シティ・ポップと造花

緋花

シティ・ポップと造花

車が急停止したから、私は背中から達磨みたいに倒れ込んだ。雑然としたトランクの中で転げ回ると、不意に右肩に痛みが走った。私は顔を歪めながら上体をそっと起こし、肩を強く押さえる。仄暗いトランクの中では何にぶつかったのかも判然としないが、感触からしておおかた金属類だろうと思った。そうこうしている内に、トランクに光が差した。その景色には、遭難者が洞窟から出て見た世界に似たような目映さがあった。目を細めていたその数秒間で逃走の僅かな隙は見事に消え失せたが、そんなことは最早どうでも良かった。

「おい、出ろ」

男は乱暴に言い放つと、それまでくちゃくちゃ噛んでいたガムを路上に吐き捨てた。私はなるべく何も考えないようにして、トランクから這い出た。

「行くぞ」

男は私の右腕をがっしり掴み、強く引いて歩き出した。少し右肩が痛んだが、唇を結んで我慢した。開けたままのトランクと、地面で野垂れ死んだようなガムとを一瞥して、私は男に視線を戻す。

男の身長は私の倍くらいあった。白いタンクトップからにょきにょき生えてきたような腕は太陽に焼かれたのか茶色く焦げていて、しかも丸太の様な太さを携えていた。逃げたら殴られるだろうか。痛いのかな。気絶するかな。

そんなことを考えている内に一軒の家に辿り着いた。洋風建築の家で、豪邸と呼ぶに相応しい広さと雄美さを備えていた。黒い鉄格子のような立派な門の隙間から、僅かにユートピアが見える。緑に溢れ隅まで手入れされた庭園を切り裂くようにして、赤煉瓦を敷き詰めた道路が真っ直ぐに整列する。

その中央には噴水が縦横無尽に弾け飛ぶ。緑のアーチには色彩豊かな花が咲き誇っている。男は私を適当な電柱に縄で縛りつけた挙げ句、「大人しく待ってろ」と吐き捨てて、物凄い形相でインターホンを睨みつけた。暫くすると恰幅の良い中年の男性が門を開け、男を笑顔で迎え入れた。

「羽田さん、連れてきましたよ」

挨拶を済ませた男はにやりと笑いながら私を指差す。羽田と呼ばれた恰幅の良い男は、ハハハと声高らかに笑った後、「諸々の話がありますから、どうぞお入りください」と私達を先導してくれた。男は縄を手慣れた様子でほどき、私の腕を乱暴に掴んで再び歩き始めた。私は手を引かれるままに追従した。

絵画が立ち並ぶ廊下を抜けると、応接室らしき場所に出た。木製の机を挟んで質感の良さそうな赤いソファが二つ向かい合っていて、暖炉が部屋中に眠気を含んだ暖気を充満させている。羽田はソファに飛び込むように座ると、傲然と煙草をふかし始めた。私もソファに座るよう促され、ちらりと男を見る。座れ、と目で合図されたので音をなるべく立てぬように座った。柔らかい感触と共に尻が沈み込み、私は何とも言えない幸福感に包まれた。羽田から漂う煙草の匂いがいくらか幸福感を緩和してくれたが、それでも転た寝してしまいそうなほどに質感が良いソファだった。当たり障りの無い世間話をクッションにして、商談が開幕した。私は黙って二人の話を聞いているだけだったが、これは最高級の品だぜ、と私を指差して羽田がにやけるのを眺め、勝手に自惚れていれば時間はすぐに過ぎた。男は、羽田が机上に置いた札束を受け取ると、二言程度言葉を交わして立ち上がった。私も立ち上がり、男に追従しようとすると、男は鬱陶しそうに私を払い除けた。

「お前は今日から此処に住むんだから、大人しくしとけ」

怒気を孕んだその口調から、本気で私を疎ましく思っているんだなぁ、と一人悲嘆に暮れ、男の背を呆然と眺めることしか出来なかった。別れの言葉は無かった。最初からそんなものは用意されていなかったのだろう。男とは三日の付き合いだったが、健康で文化的な最低限度の生活だけでも私に与えてくれたのだから、感謝を伝えたかった。でも向こうは感謝など望んでいないようだし、逆に迷惑だ、と言外に言われた気がして、私はただ黙っていた。

