第19話 上野家の闇5
私の病室に朝早くから訪れたのは、顔の右半分を包帯で雑に巻いた小野さんだった。
小野さんは一人で訪れたとの事で、その怪我について聞くと彼は押し黙ってしまった。目を合わせようとしないのは私の眼に臆してのことではないのは、日々の彼が私に対しての接し方を知っていれば明らか。
ひとまず椅子を勧めると、「すいません。知恵お嬢」言葉からもいつもの覇気が窺えない。項垂れ背を丸めて椅子に腰掛けた。震える溜息を数回してから顔を弱々しく上げ、「上野家が……」そこで言葉を止めると、悔しそうに奥歯を噛みしめる音を立てた。
「家がどうかしたのですか?」
「落合刑事が、美園さんが、俺……、俺は」
物怖じしない彼には違和感でしかない戸惑いの情。どうやら上野家で何かが起きてしまったようで、「話して。何があったの」少し口調を強めて身体をよじり小野さんの方へ向き、彼の包帯を巻いていない頬へと手を伸ばした。
「小野さんには説明の義務があるわ。私、上野家の人間だもの。そうでしょう?」
「ああ……、そうですよね。俺が話さなくても知恵お嬢は直ぐに真実を知るけど、俺がちゃんと話さないと、そのために俺はここへ来たんだからな」
彼の目に覚悟を決めた意志のようなものを小さく見出せた。
「昨夜に落合刑事が事件について、もう一度話が聞きたいたいと上野家を訪れました。たぶん、23時は過ぎていたと思います。上野家には俺と美園さんの二人で、松田は知恵お嬢のプレゼントの用意をすると言って家を空けていました。美園さんは自室で落合刑事と話している間、俺は居間でテレビを見ながら松田が帰ってくるのを待っていたんですが、ふと、庭の方で何かが動いたような気がしたんで、不審者かもしれねぇ、様子を見ようと立ち上がった途端に停電になったんです」
その後、暗闇から駆けて居間に上がり込んだ誰かに頭部を真横から何かで殴られたと説明した。
――家に誰が……。
彼の話には語られていない大事な箇所があった。
――お母さん!
「おかあ……、涼子さんは無事なの!?」
小野さんが無事ならきっとお母さんも無事で居てくれている。なにしろ運良く警察が上がり込んでいたのだから。大事にならなくても彼と同じように怪我を負ってしまっているかもしれない。大した怪我でなければいいのだけれど、という私の期待を、「家の何処にもいないんですよ」不安に一転して胸の中を暗雲が焦り広がっていく。
「どうして!」
「いや。俺にも判らないんですよ。誰がどうしてこんなことを。だっておかしいんだ、それなりに価値がある品や旦那様の金庫に一切手を付けていない。あの刑事だって、一緒に消えちまったんですよ」
――シブさんも? どうしてお母さんとシブさんが居なくなっているの。
考えられる理由は何か。犯人はお母さんを誘拐することが目的だった場合、この時点では理由なんてものはどうでもよく、ただ目的がお母さんであった場合に警察が邪魔だった。
――違う。シブさんが邪魔なら一緒に連れて行く理由にはならない。
小野さんと同じように昏睡させるか、殺すなりすればいい。そちらのほうが楽だからだ。むしろ余計な目撃者は始末してしまった方が後々面倒にならない。シブさんはそこそこにお腹が出ているので、運ぶには相当の力を持つ人物の犯行であると考える。
――あれ、どうしてシブさんは一人なの。塚本刑事は?
いつも会うときは塚本刑事を連れているはずが、どうして一人で上野家に赴いたか。別件があって行動を共にしていなかったのだとしたら幸いだったのかもしれない。今頃は中野署も刑事一人が失踪して慌ただしい状況になっているはず。
「話はわかりました。何か新しい情報が入ったら私の耳にも入れてくれるかしら」
「そりゃあ、もちろんですよ」
「いま、上野家には塚本刑事は来ているの?」
「あの体格のでかい人だっけか。いや、来てないです」
やはり別件で手が離せない状況なのかもしれない。彼もシブさんがいなくなって仕事に身が入っていないはずだ。
席を立った小野さんが上野家に戻ると言って席を立つと、「失礼します」噂をすれば、塚本刑事の声が扉の奥から消沈した様子の声。私は短く答えるとゆっくりと扉が開いて大柄な体躯を折りたたんで、目に見えて気落ちしながら私の傍までやってききた。
「上野智恵さん、小野勝巳さん。少々お話を伺いたいので、よろしいですか」
席を立った小野さんはもう一人分の椅子を引き寄せて塚本刑事に勧めてから、今まで座っていた椅子に再び座る。二人分の視線を集めている塚本刑事は手帳とペンを取り出した。私の視線は、「塚本さん。怪我をしたの?」彼の手に張られた絆創膏を見て疑問に思った。包丁を使って指を切るなら指先だが、彼の絆創膏は握りこぶしを作った際に浮き出る中手骨と言われる出っ張り部分。
「えっと、あかぎれですよ。乾燥するからね、この時期は。ヒリヒリして痛いんだ」
「ちゃんと保湿クリームを塗らないといけないね。それで、聞きたいことって?」
「昨夜に美園涼子さんと落合さんが行方不明になりました」
「小野さんから聞きました」
「そうですよね。小野さんから事件のことを聞いているなら内容は省きます。お聞きしたいのは二点。まず一点、上野家に保管されている門戸の鍵は玄関に保管されている一本だけですか?」
上野家は日が沈むと門戸に鍵を閉める決まりとなっている。昨夜に侵入するには門戸の鍵をどうにかしなければならず、「いいえ。玄関にある一本と、お父様が予備として一本管理しているわ」小野さんも同調して頷く。
「昨夜は門戸の鍵は閉めてありましたか?」
「閉めましたよ。事件の事もあったんで、俺がしっかりと閉めました」
外部からは開けられない。内部の人間の手引きだと警察は睨んでいるに違いない。内部の人間。その人物はいったい誰かなんてこの状況で考える必要はなかった。
「まさか、松田がそんなことするはずない!」
「昨日、上野家に滞在していたのは小野さんと美園さん、それと未だに足取りが掴めていない松田さんの三名なんです。小野さんの言うとおり、戸締まりがなされていたのなら、誘拐犯は何処から侵入したというんですか」
言い聞かせるように小野さんを睨む塚本刑事。
「そうだ。カメラはどうなんですか。防犯カメラくらい、街中のそこいらにあるんじゃないんですか」
「別方面で確認中、なんだけど」
歯切れの悪い塚本刑事は喋るべきかどうか悩んでいる様子だった。いつもは落合刑事の指示に従って動いていて、いざ一人になって線引きと判断が下せなくなってしまったのだろう。「話していいのよ、塚本刑事」努めて優しい声音で、彼に囁く程度に手向けた。
「え、ええ、実は、そのですね、上野家の近くに設置されていたカメラには犯人らしき人物や車両は映っていないんですよ。と言っても、確認作業を初めたばかりなので見落としの可能性もありますけど」
「まるで、中野区で起きている事件のようね」
犯人はカメラに映らない。そこになかった遺体が突如現れ、今までいた人物が忽然と姿を消した。
「シブさんと最後に会った時は何か仰っていた?」
「そういえば、あの時は聞き流しちゃいましたけど、解決のあと一手とか言ってました」
「解決の一手……」
情報屋の海津原さんは落合刑事が事件を解決するまでそう時間は掛からない、確かそのようなことを言っていた。
――後一手。上野家。
お母さんは上野家の死体遺棄された件に関わっている。シブさんはきっとその真実にたどり着いて真犯人について聞き出そうと上野家に訪れた。しかし、その様子を何処かで見張っていた犯人、もしくは協力者の手によって危険因子である二人を誘拐した。
一番ありえそうな展開ではあるが、上野家を四六時中ずっと張っていた、という点だけがどうしても現実的ではない。
――仮に何かしらの方法で敷地内に侵入したとして、停電はたまたまなの? そんなことない。停電も初めから仕組まれていた。
「小野さん。停電した時、他の家や外灯はどうでした?」
「そうですね……、そういえば、外灯の明かりくらいは板垣の奥で灯っていたような」
「おかしい。上野家だけが停電になった。個人宅を狙って停電になんてできるのかしら」
落雷があったわけでもなければ、ブレーカーが落ちたわけでもない。むしろいつもより在宅人数が少ない分、使用電力も比例して少なかったはずだから。
「謎が、増えていくのね」
「俺がいま出来るのは、知恵お嬢を守ることくらいですよ」
「自分も落合刑事から、知恵さんを守り抜くように言われています」
「あら。二人のナイト様に守られていれば安全ね」
冗談を言ってみたが、あまり面白くもなかった。
「防犯カメラの映像は千丈電子セキュリティーで?」
