【短編】溶けあう2人の恋心
春野 土筆
溶けあう2人の恋心
肌寒さがより身をこわばらせる二月十四日。
冷たい空気に満たされた廊下を歩いていた
相変わらず運動と縁遠い生活を送っている彼にとって、ごちゃ混ぜになった様々な掛け声は気にするものでもなかった。ただ自分の目的地を目指して廊下を急ぐ。
しばらく歩いた旧校舎の奥。彼は古びた扉の前に立った。曇りガラスの奥でも、先ほどとは違うけれど、いくらか声が聞こえてきている。
「お疲れ様です」
雫が扉を開けると、いつも通り数人のメンバーが集まっていた。
注目が一斉に扉を開けた彼に向けられるが、雫の顔を見た部員たちはすぐにさっきまでの空気感に戻る。何事かと思っている彼が辺りを見回すと、全員の手には小さな袋に入ったお菓子が握られていた。
そしてそれらのお菓子を入れていたと思われる少し大きめの袋を一人の女子が持っていたので、彼はすぐさま今の状況を理解した。
(ああ、そっか。チョコを渡していたのか)
今日は二月十四日、バレンタインである。日頃からよくモテるわけでもない――というか彼女いない歴=年齢の彼にとっては、あってもなくてもいいような日だった。
むしろない方が変な劣等感を抱かなくても済む。
しかし、文芸部内でのバレンタインは別だ。
少し浮足立ちながらも、雫は大きな袋を持った少女の前に立った。
「お疲れ様です、部長」
部長――そう彼から呼ばれた人物も彼を認めるなり笑顔をこぼす。
彼が所属する文芸部は、部長になった人物はその年のバレンタインに部員にチョコをプレゼントするというのが習わしとなっている。去年の部長は、みんなに手作りチョコケーキを配ってくれたのだが、さて今年はどんなものをもらえるか。
毎年、母親と幼馴染の二人からしかもらえない彼にとって、文芸部のバレンタインデーイベントは少しだけ心を和ませてくれるもので。
特に今年は幼馴染からがなくなった分、期待が膨らむ。
心無しか待っていながら頬が緩んでしまう。
だが、袋の中を漁っていた部長はわざとらしく「あっ」と声を漏らした。
「ごめん、雫君。その、チョコが……」
さっきまでの笑顔が消え、眉が下がる。そう言った部長は、さっきまでチョコが入っていたと思われる袋をフルフルと振った。彼女が言う通り、チョコは一つも入っていないようだった。
空気だけが音もたてずに袋から出る。
「雫君にもあげたいんだけど…………」
申し訳なさそうに苦笑する部長。
ポリポリと頬を掻いている。
「あ~、全然大丈夫」
そんな彼女に対し、雫はできるだけ平然を装いながら対応した。
内心は、「ええっ……」と絶句し、がっくりとしてしまっている。しかし、ここで落胆なんかしてしまってはカッコ悪すぎるのでグッと我慢した。
あくまで作り笑いをキープする。
元々文芸部なんて雫のような人見知りの集まりだから、バレンタインをもらえない方が普通だ。だから「残念……」といった雰囲気を見せても部員からは変わった印象を持たれない―逆に同情の眼差しを向けられる―だろうが、目の前にいる彼女にその様子を悟られたくはなかった。
部長は分かりやすく腕を組んで考え始める。
代替案を模索し始めたらしい。
文芸部員の数は、雫を入れて五名。元々女子は少ないのだが、今年は特に部長が紅一点、文芸部の高嶺の花として文芸部に降臨している。特にその美貌は文芸部のみならず学校中でも知られているほどで。部活の男子達も例に漏れず彼女の虜だった。
今も「うーん」と軽く唸る彼女に見とれている面子が何人もいる。雫はそんな鼻の下を伸ばしている彼らから視線を切った。
だが目の前の彼女はそう言った視線も気にならないようで。
「そうだね~……」
どうしよっかな……、と困ったような素振りを見せている。
と、不意にペロッと唇を舐めた。
「放課後空いてるかな?」
その瞬間、読書をしていた部員までもガバッと勢いよく顔を上げた。それまで盗み見していた部員の視線が一直線に雫と部長に注がれる。
その圧力に雫は肩をこわばらせた。
(み、みんな見てる……!)