背中をポン、と優しく叩かれた。

そうだ、私はあの男の酷い指示に耐え、何度叩かれても命令に従ってきた──そんな日々もやっと終わるのだ。今は喜ぶべきじゃないか。私は満面の笑みで振り返って、

「取り敢えず、掃除、頼んだぞ」

そのまま硬直した。

申し訳程度に、え、という一文字が漏れ出ただけで、それ以上の何かをする気力も無かったし、それ以下のことも出来なかった。羽田の、あの人懐っこそうな笑顔は完全に消え失せていた。

命令されたのだ、と認識するまで数秒を要した。私はユートピアに来た訳ではないということ。羽田の、私を見る目が酷く無機質に見えたこと。誰も私を、救ってくれないこと。その全てを、一瞬にして私は悟った。そして私は、昨日までの私に戻り、素早く行動を開始した。

あくまで従順に。機嫌を損ねぬように。素早く、美しく、忠実に。ただ淡々と、与えられた仕事をこなす。それが、平和に楽しく生きる、唯一の近道なのだから。




それでも生活水準は格段に上がっていた。毎日三食豪勢な食事を食べることができたし、自室も他の部屋に劣らず洒落ていた。ふかふかのベッドを贅沢に使って十分な睡眠もとれた。男と暮らした三日間は絨毯も敷いていないような冷たい床で寝かされていたので、これには頗る驚いた。自分と同じような境遇の子にも会った。彼女は物心ついたときには既に売られていたらしく、母親の顔も声音も、何も覚えていないようだった。だから、名前なんて無い。あったとしても、私達は知る由も無い。私はその話を聞くや否や、彼女の胸に飛び込んだ。

あなたも、ここまで頑張って耐えてきたんだね。辛かったよね。それでもひたすらに働いて働いて働いて、何とか自分を繋いで来たんだね。

そうやって声を掛けてあげたかったし、逆に掛けて欲しかったのかもしれない。それでも私達に称賛などは要らず、無言の抱擁だけで十分だった。彼女の膝に顔を埋めて、抑えた声で泣き叫び──彼女はただ黙って私の髪を撫で続けた。彼女だって辛いだろうに、私なんかをひたすらに慰めてくれる彼女を有り難く思ったし、自分を不甲斐なく思った。それでも私は、そのままずっと泣いていたかった。数年分の涙が枯れて瞼が落ちる迄、私達はずっとそのままでいれた。

私と彼女の境遇で違ったところがあるとすれば、売られた回数だろう。私は売られて買われてを何度か繰り返し、やっとの思いでここまで漂着してきた。対して彼女は、ずっとここにいるらしい。そういう意味で彼女は先輩、ということになる。今回は長い付き合いになると良いなぁ、と私は漠然と願った。


翌朝起きると、私はいつの間にかベッドの中にいた。彼女がわざわざ運んでくれたようだ。少しでも気を抜けば昨日の涙の残滓が溢れそうだ。

腕時計で時刻を確認すると、私は眠気を振り払うように起き上がり、洗顔等諸々の準備を進めた。

今日も仕事が山積みだ。掃除に加え、肉体労働もいくつかしなければならない。それでもここの環境はかなり良い方で、以前と比べれば大分楽な仕事ばかりだった。広い広い館を全て掃除し、厨房で洗えるだけの食器を丁寧に洗い、夜は羽田と裸体のまま抱き合う。料理長には仕事が早くて助かると褒められ、掃除をしていると彼女に出くわし、にこりと微笑みかけてくれた。羽田は私を気に入ったと言ってくれていた。たったそれだけのことが、どうにも嬉しかった。何もかもが順調すぎて、騙されているのではないかと何度も疑った。

