第24話 激情5
車椅子を押されながら玄関を出て庭を右回りに裏手へと向かっていた。
私の心臓は心音を感じられるくらい高鳴っている。きっといま喋ると声は震えてしまうかもしれない。それくらいに私はこの状況を待ち望んでいたのだから。
――ああ、きっとあなたなら共感しあえるわ。
どうしてか蔵の戸は開いていて、防音の面で見ればここほど適した場所はなく、抵抗する意思も湧かずに蔵の中へと。
中程で車椅子は止まる。背後の人物が私から離れると、蔵の中の照明が付いて戸が閉まった。少し離れた正面には落合刑事がシャツの腹部を赤く広範囲に染めていた。彼がゆっくりと顔を上げ、憔悴しきった表情で私を見るも、口に噛ませられた布のせいで話すことも出来ないでいる。
「ねえ。お母さんは?」
私は振り向かずに聞くと、「一緒に来ていますよ」聞き慣れた靴音と優しい声。しかしその音はいま、私の車椅子を押していた人物とは別のもので、私の正面に回った松田さんは屈んで私と眼を合わせた。
「僕のメッセージ、わかりにくかったですか?」
「最初はね。でも、さっき判ったところ。もう少し早く判っていれば、塚本刑事と小野さんを叩き起こしていたかもしれない」
「嘘言わないでください。あなたはこの状況を望んでいた。違いますか。違わないですよね、だって、こんな……、自分がどうなるか予測できていて、嬉しそうな顔できっこないじゃないですか」
「あら。笑っているの、私?」
「ええ。美園さんと一緒にいる時と同じくらいに」
「期待しているの、私の人生を引き換えにしてでも得たいモノが手に入るかもしれない」
「共感、ですか。そこまでして、貴女は」
松田さんは声を押し殺して言うと私を睨み付け、「美園さんは、貴女に生きて欲しいと願っているのに」唇を強く噛みしめ、顔を右側へと向ける。彼の視線の先を追うと、階段で影になっている場所にお母さんは居た。
落合刑事と同じように椅子に縛られてぐったりとしている。意識がないのかとも思ったけど、「お母さん」この言葉に反応を示して、悲しそうな表情を見せた。
「智恵、どうして……」
――どうして、は私の台詞よ。
もう一度私に向き、「僕の計画が台無しですよ。智恵お嬢さんと美園さんが親子として、平穏の暮らしが出来るように立ち回っていたのに」小声で、私にしか聞こえない呟きを残してスッと背を伸ばして立ち上がった。私の背後、少し離れた場所で様子を見ていた人物へと、ズボンのベルトに差していたマチェットを抜いて切っ先を向けた。
「当初の計画が頓挫したなら、せめて、最期の約束を守らせて貰います。そう、今なら護衛もいない。無防備な状況の貴女を殺すには、僕みたいな非力な男でも十分すぎる。僕を信用しすぎたようですね。二人だけで来るべきではなかった」
背後から近付く足音。松田さんは俊敏な動きで私の背後に回る。
「智恵お嬢さん、生きて貰います」
「勝算はあるの?」
相手は自分を周囲に偽って警察をも欺いてきた人物。千丈電子セキュリティーの完璧な監視に細工を施し、数々の殺人行為を、私一人の為にこなしてきた凶悪犯。
「私、貴女に聞きたいことがあったの」
車椅子を反転させると松田さんの背中。彼を挟んで足を止めた相手、「智檡は私と一緒にいる時、どんな気持ちだった?」松田さんが少し横にずれた。
少し空けた距離のところで立ち止まっている千丈智檡の姿。
いつものような愛嬌溢れる活発的は面影もなく、無、によって模られた表情をしている。そんな彼女の硬い表情、口元がわずかに持ち上がり、「いつ、どのタイミングで、コイツをどんな風に、殺してやろうかなって」冷然たる口調で言った。
「私が智檡、貴女のお母さんを殺害する計画をお父様に実行させたから?」
「そう。それ以外にある? そのせいでパパね、しばらく私とも口を聞かなくなったんだから」
「昔の智檡は男装をしていたのね。男の子かと思ったくらい」
「どうでもいい。あんたがさ、部屋で美園涼子にその事を話しているの聞いて、怖かったよ。たった十歳の、同い年の女の子が平気で人を殺すんだって。しかも、自分の手を汚させずに、親に実行させるんだもん。ママが不倫をしていたのは知っていたけど、殺されるようなことなの? 期待されている政治家の汚点を隠すため、平気で人を殺せる上野家が私は恐ろしかった」
――ママ?
