第10話 大公女と帝室財務府総長 1

〈時系列は、フランツがオーストリア帝室財務府総長になった翌日〉


 マリア・テレジアが、日課の乗馬(まだ身長が足りないのでポニー)のレッスンを終えて、正しい礼儀を取りながらも、自分の右手を凝視する周囲の視線も気にせず、王笏おうしゃくを右手に、自分の専属護衛騎士と、侍女を数名連れて、フランツのところをたずねると、彼とカールは、すでに身支度を終えていた。


 完璧な服装に加えて、黒いファーで縁取られ、裏地に上等な濃い紫に染められている毛皮、豪華で赤いベルベットの表の生地には、ロートリンゲン家の紋章が刺繍されている長いマントまで着込んでいる。


 ふたりはそのおそろいのマントを、金のモールの飾りと、宝石があしらわれ、美しい金細工でできた大きな留め具で固定して、肩からかけていた。


『寒いのねきっと……いいわね、その暖かそうなマント』


 そんなマリア・テレジアの、うらやましげな視線に、なにか勘違いしたフランツは照れていたし、カールは、幼い大公女の非の打ち所がない挨拶と所作に、感心していた。


 彼女が連れてきた侍女のひとりは、銀のお盆の上に、なにか美しく小さな箱をのせて、うやうやしく捧げ持っている。


 マリア・テレジアは、満面の笑みを浮かべたフランツに、部屋に迎え入れられ、勧められるままに、ソファーに腰かけながら、再び彼を見て思った。


『あいかわらず、外見は完璧な男ね……これで、戦争が苦手ってサギよね?」


 しかしながら、他は完璧に気のきく、人のよい人間であることは本当らしく、用意されたコーヒーはおいしかったし、添えられた菓子は、生クリームとカスタードクリームが入り、ひとつひとつに、違う果物のソースも入っている、まだ幼い自分のために用意してくれていたらしい、小さなシュークリームだった。


 ここオーストリアの宮廷、ホーフブルク宮殿で、こんなものはでない。クッキー、クッキー、またクッキーの一本鎗だ。マリアンナなんて、クッキー中毒なのではないか? そんな風に思うこともあるが、お父さまがそう甘いものに興味もないので、この宮廷では予算の都合上、甘いものは、クッキーしかでないのだから、しかたがない。 


「おいしい……」

「ロートリンゲンから連れてきたパティシエに用意させました。お口に合ってなによりです」


 口に合うもなにも、ここに転生してきて以来、甘いものはクッキーしか、口に入ったことがありません。


 マリア・テレジアは、内心そう思ったが、平安の世では皇太后として、その時代、その世界においては、最高の生活を送り、次に生まれた現代では、老舗料亭の若女将であり、大学では、『美膳研究会』を主宰するほどであったので、下品に、がっつくこともなく、しごく上品にひとつふたつ口にする。


「とてもおいしいので、妹にも食べさせてあげたいわ。用意していただいても?」


 彼女が、そう愛らしい笑顔で、フランツにたずねていたので、幼い少女の好きそうな菓子で、そう大げさでなく、しかし食べやすく、かわいらしく! などと、フランツにいろいろ注文をされて、昨夜から一睡もせず、足りない材料を探しに、宮殿の厨房や、ウィーンの街中を走り回り、なれない厨房で、ようやくシュークリームを用意していたパティシエたちは、その連絡を受けて、安堵しながら、別に用意したシュークリームを、あとで大公女の部屋に届けていた。


 そんな周囲の迷惑も知らないフランツは、マリア・テレジアに、今日からの予定と、ちょっとした頼みごとをする。


「宮廷付ユダヤ人を呼び出す?」

「そう、どこかにいるはずだから、あなたと、えっと、僕、オーストリア帝室財務府総長の連名で、近いうちに呼び出してほしいのですが、可能ですか?」


 マリア・テレジアは知らなかったが、宮廷付ユダヤ人というのは、この時代、たいていの王室には欠かせない存在で、ハプスブルク家に限らず、大体の王室や貴族たちは、戦争に派手な生活にと、いわゆる『赤字経営』が基本であり、宮廷付ユダヤ人は、彼らに金を貸す銀行のような存在であった。