というより、怖かった。

失うのが怖かった。翼を射抜かれて、真っ逆さまに墜ちるのが、何より怖かった。何かを得る度に、いつツケが回るか、気が気でならなかった。

蓄積した幸せは脆く崩れやすい。そして一度失って再び積み上げていくのは、何より難しい。

よく知っていた。彼が最後に教えてくれたことを、そう簡単に忘れることは出来なかったのだ。




その日、私は或る男に棄てられた。主を失うのはもう何度も繰り返してきたので慣れていたが、道端に棄てられたのは初めてだった。

大抵、どこかに売られたり引き渡されたりするのだが──。

今回は特殊なケースだった。思えば、単独行動は初めてだった。それまでずっと、傍に誰かがいた。監視という形ではあるが、きちんと誰かが私を見守っていた。でも、今は違う。知らない街で一人、ぽつんと立っているだけ。通行人は私のことなど目もくれずに通り過ぎていく。迷路のように入り組んだ路地を歩けばいつ迷子になるか分からない。時折車が目の前に風を残して走り去る度に身の毛がよだつ。私は疎む足に鞭打って、人通りの多い賑やかな場所へと歩を進めた。暫く歩いて角を曲がると商店街らしき通りに出た。街角を流れるシティ・ポップに耳を傾けながら、或いは、ショーケースの中に佇む未知の品々に目を輝かせながら、人の流れに沿って商店街を進む。そんな自分に少し酩酊しながら、足を運ぶ。

シティ・ポップも段々とフェードアウトし、さっきまで細胞みたいに犇めいていた人も大分疎らになった。さらに真っ直ぐ進むと、小道に入った。高層ビルに遮られて日光は殆ど行き届いておらず、辺りは薄暗い。空気も少し淀んでいる。路傍では痩せ細り肋骨の形が露になった男が倒れ伏し、道の奥からは子供の咽び泣く声が聞こえる。

後ろを振り返ると、ビルとビルの隙間を塞ぐように人が群れている。シティ・ポップもまだ僅かに聞こえてくる。

まるで次元が違う。どこを境界線としているかは判然としないが、何処かを境にして、賑わいがぷつりと途切れている。私は再び歩き始める──。

「あっ」

灰色のTシャツを着た男性の丁度下腹部と軽く衝突した。薄暗い場所だったとはいえ、周囲への配慮が不足していた。

「も、申し訳ありません!」

深く頭を下げ、潔く謝罪する。恐る恐る顔を上げると、男は獲物を発見した蛇のような目付きで冷笑していた。

「はぁ。お嬢ちゃん、やってくれたねぇ」

血の気がサーッと引いていく。ここ数年の経験、本能が口を揃えて「逃げろ」と言う。地面を蹴ると同時に、肩を強く掴まれる。

「こっちに来い!」

私は何の抵抗もせずに、男の手に引きずられて路地を進んだ。

もう、抵抗すら疲れていた。

あぁまたか、と思った程度で、未練は特段残らなかった。

路肩で座り込む男達の視線がやけに煩かった、それくらいだ。

路地を抜けると、呼吸がいくらか楽になった。しかし周囲を纏っていた重い空気が消えても、薄暗さはどうしても消えなかった。

そう、陽が沈んだのだ。

「ちょっと、君」

西の方を見つめていたから、反応が僅かに遅れた。それはこれまでに聞いたどんな声よりも透き通っていて優しかった。

「あ?誰だお前」

若い。長身で、スーツもきちんと着ているというのに、その若さが隠し切れていなかった。

男もすかさず反応するが、青年は微笑を崩さぬまま、じわじわと私達に近寄ってくる。

「この少女。商品だよね?」

細くしなやかな指を私に向けたまま、青年は「買いたいんだけど」と促した。

「……こいつは高値だからな。引き取った方が身のためだぜ」

「──これでどうです?」

青年は、ポケットから紙幣の束を摘まみ、平然と男に突き付けた。

怪訝な表情をしながら、男は紙幣を数えていく。数える内に、男は言葉を失う。大金だった。恐らくだが、実際の私の値段の倍くらいはある。

「……持ってけ!」

男は私の背を強く押して、一人南へ走り去った。強い衝撃を受けた私は倒れ込みそうになるが、青年がその肩を掴む。今まで何度も肩を掴まれてきたが、彼ほど優しく掴んでくれた男は後にも先にも居なかった。

「大丈夫かい?」

返答に困ったので首肯いてみた。

すると青年は屈託なく笑って、「辛かったろう?」と頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。

その日、漸く居場所が出来た。

それから私はずっと、時間を持て余していた。折角私を買ったというのに、彼は家事労働の類を私に一切やらせなかった。性交も一度たりともしなかった。私にはそれがどうにも不思議で、何か企んでいるのではないかと疑うくらいだった。

