:最終話「実った恋は熟しても鳥には食べられない。」

実った恋は熟しても鳥には食べられない。

[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]

:最終話「実った恋は熟しても鳥には食べられない。」


…………………………


  ────熟しても食べられぬ実がありて、熟れたそれをあいと言ふ。


 頭の中から消えていた声が新しく鳴って、わたしの鼓動が更に高く鳴った。一目惚れのように世界が彩る。二回目の一目惚れだ。まったく、貴方はずるいなあ、なんて、呟き、はにかみ、にやける口元を隠すために唇を噛んで殺すのだけれど、隠し切れているのかな。あの日のように、本を物色しながら貴方を盗み見してみる。子どもだったわたしが必死になってやっていた事。ふと小説『彼岸の小さな恋』を見つけ、貴方が代わりに取ってくれた時とは違い、それが取りやすい高さに収まっている事にまたときめいてしまった。もしかしたら、貴方の“本”にわたしが記されているのかな、と。

 低身長組であるわたしにもやさしくなった棚から『彼岸の小さな恋』を取り、めくり、紙とインクの匂いを嗅ぐ。


 人々に愛された小説『彼岸の小さな恋』は時代に殺された。彼岸の獣を徴兵しやすくする為、内政の安定に彼らを吊し上げる為、彼らの人権を奪う為に焚書の代表として焼かれたのだ。現存している初版の一冊はわたしが持っている。だから、この棚に収まっていた初版も、またどこかから探してきた一冊なのだろう。奥付を開いて、出版社名、著者名を指で触れ、なぞる。幾度か、有志による再版の動きもあったらしいけれど『著しく配慮の欠けた差別用語の多い作品』だとして許可が下りなかった。その配慮に欠けた言葉を造り使っていたのは人間だ。だからこそ、その言葉たちを差し替えて再版するのは躊躇われる。今や使われない言葉たちを差し替えて“無かった事”にすれば、人間と彼岸の獣の間に起こった悲しい現実もまた“無かった事”と蓋をされて、ただの美しい恋物語になるだけだ。それは『傷付けない配慮』なんかではなくて、人間と彼岸の獣が歩み寄り、少しずつ理解を深め、思い合う事をやめなかったわたしたちの歴史や苦難への冒涜だと思う。


 言葉を塗り潰したからといって差別は無くならないよ。みんなが思うより、まだ、この世界はね…………、


「何か、お探しか?」


 相変わらず、ぶっきらぼうなくせに、やさしくあろうと鳴る声だなあ。


「ずっと貴方という本を探しています」


 このお店で『彼岸の小さな恋』を始め、多くの彼岸の獣と人間を扱った古書や歴史書を取り扱っているのは、貴方なりの“無かった事”にしない為の“抵抗”なんでしょう?


「わたしの事、忘れちゃった?」


 その眼鏡の奥にある目つきの悪い瞳は動じず、ゆっくりとまぶたが閉じられ「お茶を淹れよう。表のベンチで待っていなさい」と店の奥へ、その大きな背中が消えた。


 もう色すら褪せて真っ白になった写真のような大きな背中にも、また新しく色が着いたんだ。


 池の畔に置かれた白いベンチから睡蓮を眺めていた。子どもだった頃にも同じように眺め、画家のモネを思った事がある。彼が描いた『散歩、日傘をさす女』と『日傘を差す女』という作品を想い、彼の亡き妻カミーユに対する行き場の無い喪失感を想像して胸を痛めていた。だけど、今や感じていたはずの痛みすら思い出せない。成長というものが幼い頃に抱いた大切な感情すらも忘れさせる。大人になって色んな事を忘れてみてから分かったよ。人間は大切なはずの独特な痛みや感情を忘れるから彼岸の獣とだけではなく、人間とも上手く共生できないのかもしれないね。


「待たせたね」


 白磁器の湯呑み茶碗に注がれる赤いルイボスティー。ゆったりとした時間と一緒に漂う甘い香り。葉音が鳴り、睡蓮が浮かぶ水面に風が通った足跡が現れて、鳥が一斉に羽ばたく。ルイボスティーをひと口飲み、身体の内側から温かさを知って、美味しい、と、ため息混じりの安堵を言葉にした。


「本屋さん、潰れていなくて良かったです」

「黒板が消えないように、君が書いてくれていたんだね?」


 しばらく町を離れるからお店を休みます、という旨が手書きされていたボード。そのチョークで書かれた文字が風雨で消えそうになるから、ここに来る度に貴方の字の上を何度もなぞっていた。わたしがこの町を離れる時には、絶対に消えないよう、油性マジックでなぞったんだよ。