『しかも無制限信用貸! 踏み倒される危険もあり! よくもまあ、そんな恐ろしい商売をしているわね!』


 敬虔なカトリック教徒であった、元のマリア・テレジアとは違い、ユダヤ人にもお金に関する仕事に関しても、なんの差別意識もない、マリア・テレジア(改)は、驚愕した。


『銀貨30枚&ユダのせい?』


 ※銀貨30枚というのは、キリストを処刑台に送ったとされるのがユダヤ人で、そのユダヤ人が受け取った金額が、銀貨30枚であり、キリストの弟子の裏切り者のユダもユダヤ人であったということから、キリスト教徒に彼らが迫害されていたという話である。


 正業につくことを禁止され、土地を所有することも禁止された彼らは、そのコミュニティをもって、恐ろしいまでの情報ネットワークを作り、法の隙間をぬって、金融業で財をなしていたのである。


 しかしながら、マリア・テレジアが驚愕したとおり、王侯貴族に借金を踏み倒されたり、いきなり街から追放されたりすることも、ままあることであった。


 フランツは、マリア・テレジアが、銀貨30枚のことを考えているとは思いもせず、少し首をかしげて、ソファーに座っている大公女を、一幅の絵のようだと思い、将来、自分と結婚をする頃には、どれほど美しい皇女様に……などと、うっとりながめていた。


 が、それどころではないことを思い出し、『帝室財務府総長』の頸飾けいしょくを肩にかけていたフランツは、彼女に同行を願い出て、マリア・テレジアと、彼女につき添ってきた護衛騎士たち、それにカールと陰気な侍従、その他をつれて、早速、帝室財務府に案内して欲しいと申し出る。


「まあ、早速ですわね、それでは、ぜひ、このプレゼントを……」


 マリア・テレジアは、銀のお盆を捧げ持っていた侍女に、視線で合図すると、例の美しく小さな箱を手にして、フランツに差し出した。


「これは? わたくしがいただいて、よろしいのですか?」

「本当は、お会いした時にと、ご用意していたのですけれど、渡しそびれましたの」


 恥ずかしそうにほほ笑む大公女に、フランツの部屋に一緒にいたカールは、こんな天使がうちの兄と、しかも、の方! の婚約者! なんて、世の中の理不尽について、平たい目で考えていたが、兄が開けた小箱の中身を、うしろから不思議そうにのぞき込む。


 箱の中には、なにやら不思議な細長く美しい、ロートリンゲン家の紋章を彷彿とさせる赤の漆塗りに、金色の美しい植物模様の細長い小さな棒、別に数個の金色の小さな金でできた、なにか細工した品が添えてある。


「これは?」

「職人に作らせた、金属のペン先を、そちらの軸に差し込んで、インクをつけて使うペンです。羽ペンよりも、ずっと扱いやすいですよ」

「こんな物は見たことがない。大公女がお考えに?」

「お勉強をしていたら、いつも羽ペンがすぐにダメになっちゃうから、どうにかならないかと……」


 フランツは、こんな画期的なものを考える聡明さと、羽ペンを思い浮かべて、顔をしかめている彼女の幼さが、なんだかおかしかったが、もちろん、マリア・テレジアは、先の利益を見いだして、適当に理由を口にしていたのである。


『絶対にもうかるはずだけど、わたしには投資資金がないの! 商機に気がついて! 早く宮殿の壁に断熱材を入れたいの!』


 軍資金を貯める以前に、フリードリヒ2世を『ポテチ』にする以前に、自分のためにも、体の弱いマリアンナのためにも、目先の貧乏からも、さっさと脱出しなければならない、そして、なるべく自分の自由になるポケットマネーを増やしたいマリア・テレジアは、内心では『フランツ銀行』に、融資申請をしている気分だった。

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