そういえば一度、なぜ私を奴隷として使わないのか、彼に訊いたことがあった。彼は相変わらずの笑みを浮かべて、「エゴだよ、エゴ」と教えてくれた。




彼は私にとって家族同然だった。

一緒に笑いながらご飯を食べること、ぐっすりと眠る気持ち良さ、外の世界の広さと、その美しさ。彼と過ごした時間で、私はそれらを初めて知った。ずっと奴隷として生きてきた私には、目に映るもの全てが新鮮だった。色々な場所へ一緒に出掛けた。色々な人と出会った。色々な物を食べた。私はいつも心から笑うことができたし、それが功を奏したのか表情も幾分か溶けて解れてきた。

それでも、私がやってきたことは下り坂の逆走に過ぎなかった。気付けなかった、というより、一縷の希望に縋っていたかったのだと思う。人間はそういう生き物だから。

上り坂だとどれだけ言い聞かせても、そこが下り坂でもあるという事実から逃げて逃げて、そして勢いが無くなってきてからやっと人は気付く。自分は今までずっと、下り坂を逆走していたのだと、気付かされる。下るのは上ることよりずっと容易くて、人間は弱いから、抵抗すら許されずに、ただ下っていく。


彼は突如病に倒れた。




彼は白いベッドで寝転がり、青白い顔で私を見つめていた。彼からは家の鍵を渡されていたが、私はずっと病院に泊まって、一日中彼と過ごした。外が怖いというのもあったが、単純に彼と離れたくなかった。

「体調、辛くないですか?」

時折、私はそう声をかける。

彼はその度に雑巾を絞ったような笑い声を漏らして、大丈夫大丈夫、と安心させるように言った。

「それより、窓を開けてくれないか」

「窓」

私は言われた通り、窓を開けようとするが、なかなか開かない。押しても引いても、ギィギィ軋むだけである。

「鍵が掛かっているよ」

尤もな指摘に、頬が熱を帯びる。

穴があったら入りたい。というより、このまま窓の外へ逃げたい。鍵を外して窓を全開にすると、春の匂いが微かに鼻先に漂う。病院の庭に植えられた桜が一斉に咲き誇っていて、春爛漫といった感じだ。

「はー、涼しいね。やはり病室はちょっと、暑苦しい」

横目で彼を見て、私もくすっと笑う。

あー。いいなー。この時間。

自然に、笑顔が零れ落ちて。そうして零れた幸福が病室にどんどん積もって、まるで花弁みたいに、ふわり風に舞っている。そんな情景を脳裏に描く。

茫然と立ち尽くしていると、像のぼやけた薄紅の何かが、不意に鼻に乗った。

「……花弁?」

風に乗ってここまで飛んできたのだろうか。

両眼を鼻先に寄せて指でそっと払うと、不規則な動きをしながら白い床へと落ちていく。ダムが決壊したみたいに彼が笑い出すから、私もつられて呵々と笑う。

今ではありふれた生活の一欠片だが、彼と出会うまでは全く無縁の光景だったのだ。にわかには信じ難いし、誰に信じられなくても良いとすら思う。嘘つきだと罵られても、良い。多分この記憶の真価は私にしか見出だせないし、私の記憶のみが、この時間の素晴らしさを証明してくれる。


白紙に垂れた絵の具みたいな花弁をしゃがんで拾う。

淡い春が柔らかかった。




雨粒が屋敷の窓を絶え間無く叩き続けている。自室のベッドの隅で座り込み、大きく欠伸をする。

「──そうだ」

彼について思い出した拍子に、今まで脳の奥底にしまっておいた大切な記憶がひょいと飛び出てきたのだ。

ベッドの下から小さなリュックサックを引き摺り出す。軽く埃を払うと、チャックをジィィィと徐々に開けていく。中のスペースを目一杯使って、ぽつんと造花が収納されている。これを見ると何だか懐かしい気分になる。

私は数年前の病室での出来事を想起する。


「そろそろ、君にこれを渡そう」

彼が指差したのは、ベッドの横の戸棚にぽつんと置かれた花瓶、若しくは花瓶に挿した一輪の花だった。どぎまぎする私を見てからからと笑った後、彼は再び口を開いた。

「これは見ての通り造花だ」

「造花……?造花なのに、花瓶に挿すのですか?」

私はそう言いながら花瓶に近寄り、中を覗き込む。

やはり水が入っていた。

「……あぁ、確かにそうか。造花に水というのは蛇足かもしれない。でも、これで良いんだ」

「何故ですか?」

「枯れない花に水を与えること自体が面白いのであって、僕は別に実用性を求めている訳じゃないんだよ。ある種のお節介、とでも言おうか、そういう滑稽さが美しさの陰で同居している──それが面白い」

