Fの目覚め

相沢 たける

Fの目覚め

 目覚めの悪い朝だ、と呟きながら洗面所にたどり着くと、額にFの文字が刻まれていた。私は長い前髪の所有者であったので、前歯でイチゴ味の歯磨き粉を泡立て、次に左奥歯へと歯ブラシを移動させようとして、ふとまだまだ眠気に屈していた片眼を辛うじて開いた瞬間、私は鏡に映る私を見てしまったというわけだ。もちのろん、鏡にこびりついた髪染め剤かと最初は疑ったのだよ? けれどまぁ毛先から真っ白な液体を滴らせる歯ブラシ片手に沈黙して、前髪をおそるおそるかきわけてみると、さほど広くもないおでこに活字体のFが描かれていたんだ。私は血管という血管に戦慄を走らせるよりも速く、このアルファベットを消そうとした。……消えぬ。消えないじゃないか。いくら最新の水道水は次亜塩素酸ナトリウム含量が少ないからといって、そこまでの根性なしだなんて私は思わなかったよ! 


 リビングには今年入学式を迎え、みごとに大学デビューを果たして髪をスペイン人もびっくりなほど金一色に染めた姉がソファに腰掛けて、おっさんのように足を開いて肘を背もたれにひっかけ、喉を曝け出していかにも二日酔いオーラを漂わせている。奇跡的に進級を果たした中学三年生の弟君は、抱き枕を抱え、鼻水と涎をだだっ垂らし、睡眠顔を進行中である。ベル型の耳のついたアナログ目覚ましは、無言で午前六時四十五分を知らせている。私は、少しは電波ラジオを見習って欲しいという日常ならではのツッコミの代わりに、大腸菌の繊毛よりも細々とした朝の告白から始めなければならなかった。


「やぁ姉貴。今日はずいぶんと早起きだね」

「……ばっかいうな。気分がすぐれないんで、目を閉じても閉じても現実世界に縛り付けられちまってよ。やってらんねぇぜ。……どうした、そんなもじもじして。もらしちまったのか?」

「う、ううん。その前に確認なんだけど、姉貴、正直に白状してね。これに見覚えある?」


 私は油性ペンを見せびらかした。姉は本当に知らないと顎を落としてペンを眺めていた。私はその視線を受けるあいだ、必死になって前髪を引っ張っておでこを隠していた。


「それが、どうかしたのか?」

「いたずらとかしてないよね?」

「あたしがいつあんたにそんなことしたっつうんだ」


 じゃあこいつか、と弟を眺めた。


「なんかされたのか? 今日はずっとここで座って起きてたけど、そいつ、大脳を誰かに引っ掴まれたかって思うくらいに爆睡してたぜ」

「姉貴、どうしよう。おぉ、まじめに聞いてくれたまえよ。じ、じじじ実は、私、トーナメント強制参加させられるかもしれないのだよ! か、格闘技だけは、格闘技だけはしたくないよぉ!」


「……はぁ」という怪訝を百倍濃縮させたような表情で私の左のつま先から右の眉毛までをじろじろ見つめてきたので、私は覚悟を決めるしかなかった。


「トーナメントというのは言い過ぎかもしれない。だけど本当に映画の主人公か、秘密の薬で他の誰でもない自分のべつの姿に入れ替わってしまったとか、と、ととととととととにかくこれは一大事なのだよ!」

「わかった、わかったからレッツカームダウン! 落ち着けって」


 しかし私はおろおろと視線をさまよわせ、遥か天空に存在すると言われる宮殿に住まう月の女神様に祈った。F、F、Fとはなんなのですか、女神殿! 


「あぁぁあああああ。これは自業自得なのですか女神殿!」

「だから落ち着けよ! なにが自業自得なんだ?」


 処刑用BGMがどこからか流れている。私は涙目になりながら前髪を掻き分け、Fの文字を姉に見せつけた。姉は黙っていたし、私はうつむいていたし、弟は眠っていた。ただ奇妙なことに、額のFだけは元気だった。というのも、なんとも言えない疼き、というか鼓動が、ニキビひとつないおでこの辺りで感じられるのだ。さっきまではちっとも感じなかったのに、Fが今になって力を増している! 私よりもこのFの方が寝ぼすけらしかった。今朝、私に宿った、F。もしや、もしやファイナルという意味じゃなかろうか! おぉ、恐ろしいよう!

 

 私は大人しくニトリ製の絨毯と睨めっこしている。姉はまだ黙っている。早く、早くなにかセリフを発していただきたい。この沈黙はレベル99のパラディンでもダメージが大きいのだ。信じがたいことに、Fが発光しだした。あぁ、やはりこのFに乗っ取られてしまう日は近いようだ。沈鬱な心境と相反して、私の目の前は明るく照らされている。白色電灯は消していたからよけい明るい。私は耐えきれなくなって姉に視線を戻し、そこで私は絶望した。あぁ、もうこれは私の人生の終焉だ。なるほど、フィナーレのFなのか。いやそれファイナルと意味一緒じゃん。


 姉は指を宙に突きつけて、喉から「コ」の音を連発して、黒目を点にして、こめかみから蒸発しづらそうな汗をダラダラ流しながら、私を凝視していた。発狂するならして欲しいよ。あぁ、おぉ、ぴえん、ぱおーん。


 私の膝が今にも崩れそうになった瞬間、姉はついに絶叫した。


「ふ、フレイムの刻印……。あたしはスピード強化レベルⅠだったのに、……ま、まさか、四大属性が目を覚ますなんて」

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