ああ、そういうことだったのか。私は合点がいった。
身震いする身体をしっかりと自分で抱きしめる智檡は、「でもさ。よく考えたら私もママが邪魔だったって気付いて、あんたの恨みも一度は消えたんだ。むしろ感謝した、あの瞬間までは」大きく長い溜息をついて寒そうな手をコートのポケットに滑り込ませた。
「高校の入学式で奇跡の再会をしてさ、上野家に遊びに行った時、美園涼子と楽しそうに話してるあんたを見て、なんでコイツは犯罪者のくせに楽しそうに笑ってるんだろう、って思ったの。私の家族を壊して、自分は幸せを享受している。なぁんかさ、不公平だよね」
ポケットから折りたたみナイフを取り出し、「あんたの大切なものを一つずつ奪っていくことにしたの。楽しかったよ、どんな顔で絶望していくんだろって考えながら、今回の大規模な演出を企てている時間が」無表情から滲み出す嬉々とした感情。
「上野智恵が心の拠り所としてる美園涼子。あの女について調べたら吃驚だよ。あんたの実母なんだからさ。これは利用しない手はないよね。ただ殺すだけじゃつまらないし、殺す前に餌をチラつかせて手駒として働いてもらったわけなんだ」
「私とお母さんが二人で、実の親子として暮らせるよう持ちかけた?」
「上野家の庭で死んでた男いたじゃん。あの男はネット掲示板で連れた餌。彼ね、美園涼子と結婚できると信じて上野家に足を運んだんだ。自分がメッセージとして殺されるとは知らずに。彼の胸に挿した花、母子草は私からのささやかなプレゼントだったんだけど、気付けたかな」
「最初は気付かなかった。でも、最近になって気付いた」
うんうんと頷いた智檡は物騒なナイフに一度だけ視線を落とし、「被害者の共通点とか花言葉はもう知っていそうだね」私に切っ先を向けて言った。
私は言葉を使わずに頷く。
「そっかぁ、良かった。ああ、良かった。被害者も無駄死にならなかったよ。さて、最期の仕上げの前にさ……、ねぇ、松田。私がお前を信用して護衛も付けずにいたと思ってる?」
「どういう」
彼の言葉は耳を塞ぎたくなる音に遮られた。首筋から血を吹かせて崩れる松田さんの姿。出血量が多く、これは助からない。数十秒くらいで死ぬ。私は床で息絶え行く彼から頭上の、大時計の掛かる二階へと目を向けると、智檡の護衛と運転手を兼任している板倉さんが銃を構えていた。「上野智恵さん。貴女を送り届けた時からこの蔵に身を隠していました」その銃口は私に向くこと無く落合刑事へ。
「どうしてこのおじさんと美園涼子を生かしていたと思う?」
「さあ、智檡の考えていることは私には理解できないわ」
「冷静だね。身を案じてくれてた給仕が殺されて、これから自分も殺されようとしているのに。ああ、その眼が本当に嫌。気味が悪いんだもん、死が覗いているみたいで」
「どうして紗鳥を殺したの。彼女は親友、違う?」
「個人的に気に食わなかった。お高くとまって、自分以外は馬鹿ばかりだと本気で信じている本物の馬鹿。私を見下して……、あいつさ、本気でお前を理解しようとしていたんだよ。そんなのつまらないし、まあ、ついでに殺してやれば、智恵もいくらかは堪えるかなって思ったんだけど、想像以上で思わず吹き出す寸前だったんだよ。私に利用されて、友達の為に死ねたなら本望でしょ」
「そうね……。友達の役に立てるなら幸せよ。智檡は私の役に立てる?」
目の前で智檡は呆けた顔を一瞬、次いで口角がピクリと痙攣し、「私はお前の道具じゃないんだよ。共感だっけ。あんたじゃ一生足掻いたって得られないよ。そうでしょう、相手の気持ちも判らない、自己愛主義者めッ!」拳が私の頬をしたたかに打った。
――痛い。
――でも。
――嬉しい。
――こんなにも。
殴られることが。
――気持ちいいなんて知らなかった。
違う、殴られたことが気持ちいいのではないとすぐに知った。だって、利佳子さんに叩かれたときはこんな思いをしなかった。この気持ちよさは智檡が本性を曝け出して、私に怒りという感情をぶつけたことに対する快楽なんだ。