人見知りにとっては試練ともいえる大衆(三人)の視線に、一度は動揺した雫であったが、すぐに呼吸を整えて平常心であることを装う。
部長に動揺したことを悟られないように、細心の注意を払いつつ返答した。
「放課後?」
「そっ、放課後に渡せたらと思って」
そう言って、彼女は無邪気な瞳を輝かせた。「どうかな?」と腕を後ろに組んで、身を乗り出した。誘うような上目遣いを披露する。
(うっ……可愛っ)
思わず見とれてしまいそうになるが、その時雫は背中に刺さる殺気のようなものを感じ取った。まるで、「お前だけずるい」「何誘われてんだ」「お前だけいい思いするんじゃねぇぞ」と言わんばかりだ。
というか、実際に言ってる奴もいる。
その痛烈な視線を背中に感じつつ雫は逡巡する。
「どうかな?」
笑顔で催促する部長にすぐに返答することができない。
ここでイエスと答えてしまったら、後ろにいる部員を敵に回してしまうことになる。これから先――これまでも部長と仲の良い雫は他の部員からも疎まれていたのだが――それがさらに加速することは火を見るよりも明らかだった。
かといって、せっかく部長が提案してくれたバレンタインデーのお誘いを断ってしまうのも、もったいなさすぎる。二人の時にこうやって誘われれば、雫もためらいなく頷くのだが、こういう人がいる場で言ってくるあたりがいやらしい。
二者択一を迫られた部員を楽しそうに眺める部長に心の中でため息を吐いた。
(わざわざ部活中に言わなくてもいいのに……)
そのせいで、ただでさえ多い敵がさらに増えそうである。
だがまぁ仕方ない。
背に腹は代えられないと、周りが固唾を飲んでいる中、雫は小さく頷くのだった。
※
「いや~、今日も終わったね~」
そう言って、文芸部部長・森川
息を吐くと白く曇る寒空の下、二人は久々に下校を共にしていた。
彼女の口調は、既に先ほどの柔らかなお姉さんのようなものから、一人の無邪気な少女のようなものに変わっている。梅の花が咲くような可愛らしい声を漏らしながら、ストレッチなのか、腕を左右に動かしていた。
そんな彼女にジト目を向けつつ、雫は悪態をついた。
「ったくやめてよ、みんなの前で……」
もう……、とあきれるような仕草を見せるが、悠香の方は全く聞く耳を持った様子もない。今のご時世、人の話をよく聞くのが国家を含めたトレンドだというのに、彼女にはその気概が一切感じられなかった。
逆に手を口に当てた彼女から、
「いや~、みんなに睨まれて蛙みたいになった雫、面白かったな~」
フフッ、と目を細められる有様だ。
雫はもう一度ため息を吐いて空を眺めた。部活終わりということもあって、空は既に夕焼けに染まっている。真っ赤というより、オレンジに近い赤が二人を包み込んでいた。
彼はポケットに入っているカイロをギュッと握りしめながら、少ない頭を働かせる。これから彼女はどこに行くつもりなのだろう。部活の時、放課後空いてるか聞かれた以外は何も言われることはなかったし、今も何か言うような雰囲気は感じられない。
ただ、これだけは確実だ。
「チョコの数を間違えたのは、わざとでしょ?」
「お~、ご名答」
よく分かったね~、と嬉しそうにしながら頭を撫でようとしてくる腕を払いのける。こうやって頭を撫でようとしてくるのは、悠香の昔からの癖だった。
(う~、子ども扱いしやがって……)
彼女の対応に地団駄を踏みたくなってしまうが、そんなことをすればそれこそ子供っぽいので、控える。ただ鋭い目つきで牽制するにとどめた。
「でもなんで分かったの?」
「そりゃ、悠香は人を試すときに唇を舐める癖があるから……」
と、そこまで行ったところで「しまった」と口をつぐむが、時すでに遅し。雫を見る彼女の口端がウキウキしたように上がっている。
「いや~、嬉しいな。私の癖を知ってるなんて。雫って、私のことよく見てるんだね~」
「そ、それはっ……」
ぐぅの音も出ないとはこのことだ。まんまとしてやられた雫は、その場で俯くしかなかった。彼女はあの時ペロッと舌を出して、雫がチョコの数を間違えたのがわざと見抜けるかどうか試したのだ。
もちろん、下校に彼がこういう問いをしてくることも見越して。
まるで往年の名投手、山本昌のような芸当をしでかす彼女には舌を巻くしかない。雫はくそぅと一人、唇を噛んで悔しがっていた。
不意に悠香のスカートがふわりとなびく。
