第20話 激情1
入院してから二週間も過ぎれば退屈を紛らわす術もなくなり、ただぼんやりと窓から外を眺めて過ごす時間が多くなっていた。
医師の話ではあと四日の辛抱だと言われたけど、その四日間がどうも待てそうにない私は何度も溜息を吐き、胸の傷を触ってみたりと意味も意義もない行為を繰り返していると、「やっほ、遅くなってごめんね」とても楽しそうな声に私は笑みを浮かべて、窓から部屋の入口へ顔を向けると、A4サイズくらいの茶封筒を手に持った智檡がいそいそとベッド脇のパイプ椅子に勢いよく座った。
「これ。頼まれてたものだけど、いやぁ、ちょっと時間が掛かっちゃって、本当にごめんね。でも有益な情報かもしれないよ、これ」
プリントアウトされた拡大写真が七枚ほど私の膝の上に並べられる。
――ああ、そうなのね。
病院内と付近の防犯カメラに映る、看護婦さんの言っていた特徴と一致する人物がそこに映っていた。目深に被っている帽子には見覚えがあり、すぐにその記憶を呼び起こすことができた。
過去の夢で見た少年のような少女が被っていた帽子。私を狙う理由は明白だ。彼女のお母さんを事故に見せかけて殺す案を、お父様に実行させた私を殺すため。
一枚一枚に映る彼女は用心深く帽子を深く被っていて、やや俯いているのでカメラにはその容姿を捉えていない。
「ふふん、よぉく見てみてよ。ここ」
智檡が指さした写真は病院の入口の自動ドア。
彼女の後ろ姿と。
――油断したのね。
自動ドアにはしっかりと個人を判断できる画質で彼女の、いいえ、彼の顔が反射していた。
――松田さん……。
「この人ってさ、確か知恵の家に住み込みで働いている人だよね。あの人が本当に智恵に脅迫状を送ったとしたならさ、早く警察に知らせて警備を増やしたり、手配して貰った方がいいって!」
「うん。一応、塚本刑事が近くで見張っていてくれているらしいから」
「一人だけ?」
「たぶん」
「それ、すごぉく不安なんだけど。私が同じ立場なら病室の前にも二人くらい立たせてもらうよう言うけどね」
「仕方ないよ。中野区の事件と落合刑事の誘拐で出払っているみたいだし」
ぶぅぶぅと不満を露わにする智檡は腰を折り曲げてベッドに頭を埋め、「ああ、もどかしいなぁ」呟いた彼女は頭をシーツに擦りつけて小さな拳で自分の頭をポカポカと叩き始める。唐突な奇行、「余計に悪くなっちゃうよ、頭」冗談を言って叩く頭に手を滑り込ませた。私の掌に彼女の拳が当たると、活動停止した電気人形のようにダラリと両手を垂らした。
「何がもどかしいの?」
「なんでもなぁい。そんなことよりだよ、どうするわけ。命、狙われてるんだよ」
「どうもしないよ。死ぬならせめて、誰かと共感し合ってから死にたい」
「馬鹿」
冗談を言っていると捉えられたのかもしれない。智檡は大げさに溜息をつくと、「警察には伝えておいた方がいいよ、やっぱり」写真を茶封筒にしまった。代わりに彼女の小さなバックから可愛らしいデザインの掌サイズの紙袋が取り出され、私の手の上に置いた。
「これは?」
「可愛いもの」
中からウサギのぬいぐるみが出てきた。綿がぎっしりつまっているのだろう、少し固めではあったけど、茶色と白の毛並みをしたウサギを私は気に入った。しっかりと縫い付けられたつぶらな黒い眼は照明の光を反射して潤んでいるようで愛らしい所が特に。
「これで、四日間をしのぎなさい」
「ありがとう。そういえば、智檡から物を貰ったのは初めてね」
「あげるまえに自主退学したのは智恵なんだからね」
「大事にするわ」
「是非とも身近に置いてあげてよね」
しばらくぬいぐるみを両手で包み込むようにして、感触を楽しみながら智檡と他愛ない会話を楽しんだ。とはいっても事件のことや私の身辺の危険についてではあったけど。それでも親身になってくれる他人はとても嬉しくあり、ちょっと勿体ないとも思えた。
ここまで心配してくれる人が居るだけ。それだけでも私は幸せな人間であることを自覚させられた。でも私は欲張りだから、やっぱり他人との心の繋がりを求めてしまう。共感という生来唯一欲しても手に入れられないでいる温もりを。
「美園さんだっけ、智恵にとってお母さん的な人。あの人って優しいよね。慈母とか聖母みたいな? だって、智恵を見ている時の眼差しって、本当に親が子に向けるような雰囲気を感じたよ」
――本当のお母さんだもの。
その真実は相手が親友の智檡であっても教えてあげられない秘密。そういえばと、「智檡はお母さんとは仲良くないの?」智檡の自宅に片手で数えられるくらいしかお邪魔していないとはいえ、一度もその姿を見たことがなかった。
「え、言ってなかったっけ。今は別居してるんだよ、お母さんは千丈の家庭が合わなかったみたい」
「智檡のお父さん、お仕事忙しそうだものね」
「娘の私ですらなかなか相手してもらえないんだもん。そりゃあ思うでしょ、何のために結婚したんだろって」
「でも、離婚まではしてないのね」
「パパの唯一の魅力は社会的地位と財力だからね。お金が欲しいんだと思う」
智檡は嫌悪を示すように舌打ちをして、「あ、ごめんね。智恵にしたんじゃなくて、お母さんに対してだから」ぶんぶんと突き出した両手を振って、無理矢理な笑顔をしてみせた。特殊な家庭環境に生まれると、やはり世間一般の家庭の在り方とはほど遠い生活になるようだ。