「お店が潰れちゃったって間違われると悲しいから」

「お陰様で、何とかやっていけている」




「あの……池にある石って、お墓ですよね?」


 わたしの言葉ひとつなんかで表情を変える事なんてなかった貴方のまぶたが、ぴくっ、と動く。やっぱり、あの石柱はお墓なんだね。


「花を……いつも手向けてくれていたのは君か?」

「いや?しばらく、わたしは町にいなかったから」


 華子だ。

 全く、何が『知らん』『行ってない』だよ。

 親友に嘘吐きやがって。

 まったく……華子のやさしさらしーなー。


 それから貴方がこの本屋さんを営み、彼岸の獣と人間の関係を扱った古書を売る事が、貴方なりの“抵抗”で“無かった事”にしない為ではないかという考察もぶつけてみた。すると、ため息を吐いて「ここまで、私にしつこい人間は“彼女”以来だ」と言って、少し微笑んだのだ。その“しつこさ”に観念したのか、湯呑み茶碗を置いて手を組み、池の中に立つ墓標を見つめた。


「どうして、あんな所に………?」

「二度と彼女を汚されたくない」


 ひっそりと隠すように建てる事も考えたらしい。しかし、それでは無花果さんが犠牲になった事よりも、生きた事を否定してしまうのではないかと考えた。今より偏見や差別が強かった時代に彼岸の獣に恋をし、結婚をして、笑顔で生きた女性。少し気が変わった時代なんかに殺された女性。


「この話はここで終わりだ。これ以上は君に話さない」


 口を紡いだ貴方を見て、ルイボスティーを含む。確かにその話は『無花果さんと貴方の話』であって、わたしと貴方の話ではない。それじゃあ、わたしとの話の続きを………、と、口にしようとしたけれど、急に唇が重たくなり開かなくなった。言葉を声にする喉が、首が、きゅっと締まる。大人になって、大切な感情を素直に伝えない事で守られる知恵を付けたから、感情を言葉にする喉元にナイフを突き立てられているように言葉にするのが、上手く下手になっていた。


「私が本屋を営むのが“抵抗”だとか、そんな大層な事ではないんだよ」


 わたしがうつむいてしまったのを見て気を遣ったのか、貴方はただ本が好きなだけだと笑う。そんな顔、しないでよ。貴方まで痛いのを“無かった事”にしないで。


 本は素晴らしい。本の数だけ世界があって、そこにはこれから友人や恋人、パートナーになる人たちが数多いて、数多の感情がある、と、話す内容が、全てわたしが本を好きな理由と同じだ。そして、ふと言葉が止まって貴方の視線が地に落ちた。


 貴方の虚勢が崩れた。


 貴方は無花果さんの事や全ての感情を“無かった事”になんか出来ないでしょう。だから、百何十年もここで人間を恨んでいて、それでも貴方は人間が大好きだから憎みきれないんでしょう。寂しい、苦しみを分かって欲しい、誰か話をしようって叫びたいんでしょう。貴方は苦しい、辛いって言いたくて仕方が無いのに、それを発する事を恥じているんでしょう。でもね、弱音を言わないのが強さじゃないんだよ。


「今、君は何をしているんだ?」

「………わたし……かあ」


 話が核心に近付いたから、わたしの話題に振ったでしょ。ずっと見てきたから、それくらい分かるよ。本当は興味なんて無いくせに、ばか。


 一度目の司法試験に落ちてから二年かけて勉強をし直し、二度目の試験に臨むもそれも落ちた。ほぼ弁護士になる事は潰えてしまったわたしに、向井さんが勧めてくれたのは、彼岸の獣に関係する福祉士や相談員等の資格。弁護士には区切りを付けて、それらの勉強を片っ端からやっていき、資格を取得していった。貴方を始め、彼岸の獣の助けになるのは戦う事だけでは無いのだと、華子と向井さんが気付かせてくれたから、気持ちを切り替える事が出来たんだ。


「この町が新聞に出ていて驚いたよ」


 福祉士の勉強をしていた時に資料として目にした新聞記事。昔、彼岸の獣の売買市場があり、多くの取引きが行われていた歴史を持つこの町が、その負の歴史に対して行政として初めて謝罪をした。今後は彼岸の獣に対する福祉サービスの向上や人権問題などに力を入れると宣言し、国からも補助や特区として、この町の施策をモデルとするらしい。


「ああ、三年程前だったか。名をなんと言ったか………」

「多知川さん」


 子どもの頃に出会った多知川さんは悪魔そのものだった。………というか、部下の眼鏡学芸員さんを殴る蹴るの悪魔…………いや、殴られていた本人が喜んで……いや、悦んでいたから………………趣味趣向的なアレかもしれない……まあ、それは置いておいて、幼い瞳に映った悪魔は大人の世界の厳しさや社会の仕組み、文化歴史等に対するこの国の鈍感さを、わたしが知らなかったからだ。多知川さんは悪魔と映るまでに彼岸の獣の負の歴史、この町の歴史を守る為に必死に戦う人間だったのだ。