「まぁ、雫に用事があったのは本当だよ」
くるっと振り返った悠香は、ニコッと晴れやかな笑みをこぼした。
その純真な笑顔に雫の胸は盛大な鼓動を打ち鳴らすが、すぐに彼は頭を振った。
(ダメだ、ダメだ。ドキドキしちゃ、悠香の思うツボになっちゃう)
ここは、無の境地だ――自分がまるで釈迦になったような気持になるよう努めるが、風になびいてきた柑橘系の甘酸っぱい香りに再び雫の頬は熱くなってしまった。雑念が脳内をグルグルとめぐり始める。
彼が照れたのを確認した悠香は満足そうに頷く。
「だって、今年は二倍のバレンタインをしなちゃダメだもんね」
雫が今までもらえていたバレンタインは二つ。内訳は母親と幼馴染。その幼馴染というのが、目の前で微笑む悠香、その人だった。彼女が部長になったら今までもらえていた分は自然と部長からの分と兼ねることは考えなくても分かることで。
それだけに内心は彼女からのバレンタインを楽しみにしていた。で、その結果放課後デートをしている今日この頃なのだが。
「どこに向かってるの、これ」
「う~んとね、どこだと思う?」
悠香は悪戯っぽい瞳を雫に向けた。しかし今回は雫をからかってやろうとするような色を帯びておらず、純粋にクイズとして聞いたみたいだった。部長をしている時よりも無邪気な笑顔を見せ、小さな子供のようにコロコロと笑っている。
「なんか、ヒントない?」
「え~、いきなりヒントもらおうとしちゃダメでしょ」
そう言って、雫の頬を軽くつついた。
会話を楽しんでいるらしい彼女の表情を見て、雫も自然とほおが緩んでしまう。彼は悠香と過ごすこの時間が大好きだった。別に大切なことを話しているという訳じゃないけれど、なぜだか心が落ち着いた。不安なことがあった時でも彼女と何の他愛もない話をしていれば、不思議と悩みは消えていった。
そして何より、彼女と心が通ってる感覚が愛おしかった。
「……うーんと、スーパーとか?」
「えっ、なんで?」
「バレンタインのチョコを買いに行くのかなって思ったんだけど………その反応だと、違うってことだよね……」
「ご名答~」
よく分かったね、と再び頭を撫でようとしてきたのでその手を払いのける。
不満そうに雫は頬を膨らませた。
「あのさ、身長小っちゃいからって、頭撫でようとするのやめてよ……」
「えー、なんでさ~。雫、ちっさくて可愛いじゃん」
からかいがいもあってさ、と小声で付け足す。
「聞こえてるぞ!あと、悠香とそんな身長変わんないじゃん!」
ほら、と雫は彼女に並んで手を頭に当てて平行に移動させる。雫の手が丁度彼の頭頂にあたったのと同じくらいの感触で彼女の頭頂にあたった。
「ほら、一緒だろ!」
どうだ、と言わんばかりの勢いで胸を張る。雫は自分が小さいと言われることが嫌だった。男なのに男らしくない気がするし、何より悠香にからかわれてしまうから。隙あらば自分の髪を愛おしく撫でられる、そんな恥ずかしい仕打ちを率先して受けたくない。
そんな彼に少しばかり苦笑を浮かべた悠香は、さっき雫に触られたところを軽くさすった。少し彼に撫でられた感触がまだ残っている。
それを確かめるようになぞりながら。
「話してる間にも見えてきたよ」
と、目的の場所を指さす。
彼女の指が示す先にあったのは、一つの小さな喫茶店だった。
※
「ここが目的地?」
「そうだよ~」
じろじろと外観を観察する雫。店の周りは観葉植物が置かれ、玄関の扉には味のあるステンドガラスがはめ込まれている。いかにもおしゃれな外装に、おしゃれと無縁な雫は少し圧倒されてしまった。
キョロキョロと物珍しそうに眺める彼に。
「雫はあまり喫茶店とか来たこと無い?」
「そ、そりゃあ……」
じゃあ喫茶店初体験か~、と悠香は目を細めた。
人見知りな彼にとって、誰かと行くことが相場である喫茶店に足を踏み入れる機会はそうそう巡ってこない。ましてや、一人で行くなんていう勇気がある訳もなく。喫茶店=大人というイメージが強いだけに入ってみたいとは思っていたけれど、結局これまで大人だけの場所に入れずにいた。
それに対して悠香のこの余裕。
確実に何度も店に行ったことがあるという顔をしている。雫はそんな得意顔をする彼女から顔を背けた。
「で、悠香は来たことあるんでしょ。何回目?」
「私も初めてだよ」
「やっぱりね…………えっ?」
初めてなの?