――もっと欲しい。
「本当はお母さんの事が好きだったんじゃないの? 愛して欲しい相手を失った。智檡の愛されたい想いは日に日に増していって、でも、お母さんはもう居ない。そうでしょう、私が殺させたんだから。人の役に立って死ねるのは幸せなことね」
「上野智恵ぇッ!!」
初めて聞く智檡の怒声。身を震わせながら眼を剥いて、彼女の手がコートのポケットに差し入れられ、銀色の残影を引きながら抜かれたナイフ。刃渡りは十五センチほど。すかさず切っ先が私の下腹部へと振り下ろされる。
車椅子に座っている私に逃げ場は無く、そもそも避ける気もなく、彼女の怒りに任せた一撃をこの身に迎え入れた。
「うぐっ」
刃物で刺されるのはこれで二度目だった。
哲学堂公園で利佳子さんに刺された時はただただ痛いだけで、そこに彼女を理解しようという思いすら湧かなかった。
「言っていいのよ。本当はお母さんが大好きだったって」
「うるさい! 黙れ! その眼で! 私を、覗くな!」
痛みに震える自分の声はずいぶんと可笑しい。刃の半ばまで深く刺したナイフを捻り抜かれると、声なき悲鳴が口からまき散らされ、涙が視界を侵す。
凄まじい痛み。腹部が生暖かくヌメリ、衣服が肌に張り付く感覚は他と比較しようのないくらいに不快だった。
すかさず振り下ろされるナイフの軌道がゆっくりと、体感速度が狂ってしまったようで、私は視線で追うことができるも、ただそれだけで、右大腿部に根元まで突き刺さる。
捻り。
振り上げ。
振り下ろし。
捻る。
「私はママが大好きだったのに! お前が、お前が殺したんだッ!」
智檡の眼にも溜まった涙が伝う。
「貴女も痛みを感じて、私と同じ痛みを」
「へぇ……。同じ痛み、ね」
智檡の瞳にぐにゃりと暗闇が泳いだ。
彼女は視線を私から外お母さんへ、「同じ痛み、味わわせてあげるよ」車椅子をお母さんに向き合うよう乱暴に方向転換された。
「智恵に最高のショーを見せてあげる。死ぬ間際にみる最愛の人の死。捧げる花は用意してあるんだから」
階段から降りてきた板倉さんが私の隣で監視につき、智檡はお母さんの傍に立った。
「智恵がお母さんと過ごせる私の嫉妬。大切なお母さんが殺される絶望と悲しみにはこの花、マリーゴールドを」
ナイフの切っ先をお母さんの胸へと持って行き、「大事な娘との生活を夢見て、私の復讐を知らずに手伝っていた哀れな女、最期に言い残すことはある?」そう言うと、「娘に伝えたい言葉は一つよ」お母さんはしっかりと私を見て、「智恵。愛しているわ」彼女の言った愛しているという言葉に胸が痛んだ。
――ごめんね。助けられない。
微笑みを見せた彼女の胸深くまでナイフが突き刺さった。
「大事なお母さんが殺されても、涙一つ見せないんだ。薄情な娘だね」
「私も殺されれば一緒の場所に落ちるから」
――別れは一時。
「つまんねぇの。シラケさせやがって、松田もこの女も」
智檡は舌打ちをしながら私の下へ戻ってくる。
「私のシナリオはね、あのおっさんにすべての罪を被ってもらうんだよ。上野家の人間を殺害するも、松田の抵抗で負傷。逃げられないと悟り、拳銃自殺」
「流石に無理があるわ」
「そう? 私の痕跡はすべて消すけど」
「カメラ映像はどうするの?」
「病院で言ったよね。会社に革命をもたらすプログラムを独自で開発してるって」
そんなことを言っていた気がする。お父さんに認めてもらって、喜んで欲しい為に彼女が勉強をして作っているというもの。
「あれ、もう完成してるんだ。試作段階でもカメラ映像を書き換えられてね。編集の跡も残さない編集が可能なわけ。んで、これ」
そう言ってコートのポケットから小さなUSBメモリーを取り出し、「これをあのおっさんの衣服に忍ばせる。もちろん、見つけた警察は調べるだろうね。中には中野区のカメラ映像を細工するプログラムと、既に編集した、落合刑事が事件現場をうろついている映像」そこまで言えば判るよね、と笑んだ。