「こんなこと言うとさ、ファザコンだと思われちゃったりするかもだけど、私はパパが大好き。パパの一番になりたいし、喜んで貰えるよう努力はしているんだよね」
「いきなりなカミングアウトね。祈っているわ、その努力が実る日を」
「ありがとう。絶対に実らせてパパに褒めて貰うんだ、そのために好きでもない勉強だってしてるし、まだ秘密だけど、うちの会社に革命をもたらせるようなプログラムも開発してるんだよね」
「凄いわ、とても。大好きな人のために苦手な勉強をしているなんて。お父さんもきっと驚いて、智檡を抱きしめてくれるわね」
智檡の意外な秘密を共有させてもらえた喜びに浸り、彼女がお父さんの誇りとなっている瞬間を想像していた。
「どうしたの、智檡?」
胸の内を晒した智檡の表情からは浮かない色を見て取った私は、「何か心配事?」軽く俯いてしまった彼女を覗き込んだ。胸の傷が少しだけ痛んだけど、そんなことよりも彼女の抱える不安を払拭したいという思いが確かに勝っていて、口元を引き結んだ智檡の頬を指先で軽く押した。
「話してみて」
「不安なんだよね、正直言うとさ。パパはママが大好きだったからさ、寂しがっているんだよ。私がパパの寂しさを埋められるのかなって」
「そのために努力をしている、そうでしょう?」
「そう。そうだよ。もうちょっとで、私の数年の成果ってやつを見せられるんだ」
「なら、胸を張るべきだと思うよ。最後までやりきって、悔いのない成果を見せてあげれば大丈夫」
こんな言葉でも智檡の表情をいくらかはほぐしてあげることができた。「まいったね。智恵を元気づける為に来たのに、私がしんみりして、逆に慰められちゃうなんてさ」照れくさそうに智檡は言って膝の上に畳んだコートに袖を通す。
「そろそろ帰るね。退院したら智恵の家に遊びに行くから、その時はもっと良いものをみせてあげる。楽しみにしてるんだぞ」
「ぬいぐるみと写真をありがとう。しばらくウチはごたごたしているかもしれないから、落ち着いたら連絡する」
別れの挨拶は、「またね」智檡と紗鳥と三人の間でのみ交していた言葉。また、会おうね、という意味を含むこの言葉をいつも別れ際にしていた。いつまでも、いつまでも、この挨拶で別れていれば、また会うことができると信じていたから。
しかしもう、紗鳥とはこの言葉も交わせず、もう、会えることもない。
――私が死なない限りは。
高校を中退してからは退屈で、共感という欲求によって生かされていた。上野家で私を取り囲む穏やかな日々を、満たされない欲求を嘆きながら歳を重ね生きていくものとばかり思っていた。
この事件が起きなければ涼子さんを本当のお母さんだと知ることはなかった。智檡や紗鳥と再び会って話すことも無かったし、紗鳥が殺されることもなかった。
この事件は穏やかで何もなかった私に多くのモノを与え、多くのモノを奪っていった。
今の私は行方知れずの三人がどうか無事でいてくれることを願うばかり。
――お会いしたいわ。
私の環境をここまで変えてしまった人物に。
そしてぶつけてあげたい。
――感謝と憎悪の言葉を。
現段階ではまだ同一犯かは不明ではあるけれど、私に殺害予告の手紙を届けた松田さんに色々と尋ねたかった。智檡の話では病院を出た後の松田さんの足取りはカメラでは捉えられなかったという。その点だけで見れば、中野区連続殺人事件のカメラに映らない犯行と通じるものがある。
――でも、病院のカメラには映っていた。
カメラ映像は千丈電子セキュリティーによって監視されている。世界最高の技術力を持つ企業相手に映像を隠蔽できる技術を持っていて、どうして病院のカメラ映像には自分の姿を残したのか。
残しておきたい理由があったのか。それとも病院のカメラを失念していたのか。後者はありえないと私は疑念を抱く。街中のカメラの位置を把握していて、自分の姿と被害者を遺棄する瞬間を消してしまうほどの徹底を貫く人物が、病院内の目立つカメラを見落とすとは到底思えない。
となれば残しておきたい理由とは何か。病院内のカメラを確認されなければ意味がない。脅迫状を届けられた警察が映像を調べることを予想してのことか。
――違う!
枕の裏に隠していた脅迫状を開いて文面を追っていく。
――この映像を、私が確認する前提で残したものね。
文末には警察へ報せるなと書かれていた。
私だけに残したいもの。メッセージ。主張。想い。サイドテーブルの封筒にも手を伸ばして中から写真を、自動ドアに反射する松田さんの一枚。食い入るように顔を近づけて凝視する。
――何処かにあるはず。必ず、彼の意思を。
それは彼の持つ千羽鶴と健脚である彼が持つに不自然な杖。ここにこそ隠されていると目星を付けた。わざわざ持ってきた千羽鶴だけを渡さず、脅迫状を隠した植物を看護婦に届けさせたのか。
窓辺には落合刑事が持ってきた植物に並んで、海津原さんからの、小さなオレンジ色の丸い果実を幾つも付けた枝が花瓶に挿してある。
――判らない。千羽鶴と脅迫状と名称不明の植物から導き出されるメッセージの意味は、なに。どうして、彼は足も悪くないのに杖をついていたの。
判らないだらけで頭がいっぱいになり、まともな思考の連結と継続なんてできそうにない状態だと自覚した。大きく短い溜息をついてふてくされるように横になった私は、それでも頭の中ではこのメッセージの連結を求めた。
――ああ、寂しいわ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます