第21話 激情2

 退院日には約束していた通り、予定人数から数人を除いてみんなが集まってくれた。智檡に車椅子を押してもらいながら病院のエントランスに出ると、千丈家の高級車が迎えた。「リムジンってやつですか」荷物を持ってくれている小野さんが感嘆に呟いた。



 智檡と板倉さんに支えられながら車椅子から立ち上がってリムジンへと乗り換える。続く小野さんは強縮してしまっている様子を隠せないでいる。もたついている彼を背後から押し込む智檡。コの字に配置された座席にそれぞれの面に一人ずつ座った。



 病院の門前にはカメラを構えた報道陣たち。なんとか私の姿を一枚でも撮影しようと、リムジンが動き出すとみんな一斉にレンズを向けた。



「無駄な努力でしたぁ。残念だね」



 智檡は報道陣を一瞥して言った。



「後部座席は外側からは覗けない仕様になっておりますので、屈まなくても問題はありませんよ」



 天井から板倉さんの声が聞こえた。運転席と後部座席の間には仕切りが在り、窓硝子と同じ素材であるため外側からは真っ黒にしか映らないという。逆に内側から外側にかけては丸見えで、「マジックミラー号だな、まるで」小野さんが興奮気味に言うと、「そういうの興味あるんだ」智檡がからかう口調で返した。



 聞いたことのない単語を追及すると二人とも苦笑して答えてはくれなかった。



「小野さん、家の方は大丈夫かしら」

「ええ。なんとかって感じですね。なにぶん、俺と旦那様しかいないもんで、息苦しかったですよ」

「金田さんはいつ戻ってくるの?」

「年明けから戻ってくるみたいですよ。でも、気乗りはしない様子でした、電話を受けた時は」



 事件が上野家を大きく変えた。上野利佳子さんは隔離病棟、松田さんは姿をくらまし、お母さんは落合刑事と共に誘拐されてしまった。



――松田さんはどこまで上野家を潰したいの。



 脅迫状に書かれた文章。もしかしたら上野家の方はもう済んでいるのかもしれない。残るは私の殺害のみ。



 車道に出て進むと路肩に停車していた白の自動車が背後にぴったりと付いて動き出した。このまま上野家に戻るのだろうか。千檡は鼻歌を交えながら、「板倉。あれ、受け取りに寄って」何処かに寄り道をしていくのだろう。私と小野さんの視線を受けても彼女はもったいぶったように笑って、「退院祝いだよ!」それ以上はその話を続ける気はないようで、「小野さんだっけ。運ぶの手伝ってね」未だに肩を狭めている彼にウィンクして見せた。



 高円寺や阿佐ヶ谷を過ぎてしばらく、停車した場所とは武蔵境付近にある小さな一軒家だった。中野からだいぶ離れた場所まで来てしまった。退院祝いで男性の力が必要なくらいの品物とはいったいなにか。期待が膨らんでいく。



小野さんを連れて千檡は車を降りた。しばらく静かな時間が続き、バックミラー越しに板倉さんと視線が合い、「上野様、一つだけよろしいでしょうか」ハンドル付近のトランシーバー状の物を口元に、彼がしゃべると天井から彼の声が届く。



「ドア付近に同じものがございます。それを使えば会話が可能となりますので」

「これね。聞こえていますか?」

「しっかりと聞こえております」

「千檡お嬢様はずっと家では貴女の事ばかり話していました。ええ、それはとても楽しそうに。上野様が退学なされてからというもの、憮然とした様子がしばらく続き、学校もつまらなそうに通っていたものです。ですが、また上野様とお会いできて、今までのように活気づいてくれました」



 丁寧でゆっくりと喋る板倉さんが見てきたここ最近の千檡。私が知らない間の千檡の様子を聞いていた私は、まさか、と彼の言葉を疑ったが、紗鳥が亡くなった時や病院で目を覚ました私の時の様子を思い出して、普段は明るく振舞っていても普通の女の子だったのだと再認識した。



「千檡お嬢様は上野様に依存しております」

「私に依存?」

「確かに千檡お嬢様は旦那様の気を引こうと普段、それはもう寝る間も惜しんで勉強をしておられます。しかしです、それと同じくらいに上野様を想っているのです」

「友人として嬉しいわ。でも、依存は言い過ぎじゃないかしら」

「これは、運命の出会いとまで仰っていたくらいですから」

「そう。それで、お願いというのは?」

「千檡様の想いをどうか受け止めていただきたいのです」



——当然として受け止めるわ。だって、彼女は私にとって最高の、私を想ってくれる一人なんだから。



 彼の願いには強く頷くと、「どうか、よろしくお願いします」此方に顔を向けずに軽く頭を下げるとトランシーバーを元の場所へと戻した。



 タイミングよく二人が戻って来る。二人の両手には紙袋。板倉さんが車を降りて後部ドアを開けた。



「一つは退院祝いのケーキでね。こっちが智恵のスカートに合わせたコートで、これが花束ね」



 三つの紙袋を胸に抱く私を千檡は携帯電話で撮影した。「うん。これはなかなかにいい笑顔だ」画面に映る私の見せてくれた。そこに映る私は笑っているというより、どうしたらいかという困惑した顔だった。でもその表情はとても人間味があり、自然な表情に見えた。初めて自分の隙だらけの顔を見た。いつも鏡面を見れば、自分と目が合い憂鬱な気分に沈んでしまっていた。鏡や写真で自分を見るのが嫌だった。いつもそこには暗い眼をした自分が自分を見ているから。