意外過ぎる答えに瞠目していると、悠香はまたも可笑しそうに口元を隠す。鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはよく言ったものだと思う。今の雫はまさに鳩が豆鉄砲を食ったときのそれだった。しばし思考を停止することを余儀なくされた雫であったが、
「悠香も初めてなのっ⁉」
意外な答えに、信じられないと大声を出した。
すぐに彼女は彼の唇に人差し指を当てて。
「そんな大きな声を出したら、怒られるよ?」
と、あだっぽい声を出して注意する。突然の色っぽさに、ギュッと胸が締め付けられたような感覚に陥った雫は、ただ「はい……」という声を出すだけで精いっぱいだった。
店内は何組かの客でにぎわっていた。そこで雫が気になったのが、その客のほとんどがカップルということである。キャッキャウフフ、という音がよく似合うように、店内のあちこちで若い男女がいちゃついている。
「雫もあんなことしたいの?」
あちらこちらを不用意に見回す雫に、メニューを見ていた悠香はおもむろに顔を上げた。例によって、からかいたい気持ちでいっぱいである。雫が見ていたカップルへとそっと視線を向けた彼女はニコッと口角を上げた。
「そ、そんな訳ないだろっ!」
「え~、ホントかな?」
小声で噛みつく雫を尻目に、彼女は半眼のままだ。周りから見れば、二人も周りにいるカップルと大差ないのだが、雫はその事には気づいていない。と、彼女と言い争っているところへ女性店員が可愛いものを見るような微笑を浮かべて注文を取りに来た。
「注文はお決まりですか?」
「はい、決まってます。雫もオーケー?」
「あ、ああ……うん」
彼女に聞かれて咄嗟に頷いてしまう。メニューはまだ見ていなかったが、別に適当なドリンクを頼めばいいだろう。どうせ、メニューを見ていたらそれはそれで悠香にからかわれるかもしれない。
少し憮然とした態度の彼に苦笑しつつ、悠香は一つのメニューを指さした。
「この、カップル限定・甘フワチョコレートケーキを一つお願いします。あと、飲み物は――」
ガバッと。
まるで我関せずというように彼女の向かい側で肘をついていた雫は、彼女が頼んだメニューを聞いてすぐに正面を向いた。その意識の先はもちろん、彼女が発した「カップル限定」という言葉。
だが目を剥く彼を前にしても、悠香は相も変わらず飄々と涼しい顔をしていた。カレーやハンバーグといったメニューを頼むのとなんら大差のない口調のまま、メニューを頼んでいく。
そんな彼女の姿にアワアワしていると。
「じゃ、雫も。何にする?」
「あっ……ええっと…………その」
頼み終えた悠香に声を掛けられ、雫は盛大に裏返った声を出してしまった。
(ああ、やってしまった……)
メニューを渡されると彼はすぐに顔を隠すようにそれを開いた。頬が熱くなり、頭も整理できない。そんな状態でメニューを見ても、案の定全然頭に入ってこなかった。
チラッとメニュー越しに二人を盗み見ると、悠香は面白そうに見つめ、店員は微笑ましそうな笑顔を浮かべて佇んでいた。
再びメニューに顔を埋める。
「ぼ、僕もそれをお願いします……」
冷静にメニューを見れない雫は悠香が頼んだものと同じものにした。
「耳まで真っ赤だよ?」
「う、うるさいなぁ……!」
店員が席を去ってすぐ、からかわれる。注文を終えた後も「うぅ……」と恥ずかしそうに顔を隠す雫に、彼女は愛おしそうに微笑むのだった。
※
「いや~、美味しかったね」
やっぱり正解だったな~、と悠香は満足そうにお腹をさすっている。
「初めてじゃないの?」
「初めてだったけど、友達の間でもおいしいって話題になってたから行きたかったんだ」
ニコッと微笑む彼女の顔が街灯の光に照らされる。
喫茶店を出るころには、外はすっかり日が落ちていた。空気を吸う度に、肺がわずかに痛むくらいには、空気も冷たくなっている。二人きりに、とっぷりと日が落ちた帰り道。その特別感が、雫の心をうずうずさせた。
「なんか、特別感あるね」
そんな彼の気持ちを代弁するように悠香が微笑みかける。ギョッとした雫はマフラーに顔を埋め、まだ少し暖かいカイロを握りしめた。
