お母さんに申しませう

増田朋美

お母さんに申しませう

道子は憤慨した。なんでこんな時に、おかしな医者が入ってくるのかなと思った。その女性医師は、名前を、杉浦良子と書いて、すぎうらながこと読むようであるが、それが単に、名前を読みにくいだけではない。その杉浦という医者が、自分の患者をぶんどってしまうから、怒るのである。道子だって、一応内科医として、患者さんを持っている。だけど、美人に弱い男性患者さんたちは、みんな美人で美しいと言われる、杉浦良子の方へ行きたがってしまうのだ。最近は女性患者でさえも、良子先生の診察を受けてみたいなんていい出すから、困ってしまうものだ。

その日も、一応自分の担当である、女性患者が、診察を受けにやってきたのであるが。

「えーと、佐藤さんね。その後、症状はどうですか?足は痛みませんか?」

道子はできるだけ、平凡に聞いてみた。

「ねえ先生、ここの病院にきれいな先生がやってきたんですって?確か、杉浦良子さんとかいう、ちょっと変わった名前の先生なんですってね。あたし、男じゃないけど、そんなにきれいな先生であったら、一回見てもらいたいな。」

と、佐藤さんがそう言うので、道子はなんとなくカチンと来てしまって、

「そんなに杉浦さんのほうがいいって、一体何が良いのよ。単に、容姿がきれいなだけでしょ。やってることは同じですよ!なんで、そんなに、医者を選ぶのかしら!」

と言ってしまった。

「なんですか。ちょっと面白半分で言ってみただけなのに。」

と、女性はそういうのであるけれど、道子は本当に怒ってしまって、患者さんに向かって、声を荒らげてしまった。

「面白半分っていいますけどねえ、あんた。あたしは、あんたの回復を願って、一生懸命治療を考えたり、薬の種類を考えたりしてるんです。それを全部無視して、きれいな先生に見てもらいたいって、何を言ってるんですかね!」

「道子先生は、そうやって、変にマジっぽくなるから、嫌なんですよ。」

と、佐藤さんは、嫌そうに言った。

「そうじゃなくてさ、病院は、ただでさえ嫌なところなんだからさ、少しでも、楽しくなれるように、工夫をしているだけなんだけど。こんなふうにすぐに先生にムキになられちゃ、あたしも困るな。」

道子は、佐藤さんに言われて、がっかりした顔をした。確かに、病院は、嫌なところだというのは、わかるけれど、自分の治療を受け入れてくれないのは、道子は嫌になってしまう。

「先生、そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。あたしは、ただ、ここの病院に、女優みたいにきれいな先生が来たから、ただ、一回あってみたいなと思っただけなのになあ。」

佐藤さんは、嫌そうに言った。

「そうはいってもね。あたしは、佐藤さんの症状が良くなるように、一生懸命今まで、薬の投与とか、副作用がどうのとか、一生懸命考えてたのに!それをみんな嫌で、彼女のほうがいいなんて、そういう事言われたら、それでは怒るわよ。」

道子は、彼女にそういうのであるが、佐藤さんは、小さなため息を付いた。

「先生、あたしたちはね、毎日足が痛いだとか、そういう事で、苦しんでるんですよ。それで、仕事もしないで、週に一回こっちへこさせられて、みんなから白い目で睨まれる。そんな生活なんですよ。先生みたいに、将来が約束されているわけでもありません。毎日不安な中を生きてます。そんな中で、ちょっと楽しみを見つけたいと思ったのに、それでは行けないなんて、先生は厳しすぎますよ。」

確かに、病気の人達の生活なんて、そういうものだ。普通の人のように、外へ出て働いて、生きがいを見つけて、という生き方は、どこかに葬り去ってしまわないと行けない。それがすごく悲しくて、仕方ないということは、患者さんからよく聞く言葉なのに、道子はそれが理解できないのである。それは道子だけではなく、他の医者もそうなのである。

「そうかも知れないけど、あたしだって、あなたのこと考えて、治療のこと一生懸命やっているんですから、そんな、裏切るような真似はしないでもらいたいです。」

道子は正直に言った。

「裏切るような真似はしませんよ。先生。でも、ちょっと、楽しみを持ってもいいんじゃないかと思っただけです。ほんと、それだけです。」

佐藤さんも正直に言った。

「それだけなんですか?」

道子がまた聞くと、

「ええ、そのとおりです。他に何もありません。」

佐藤さんは、そういった。

「でも、先生が、あたしの事、ちゃんと考えてくれているって、わかったから、あたしは、道子先生とここでやっていくつもりですよ。」

そう言ってくれて、道子もほっとした。道子は、彼女を杉浦良子に取られてしまうのではないかと内心不安で仕方ないのだった。

「道子先生。そんな顔しないで、あたしの検査してくださいよ。」

「はいわかりました。」

道子はそれ以上、彼女にそれは言わないつもりで、そう返事をした。そして、彼女に、採血と、栄養指導を受けていくように指示を出した。佐藤さんは、はいわかりました、と笑顔で帰ってくれた。

