が職員室を出た時には、まだ降りやまぬ雨音も、どこか柔らかいものへと変わっていた。
○ ○ ○
彼女の姿を探せば、どうやら一階の玄関前で待っていてくれたらしく、彼の姿を見るなり彼女は再び不敵な笑みを浮かべた。
「ヤマセン、なんだって?」
「ん……、腹を括れってさ」
「ふうん、そっか」
雨の中、校舎玄関から見渡す景色はそれでも懐かしく、彼女はそれを眺めていた。彼は思い切った様子で口を開く。
彼女は来週にはもう日本にいないのだ。今、この場で想いを伝えなくては、その機会は失われてしまうに違いない。
「なあ、本当に受け取ってくれないのか?」
「入部届かい? だって、健介からは受け取れないよ」
玄関へ向けて歩きだそうとする彼女の腕を掴む。たとえ、条件を満たしていないとしても。彼の気持ちに偽りはない。
確かに、これは彼と彼女のゲームのようなものだ。彼は、彼女に想いを伝えたい。そして、これから先の人生も共に歩んでいきたいのだ。
それを、入部届という形にして、これまで何度も手渡そうとしてきた。
彼女は心から拒絶しているわけではない。にこやかに微笑みながら、受け取らないといつもそう言っていた。しかしそれでも、今日が、今が最後のチャンスなのだ。
――腹を括れ、か。そうだな。もう、ゲームだのなんだのって言っていられないよな。
彼は勢い、彼女を引き寄せ、そして抱きしめた。彼女が短く声をあげて驚くのも構わずに。
雨の音にかき消されぬよう、はっきりと、力強く言葉を紡ぐ。
「行くな。理恵。フランスになんか、行くな。側にいて欲しいんだ」
気取った風でもなく、彼女の求める理想像になろうとするでもなく、ただただ言葉だけが彼と彼女の間にあるほんの数センチの短い距離を辿る。
彼の口から、彼女の耳までの、ほんのわずかなその距離を。
「結婚しよう」
返答の代わりにそっと、彼女の腕が彼に回される。優しい抱擁の後に彼女は満足そうに息を吐いた。
「さ、帰ろっか」
「……え?」
聞こえていなかったのだろうか。一世一代、渾身のプロポーズだったと思うのだが、と彼は混乱した。そんな彼を置いて、彼女は傘を差さず、躍るようにステップを踏んで雨の中へと軽やかに進んでいく。
「お、おい、濡れるぞ。風邪をひく」
「そうかい? それじゃあ、君の傘に入れてくれないかな」
「自分の傘はどうしたんだよ」
文句を言いながらも傘立てから自分の傘を掴んで開くと、傘の中に入れてあったであろう、はらりと落ちる一枚の紙片。
彼が拾い上げてみれば、そこには華奢ながらも確かな筆跡で、『入部届』と記されていた。
目を丸くする彼に、彼女は悪戯が成功した子供のように無邪気な顔で微笑んだ。
「ふふ、受け取ったね、確かに手に持ったね。そんなら、ゲームは私の勝ちだ。それが私からの返事だよ」
入部届を相手に手渡せば、それで入部が認められる。それは、彼と彼女がこれまで続けてきたゲームの唯一のルールであった。
ただし、いつでも彼が渡す側であったが。彼女が渡してはいけないという決まりは確かに無かった。
「私は、君が部長を務める部に、所属を希望するよ。私のお嫁さん部は廃部さ。ああ、もちろん、嫌とは言わせない。だって君は、私の入部届けを受け取ったのだからね」
彼はいまだ呆然と、何が起こったのか分からないとでもいったように彼女を見ている。そして数秒の後に、彼女の「本当に風邪をひきそうだから早く傘に入れてくれないかい」という言葉に我に返り、慌てて彼女の元へと駆け寄った。
「えっと、その、プロポーズはOKを貰ったと思っていいのか?」
「そうだね。いやあ、長かった。ようやく私もお嫁さんになれそうだよ」
二人で一つの傘を分け合いながら、校門をくぐる。雨は二人を包み込むように優しく降り続く。
「いくつか聞きたいんだが、分かりやすく説明してくれるか」
「健介、それは野暮というものだよ。私は今、この幸せに浸っていたいのさ」
「まぐれ当たりのような気がして気になってしょうがない。どうせなら、まぐれじゃなくいつでも君を幸せにしたい」
健介の腕がきゅう、と彼女に引き寄せられる。
「仕方がないなあ。私の部活の名前を思いだしてごらんよ」
少し口を尖らせた風を装って、彼女はそれでも笑みを崩さずに問い掛ける。彼女の部活は“お嫁さんになりたい私のためだけの婿探し部”をその正式名称として掲げていた。
彼がそれを反芻し、ゆっくりと口に出すと、彼女は人差し指の先をぴんと伸ばして先を述べた。
「そうとも。婿探し部に、婿にしたい人を入部させる阿呆はいないよ。私は、君のお嫁さんになりたかったのだから。君は一言、お嫁さん部を廃部しろと言えばよかったのさ」
「それならそうと言ってくれればいいのに……」
「ロマンティシズムを求めたいお年頃なのさ、私は」
「ああ、そうかい」
そこへ、彼の携帯にメールの着信を知らせる音が響いた。彼は画面を確認して、いくつか操作をしてから再びそれをしまい込み、溜息をついた。
「どうしたんだい」
「ん、部長からのメールなんだけど……どうしようかな」
「ああ、転部とか言ってたね。部署が変わるのは嫌なのかい」
「転勤も込みらしくてな」
「転勤ねえ、それはフランスよりも遠いところ?」
「いや、国内だけど」
「ならいいじゃないか。私はどこへだってついていくよ」
彼は彼女の方を向き直って「いいのか?」と思わず聞いた。彼女はフランスへ行く手筈だったのではなかったか。
しかし思い返してみれば、勢いのままに行くなと口走ったような気もすると、彼は自らの言動を遡っていた。
「ところで健介、さっきの刺繍の入った小箱。あれは私がもらっていいんだろう?」
「できれば格好良くやり直したいけどなあ。返してくれるつもりもないんだろ」
「もちろんさ。中身については後で薬指につけてもらうよ」
雨はいつしか小降りになり、西の空には微かに茜が射していた。
その雲間から射す淡い光に向かって、ゆっくりと二人は歩いていく。
一つに重なった影は、輪郭を暈しながらも長く伸びるのだった。
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