「ありがとう。何度も言わせて、ありがとう」



 声質も自然と高くなってしまう。



——本当に嬉しい。



——緊張しているのね、私。変なの。



 車が走り出して来た道を戻っていく。私は三つの紙袋を胸に抱きしめたまま、高揚している気分に浸っていた。



「千檡、それはなに?」



 彼女の手には小さな黒い袋。木箱のようなものが袋口から覗いていた。



「これは自分用だよ。今の私にとって必要なものなんだよね。まだ秘密だけど、近いうちに見せてあげる。これこそサプライズになるんだから」



 きっと頑張っているという成果に通じるものだと予想を立てた。リムジンは上高田の狭い住宅地へと侵入してしばらく、上野家の門前で停車した。板倉さんが降りるより先に塚本刑事が周囲警戒をしながら駆け寄って来る。



 乗車時と同じように千檡と板倉さんに支えながら下車して、板倉さんに代わって小野さんに支えられる。



「寄り道なんて聞いてないですよぉ」



 車に乗って初めて私も聞いたので連絡の入れようもなかった。「まあまあ、いいじゃん。ちょっとの寄り道なんだし」飄々と手を振って誤魔化そうとしているが、護衛をしなければならない彼にとって時間の問題ではなく、想定外の行動が問題だったに違いない。



「素晴らしい退院祝いを貰ったの」



 二人に支えられながら手に持った紙袋を持ち上げて見せた。「それは、良かったですね。あ、もしよければお部屋まで持ちますよ」親切心で手を出してくれた彼に荷物をお願いした。空いた手で小野さんが門戸の鍵を開けて、慎重に千檡と息の合った動きで私を連れていく。



 玄関前でお父さんが迎えてくれた。



「心配したよ、智恵ちゃん」



——一度も見舞いに来なかったのに。きっと利佳子さんの方にも顔を出してはいないに違いない。


「ご心配をおかけしました、お父様」

「いいんだ。智恵ちゃんが無事でいてくれて安心している。報道陣やら野次馬を払うのに苦労したよ。寂しい思いをさせてしまったね。松田君も美園君もまだ戻ってはこないが、その間は小野君が家事全般を任せている。お陰で不自由はないよ」



 己野さんは無理ない程度に首を折って会釈した。「ああ、刑事さん。今日から住み込みで智恵の警護をお願いするよ。上には知り合いを通して所長から承認されている。さあ、あがってくれ。己野君、刑事さんに部屋を用意してくれるか」次いでお父様は千檡を見て、「久しぶりだね。お父さんは元気かな?」テレビで見る笑顔を彼女に向けた。



「はい。父諸共元気に生きています!」



 元気な声で返した智檡にお父様は満足して頷き、身を引いて玄関を手で促した。私を部屋まで運ぶと小野さんは廊下に立つ塚本刑事から荷物を受け取り、ベッドの傍に置いてくれた。「刑事さん、部屋まで案内します」塚本刑事を連れて行った。



 足音からして廊下突き当たりの階段を上った。大きな身体の塚本刑事が歩けば二階の廊下は普段以上に軋んでいる。私の部屋とは向かい側の、小野さんたち給仕の部屋が集まっている辺りで足音が止まった。



 これまでの上野家の様子とはガラリと変わった違和感が空気を通して伝わってくる。久しぶりの自室にさえ、まるで他人の家のように思えてしまえる。賑やかな雰囲気を丸ごと削がれてしまった今の上野家は、まさに崩壊という言葉が相応しい状態だった。



――松田さんの手紙の通りね。



「このぬいぐるみはどこに置いとく?」



 荷物の中から彼女からプレゼントされたウサギのぬいぐるみ。その子の置き場を私は部屋を見渡して、「そこのテーブル、かな」部屋の中央に置いてある小さな丸テーブルを指さした。



「やあ、僕は世界一可愛い智檡ちゃんから世界一美人の智恵ちゃんにプレゼントされたウサギさんさ。僕がずっと見守っていてあげるから安心していていいんだよ」



 声音を変えた智檡が唐突にウサギのぬいぐるみを弄び始める。



「僕に名前をくれないかな、智恵ちゃん」

「智檡。私は子供ではないのよ」

「名前を付けた方が愛着も増すってもんでしょ!」

「それも……、そうね。うん、じゃあチーズにするわ」

「なにそのネーミング!?」

「智檡から貰ったからチーズ?」

「センスを疑うよ、それは……」



 二、三と言葉を交してから、「じゃあ、私は帰るけど大丈夫?」表に板倉さんを待たせていると智檡は立ち上がり、部屋を出る前にそう聞いた。



「色々とありがとう。塚本刑事もいるし、問題はないと思うわ」

「警察が居るなら安心だね。ケーキみんなで食べてよね」



 手を振る智檡をその場で見送った私は、そのままベッドに仰向けに倒れ込んだ。



 退屈な一人の時間は入院時と変わらない。いつもなら隣で話し相手をしてくれる涼子さんも、ヒステリックに独占欲を曝け出す利佳子さんも、物静かに庭の手入れをしてくれる金田さんもいない。



 ここまで人が居ないこの場所で、私は来るべき時を待つとする。



――あなたの贄、上野智恵はここにいるわよ。

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