それにしても、彼女、佐藤さんはなんとか残存してくれたが、彼女、杉浦良子に惹かれていく患者は多い。道子は、全員彼女がぶんどったら、何を言ってやろうかと、思ったこともあったくらいだ。しかも、杉浦良子は、道子より、7つ年下だった。その年で、五歳の息子さんを育てているという。それに、何でも、シングルママだと言うから、全く、何という羨ましい経歴だろう。子育てというのは、女で一人でやっていくのは、非常に難しいと思うけど、それを一人でできてしまうのだから。容姿も人間的にも、彼女に負けた。道子は、彼女が診察をし終えて、事務室に戻ってくると、とても彼女に声をかけてやる気にはなれなかった。そういうわけで、彼女、杉浦良子は、事務室で、弁当を食べているのはいつも一人だった。学生ではないからそういうことが問題視されるわけでは無いのであるが。道子は、その彼女が、必要なことでも無い限り、自分に声をかけることは無いと思っていた。

一方、製鉄所では。

双葉保育園という名門の保育園の園服を着た五歳の男の子が、水穂さんと一緒に、きらきら星変奏曲をピアノで弾いていた。水穂さんは、時々咳をするので、二匹の小さなフェレットが、彼を心配そうに見つめていた。

「だからあ、しょうがなかったの。」

と、杉ちゃんが、食堂でジョチさんに言った。

「しょうがないって言ったって、子どもを勝手に連れてくる前に、親御さんを探すこととか、そういう事をしなかったんですか?」

ジョチさんは、杉ちゃんに言ったのだが、

「探したよ。だけど、周りに母親らしい女性もいないし、保育士の姿も見えない。それではほっとけないでしょうが。だからこっちへ連れてきたの。きっとね、あの子、今まで何も食べてなかったと思うよ。カレーを4杯もおかわりして。双葉保育園なんて、超有名な保育園に通っているけどさ、保育園から脱走したっていうのが、見え見だよ。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうですね。確かに、あの保育園に通っている子どもさんは、皆裕福な家庭の子供さんばかりです。それは、僕も知っています。でも、よく杉ちゃんに、付いてきましたね。知らない人にはついていかないようにとか、そういう指導を受けていたり、防犯ブザーを持ち歩いたりしなかったんですかね。」

確かに、ジョチさんが言う通り、保育園に通っていれば、そういう指導は受けているはずだ。

「でしょ。だからおかしいわけよ。ゴミ置き場の前で遊んでいるだけが異様じゃないよ。僕を見て、怪しいやつとも思わないし、防犯ブザーを鳴らすこともしなかった。金持ちの坊っちゃんが、やりそうなことか?違うよな。」

「ええ、たしかにそうですね。とりあえず、名札に書かれている名前から、彼の住所を類推することはできるかもしれませんが、もしかしたら、母親の前に戻すと、深刻な被害を被るかもしれません。もしかしたら、虐待の疑いも無いわけじゃないですね。」

杉ちゃんとジョチさんがそう話していると、四畳半から、ピアノを弾いている音が聞こえてきた。それと同時に、水穂さんが少し咳き込んでいる音も聞こえてきた。

「まるで、秩父宮さんに遊んでもらってるやつみたいや。名前も、確か、昭仁くんって言ってたよな。なんか、変な名前。」

杉ちゃんがボソリとそう言うと、

「そうですね。水穂さんが疲れてしまわないか、心配なんですけど。とりあえず、保育園に電話してみましょうか。そして、お母さんの名前を出してもらいましょう。」

ジョチさんは、電話をかけ始めた。杉ちゃんが四畳半に目をやると、

「おじさん大丈夫?」

と、小さな昭仁くんが、そう言っているのが聞こえる。確か年は五歳と言っていたけれど、とてもそのくらいの男児には見えないほど、体の小さい子どもさんだった。もしかしたら、本当に、ご飯を食べていない証拠になるかもしれなかった。