 “歴史を直視する時に感情を入れてはいけない。それはどちらかを正義、どちらかを悪として見方を間違う。しかし、怒りや悲しみといった感情が双方にあった事実は広く伝えなければいけない”


 そう新聞に載っていた彼女の言葉。その後、行政のアドバイザーや国の委員会にもメンバーとして招かれている。今も『負の歴史がある町だからこそ』という姿勢は崩さず、訴え続けているのだ。かつて、冷たい印象しか残らなかった大人は、内に熱を秘めていたからこそ歌舞いていた人だった。


 手に包んだ白磁器のお茶碗に、いつかのミルクティーの缶のような刺す温かみは無く、ゆっくりとわたしの手を温める熱を包む。ゆったりと流れていた風が止み、静寂。


「十二、三年程前か、君は毎日のようにここに来ていた」

「うん、必死だったんだよ」


 貴方への一目惚れは完全な熱。完璧で美しい恋だったから結末も美しいのだと疑わなかった。自分の想像通りにいかない現実の方がおかしいとさえ思っていたよ。その後、貴方がいなくなり、わたしも町を出て、少しずつ冷めていか熱に気付かされたのは、追い求めるばかりに狂気を漂わせる数学者のような想い。それでも僅かに残った微熱が絵本のように街で夢想させ続けた。

 大学に、図書館に、資料館に、職場に泊まり込んで働きつつ勉強もして、いつも夕食はカップ麺と売れ残り半額以下のシールが貼られたお惣菜、あるいは二十四時間戦士御用達の牛丼屋さん。たまに大家さんからのお裾分け。家賃が六万五千円だった狭い、狭いワンルームのアパートで、たまに寝て、洗濯機を回し干して、服は畳まず床に放ったらかして、読まない雑誌に居住権を与える場所を借りただけだった。


 ……あと………………週末などに、たまにの休みの夜に、ちょっとだけ…………ベッドが軋む音やわたしの声等でうるさくしてしまっただけの部屋だ。


 今、思い出しても恥ずかしいな。おい。どこのエロ漫画展開だよと未だに思う。本当に華子をエロいだの何だの揶揄っていた自分が恥ずかしい。本当に…………。


 そんな街でのエロ込みの生活が、やがて微熱をも下げさせ幻想に取り憑かれていた事にも覚め、溺れていたはずの煌びやかな沼すらさえ渇き切って枯れていた事に気付いたんだ。ようやく、人並みに歩き出して、次の恋を受け入れ、何人かと付き合ってきたけれど…………。でもね、夢現の渇き枯れた沼でも、胸を痛めたのは気のせいじゃなくてね。頭の片隅にあるはずの思い出せない影は貴方の大きな背中で、聞こえないはずの声が、小さく、小さく、掠れた雑音として耳をくすぐるのは貴方の声なんだ。


 一目惚れは一時の熱ではなく、本物の恋だった。運命の人だと感じたのは気のせいでは無かったから、わたしを今日まで運んだんだよ。


「貴方とはどこかで会った気がしていたんだ。そのどこかでも恋に落ちた気がするんだよ」

「君は面白い事を…………」

「貴方も同じだったんじゃない?だから、避けたんでしょ?」


 生まれ変わりや来世では良い恋をなんて、鼻っから信じないさ。でも、想いは時を越える、それは今、証明しているでしょ。


「本を読む事って、初恋に似ているなーって思う」

「初恋?」


 そう、恋。初恋だ。新しい本を読む度にする初恋。何度も実をつけて、何度も熟す。決して、部外者である鳥には食べられる事のない、わたしだけの果実。


「わたしは夢を終わらせて、現実と変える為にここに来ました」


「恋は何度か実って鳥に食べられたけれど、愛だけは実ったまま熟して落ちずに残ったままだ」


 これで最後。これで最後にするからね。もし、貴方の口に合わない愛だったなら、わたしは自分で木を揺らして地に実を還して、さよならだ。


「熟れすぎて食べられないくらいに甘いかもしれないけれど、果実はいかが?」

「………百年の眠りにつく物語ならもうたくさんだ。これ以上、閉じ込められたくないんだよ」

「そう…………そうなんだね」

「しかし、毒が入っていない林檎なら頂こうと思う」


「……丁度良かったっ。わたしが今日まで持ってきた果実の名前は“りんご”。苗字は貴方のを下さい。貴方の名前は?」

「私の名は……」


…………………………


実った恋は熟しても鳥には食べられない。

[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]

:おわり。

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