「で、あのメニューだけど……」
「いや~、やっぱり美味しかったね。カップル限定・甘フワチョコケーキ」
わざわざフルネームを言わなくてもいいのに……と、雫は息を吐く。カップルという響きがいつまでも耳に残る。心なしか、悠香も「カップル限定」の部分を強調したような言い回しに雫には聞こえた。
カップル限定という言葉は、雫にとってとても刺激的な響きだった。
ここまで彼女というものを知らない彼にとって、カップル限定メニューがあること自体が驚きだったが、それを頼んだ悠香は更に驚きだった。その時からずっとカップル限定を頼んだ彼女に対して淡い感情が、喫茶店から頭の中をグルグルと回っている。
(やっぱりカップル限定を頼むってことは、悠香も僕の事……)
彼女は美味しかった、と言っているが、雫自身はチョコケーキの味をあまり覚えていない。そんなことがどうでもよくなるほど、ケーキを待っている間からずっとその事ばかり考えている。
「ねぇ、もしかして今日僕を呼んだのって……」
「……何でだと思う?」
確かめようと声を掛けたが、逆に聞き返されてしまう。「僕と食べたかったから?」と答えたいのに、その一言はどうしても喉から先にでてこなかった。思わず立ち止まって、言葉に詰まる。
そんな彼の様子を知ってか知らずか、悠香は振り返らずに。
「ああ、そうそう。私ね、今日も告白されたんだ~」
と、嬉しそうな声で自慢してきた。昼休みに屋上に呼び出されてね、と話す彼女の声は心なしか弾んでいる。前を向いているはずなのに、雫の表情を楽しんでいるようなその様子に、彼はプイッと顔を数歩前にいる悠香から顔を逸らした。
「……で、なんて答えたの?」
あくまでも、興味がないという風に。だが、そんな態度とは裏腹に雫は気が気でなかった。彼の様子を見たくて我慢できなかったのか、悠香は顔を半分だけこちらに向ける。不敵な笑みを浮かべた悠香は、悪戯っぽい声で彼に投げかけた。
「聞きたい?」
聞きたいか聞きたくないか、と問われればもちろんイエスというのが本心だが、やすやすと答えてしまうと彼女が調子に乗りかねない。あと、もしその告白に承諾していたら、雫はしばらく立ち直れる自信がなかった。
逡巡した後、「別に」とそっけなく答える。
すると彼女は何かそれ以上追及していることもなく、
「そっか」
と、物思いにふけるように声を落として再び前を向いた。
悠香はよくモテる。背中まで伸びた柔らかな黒髪に、綺麗に整った相貌。学校ではしっかり者としても通っている。美人でお姉さん気質で……そんな彼女の事の虜となる男子は数知れず。雫にも「告白された」という話がよく耳に入ってきていた。
大体、本人の口からなんだけれど。
雫は悠香の恋路の話が嫌だった。今まで幼馴染として一緒に過ごしてきた彼女が誰かのものになってしまう、ということを考えるだけで悪寒がしたし、耳を塞ぎたくなった。恋をしたいんだろうな、ということは毎回嬉しそうに話す彼女の口調から感じ取っていたから、いつ誰かのものになってしまうか、気が気でなかった。
彼女が断ったと聞いて安堵し、告白されたと聞けば背筋を凍らせ……という日々がいつの間にか日常茶飯事となっていた。彼女を自分のものにしたい、そう思ったことももちろんある。他の誰かに取られてしまうくらいなら、いっそ先に自分が――だが、それはそれで勇気が出なかった。
もし断られたら……という恐怖が常に頭の中にあったから。
諸刃の剣。
告白に成功すれば、ずっと悠香と一緒に居られる。何の憂いもなく、心から楽しめる彼女との日々を送ることができる。だが断られた場合、間違いなくこれまで築いてきた関係も音を立てて崩れ落ちてしまうのは明白だった。
暗い道の上を一つの街灯がほのかに地面を照らしている。
いつの間にか、彼女との間には数メートルの距離が生まれていた。たった数メートル、少し早く歩けばすぐに追いつける距離。しかし今の雫にとって、この数メートルは果てしなく遠いものに感じられた。
