第12話 大公女と帝室財務府総長 3

 このエステルハージ侯爵は、昨年、先代で、祖父でもある前侯爵の引退を受け、爵位を譲り受けたばかりで、幼い頃から従軍し、戦場で育ったような人間で、軽騎兵の分野では、ヨーロッパ最強最速を誇るハンガリー軽騎兵『フサール』を率いる、オーストリアの最終兵器の長とでも言うべき、実質的なハンガリー王家、エステルハージ家の当主である。


 角度によって、翠色に明るい茶色が浮かぶ、はしばみ色の鋭い瞳、ほりの深い精悍な顔、冬になってもとれぬ、まだ薄く日焼けの残る肌、カラスの濡れ羽色の髪は、まっすぐで、あごのラインで切りそろえられている。


 マリア・テレジア(改)は『人の上に立つ』という行為にはなれているが、いずれ、フランツやカールの代わりに、自分自身が戦場に行く予定にしているので、最近は最前線を退いているオイゲン公だけではなく、現役の軍人でもある彼から、実際の戦場の話を聞いたり、さまざまなことを学んでいる最中である。


『フランツと真逆のイケメンよね』


 そう彼女は思いながら、ふと思いつき、やはりハンガリー語で答える。


「ねえ、ちょっと、この扉を開けてくれない? 壊してもいいから。代わりにいいものをあげるわ」

「ふん……おもしろい。お前ら、あの邪魔なのをどけろ!」


 にっと笑った彼が、軽く手を挙げて合図すると、ハンガリー軍の独特の衣装で身を固めた、彼の騎士たちは、なんの躊躇もなく、瞬時に扉を守っていた騎士を、軽々と床にねじ伏せる。


 彼らの主君は、あくまでマジャール人の王、エステルハージ侯爵だった。


 侯爵は、硬直しているフランツの横を通り過ぎると、次に部下の騎士たちと、扉に体当たりをしだし、何度目かの体当たりのあと、派手な音をたてて扉は開いた。


 開いたというか、完全に外れて、扉が中に倒れていた。


「……案外、安普請ですね」

「余計なお世話よ、でも、助かったわ、ありがとう……」

「どういたしまして。祖父へ書く手紙に、いい話題ができました」


 唖然としているフランツを、カールに任せたマリア・テレジアは、騒ぎを遠巻きにしていた侍女を呼ぶ。


「エステルハージ侯爵を、わたしの部屋の客間に案内するように」


 それから侯爵に言う。


「ちょっと待っていて! あとですぐに行くわ!」

「了解しました、大公女殿下! 大丈夫ですよ、わたしの鷹の様子でも見ています!」

「いまは、わたしのよ!」


 侯爵は、やはりハンガリー語で、そんな会話をすると、悠々とその場を去って行った。


『いらん時に……いや、助かったのかしら?』


「フランツ? フランツ? 大丈夫?!」

「兄さんしっかり!」


 地蔵のようになっていたフランツが、カールやマリア・テレジアの声に、ようやく正気を取り戻した頃、遠くから大勢の文官を連れた、ディートリッヒ侯爵が、大慌てでやってくる。


「これは、いったい、どういうことですかな?!」

「扉が老朽化していたみたいね、部屋も危ないかもしれないわ。中にいる者は、退去しなさい。それから……あなたはしばらく宮殿にこなくていいわ」

「なっ! マリア・テレジアさま、いくら大公女殿下のあなたさまでも……!」


 彼が驚いて黙ったのは、フランツの肩にかかっていた『帝室財務府総長』の頸飾けいしょくと、マリア・テレジアが持つ王笏おうしゃくを見たからである。


 伝統と家柄、そして格式を、なによりも重んじるオーストリア宮廷において、『王笏おうしゃく』と『帝室財務府総長』の頸飾けいしょくの効果は、オーストリアの典型的な大貴族の彼には、絶大な力を見せつけていた。


「……なにか大変なご無礼があったようですが、みな下々の者ゆえ、意味の重さを理解ができなかったようです。お許しください」

「しかたがないわね。ここ十年以上、帝室財務府総長は、バルテンシュタイン男爵が兼任していて、帝室財務府総長の頸飾けいしょくは、誰も見たことがなかったのですもの……」


「でも、わたくしの王笏おうしゃくを無視した言い訳は? 王笏おうしゃくは誰でも知っているわよね? あなた、いったいどういう指導をしているの?」

「いや、それはその、あの……」


 ディートリッヒ侯爵は、言い逃れのできない無礼を働いたとして、一ヶ月の宮廷の出入り禁止を、マリア・テレジアに言い渡され、がっくりと肩を落として姿を消した。


 いくら大貴族とはいえ、皇帝陛下の代理人たる大公女殿下への非礼は、許されるものではなかったが、出入り禁止は、この上なく不名誉であり、この場合もなぜか、よそ者であるフランツを恨みながら、彼は、ウィーンにある自分の邸宅に戻ってゆき、帝室財務府の中心部である扉がなくなった部屋は、やがて誰も人がいなくなった。


 マリア・テレジアについてきた護衛騎士が、壊れた扉をとりあえず壁に立てかける。中にはぎっしりと仕訳のされているような、されていないような書類が詰まった書棚が沢山ならんでおり、奥にはバルテンシュタイン男爵が使っていたであろう、まるで皇帝の執務室のような豪華な個室があった。


「信頼がおけて、なるべく早い筆写係を、何人か呼んでください!」

「は、はいはい! エヴァ!」


 書類の山を見た途端、人が変わってない?


 マリア・テレジアはそう思いながら、侍女のエヴァに指示を出して、筆写室に使いをやると、彼女の兄で語学にも優れ、こちらは、ヨーロッパ最速の筆記速度を誇る、宮殿の筆写室長のマティアスを呼びにやらせた。


 しばらくして、なにごとかと、自分たちの三種の神器、紙とインクと羽ペンを持ったマティアスと、彼の部下である数人の筆写係が、駆け足でやってくる。


 それから二週間、カール公子、マティアスを筆頭にした筆写係、書記官その他は、部屋にこもりっきり(扉がこわれて入口はスカスカだったけれど)で、恐ろしいスピードで、ハプスブルク家のいわゆる財務諸表を制作するフランツに、目の下を真っ黒にしてつき合っていた。


「24時間3交代にすれば、一週間で終わる!」


 フランツは強くそう主張したが、それほどの人手はないと、マティアスに言われて、もう一度口を開く。


「では、24時間2交代!! 一週間で終わる!」


 ヨーロッパ最大規模の帝国、そしておそらくは、ゆうに数ヶ月はかかるであろう財務状況の把握に対して、とんでもなく強硬な日程を言いだした彼に、一同はどん引いていた。


 自分の才能は役に立っているにもかかわらず、いつも眉をひそめられてばかりのフランツは、自分を期待に満ちた目で見てくれるマリア・テレジアの存在が、本当にうれしかったのである。しかも一目惚れの相手だ。


 それに、さっきのやけにマリア・テレジアが、なついていそうな男が、気になってしかたなかったのである。彼女の年齢を考えると、問いただす方がおかしいので、黙ってはいるけれど。


『さっきの無作法な貴族は誰だ?! マリア・テレジアのそばには、立ち入り禁止! 出入り禁止!』


 フランツはそう思い、そんな心がせますぎる自分を恥じた。

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