その日、道子は、午後の診察で、非常に困ったことに直面した。なんでも道子が、頼りにしていた患者が、あの美人先生に応対してみたいと言ったのであった。午前の診察で、佐藤さんになんとか思いどどまることに成功してもらって、ホッとしていたんのに、午後になったら、あの彼女、杉浦良子先生に見てもらいたいという患者が現れたのだ。道子は、これでは不公平だと思ってしまう。なんであの女性は、いろんな人、つまり、自分の患者をぶんどってしまうのか。ほんと少し加減してもらわなきゃ。道子は、彼女に話をしなければだめだと思った。

道子は、自分の診察が終わって、先に事務室へ行った。それから数分後に、杉浦良子が戻って来た。

「杉浦さん。」

道子は、急いで彼女に言ってみる。

「杉浦さん、あなた少し調子に乗りすぎていませんか?いくら容姿が綺麗で、しっかりしているからって、私の患者さんを持っていくのは、やめてもらいたいんです。もし、患者さんがなにか言うのであれば、医療は、テレビとは違うんだって、ちゃんと患者さんに言ってもらえませんか。あなたは、テレビ女優でも無いし、女郎みたいな存在でもありませんわ。」

道子がそう言うが、彼女、杉浦良子さんは、よくわからないという雰囲気だった。確かに、30代前半しか無い女性に、道子が説教してもわからないというのは確かだった。でも、大人であればちゃんと加減することは加減することくらい、覚えてくれと道子は思ったから、

「あなた、自分のところに、患者さんが来てくれるのは、自分の事を腕が良い医者だと思ってしまうんでしょうが、それは、大間違いですからね。ただ、患者さんたちは、あなたが容姿が綺麗であるから、それで、物珍しくて、来てるだけ。どう、これでわかった?少し、自分で、その派手な顔、加減したら?」

と思わずいってしまったのである。杉浦良子は、はあという顔をした。

「そんな事、どうでもいいじゃないですか。別に私の事は、偉くても偉くなくても構わないですよ。あたしは、ただ、毎日の生活のためだけに働いてるだけなのよ。」

と、言うだけの杉浦に、道子は、今どきの人がなんでそんな事をいうのか、不思議だと感じたが、すぐにそれを忘れて、杉浦良子に言った。

「あなたは、単に顔が派手で、何も診察能力なんて無いのよ。それを自分でもうちょっと自覚したら!」

「ええ、わかってますよ。ですが、どうしようもないじゃありませんか。自分だって、やっていかなきゃならないんです。私は、しなければなりません。それは、誰よりも私がよく知ってます!」

そういう彼女は、なんだか何を言っても、道子に対抗しようとしているような雰囲気は持たず、ただ、右から左へ受け流しているような表情で、答えるのだった。この表情では道子は何を言っても無駄ではないかという気がした。道子はどうして、そんな平気な顔をしていられるのだろうと思ったが、彼女は、そのまま淡々としていて、それ以上何も言わなかったのである。

道子が、それ以上彼女が、何を言っても通用しないと思って、諦めようとしていたが、それと同時に、誰かのスマートフォンがなっているのが聞こえてきた。何だと思ったら、彼女、杉浦良子のスマートフォンがなっているのである。良子は、面倒くさそうにスマートフォンを取った。

「はい、杉浦です。はあ、え?昭仁が?何をしたんですか?どうしてそちらに?ちょっとまってください。どうしてそちらに。」

ひどくうろたえた声で、杉浦良子は答えるのだった。それをみた道子は、なんだか以外な反応だと思った。あれほど、患者さんの前で、偉そうな態度を取っていた彼女が、なんでこんなふうに、慌てた反応をするのだろうか?

「ええ、わかりました、すぐに迎えに行きますから。もう昭仁にそれ以上のことはしないでください。」

という彼女に電話の相手は、

「大丈夫ですよ。今、家の使用人とピアノを弾いて楽しそうに遊んでいます。彼は大丈夫ですから、心配しないでください。それより、どうして、あなたが、彼を放置したのか、そこのほうが大事になってくると思うんですけどね。」

と、言っているのが聞こえてきた。この言い方は、多分、製鉄所の理事長さんである、ジョチさんこと曾我正輝さんのものだとすぐわかった道子は、

「一体どうしたの!何があったの?」

と聞いてみた。

「いえ、大したことじゃありません。ただ、昭仁が、ゴミ捨て場の前で遊んでいるところを、保護されたっていうものですから。」

わざと、明るそうにそう言うが、彼女は明らかに取り乱している。

「警察ですか?」

と、道子がわざと聞いてみると、

「いえちがいます。なんでも、大渕の支援施設の人が見つけてくれたらしくて。」

まあ、医者というところから、彼女はそういうふうにお話はできるようであるが、でも、目の動きなどで、彼女は、パニック状態になっているんだと言うことは道子にもわかった。