悠香は、何やら幼馴染があれこれと思い悩んでいるのを背中越しに察知した。いつの間にか彼の足音が小さくなっている。彼が歩みを止めようとするときは、頭の中が不安でいっぱいになった時と相場が決まっているのだ。
(どうしよっかな。このまま放っておいてもいいんだけど)
そっと胸ポケットを確認する。手を入れようとすると、直方体の箱がサイズギリギリで胸ポケットに収まっている。
うーん、と彼に悟られないよう策を練る。
彼が今思い悩んでいることの察しはついている。そりゃ小学生の頃から離れず一緒に居れば、「つうと言えばかあ」程の関係にはなっているものだ。悠香にとって、雫との関係はそこら辺にいるカップルよりも気の知れているという自負があった。
それだけに今の関係性は少し物足りなく、もどかしかった。
昔から自分が雫を引っ張ってきた自覚はある。あれしたい、これしたい、という自分に雫は嫌な顔せずについてきてくれた。それ故、こういう場面では逆に彼に引っ張って欲しい。どれだけこちらが誘導したとしても、最後はやはり彼の口から関係を一歩進める言葉が聞きたかった。
(そうだよね、これは生かすしかないかな)
おもむろに悠香が振り返る。のと同時に雫も顔を上げた。
「な、なに………?」
ビクッと肩を跳ねる雫に、何を考えているのか悟らせないような神秘的な瞳を向ける。ただ、今の状況が楽しくて仕方ない。胸がゾクゾクするのを抑えながら、自分に警戒しながらも頬を軽く染めてくれている彼に弓なりの視線を送る。何か喋ろうとしたままジーッと見つめる悠香を、雫は黙って待っていた。
自然な動きで後ろに手を組むと、数歩雫に近寄る。
雫がトボトボと歩いている間に開いていた二人の距離が一瞬で埋まった。
「さっきから、な~に考えてたの?」
前目に身を乗り出して上目遣いで見上げる。
「な、何もないよっ……」
「え~、ホントかな~?………顔に書いてるよ、寂しいって」
「えっ……」
驚いているあどけない顔を見つめ、ニヤッとしたり顔をしてしまう。自分の悪い癖だと、内心苦笑しながらも変わらず彼を見つめ続ける。
「どうやら図星のようだね」
「………悠香は超能力者か何かなの?」
こんなに心を読まれてはやってられない。ふん、と拗ねた子供のように彼女の顔を見ないように横を向いた。しかし、彼が顔を向けたらその先に悠香は移動した。今度は逆の方に彼は顔を向けるが、再びその先に移動する。
それを何度か繰り返す。
そのうち、雫もさすがに煩わしくなってきたようで。
「もうっ、さっきから何なのっ!」
「おっ、やっと見てくれた♪」
彼は珍しく眦を上げるが、悠香は全然気にせずに微笑みかけた。
「だからさぁ……」
自分に対して怒ったような口調をすることなんて、今まで記憶していない。それくらい彼の中に迷いが生じているんだろう。
こういう時こそ、笑顔だ。
悠香はそんな彼の態度にも変わらずに微笑を保っていた。けれどもその瞳は、先ほどまでの活発な色から落ち着いた深みのある色へと変化していて。何でも言っていいよ、と暗に雫へ訴えかけていた。
その屈託のない笑みに、彼の胸がずきんと痛む。そんな彼の表情を読み取ったかのように、悠香はそっと彼の隣へ行き、体を預けた。
街灯に黒髪が艶やかに反射する。
「ま~た、私が取られるんじゃないかって思ってた?」
「そ、そんなこと…………ない」
ムスッとした顔をする雫の横顔に、思わず悠香は吹き出してしまった。
いつも告白をされたことを報告すると、決まって雫は深刻そうな顔になる。少し胸が痛むけれど、そんな彼の表情を見る度に彼の気持ちを見ている気がして、告白される毎に彼には伝えるようにしていた。
もちろん、告白の答えは毎回同じだ。
相手は既に決めてある。
「分かりやすすぎだって」
不貞腐れるようになった彼を見つめる。
まだ幼さの残る表情に、思いがけず釘付けになってしまう自分がいた。雫は自分から目を背け、恥ずかしそうに呼吸をしている。態度は頼りないのに、体を預けたその肩には年相応の安心感があった。いつまでも女の子のように思っていた彼も、自分と同じ十七歳。雰囲気は昔のままだけど、少し精悍になった頬を見つめる。