「確かにそれなら落合刑事に罪をなすりつけられるね。実際、落合刑事は美園さんと松田さんと一緒に行方知れずだったわけだし、警察は何か関連があると疑う。それが智檡、貴女のシナリオ?」
鷹揚に頷き、「だから、私の気が晴れるまで痛めつけて無残に殺せる」ナイフを私の前にチラつかせた。
「あんた、私が犯人だっていつ気付いてたの?」
「だって。教えてくれる親切な人が二人も居たんだもの」
一人は松田さん。病院のカメラに映っていた彼の不自然なまでの変装と行為。このことに気が付かなかった智檡は相変わらず抜けている。もしくは気付いていてあえて放置知らない振りをしていたか。
手に持った千羽鶴は千丈家の千を。杖は丈という意味があり、この二つを合わせて千丈となる。
もう一人は海津原さん。彼の持ってきた植物は最初こそ判らなかった。しかし金田さんの図鑑を見て思い出した。あれはシナノガキという柿だった。簡単に調べた程度ではまず見つけ出せないが、檡という字にはしなのがきという意味がある。
金田さんの図鑑を見てようやく一連のメッセージが伝わった。
私はお母様と松田さんを見てから、智檡へ視線を戻した。
「智檡は感じている?」
「何を」
「怒り」
「は? 当然じゃん。だから、こうして今からあんたを殺すわけだし」
「私も同じ」
私は視界の端で板倉さんの姿を確認する。落合刑事の傍に立って拳銃を彼のこめかみに当てている。智檡の合図を待っている様子だ。板倉さんはいま、落合刑事を殺すことにのみ意識を注意している。ここで予想外の展開に対応するのには一瞬の隙が生じるはずだ。それは優位に立つ智檡も同じ事。
「私もお母さんを殺されて、親友を殺されて、給仕を殺されて凄く怒っているの」
私が向けたそれを見て智檡は怯んだ。
こんな物を持っているなんて、といった顔。頭の中で理解する間も与えずに私は指先に力を込めた。
智檡の左肩が大きく後方へ反る。
私の腕も反動で予想もしない方へと持って行かれた。
「智檡。私達はいま共感しているの。判る?」
「ちくしょう。ちくしょう。撃ちやがったな。どうして、そんなもの」
「ああ、嬉しいわ。大切な人を失って、悲しみと相手に対する憎悪の感情。これが共感なのね」
もう一度拳銃を構える前に智檡のナイフで銃身を殴りつける。はたき落とされた拳銃は松田さんの血溜まりに浸る。この拳銃は海津原さんからの贈り物の一つだった。こんなものを用意できる彼の周到さには正直引いた。でも、お陰でこの道具は私の役に立ってくれたのも事実。
「智檡お嬢様。怪我の手当を」
やはり不測の事態を頭で処理する時間を要し、現状を理解した板倉さんは智檡に駆け寄って彼女の身体を支える。
「そんなのは後回しだよ! ふざけた真似しやがって……」
顔中の筋肉を歪めた形相で私を睨む。
「嬉しいわ。そこまで憎悪の気持ちを向けてくれて。私の憎悪はどう?」
智檡に何度も刺された場所から血が止まること無く流れていく。呼吸もままならなくなってきたし、意識もぼんやりとしてくる。
――もう、終わってしまうのね。
それでも私は満足だった。人生最期に共感という渇望していた関係性を築けたことに。私は死んでお母様とまた再開し、私の死によって国民から同情を得られる父の票稼ぎにもなる。私の死は一石二鳥の誰にとっても有益な結末をもたらしてくれるもの。
「最高のプレゼント……、ありがとう、智檡。私の親友」
「うるせぇ!」
私の腹部に、大腿に、腕に、肩に、胸に、首に、彼女の怒りが刻まれていく。
「死ねぇ! 死ねぇ! 死ねぇ! 地獄に落ちてしまえッ!」
私の心臓に最期の一撃が振り下ろされた。
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