第11話 大公女と帝室財務府総長 2

 マリア・テレジアが、普段は金細工を得意とする職人に、あつらえさせた、この新しく画期的なペンは、18世紀の中頃、イギリスやフランスで生産され、試行錯誤の末に、ようやくものになったはずのペン先にインクをつけながら筆記する『つけペン』と呼ばれる、先は金属でできた、羽ペンに代わる筆記具の歴史を変えた品であった。


『先に作ったもの勝ちよね!』


 そう思った彼女は、さっさと何種類もの完璧な『つけペン』を試作させると、羽ペンの代わりに使っていた。


 なお、試作品の制作費用については「大切なお客さまと、お父さまへのプレゼントに、誰にも内緒で用意したい」そう愛らしくも尊い大公女殿下がおっしゃるので、侍女を通して、密かに皇女の部屋へうかがい、相談を受けたまわった、王侯貴族が競って高価な装飾品を注文する、名のある工房のマイスターが、皇女のそら恐ろしいほどの美しさと聡明さに、大いに感銘を受け、自分はのちの初めての『ハプスブルク帝国女大公ご用達』という名誉が手に入るからと、タダで引き受けていた。


 マリア・テレジアは、もちろん自分用のつけペンは、試作用の木の軸でいい。そこまで、あつかましくはないと、気を遣ったのだが、それにまた感動したマイスターは、たくさんの数のいわゆる『試作品』という名で、すばらしい仕上がりの豪華な献上品を届けてくれていた。


 彼女は、自分の性格には、合わないけれど、やろうと思えば、人の心をある程度は、思うように転がす術を、若女将時代に手に入れていたのである。


 フランツにプレゼントした『豪華つけペンセット』を彼の目にかなえば、何とか国の新規事業にしたいとは思い、職人にも内緒にさせているが、父である皇帝は、そもそも筆記具に興味はないし、どうしたものかと悩んでいると、手渡しながら、そうも言ってみる。


「……少々お待ちください」


 そう言ってフランツは、マリア・テレジアに、礼儀正しく断りを入れてから、デスクに用意させた紙に、言われるままにペン先をつけた『つけペン』を走らせていた。


『グルデン兄さん』こと、フランツは、書き物をすることが多いので、自身も羽ペンの耐久性のなさに閉口していたし、彼の書記官といえば、くる日もくる日も、彼好みの角度に、羽の軸を削る作業は、いい加減、あきあきしていたので、期待をこめた目で、さらさらと動くフランツの手元を見ている。


「これは……大きな事業になりますよ!」

「え……ほんとうに……きゃあ!」


 大きな商機を『つけペン』に確信したフランツは、喜びのあまり、思わずマリア・テレジアを、軽々と抱き上げて、頭上に持ち上げて、ぐるぐる回って喜んでいた。


「兄さん!」


 フランツの声に、われに返った彼は、気まずそうに、マリア・テレジアを降ろすと、皇帝陛下が裁可なさらないなら、自分が出資して、大公女の共同事業主になることを約束した。


「え、でも、事業なんて、どうやって……」

「ストラソルド伯爵!」

「……了解いたしました。手配いたします」


 久々に名前を呼ばれた、フランツの陰気な侍従は、大公女の使用している古い方のつけペンセットを、見本にしたいので、あとで受け取りにゆくと申し出て、彼に任せておけばよいと、フランツも言うので、まあ、様子見がてらそうするかと、マリア・テレジアは思い、先に、帝室財務府に案内することにした。


 一行は、ぞろぞろとカールや侍従や侍女、護衛騎士を引きつれて、宮殿の一画に足を運ぶ。


「ここが、帝室財務府です」


 そうマリア・テレジアが言うと、扉の両脇に立っている騎士に、両開きのマホガニーでできた大きな扉を開けろと、フランツは目で合図する。


 フランツのうしろにいたマリア・テレジアは、彼の豪華な金のふちどりのある赤いマントのうしろから、ちょっとだけ顔をのぞかせて、扉が開くのを待っていると、なぜか扉は開かない。


 開かないどころか、警備に立っていた扉の両脇にいた騎士は、あからさまな敵意をフランツに向けると、扉の前に立ちはだかった。


「帝室財務府主計局長の命により、許可なき方の立ち入りは、禁じられております」

「……わたしはその上に立つ、皇帝陛下に任ぜられた、帝室財務府総長だが?」


 そう言ったフランツの方にかかる頸飾けいしょくを見て、騎士たちはとまどっていたが、やはり扉の前から動こうとはしない。


「昨日今日、ロートリンゲンからきた、よそ者を入れるわけには……」


『はあ? なにを言っているの?』


 騎士の身分をわきまえない言葉に、マリア・テレジアは、耳をうたがった。そして思う。


『皇帝が興味を持たないことをよいことに、絶対に、なにか隠しているわね!』


 どうしたものかと、とまどうフランツのうしろから、マリア・テレジアは、ずいっと前に出ると、王笏おうしゃくを掲げて口を開く。


「これが目に入らないの? 皇帝陛下はわたくしに皇帝の代理として、帝室財務府総長につき添うようにと、そうおっしゃったのよ!」

「大公女殿下!」


「貴様ら、大公女殿下のお言葉は、皇帝陛下のお言葉であるぞ!」


 そう言いながら、腰の剣に手をかけて、騎士にすごむのは、オイゲン公の甥、エマヌエルの息子であり、マリア・テレジアの護衛騎士であるプリンツだった。


(※彼は、叔父を尊敬する父によって、オイゲンと名づけられ、ややこしいので、マリア・テレジアは、プリンツと呼んでいる。)


「し、しかし……我々は、主計局長のディートリッヒ侯爵に……」


 彼らは皇帝ですら配慮するオーストリアの大貴族の名前を口にする。


 扉の前で騎士同士がにらみ合い、その場の空気は膠着し、マリア・テレジアは、手にしていた王笏おうしゃくで、扉の前の騎士の頭を殴ってやろうか? そんなことを思いついた瞬間であった。


 聞きなれた低い声が、ハンガリー語が聞こえたのは。


「大公女殿下の命により、参上いたしま……おや? おもしろい遊びをしていますね? となりの金髪が例の婚約者? あんまり役にたってそうにないですけど?」

「これのどこがおもしろそうなのよ?! あと、あなたと違って、フランツは礼儀正しいのよ! 遠慮しているの!」


 案の定、現れたのは、エステルハージ侯爵だった。

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