仕事に、憑かれている

森林公園

仕事に、憑かれている

 私は窓際族だ。文字通り窓に向かって仕事をしている。後三年ほどで定年だ。なぜか事務の女の子や若い社員には疎まれているし、かと言ってこれまでかえりみていなかった家庭にも居場所はない。


 だが、昔はこうではなかった。毎日胃が擦り切れるほど仕事をこなし、会社に寝泊まりすることもあった。妻は常に感謝してくれていたし、子供も家にいる間は私から離れなかった。そんな若いころ、社内で不思議な目に遭ったことがある。



* * *



 当時、激務に耐えかねてトイレを避難所にするのが癖だった。一階の倉庫裏のトイレは中々の『穴場』で、年に数回しか人と出会すことがなかった。鍵を掛け、便座に腰をかけると、堂々と煙草に火を点けた。


 私が逃げ込む個室は少し変わっていて、洋式便器の裏側の壁に、金庫のような扉がついていた。きっと消火器でも入っているのだろう。予測はついていたのだが、どう見ても便器が邪魔で開くわけがない。


 いつもはすぐ眼前の扉を見つめて煙草を吸い、現実から逃げているだけなのだが、その日は何の気はなしに、煙草を消してから振り返って、その金庫みたいな扉のレバーに手をかけた。ガチャリとそれがしたに下がる。



 キイィィ。



 すると何と扉は、悲鳴のように引き攣る音を上げて、独りでに壁の内側へ向かって開いていった。思わず手を離したが、扉は開き切ってしまい、その金属音が鳴り響いて止まる。壁の内側には、明らかにこちらより広い空間があった。


 呆気に取られてそこを覗き込んでいると、暗闇の中、ゆらりゆらりと人魂のように光る物が辺りを揺らしている。目が慣れてくると、壁の中が見渡せるようになってきた。部屋は十畳もありそうなほどとても広く、天井も高い。


 その中央にはポツンと小さなディスクがあり、そこに座った男が独り、取り憑かれたように仕事をしているのが見えた。小さなランプが男の形相に陰影をつける。遠目に見えるそれは、酷く、恐ろしい顔をしていた。年齢は五十代後半といったところか……。


 私は彼を凝視するが、彼の方はこちらには気づかないようなのだ。一心不乱に机に向かっている。仕事の修羅と化している男を見て、私は哀れみを覚えた。『ああ』はなりたくない。今はまだ三十代前半だが、彼と同じくらいの年齢になったとき、朗らかに部下に慕われて仕事をしていたい。


「絶対だ」


 かたい決意に、思わず声を漏らしてしまった。すると、男がピタリと動きを止めてこちらへゆっくりと目線を移した。私の顔を見て、驚いたようだった。骨張った痩せぎすの指先で、こちらをフルフルと指し示してきた。


「お、まえ……は」


 男が声を発した瞬間に、私の意識はブラックアウトした。その直前、彼の顔や声色に、何か既視感のようなものを感じたのだが……。ともかく、私の意識はその認識から逃れるように、薄れて消えていってしまったのだった。



* * *



 気がつくと、私はトイレにはいなかった。何者かに、コンクリートに囲まれた四角い部屋に監禁されていたようだ。せっかく見たあの男の顔も思い出せない。よほど見てはいけないものだったのかも知れない。


 身体の痛みに耐えながら顔を上げると、天井近くにぽっかりと、横長で高さが二十センチくらいの隙間が開いていた。恐らく光を取り入れるための窓であろう。しかし、届いたとしてもそこからは出れそうにはない。


 草が生えてるのが見えて、あの窓の底辺から上が地上であるということが知れた。諦め切れず、その明るい世界をただ見上げていると、不意に青い色が目の端にうつった。最初、それは青空が垣間見えたのかと思ったのだ。しかし違った。


 それは人間の足で、スローモーションのように緩やかな動作で動き始めた。真っ青な足は気味が悪かった上に、最初の足に続いてまた一対、また一対と数を増やしてゆくのだった。それぞれが鎖に繋がれていて、ジャラジャラと気味の悪い音が鳴り響く。


 いつしかその横長の窓一杯に青い足が踊って、私はその行進を眺めるしかなかった。……これはきっと労働者の足だ。労働をしに、どこぞに向かって行進しているのだ。私はその行列に自分が参加させられる恐怖に震え始めた。


 しかし、見つめているうちにぐるぐると目が回り始め、天井に向かってぐるりと一回転した。そのまま後方に倒れて、頭の後ろをしたたかに打ってしまう。遠ざかる意識と視界の隅で、青い足はいつまでもいつまでも行進を止めなかったことだけは憶えている。



* * *



「あれは、一体何だったのだろう」


 三十代だったころのその日、気がつくと私の家の前に立ち尽くしていた。土砂降りの中、傘もさしていなかった。きっと疲れがピークになり、幻覚を見、夢遊病者のように帰宅したのであろう。なぜか年老いて暇なった今、急にその時のことを思い出していた。


 窓の外を勢い良く降りはじめた、この雨のせいかも知れない。外が雨であると、目の前の窓硝子はまるで鏡のように私をうつし込んだ。今日は珍しく帳簿の仕事が舞い込んできて、慣れない作業を朝からしゃかりきにやっていた。


 久しぶりの忙しさの合間に、ついぼぅっとしてしまっていたようだ。何とかやり終わり顔を上げると、硝子にうつる私の顔に、妙な既視感があった。誰かに似ている。それを思い出そうとしていたら、その姿が段々と変わり始めた。


「……わ!」


 私は顔を上げているのに、硝子窓にうつる『私』は顔を下げてバリバリと机に向かい始めた。彼は私とは違う。まず、髪の毛が沢山あった。何と言うか、まだ若い姿をしていた。いや、これは誰だ。


「お、まえ……は」


 暗闇の中で、誰かが必死に仕事をしていて、決して顔を上げない姿。これは見たことがある。三十代のころトイレで覗き見た、謎の男のことを思い出した。しかし、今の私の心をよぎったのは、あの時とは全く逆の気持ちであった。



「嗚呼いいなぁ、仕事があって」



 そしてようやく理解したのだ。あれは三十代のころの『私』だ。まだ体力も気力もあった、脂ののったサラリーマンだ。羨ましげに若き日の私を見つめていると、彼が不意に顔をあげて何かしら口元で伝えようとしていることに気づいた。


『む』

「む……?」

『む・し』

「虫?」

『む・し・け・ら!』


 そのあと、こちらをピチピチの指先で差して、ゲラゲラと笑い始めた。若いころの自分に笑われながら、ごっそりと生気が膝から抜け落ちてゆくのを感じた。笑い声は耳にへばりつき、鼓膜の中を侵入して脳みその中へと溜まってゆく。


 それに耐えられなくなった私は、カラカラとまだ若いころの己がうつっている窓を開けると、そのままずるりと頭から、外の世界に転落していった。雨と一緒に地面に落ちた私に、気づく者は暫くいなかった。



<了>

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仕事に、憑かれている 森林公園 @kimizono_moribayashi

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