彼は悪戯っぽい笑みを浮かべながら続ける。

「で、この造花を君に渡したいんだ。形見だと思ってくれれば良い」

彼の口から死が出てくるのは、正直苦痛だった。そのことについて何も考えずにいたかった。それが現実逃避なのだと知っていても、現実逃避をし続けたかった。

「そしてもう一つ約束して欲しい」と彼は切り出す。

「何なりと」

「この先──君にとって大切だと思えた人の数だけ、造花の花弁をちぎり捨てて欲しい」

「──え?」

「花弁は五つある。花弁が全部無くなったとき、もう僕は必要無い。君はその人達と十分に生きていける。だから造花と一緒に、綺麗さっぱり忘れてしまうと良い」

「……そんなこと、出来ないです」

「ゆっくりで良い。君にはいつか暗い過去を忘れて、明るく幸せに生きて欲しいんだ」


口を閉じた儘の春が終わる。




一つ目の花弁をちぎる。最初の夜、私と無言の抱擁を交わした、彼女。名前も無いけれど、大切な人には違いない。

二つ目。食器を割って何度も羽田に叩かれている私を手当てしてくれたメイドさん。

三つ目。仕事について丁寧に教えてくれた執事。

四つ目。毎日こっそり私にデザートを恵んでくれる料理長。

五つ目。──貴方。

ひらひらと舞い落ちた五つの花弁を拾い集め、茎ごと窓の外へ放り投げる。

貴方を忘れられる筈も無かった。

逆に、脳裏で彼の笑顔が、声が、言葉が、蠅のようにぐるぐると煩く廻る。刹那フラッシュバックしたのは、今までずっと触れてこなかった──いや、触れられなかった現実だった。


痩せ細った彼は、それでいて美しかった。死んだように眠ることも多くなった。睡眠時間も増えた気がするし、起きているときも苦しそうに見える。

いよいよという時になっても、私は現実逃避していた。夢にエンドロールが流れ始め、私は薄々気付きながらも悠々とエンドロールを眺めている。悲観的な楽観視とでも呼ぼうか。

彼が瞼を開けると、私は椅子から立ち上がり窓を開ける。もうすっかり習慣化していた。この頃になると病室の方が涼しくなっていたが、彼は窓を開けてくれないかと私に頼み続けた。

「外は、どうだい」

私は改めて外を一望する。

葉桜が青々と茂り、青天井には太陽が申し訳程度に飾られている。

「快晴ですよ。窓枠が少々熱くなっています」

そうか、と彼は微笑を浮かべる。

「少々、蝉が煩いな」

「閉めますか?」

「──いや、良いよ。それよりこっちへおいで」

私はささっと彼の頭の側に移動する。

「そろそろだろう。君に伝えておきたいことがある」

そろそろ。

肩がビクッと痙攣したように跳ねる。

「私の孤独な余生を彩ってくれて、ありがとう」

「……こちらこそ、救って頂いて感謝しかありません!」

「君は僕なしでもうまくやれるよ。やれるようになるまで、僕が幾らでも心の支えになる」

「──私、貴方が居なくても幸せになれるでしょうか」

彼はふっと鼻先で笑う。

「幸せになるということは、いつか失うということだ。君は失うことをこれから知るだろうから、何も恐れなくて良い」




結局、彼は次の日に死んだ。

私が起きると、彼は眠ったように死んでいた。

不思議と涙は一滴も出なかった。

悲しい筈なのに、どうにも実感が湧かない。この期に及んで、私はまだ現実逃避しているらしい。エンドロールが終わった後も映画館に留まるのは、余韻に浸っているだけの迷惑客に過ぎない。

それでも私はそこに座っていた。


貴方は忘れろと言ったが、私は絶対に貴方を忘れない。私は幸福になってはいけない身なのだ。

そう、私、可哀想な奴隷少女だ。

いつかよく頑張ったね、辛かったでしょう?と言われたいから。

誰しもいつか報われるのなら、私はそれまで待つ。

いつか聞いたシティ・ポップは陽気に歌っていたのだ。

明けない夜は無い、と。

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シティ・ポップと造花 緋花 @isekaijoucho-love

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