「もちろんですよ。あの企業の手に掛かれば全国全世界のカメラ映像を高画質で見れますからね。ですが、あの大企業の技術力を以てしても映像で捉えられないんですから、そうとうなハッカーなのかもしれません」
実際この事件で千丈グループの信頼は世界中の企業から著しく低下していると報道されていた。このまま犯人が捕まらなければ、いよいよ日本警察もただの税金泥棒と叱責の猛威にさらされてしまうだろう。千丈グループと日本警察の威信がかかっているこの事件、私にとってはそれ以上にお母さんの安否が心配だった。
――無事でいて、どうか、お母さん。
この人生に救いの手も伸ばさず、ただ諦観して見放していた神の存在に祈ることしかできない不甲斐なさ。
――せめてこの足が健脚であれば、中野区中を駆け回って探せるのに。
車椅子での長距離移動には難がある。
中野区は23区で見てもそこまで広くはない。初めは知らない誰かが殺されていたはずだった。身近で起きている事件でも私にとっては何処か別の国の出来事だったはずなのに、いつのまにか私にとって親しい人物にまで手が伸びていた。
鵜宮紗鳥が殺された。
犯人に繋がる情報は看護婦の言っていた、鵜宮紗鳥を名乗る帽子を深く被った髪の長い女性。私を狙う内容の手紙が手渡され、そう遠くはないいつか、私はその人物と対峙するはずだ。その人物こそ二人を攫った人物なのか、中野区で起きている連続殺人事件の犯人なのかを問いただすつもりである。
「では、そろそろ失礼させてもらいますね。美園さんと落合さんは絶対に警察が見つけて見せますから、知恵さんは心配せずに養生してください。自分は病院付近で張っていますので」
「私に何かあると思うの?」
「落合刑事に言われていますので」
「いつから張っていたの。張っている間、帽子を深く被った髪の長い女性を見ていない?」
「帽子を被った女性、ですか? この時期、そんな人いっぱいいますけど、たぶん知恵さんの言っている人物は……、見ていないと思います。その人物が何か?」
「気にしないで。私の好奇心、だから忘れて」
塚本刑事は大きな身体を丁寧に畳むように腰を折って一礼し、大きな足音を立てながら病室を出て行った。
「そろそろ俺も帰りますよ。いま、上野家で捜査員や刑事さんの相手を旦那様一人で任せっきりにしちゃっていますんで」
「お父様には私は元気にしていると伝えてくれる?」
「きっと旦那様も安心するはずですよ。では、また何か判ったらケーキを手土産に見舞いに来ますので」
塚本刑事よりは身体が小さいが、しっかりと鍛えている身体を大きく伸ばして、ずっと座りっぱなしで固まった身体を解してから、一度私に子供の様な笑顔を見せた。
退屈な病室の静けさ。隔離されているような個室ではなく、生活の音や他人の気配を感じられる数人部屋にしてくれれば良かったのにと思いつつ、枕元のナースコールを手に押し込んだ。
――彼女は私の担当なのかしら。
いつもの看護婦が姿を見せた。「電話がしたいの」短く要件を告げるとベッド脇の車椅子への移動を手伝ってくれた。
公衆電話は一階ロビーにある。車椅子を押してもらいながらエレベーターで一階まで降りると、「なるべく早めにね。お父さんからあまり無理をさせるなって言われてるの」看護婦さんはその場を離れた。内容を聞かない配慮なのだろう。小銭を電話ボックスに投入して、なんとなく記憶していた電話番号を押していく。
コール音は直ぐに途切れ、「はい、千丈です」元気な声が聞こえ、「上野智恵です。智檡?」受話口の向こうから、「どうしたの! まだ病院だよね。さっき刑事さんから防犯カメラの映像を見せて欲しいって、それで上野家で誘拐事件が起きたって」受話器を少し離したくなる声量で智檡が息継ぎせずに話す。
「落ち着いて、智檡。私も防犯カメラの件で聞きたいことがあったの」
「ダメだよ、上野家の映像は事件同様に何も映ってないんだから。千丈の社員総力を挙げてシステムを総洗いしているところ。もしかするとハッカーの可能性も疑っているんだよね」
「ううん、上野家のカメラではないの。いま私が入院している病院と周囲の映像を調べて欲しかったんだけど、忙しいなら無理そうね」
しかし智檡の返答は予想外のもので、私はその映像を欲している理由を話した。鵜宮紗鳥を名乗る人物の殺害予告について。智檡は私が話している間、余計な言葉を挟まずにジッと静かに耳を傾けてくれていた。
「でも犯人は絞れそうだね。だってさ、私たちの関係を知っている人物じゃなきゃ、わざわざ紗鳥を名乗らないでしょ。犯人は身近な人物になるってわけだけど、髪の長い女性で私たちの関係を知っている人物に心当たりはない?」
私の知っているなかで、髪の長い女性で紗鳥との関係を知っている人物。上野家では上野利佳子さんとお母さんくらい。親しくはないけど、沼袋にある喫茶店の三葉という女性店員。あとは、女性ではないけど女性寄りの顔立ちをした松田さんの顔が思い浮かんだ。
髪はウィッグでも被ればどうとでもなり、年齢や性別だって化粧一つで如何様にも誤魔化せる。変装という手段を使えば誰でも、とはいかなくてもほとんどの人間が成りすますことは可能ということになってしまう。
「じゃあ。その日のその時間を中心に映像を見直してみるから。一応、それらしい人物がいたらプリントアウトして病院に持って行くよ」
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