(また少し大人っぽく《かっこよく》なったな)
と、彼女の瞳には彼だけが写っていた。
体を預けられる、ってこんなに安心するんだと、この年齢になって雫は初めて知った。厚い上着の上からでも、彼女の柔らかな温かみが伝わってくる。
喫茶店を出てから、雫は自分を見失ってることをはっきりと自覚していた。自分の中にあるこのモヤモヤを解消する手段が皆目見当がついていなかった。これからどうしたいのか、どうしたらいいのか。自分でもうまく言い表せない感情に突き動かされるように、向かっ腹を幼馴染にぶつけてしまった。
すぐに口に出したことを後悔する。結局は自分のエゴ、それが実現できないことを彼女に八つ当たりしてしまったのだから。しかし、彼女は自分の怒りを受け止めてくれた。咄嗟に飛び出した怒気を孕んだ声にも臆することなく、悠香は何も言わずに次の言葉を待ってくれている。
「…………ごめん」
「ううん、全然大丈夫だよ」
ボソッと消え入るように謝ると、隣にいる彼女の優しい声が雫を包み込んだ。それと同時に右腕にかかる重みが増したような気がしたけれど、雫は何も言わないまま彼女と過ごすこの瞬間を味わっていた。
※
それからいくら時間が経ったのだろう。もしくはそれほど時間は経っていないのかもしれない。誰も通らない街灯の下、雫と悠香は何も言わず無言で佇んでいた。
悠香の軽い体が雫の右肩に寄りかかる。
「……はい、これあげる」
無言を切り裂いて、おもむろに彼の前で小さな箱を差し出した。
「ほら、私まだ雫にチョコ、渡してなかったでしょ?」
今度は雫が首をかしげる番だった。
「え、一緒にチョコケーキ食べたじゃん……」
それがバレンタインじゃなかったの、と。綺麗にラッピングされた小箱と自分を見上げる悠香とを交互に見つめる。
「今日雫を呼んだ理由は、これ」
ほら、と受け取ろうとしない自分に催促する。それは明らかに手作りといった様相を呈していたが、それが手抜きということを意味する訳ではなくて。
心を込めた、という表現がふさわしい小さな箱だった。
「チョコの数、間違えたんじゃ……」
「……私、放課後にチョコを渡したい、としか言ってないよ?」
この時、雫は自分の推理が至ってなかったことを認めた。雫自身は、わざとチョコを忘れて放課後に自分をデートに付き合わせたとばかり思っていた。喫茶店でチョコケーキを食べたのが、今年のバレンタインだと信じて疑わなかった。
しかし実際は、彼女はチョコを渡す機会を密かに伺っていたのだ。
「……ありがと」
彼女が手に持っているのは、文芸部で他の部員達に渡していたものとは趣を異にしていた。綺麗にリボンをつけて、シールには雫へと手書きがなされている。きっちり準備されてきたということが一瞬で分かった。自分のためにわざわざしてくれたと思うと、嫌が応にもにやけてしまう。
気恥ずかしさを感じつつ、手を伸ばした。
だが。
伸ばした手は箱を掴むこと無く空を切った。
「え……?」
何が起こったのか、彼の手は空気を二、三度つかむ。見ると、さっきまで目の前にあったチョコは彼女の胸にギュッと抱かれていた。簡単にはあげないよ、という眼差しが雫を捉える。
「な、何するの?」
「いやね、そのまま渡すのもなんか味気ない気がしてさ」
そう言うと、悠香は不敵に笑った。
「な、何が望み……?」
思わず身構えてしまう雫。こういう顔をしている時の彼女が考えている事なんて、ろくなことがあった験がないからだ。雫はチョコを人質(?)に取られ、その場で立ちすくんでしまう。
馬鹿な真似はよせ――刑事ドラマのワンシーンのように向かい合ったまま数十秒が過ぎようとした頃。
すぅっと桜色の唇が冷えた空気を吸い込むと。
「雫の気持ちを教えて?」
グイッと身を乗り出して、耳元で囁いた。緊迫した空気を一気に弛緩させるような小悪魔的な声色がちりばめられたその一言に、雫は思わず耳を塞ぐ。今まで聞いたことがない甘い声だった。
「ひへぇ……⁉」
目を剥く雫。
ドクンドクンという音が大きく、そして激しく耳朶に響く。
「雫は私のこと、どう思ってる?」
「ど、どう………って」