「ああ、あそこねえ。あそこなら大丈夫よ。あたしの知り合いがやってるところだから。道順なら教えてあげるわ。」

道子は、親切に教えてやるつもりで、なにか彼女をはめてやろうと思ったが、彼女の取り乱し方で、それを変えた。それくらい彼女は、取り乱している。

「じゃあ、すぐに昭仁くんを迎えに行きましょう。大丈夫ですよ。あの人達はちゃんと息子さんを見てくれますから。」

「どこにあるんですか!ここからはかなり遠いのでしょうか!」

そう言って取り乱す彼女に、

「落ち着いて落ち着いて。大丈夫よ。あなたが、運転してくれれば、私、道案内するわ。大丈夫だから。安心して、迎えに行きましょうね。」

と、道子は、そう言って彼女をなだめ、彼女と一緒に、病院の職員駐車場に行った。医者といえば、高級車に乗っているのが当たり前だと思うけど、彼女が乗っているのは、軽自動車だった。道子は彼女をとりあえず運転席に乗せ、自分は助手席に座った。そして、製鉄所の道順を話しながら、彼女に車を動かさせる。取り乱しすぎて、事故でも起こしてしまうといけないので、道子は、それだけを忠実にいった。20分くらい運転して、製鉄所に到着した。道子はどんどん車を降りて、

「こんにちは、昭仁くんのお母さんを連れてきたわ。なんでも私と一緒に働いていた医者の、杉浦良子さん。」

と、玄関先で大きく言ってしまった。

「あの、昭仁はどこにいるんでしょうか!」

良子さんは、製鉄所に飛び込むように入ってきたが、

「ええ、今まで水穂さんと一緒に遊んでいましたが、彼が疲れてしまったため、他の人と遊んでいます。」

とジョチさんが、冷静に言った。

「それより、カレーライスを4杯も食べるほど、食欲があって、一人でゴミ捨て場の前で遊んでいたようですけど、、、。」

「はい。あの子は、保育園の集団生活に馴染めないで、時々保育園から逃げてしまうことがあるんです!」

と、良子さんは言った。

「それで昭仁は今どこに?」

「いま、食堂にいますけど?」

ジョチさんにそう言われて、良子さんは、昭仁、昭仁、と言いながら、すぐに建物の中に入ってしまった。それを聞いて目がさめたのか、水穂さんが、よろよろ立ち上があって、四畳半から出てきた。それと同時に、昭仁くんが、水穂さんのそばに駆け寄ってきた。それを目撃した良子さんは、

「昭仁!帰りましょう。明日は、いつもどおり保育園に行くのよ!」

と言ったのであるが、

「嫌だ!ママ嫌い!おじさんのそばにいたい!」

と、昭仁くんは言った。

「どうしてママが嫌いなのかな?」

水穂さんが優しくそう言うと、

「だって、ママはすぐ怒るし、保育園から帰ってきても、何もしてくれないよ!」

昭仁くんは、子どもなりに自己主張したのであった。

「そうですか。昭仁くんは、そう思っているんですね。その事、お母様にもっとぶつけてください。あなたは、まだ5歳なんですから、それを主張して当たり前のことですよ。」

ジョチさんがそう言うと、

「だって、ママが嫌いだもん。」

昭仁くんはそういうのだ。そのような言い方をするのであれば、日頃昭仁くんが何をされているのか、よく分かる気がする。

「じゃあ、児童相談所に電話してみましょうか?」

ジョチさんがそう言うと、

「待って!お願いそれだけはやめて!ちゃんとするから。これから昭仁のこともちゃんとするから。その代わりそれだけはやめて!」

と良子さんは、そういうのだった。それが真剣味のある顔であったので、少なくともふざけた顔をして、育児をしているわけでは無いのかなと、杉ちゃんもジョチさんも思ってくれたようだ。

「そうですか。その気持があるんだったら、もうちょっと、昭仁くんの事を見てやってくれませんか。医師は激務ではあると思いますけど、彼の事をもう少し見てくれないと、彼もだめになってしまいますよ。」

ジョチさんがそう言うと、

「はい。決して、昭仁には手を出しません!」

と彼女は言った。水穂さんが、お母さんのところに帰りなさいといった。昭仁くんは優しいおじさんがそう言っている、仕方ないという顔をして、良子さんのところに戻っていった。

「なるほど、人間って、完璧な人は、いないものね。」

道子は、この有様を眺めながら、ホッとしたように言った。


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お母さんに申しませう 増田朋美 @masubuchi4996

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