目の前で、瞳を潤ませた悠香は無言のままジーッと彼から目を離さない。雫は左右に視線を動かし、口をパクパクさせる。ただでさえ可愛い悠香の顔が近くにある。図らずも彼女の香りが鼻を撫でた。
悠香のことをうざったいと感じることも多々ある。執拗に自分の事をからかってくるし、子ども扱いだってしてくることもある。ニヤニヤする彼女の鼻を明かしたいと何度思ったことか分からない。
――だけど。
そんなことも些細なことと思えるくらい、嫌なことされても気にならないくらい、もっと、ずっと……彼女の笑顔を独り占めするくらい一緒に居たい。ギュッとその小さな体を思いっきり抱きしめてみたい。もっと、もっともっと。
そう思っているよ、と言いたい。悠香のことが好きなんだ、と伝えたい。
ただ、その一言が口にできなかった。
彼女を自分の胸に引き寄せるたった一言が。
おもむろに悠香は彼の手を包むように握る。慈愛に満ちた眼差しが雫を捉えた。
「心配しないでも、私は誰のものにもならないよ」
ね?と諭すように微笑みかける。
その美しさは、まるでこの世に舞い降りた天使のようで。雫は、どうすることもできずその場に固まってしまった。そんな彼の体をほぐすように、柔らかくも繊細な指が彼の手甲を撫でる。
それはまるで映画のワンシーンみたいで。
「…………ぼ、僕っ」
雫の声が静寂に包まれた夜風にこだまする。
震える視線。
震える体。
緊張して上手く声が出ない。
でも、でもでもでも……。
(僕の気持ちを伝えなくちゃ……!)
彼女は変わらず見つめている。
心の奥底でくすぶっていた思いが喉元まで上がってきた。今まで何度もこれより先には決して出ることのなかった、彼女への恋心。
真っすぐに彼女の目を見る。
すると悠香は、ギュッと彼の手を添えたまま一つ小さく頷いてくれた。
雫はふぅーと息を整えて。
「は、悠香のことがっ…………」
夜の闇に彼の想いが溶けてゆく。
悠香は夜風に消えた彼の言葉を心に刻むようにずっと彼を見つめていた。
※
「雫、今日も一緒に帰ろうか」
「う、うんっ」
部員の視線が刺さる。だが雫の顔に憂いや不安はなかった。部員の視線を尻目に彼は晴れやかな面持ちで部室を後にする。
空は淡い青と濃いオレンジがまじり合った色に染まっていた。
相変わらず日が暮れるのも近い。
空気も冷たいままなのに、雫には吹く風が心なしか温かく感じた。
いつも通り悠香は学校から出るとくい~っと一伸びをする。
こうやって気分をリセットするストレッチは彼女のルーティーンだ。一通りの儀式を終えた悠香は、隣を歩く雫に視線を預けた。
「今日はどこいこっか?」
屈託のない笑みを浮かべる。
相変わらず彼女の整った容貌にドキッとしてしまう雫は、その裏表のない笑顔からプイッと視線をはずした。
「ど、どこでも……いい。………悠香と一緒なら」
ボソッと、最後の一言を呟く。もちろん、悠香に聞こえないくらいの小さな声で。
だが、そんな甘えた言葉を彼女が聞き逃すはずもなかった。
「積極的になったね、雫♪」
ニヤッと、さっきとは趣を異にした笑みをたたえる。
「からかわないでよっ……」
プクっと片頬を膨らませる雫。
そこには以前と変わらない光景が広がっているように見えた。からかう悠香と彼女に弄ばれる雫。膨らんだ頬はほんのりと赤く染まっている。しかし雫の指はずっと離さないと言わんばかりに悠香の指と絡み合っていた。それに呼応するかのように、彼女の指もしっかりと彼の手に結ばれている。
不意にスカートが軽やかになびいた。
「だって…………からかわないと私が持たないんだもん」
絶対に聞こえないくらい小さな声で悠香は呟いた。
「……え、今なんか言った?」
「なんでもないよっ」
間の抜けた声を漏らす彼から視線を逸らした悠香は、握っていた手に力を込める。
いつの間にか青が残っていた空は深い朱に変わり、ゆっくりと歩を進める二人の影をこの上なく赤く染め上げていた。
完
【短編】溶けあう2人の恋心 春野 土筆 @tsu-ku-shi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます